七月五日(火)・設定小説
        お題:人が人に触れてはならない世界
作者:よねきな




 紅で、空が滲んでいる。今日は、少し肌寒かった。寒風荒ぶ並木道を、僕達は歩いていた。並足するのは。あまりにも愛おしい少女。すべてを荒廃させんとする晩秋の風に臆することなく、黒髪が妖艶に揺れる。横顔は翳り、見えない。けれど、僕の頭では紛う事ない純朴な微笑みが再生されていて、彼女をより飾り立てたものにしていく。それにつれ心奥が破裂しそうな程の熱を持ち、膨らんでいって、僕は息苦しさを覚えた。喘息のように喘ぎ、胸元を掻き毟った。
 荒々しい息遣いに気づいたのか、彼女はそっと首を動かし、こちらを向いた。その挙措ひとつひとつが、僕を挑発する。
 少女らしい華奢な輪郭は黄金色の光に縁取られ、顔に妖しげな暗がりを作った。彼女を透過していく光が僕へと注ぐ。鳥肌が立った肌に、仄かな温もりが生じた。――しかし。
 僕は欲していた。不足していた。胸を全速力で駆け巡る感情の奔流が、彼女と僕の距離を狭めんとしていた。
 手を、伸ばす。おずおずと、臆病に。
 冷たく、乾いた風とは異なる、湿った、あたたかい風を掌に感じる。それは彼女の胸元の上下と連動して伝わってくるのだった。
 心臓は狂乱したように早鐘を打ち、指先は次第に震えていく。
 もう少し。もう少しで、彼女の輪郭と僕の輪郭とが、重なる。だけれど。


 認識できない力が、指先を、掌を、腕を、僕自身を、彼女から引きはがしていく。理解していたことだった。それは、この世界において最も忌々しい現象のひとつだった。そして、誰もが広く知悉していることのひとつでもあった。
 曰く、それは『ニュートンの遺物』と揶揄される物理法則だ。物理学者の間では似非扱いされているが、確かに存在し、現象として生じるものだった。人間のみに観測され、ある個々人の間での精神距離の二乗に反比例した力が、人間間に作用するというものだ。
 心理物理学という学問分野が成った原因とされ、特殊万有引力と呼ばれる。
 そのインチキ法則が、たった今僕と彼女の距離を裂いたのだった。
 彼女は、ぽかんとした顔をしていた。そうして、少し俯いてから、
「どうして、触れ合えないんだろうね」
 寂しげに、笑った。一メートル程離れた僕の目にもそれは悲しげな顔として映った。彼女に悲しい顔をさせることに関しても、僕は特殊万有引力への怒りを覚えた。
 けれど彼女はすぐにその悲しげな顔を隠すように踵を返し、ゆっくりと手に掲げていたポーチを床に放った。黒い光沢のある少女趣味的なそれが、地面に落ちる。
「ねぇ、鞄を持ってくださいません?」
 無理やり使い慣れないお嬢様言葉を使って、彼女は僕に荷物持ちを要求した。彼女なりに甘えているのだろうかと思い、僕は何の気なく、ポーチを手にする。
 逆光で、彼女の背中は黒に沈んでいる。何の感情も汲み取れなかった。
 再び僕達は並んで歩きはじめた。
 ふわり、と隣から柔らかな芳香が漂ってくる。横に目をやると、彼女が前屈みにこちらを見上げていた。
「……手、繋いじゃったね」
 陽光の悪戯かと思う程、彼女の貌は赤く染まっている。僕はふいに、手にしている鞄の重さに気付き、彼女の心を把握した。


 日差しが、暑い。頬の辺りをじりじりと照りつけている。
 ――ニュートンという男も、あながち悪い奴じゃないかもしれない。

inserted by FC2 system