夜は終わらない
フェイド




「終わらない夜の街ってのを知ってるかい?」

 旅人は不意に声をかけられた。

 そこにいたのは黒いフード付きのローブを着た男だった。頭がすっぽりとそれに覆われて、にやにやと口元に浮かぶ気

味の悪い笑顔だけが見える。

「知らないよ」

 旅人はぶっきらぼうに答えた。

 こんな男に付き合っている暇はない。旅路を急がなくては。

「まぁ、そういうなって……。ほら、見えるだろうあの明かりが。あれが終わらない夜の街だ」

 指差された先にあったもの。それは、旅に疲れた心を魅了する色とりどりの色彩を帯びた街だった。どこまでも暗い夜

の中で、それだけがただ、輝きを放っている。

「興味ない。急ぐんだ。どいてくれ」

 一瞬、心が惹かれてしまったのを否定するようにぶるぶると頭を振り、男を押しのけて先に進もうとした。

 だが――

「!?」

 旅人は気がついた。そして、声もなく驚いた。

「はい、ごとうちゃく〜」

 男のあざけるような声。耳元で囁かれたはずなのに、振り返った先にはもう男の姿はなかった。

 視線を正面に戻す。そしてその光景を改めて見直した。

 そこには紛れもない、終わらない夜の街が広がっていた。



 引き返せばよかったかもしれない。

 もしくは遠回りをすればよかったかもしれない。

 旅人はそんなことを考えながら、街を歩いていた。

 これまで、見たこともないような美しい装飾で飾られた街並みに、店先に並べられたこれも見たことのないような食べ物

が山積みになり、それを食べ愉悦に浸る男たちと、その相手をする美しい――それ以外に形容のしようがない女たち。

 思わず、旅人はその女たちに見とれてしまった。

 女の一人が、旅人に気づく。

「あら……見ない顔ね。新入りかしら?」

 口元に穏やかな、それでいて妖艶な笑みを浮かべて女が言う。「あ……いや、その」

 旅人はどもった。はっきり断らねばならない。自分にはそんなことをしている暇などないのだと。

 なのに、なぜその一言が出てこない?

 そんな旅人の様子を見ていた女は、唇を舌で濡らす。潤った唇が、何とも言えない魔法のような力で彼を誘う。

「かわいい坊や……。いらっしゃい、可愛がってあげる」

 旅人は、膨れ上がる欲望を抑えることが出来なかった。

 今日だけ、一晩だけだと硬く心に誓い、女の腕に落ちる。

 だが、その決意はもろくも崩れ落ちた。

 気がつけば――どれだけの時が流れていたのだろう。

 それすらわからないほど、旅人はひたすら与えられる快楽に身を委ねていた。

 そして――

 旅人は旅人でなくなった。



「兄さん、兄さん」

 どこかで聞いたような声に、彼は振り返った。

 そこにいたのは、かつて彼をこの街に誘い込んだ男だった。

「もうさんざん楽しんだろう? もう、お終いだ」

 お終い――その言葉が、現実感なく彼の頭を貫いた。

「自分の姿を見てみろ」

 うながされるままに、彼は自分の姿を見た。かつて着ていた服はもうどこにもない。

 着ていたのは、フード付きの黒いローブだった。

 彼は声も出さない。出せないのではなく、出さなかった。

「さぁ、これからはたっぷりと働いてもらおうか。お前さんが楽しんだ分は、少なくともなぁ」

 男はそう言って、あのにやにやとした笑みを浮かべる。

 彼は呆然として、何もすることが出来ない。

「ほれ……見ろ、お客さんだ」

 男がアゴで彼方を指す。そこには旅装束で身を固めた男が一人。汗を流しながらも、必死に闇の中を歩いていた。

「あれを見て、どう思う?」

 男は彼に言った。彼はとろんとした目で、抑揚なく答える。

「憎い……」

 男の笑みが、ますます深くなる。

「そうだ、憎め。あの男はお前と同じ道を歩もうとしている。うらやましいだろう? 憎いだろう? ……なら、行け。行って

くるがいい」

 彼は、旅人に向かって歩き出した。

 とろんとした目に、暗い――どこまでも暗い夜が。そして、その奥に微かにきらびやかな夜の街が。

 そして今日も、旅人が一人、夜に飲み込まれ消えていった。



inserted by FC2 system