水の記憶
どすこい春紫




   第一章



「どうしました?」

 白衣の女が尋ねた。

 たいしたことではない。少し夢を見ていた。

「どんな夢ですか?」

 おぼろげにしか覚えていない。

「話してください」

 ……子供が溺れていた。男の子……必死にもがいて、おそらく助けを求めていたのだろう。でも、近くには誰もいない。

 そのうち、力尽きて沈んでいった。

 苦しかったろうに……。

「その時、あなたはどう思いました?」

 かわいそうだと思った。

「……それだけですか?」

 申し訳ないと思った。

「どうしてです?」

 自分ではどうしようもなかった。

 ただ見ているだけで、助けられない。体が動かないんだ。

「あなたの責任ではないですよ。それに夢の話なのでは?」

 夢……だったろうか?

 今ではそれが夢かそうでないかの区別がつかない。

 やけに生々しいんだ。まるでつらい記憶を思い出すかのように。

「それは現実のことですよ」

 そうなのか……。

「あなたは、自分が何だか分かりますか?」

 …………。

「水ですよ。子供が溺れ死んだ沼の」

 …………。

「あなたの中では、今も誰に知られることなく男の子が眠っています。二十年前からずっと」

 どうすればいい?

「あなたにはどうにもできませんよ」

 そうか……。

「でも、うっすらとですがよく覚えていてくれましたね。あの一帯の湖沼ではあなただけでしたよ」

 ……どうして分かった?

「一度、母と訪れた気がするんですが、少し前に訪れた旅先で幽かに聞こえたんです。苦しそうな男の子の呻き声が」

 いい耳だな。

「私もそう思います」

 その後、私の中から男の子が引き上げられた。それが、記憶の中の男の子だったかどうかは判別不能なのだが……。

 そして、女はコップを傾けた。

 大きな意識の中に溶け込んでいく……心地よい眠気を感じた。

 女はひとり微笑んでいた。



   第二章



 ねぇ、知ってる? 命って水に溶けるんだよ。

 知ってるよ。ボク溶けるとこ見たことあるもん。

 へぇ、どんなだい?

 ボクが見たやつは一瞬で終わっちゃったんだけど、とってもきれいだったよ。炎がにじみ出るんだ。最後はぼうっとなっ

て霞んでいったよ。

 それは、いいものを見たね。

 なんだい、キミは見たことないのかい?

 そうでもないさ。ボクのはキミが見たのとは随分違ったよ。

 教えてよ。

 ゆらゆらとした靄がさあ、周りの水をどんどん飲み込むんだ。

 それで、それで。

 どんどん飲み込んで、どんどん大きくなるんだけど、大きくなるほど薄っぺらになって、最後には無くなっちゃうんだ。

 ふーん、おもしろいね。

 でも、見ていてなんだか悲しくなったよ。

 どうして?

 最後くらい派手なほうがいいだろ?

 そうかなあ……。

 やっぱり、消えちゃうのは淋しいよ。

 溶けちゃうと消えちゃうのかな?

 そうじゃないの?

 ボクは溶けるともっと大きな存在になるような気がするんだけど。

 それって、自分じゃなくなるってことだろ?

 そうだね。でも、水になるわけでもないと思うよ。

 命が水に溶けると何になるんだろ?

 さっぱり分からないや。

 でもさ、あれはやっぱりきれいだよね。

 そうだね。

 もっと溶けるとこ見たいよね。

 見たいけど、そう見られるもんじゃないよ。

 どんどん溶かせばいいのさ。

 溶かすって、命を? そんなことできるの?

 水の中に引きずり込んでやればいいのさ。あとは勝手に溶けてくれる。

 うーん、気が進まないな。

 見たくないの? それなら、ボクひとりでやるよ。

 やめなよ。なんだか悪いことするみたいだよ。

 悪いことなもんか。あんなにきれいなんだよ。

 でも……。

 なんだよ、見たくないやつが口出しするなよ。

 わかったよ。やるよ。

 そうこなくっちゃ。命なんていくらでもあるからね。

 ホント、きれいだもんね。

 そうそう。よし、どんどん溶かしてやろうよ。

 うんうん、そうしようよ。



   第三章



 みずのきおく

 ずいぶん昔のことだ

 のぞいてごらん

 きっとそこには

 おとのたそがれ

 くるおしいほど

 みずのゆめ

 ずいぶん長いあいだ

 のぞいてきたが

 ゆらりゆらりと

 めぐりたゆたう

 ふるきえにしよ

 るてんの命

 きこえているかい

 えいえんのとき

 にどとまみえぬおもいのひとと

 しでのちぎりは

 よもつひらさか



   第四章



 どれくらい前かなぁ……。

 お日さまがあんまりにも眩しかったから、森に遊びに行ったんだ。

 おばあちゃんはあの森に行っちゃだめって言ってたけど、ここは本当に気持ちがいいんだ。

 森の中にはたくさんの大きな水たまりがあって、いろんな生き物が住んでるんだ。

 その日は本当に気持ちがよかったから、どんどん奥へ行ったんだ。

 僕だけしかいないのかなって思ったんだけど、そのとき誰かが僕を呼んだんだ。

 周りには誰もいなかったけど、確かに声がするんだ。

 その声がする方に歩いて行ったら、すっごくきれいな水たまりが見えてきて、僕と同じくらいの男の子がふたり、楽しそ

うにおしゃべりしてたんだ。

 僕がそっと近付くとふたりは僕の方を向いて、ニヤッとしたんだ。

 ちょっと背中が冷たくなったけど、ふたりとも笑顔で手招きするもんだから、なんだか返り辛くって、僕はふたりの方に近

寄ったんだ。

 僕が行くと、ふたりとも拍手してくれたんだよ。

 てれくさかったなぁ……。

 なんだかウキウキしてきて、楽しくなってきたんだ。

 でも、そこで僕は終わっちゃったんだ。



   * * *



 水魔が二匹、手を取り笑い合っていた。

「やった、やった。引きずり込んでやった」

「きれいだったね。青白い光が一瞬はじけたかと思ったら、ちかちかしながら溶けてったね」

 二匹の水魔は悪魔の笑みを浮かべながら、自分たちの成功に興奮を抑え切れなかった。

 祝杯こそあげることはないが、二匹はこの成功に味を占めた。

「次は女の子がいいな」

「そうだね。かわいいこがいいなぁ」

「時期に来るさ」

「そしたらボク、うれしくて踊っちゃうよ」

「フフフ、ならボクは歌を歌うよ」

 二匹の願いはすぐに現実のものとなる。

 たった今、男の子が溺れ死んだ沼に白衣を纏った若い女性が現れた。その女性の傍には、しがみつくようにして女の

子が寄り添っていた。

 女の子は水魔の餌食となった男の子と同じくらいの年頃だった。

「見てよ。女の子だよ」

「神さまはボクたちに親切だ」

「ああ、うれしいなぁ。体が勝手に踊りだすよ」

「なんだい、そのへんてこな踊りは?」

「ひどいなぁ。キミこそ歌わないのかい?」

「おいおい、あの女の子を見てごらん。怯えてるじゃないか。大人の女の後ろに隠れてしまってる」

「おやおや、ホントだ」

「おいで、おいで。こっちに来てボクたちと遊ぼうよ」

「楽しいよ。いいも見せたげるよ」

 女の子は恐怖に怯え、その唇を青くした。

「あれ、どうしたんだい?」

「怖くないからさぁ」

 女の子は白衣の女性の手を強く握り締め、その背後に完全に身を隠した。

 そして、白衣の女性は女の子の小さな手をやさしく握り返し、水魔たちの方へ一歩踏み出した。

「この子には、あなたたちの邪悪な声が聞こえているのよ」

 白衣の女性は不適な笑みを浮かべ、その内には親愛よりも嫌悪を隠し持っていた。

「女、言ってることが分からないよ」

「そうだよ。ボクたちはその子と仲良くしたいだけなんだ」

 白衣の女性の目つきが変わる。

「私たちには水の声が聞こえるの」

 水魔の口元が締まる。

「あなたたち、今しがた男の子を沼底に引き摺り込んだでしょ」

 二匹は口元に好色めいた切り口を形作る。

「見逃すわけにはいかないわ」

 耳障りな雄叫びをあげ、二匹の水魔は白衣の女性、否、その背後に隠れる女の子めがけて触手を浴びせかける。

「溶けるぞ、溶けるぞ」

「きれいに溶けるぞ」

 女の子の手首、足首を締め上げるように魔手が這いつく。

 刹那、小さな呻き声があがる。

 それは、女の子のものではなく、水魔の口から漏れた。

「な、なに。どうなったの?」

「うっ、女。なにを、したんだ!」

 白衣の女性の貌が苦痛に歪む。

「私には……水に干渉する、力があるのよ」

 白衣の女性は二匹の水魔に拳を突き出した。

「ぐあっ、やめろ!」

「おねがいっ、やめて!」

 突き出された拳が力強く開く。それと同時に二匹の水魔は、大気に霧散した。断末魔の叫びは風の音に消された。

「くっ……」

 白衣の女性は力なく崩れ落ちた。

「お母さん、だいじょうぶ?」

 眼にいっぱいの涙を浮かべながら、女の子は母親の安否を気遣う。

「大丈夫よ……だいじょうぶ。こわかったけど、なんとかやれたわ」

「ほんとに? 汗いっぱいかいてるよ」

 白衣の女性は口の端を目いっぱい引き上げて、女の子に笑って見せた。

「私は力が制御できないけど、あなたは違うわ。制御する必要がないもの。あなたには水の声を聞くことしかできないか

ら、こんなつらい目にあったりしない……」

 女の子には母親の言葉の意味が分からなかった。

 ただ、母親に流れる水の声があまりにも悲痛であったため、涙をいつまでたっても止められないのだ。

「ありがとう……いい子ね」

 白衣の女性は娘の涙を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。

「さっ、早くこの場所から離れましょ。男の子には悪いけど……あとで必ず出してあげるからね」

 その声に応えるかのように、沼を幽かな気泡が静かに揺らした。



   * * *



 その後、女の子の母親は息を引き取った。

 まだ、小さかった女の子に、母親の遺言を理解することはできなかった。

 しかし、体を流れる水が女の子に語りかける。

 その声は微かではあったが、歳月とともに女の子の中で確かな響きを紡ぎだす。

 二十年後、大人の女に成長した女の子は、形見の白衣に袖を通す。

 そして、水の記憶に導かれる。



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