夜想苑
どすこい春紫




 それは『夜のチケット』、夜想苑の入場券であった。

男は半信半疑ながらもチケットに記された場所へと赴いた。

 男の名は氷崎悠虚(ゆうこ)。何かをしなくてはと思う反面、何をする気にもなれないでいる。自己矛盾を抱えてい

るといえば聞こえはいいが、考えを行動に移すだけの甲斐性がないだけだ。彼自身そんなことは分かっているつもりだっ

た。

 だが、それでは何の解決にならないことも分かっていた。だから、夜のチケットを手にしたのだろうか。少しでも興味の

対象となるのなら、行動するしかない。

 今の自分が変わるにはそれしか手がないように思われた。

 氷崎は出入り口と思しき門の前に立った。門は開いているものの、係りの者が誰もいない。門の向こうにも街灯の明か

り以外は光源となるものが見つからない。営業は終了したが、出入り口の門は閉め忘れた。見た目にはそのように感じ

られた。

「……このまま通ってもいいのか?」

 チケットを手に門をくぐろうとしたときだった。

受付と書かれた小さなプレートの掛かった犬小屋が右手の門柱の裏、隠れるようにしてそこにあった。実際に犬小屋か

どうかは判断に苦しむところだが、明らかに人が入るには小さ過ぎる。また、犬小屋の小さなプレートの下には、さらにも

う一回り小さなサイズの電光掲示板が貼りつけてある。その表示は赤く点灯し『2』と浮かび上がっていた。

「これが受付なのか?」

 氷崎が首を傾げているときだった。犬小屋の中から出てきたのだ。もちろん人ではなく、それはやはり犬だった。

犬は真っ白な体毛に真っ黒な帽子を目深にかぶり、低いうなり声を立てながら氷崎の足下にやってきた。小型犬とはい

え、かまれやしないかと不安になったが、犬は襲ってくるような素振りは見せなかった。しかし、においを嗅いで何かを確

認しているかのように見える。

「ようこそ、ようこそ。今年、二人目のお客だね」

 氷崎は犬から一歩後ずさった。

なぜなら、目の前の犬から人語が発せられたからだ。

「ふんふん、君はあまり驚かないね。まあ、どうでもいいこと、いいこと。早いとこ『夜のチケット』を渡してくれないか。ぐず

ぐずしてると夜が明けてしまうよ。と言ってもここは出るも出ないも自由。のんびりしていくといいさ」

「ここでは喋る犬が受付をしてるのか?」

「ふんふん、おかしいかい? そうだよね。だけどそうでもないさ。ここはいつでも人手不足。犬の手でもかりたいのさ」

 氷崎は納得し切れなかったが、受付の犬にチケットを差し出した。

「ふんふん、どうも」

 犬はチケットをくわえると犬小屋へと戻り、そのまま出てこなかった。

 世の中には不思議なことがあるものだ。

しかし氷崎にとってはどうでもよいことだった。彼がここに来た理由からしてみれば、喋る犬など何の興味もそそられな

い、ただの珍品に過ぎない。珍しいばかりでは興味が湧かなかった。

「どうでもいいけど、静かだな……」

 園内は確かに静まり返っていた。

 氷崎の他には人の気配などなく、受付の犬が言うように本当に客は彼で二人目なのかも知れなかった。しかし、二人

目といっても、今年で、二人目である。自分の前にここへ来た客が今も居座っているとは限らない。受付の電光掲示板の

数字が『今年の来苑者』なのか、それとも『今夜の来苑者』を示すのか、どちらにしても大した違いはないように思われる

が、氷崎としては自分以外に他の客がいるのなら会ってみたい気がしていた。

「まあ、考えてみても仕方がない。だいたいこういう所はこんなもんだろう。誰も何の説明もしてくれない。自分で決めろってわけだ」

 氷崎は苦笑いを浮かべながら、街灯の明かりに照らされた道を進むことにした。

 他にも数本の道が伸びていたが、その先は夜の闇。天蓋を装う樹影は生物であるかの如く延々と路を飲み込み、全て

の街灯は沈黙していた。どうやら門外から覗いた光は最初の広場のものだけのようだ。

 順路というわけでもないが、明かりの灯る道の方が彼には魅力的だった。暗い夜道を突き進む気力もなければ、道無

き道を開拓する好奇心も今の彼には昔のことのように思われた。いや、昔の自分がそうであるのなら、どこかに取り戻す術もあろう。

 しかし、過去を振り返ってみてもそんな自分はいない。

 羨ましい別の人間だ。

 氷崎は無意識に用意された明るい道を求めるようになっていた。ただ、道を模索しながらも、出した答に対して行動で

きない自分を哀れに思いつつ選んだ道である。自嘲する部分ばかり意識しながらも、意識下では道の模索に疲れてい

たのかも知れない。

 氷崎は側頭を軽く掻いた。

「なんのことはない」

 そう言うと、正面の道に歩を進めた。

 木々の根本には、おそらくはその名と詳細の書かれた小さな立て札が突き刺してある。街灯の明かりで幽かに判読で

きる程度のものだ。夜でもなければ、ゆっくり見て回る気にもなるのであろうが……何しろ『夜のチケット』である。夜にし

か入れないのだ。

「……そういえば、どうしてまた『夜のチケット』なんだろうな?」

 それは彼がチケットを手にして思った、今なお解決されぬ最初の疑問だ。

 もともと、チケットを手にしたことでさえ、氷崎には覚えのないことが起因する。彼自身に心当たりがなかったとしても、

出来事というのは偶然も必然も、生じる前には律儀に向こうから顔を出す。

『夜のチケット』は何らかの選考のもとで選び出された者にしか手にできないらしい。氷崎宛に送られてきた封書の中に

は『夜のチケット』とそれに関する説明書きが入っていた。

 その全文はこうだ。



『おめでとうございます。あなたは選ばれました。

 何にかって? それは夜想苑の選考にです。

 もう一度言わせて下さい。おめでとうございます!

 是非来て下さい!

 同封の『夜のチケット』は然るべき人にしか手にできません。

 経緯はどうあれ、あなたは手にしました。

 偶然です!

 おっと失礼。

 当方の選考では必然ですが、

 あなたが手にすることは偶然なのです。

 意味不明ですね(笑)。

 とにかくあとは自由です。好きにして下さい。

 チケットはもう、あなたのものです。



 おかしな内容だった。自由というのは、行くも行かないも自由ということだろうか。夜想苑という妖しげな名前だけあっ

て、その招待状も怪しげなものだ。今にして思えば、氷崎自身ここにいることが、さらにはここに来ることを思い立ったこと

が不思議で仕方ない。

 少しでも興味の対象となるのなら、行動するしか……。対象がここより他なかったことはある意味悲しく感じられた。そ

の悲しさは氷崎の中で少しばかりの後悔へとなりつつあった。

 そんなとき風が吹いた。それも何か音を含んでいる。

(……人の声?)

 それはあまりに微かだった。しかし、そこには確かな存在感が感じてとれた。それも一人のものではないように思われる。

 自分以外の客は一人しかいないと受付の犬はいっていた。それが本当なら、他にいるものといえば従業員だろうか。と

にかく誰かに愚痴をこぼしたかったのだろう、氷崎は足早に歩を進めた。

 先に進むにつれ、風とは違う種の音が耳に飛び込んできた。その主の確認と木々に覆われた道を抜けるのとはほぼ

同時であった。

 目の前には噴水が、その存在を誇張するでもなく静かに水を吹き上げ、その飛沫はか弱くも豊富な水量をたたえてい

た。

 しかし、肝心の人の姿はなく、街灯の皓々たる明かりが降り注ぐのは、さやかな静物だけであった。  氷崎は噴水のそ

ばに腰をおろした。

胸ポケットに手を当てるが所望の嗜好品はない。その様子を誰が見るわけでもないが、他人が声をかけづらい表情をし

たことは想像に苦しくない。

 氷崎は大きく息を吐いた。

「まったく、どんな所かと思えば……何もない。それともただ広過ぎるだけか?」

 見上げた宙には三日月が浮かんでいた。

 ただぼんやりと星を眺め、水飛沫の清涼感に耳を傾ける。

 重力が希薄に感じられ、開放感が身を包んだ。

 しかし、緩んだ神経が一気に緊張するのにそう時間はかからなかった。

「誰だ?」

 姿はない。だが、誰かいる。見られている。

 いつからかは分からないが、今自分に突き刺さる視線は本物だ。気味が悪いというよりも油断を許さない、野犬に狙わ

れる感じだ。

(また、犬か?)

 氷崎は辺りに気を張りながらゆっくりと立ち上がった。

「誰かいるんだろう? 別に俺は警戒の必要がある人間じゃない。ただの客だ。それにここは警戒が必要な物騒な場所

でもないだろう?」

 氷崎の呼びかけに応えたのか、暗闇を装う茂みから少年が顔を出した。

 炎の少年。それは氷崎が少年を見て抱いた印象だった。

 真っ赤な髪の毛、真っ赤な瞳。鋭い目つきと顔立ちは幼さを残しながらも、およそ平穏な生活とは無縁なもの。深紅の

外套の下にはどこかの民族衣装のようなものを着込んでいるが、その本性は少年の醸す狂気の断片を封じているよう

に思えた。

灯下に晒されたその姿は爆ぜる炎の化身であり、まるで幻想物語の登場人物である。

「君もお客かい?」

 氷崎はおそるおそる訊ねた。しかし少年の返答は期待したものではなかった。

「銀色のやつはいないようだな」

 誰のことを言っているのかはさっぱりだが、無視されたことは明らかだった。氷崎は少しむっとしながらも、少年との会

話を試みた。

「銀色の奴って誰だい?」

「さあね、お前には関係ないことさ」

 少年は顔こそ氷崎には向けなかったものの、答えてはくれた。

「俺は氷崎というものだが、ここに来て退屈な時間を過ごしていたわけで、その……どこかおもしろい所を知らないか?

 君、俺よりかはここに詳しいだろ?」

 少年は周囲を気にしながら、氷崎の方へ歩み寄った。

「知らないわけじゃないが……」

 言葉の途中で少年は氷崎と目を合わせた。そして、数瞬の間をおいて鼻で笑って見せた。

「まあ、お前のその面じゃ、どこへ行っても何をしても、つまんねーよ。ここに来るやつはたいがい下らん連中ばっかだ

が、お前もその典型だな」

 初対面の人間をお前呼ばわりする子供に対し、嫌悪感こそ抱かなかったものの当然一言いってやりたくはなった。

 だが、彼の癖だろうか、自分を卑下するのは……。

 自分は少年の言う通り下らない人間……自覚している。何様のつもりかは知らないが、少年にお前呼ばわりされたとこ

ろで腹を立てるのも烏滸(おこ)がましい、その程度の陳腐な人間である。命に目に見える価値があるなら、自分はクズ

だ。

「……自覚している」

「あっそう、ならいいんだよ。手前勝手に落ち込んでりゃ、誰かが助けてくれるだろうよ」

 少年は好き放題口にするものの、その口調とは裏腹に表情の方は気にくわない、といった具合だ。

「で、どうなんだ。君はここに詳しいんだろう? 俺が楽しめるかどうかはどうでもいいから、どこか案内してくれないか?

 その前に、さっきから君、君って呼ぶしかなかったけど、名前は何ていうの?」

 少年はすぐには答えなかった。ただ氷崎の顔を睨み付けていた。

 人によって思いの馳せ方は様々であるが、この少年の場合、その何者も寄せ付けぬ強い眼差しは、氷崎の遥か遠くに

向けられている。その視線は貫くように鋭く、それ故に酷く純粋で……氷崎は直視を避けた。

(このままではいけない……)

 おい、聞いてるのか? 少年の思考を中断させようと氷崎がそう言いかけたときだった。少年は言葉を遮ることに悪怯

(び)れるでもなく、急に口を開いた。

「どうやら、見当違いだったな。お前は単純に下らんだけじゃなく、頭のネジも緩いってわけだ。良く言って鈍感だな」

 炎の少年は氷崎のことなどお構いなしに、烈火の如く辛辣に雑言を吐き捨てる。

「いじけたツラしやがって。凡人なら俺の言葉に怒り狂うもんさ。それがお前はなんだ? 中途半端にむっとしやがって。

子供だと見下して馬鹿にしてんのか? まったく呆れたもんだ。落ち着き払ってるつもりだろうが、開き直ってるだけだ

ろ。自分にあきらめ感じちまってる奴は始末に負えねえな。どうせ今までそうやって生きてきたんだろ。顔中、自分は被

害者だってのが滲み出てるぜ。惨めな奴だ。お前は今まで何かと戦ったことがあるのか?」

 氷崎は黙っていた。

 憤りを感じていないわけではない。しかし、それは目の前の少年にではなく、言い返そうとも思わない自分に対してで

あった。自分の本性を見抜かれたような気がしていた。

「悪かった……名前だけでも教えてくれないかな?」

 複雑な心境で絞り出した声は、自分でも驚くほどに弱々しい。

 何とか少年の顔を見ることはできたが、自分はどれほど惨めな顔であったろうか。

 少年はやはり不機嫌を絵にした面構えであったが……。

「エン」

 他には何も言わない。どうやらそれが少年の名前らしい。

「えん? エンくんていうのかい、君は?」

「耳腐ってんのか? 取り替えろよ。……まあ、お前はここの客のようだし、一応連れてってやるから後は好きにしな」

 炎の少年、エンの口調は相変わらずであったが、ようやく名前を聞き出せた。それにどうやら案内してくれるようだ。

 氷崎は依然として心身共に複雑であったが、ある種の満足感にしばし浸っていた。

 エンと親しくなるきっかけを掴んだ。この男はそれぐらいにしか考えてはいなかった。

 他人が何を考えているのかなど、今、エンが何を思うかなど、氷崎には計り知れぬことである。

 自虐癖のある人間の特徴であろうか、己を蔑む言葉は幾らでも紡ぐわりに、己を鼓舞する言葉は幾らでも捨ててしま

う。

 氷崎がそのことを認識しているか否かにかかわらず、夜はまだ長い。人が変わるには十分な時がここには流れてい

る。

 しかし、お互いが理解し合える契機は一瞬の火花。逃せばそれまでだ。

 そして、瞬く間の星隕が如く、エンの口にした言葉は氷崎の心に影を落とすには及ばなかった。

「まあ、オレも時間がないかも知れない」

「ん? 今何か言ったかい?」

「…………」

 エンは氷崎を無視し、噴水から伸びる数本の道のうち、氷崎ではまず選びはしないであろう街灯のない道を突き進み

始めた。

 その後姿は何かから逃げ出すような緊張を背負っている。

「おい、ちょっと、他の道はないのか?」

 氷崎はエンを呼び止めるが、全く聞き入れる様子はない。ためらう間に、子供の体躯に似合わぬ速さでエンは闇の中

に飲み込まれていく。

(まったく……あの子は何を考えているんだ?)

 氷崎は頭頂を掻きむしると足早に後を追った。

 しかし、追いつけない。十代前半にしか見えない子供を追うのに、氷崎は走った。

 繁茂する樹影はさながら洞窟であり、月明かりは全くといっていいほど地を照らしてはいない。そんな中を逃げるように

して突き進むエンに対し氷崎は不審を抱いたが、声をかけるにしても辺りが暗過ぎてエンとの距離がつかめない。否、

前を疾走するはずの少年、その存在の確認を微かな跫音(あしおと)にしか頼むことができないのだ。全力で走ろうにも、

足下すら朧気な状況では空を蹴る錯覚に襲われ思うようには走れない。氷崎に声をかける余裕はなかった。

 そして、その跫音は消え入るように遠退いていった。

「おい、エンくん!」

 堪まらなくなり、足を止め声を張り上げてみたが返事はない。闇に飲み込まれてしまったのか、声が届いたかどうかす

ら定かではない。

「まさか、そんなに離れてるのか?」

 暗闇に取り残される形になり、氷崎は背中に冷たい筋が流れ落ちるのを感じた。そして、不安を拭い去るようにして、

樹路を駆けた。

 はたして、夜とはこれほどに深いものであろうか? 重なる葉に月明かりを遮られているとはいえ、窓も照明もない地下

室と同程度の照度である。ここが屋外だと実感できるものといえば、渇望する自然光ではなく、揺らぐ大気。

 視覚一つ利かない環境は、氷崎の精神を疲弊させるのに十分過ぎる威力を誇っていた。

 もがくようにして駆けるうちに、氷崎の息は次第に荒さを増し、その足は泥濘(ぬかるみ)に落ちていくように鈍くなる。

 そこから膝をつくまでにそう時間はかからなかった。

「はあ、はあ……どうなってるんだこの道は?」

 出口に近付いているのだろうか? どれだけ振り払おうとしても、その疑問は氷崎の心に墨汁のような黒を忍び込ませ

る。浸食する不安は恐怖となり、不必要に胸の早鐘を打ち鳴らした。

 向かうべき先には暗幕が垂れ、振り返った先には一筋の光もない。

 その中で氷崎は、出口の見えない暗闇に懐かしさを感じていた。その瞬間、氷崎はぞっとした。

 出口の見えない暗闇。これではまるで……、

(まるで、俺の人生じゃないか……)

 あまりに理不尽な気がした。

『夜のチケット』を送りつけられ、招待されるままに来てみれば、緑に溢れ過ぎて何もない。そこで出会った少年には罵詈

雑言を浴びせられ、案内先は漆黒の闇。

そして、自分を思い知らされる。

 被害妄想の波は決壊した堰のように氷崎の全身を支配した。

「……まったく、泣きたくなるよ」

 思いの外、人間は単純にできている。

糧を繋げばもたれ、匣(はこ)が合えば占有する。

糧も匣も見失えば、それだけで不幸を気取る。

氷崎も多分に漏れず、誰かに慰めて欲しかった。

 徐々に腐りかける、そのときだった。

「青一さん?」

 背後よりかけられたその声は、炎の少年のそれではなく、氷崎の瞳には銀色の少年が映っていた。

 銀の髪に、銀の瞳。見た目には幼く、少女のようにあえかな佇まいであったが、闇夜に浮かぶ月光を彷彿とさせる気

高さがそこにはあった。

 だが、少しおかしい。一寸先も閉ざされた闇で、どうしてこの少年の姿だけが、明るく仄かな輝きを見せるのか。何より

氷崎の注意を引いたのは、少年の手にした身の丈ほどの銀の棒。そして、この銀色の少年が赤色の少年と同じ外套を

纏っていることだった。着こなしは随分と異なり、色もエンの深紅に対しこちらは白銀。だが、生地、装飾、模様、そのど

れもが同種のもの。ただ、この少年の外套には縫合した後が幾つもある。丁寧な仕上がりは、この少年の手先の器用さ

を示しているが、それだけはエンとは異種のものに感じられた。

「すみません、人違いでした」

 銀色の少年は軽く会釈すると氷崎のもとを立ち去ろうとした。

「待ってくれ!」

 氷崎は自分でも信じられない程に声を張り上げていた。

「……すみません、急いでるものですから」

「それなら一つだけ答えてくれ。君はエンって子と知り合いなのか?」

 少年の表情が変わった。氷崎の必死の呼びかけにではなく、それは明らかに『エン』に反応してのものだった。

「お兄さん、エンとどういう関係?」

 その口調はあくまで穏やかであったが、銃口を押し付けられる緊張を氷崎は覚えた。エンとは種を異にした鋭利な刃

物である。

「いや、俺はただの客さ。それにあの子が最初に銀色の奴がどうとか言ってたから、もしかして君のことじゃないかなと思

って」

「そうです。ボクのことです。他にも何か言ってましたか?」

 見た目の温厚さを裏切り、その言葉尻は興奮していた。

「いや。お前には関係ないって……君の話はそれっきりさ」

少年は氷崎の言葉に肩を落とした。見ていて痛々しいくらいに。

「そ、それにしてもきつい奴だね、あの子は。ホントにへこまされたよ。さんざん好き放題言ってくれたし、今だって置いて

けぼりをくってたとこさ」

 罪悪感に胸をつつかれたのか、氷崎は無理に明るく振る舞った。それが思わぬ答を少年の口に誘い出した。

「今まで一緒だった……そうですか。ボクの兄弟が迷惑をかけました。すみません」

「ボクの兄弟って……君たち兄弟! ホントに?」

 外見も性格も全く異なる兄弟というのは、世の中には数多くいるのだろうが、実際に遭遇すると実に奇妙な感覚に襲

われる。種違いだとか腹違いだとかいう言葉の魔法は働かないのであろうか。

「驚いてる。ふふ……エンに酷い仕打ちを受けたみたいで相当落ち込んでたからね。気休めでも元気になって何より」

「……ああ、気遣ってくれてありがとう」

(俺にはできない顔だな……)

 目の前で微笑む繊細を束ねたような少年が今のように笑っていられるなら、自分がどれほど腐乱しようと、それはどう

でもいいことのように思えた。どれだけ己を卑下しようと他人の笑顔には無関係なのだから……。

 氷崎は心の片隅で一人納得した。幾度となく繰り返してきた了解である。

 しかし、今回はいつもと違った。

「それではエンでなくても気を悪くする」

「…………?」

 胸中に留まる独白に返答などあるはずもない。だが、少年の言葉は氷崎の思考に返すものであった。

心が読まれている。

「心が読めるくらい、別におかしくない。あ、因みに暗闇でちょっと光って見えるのも。ボクら兄弟がそういう風に創られた

だけ。ボクらって別に人間ってわけじゃないんだよね。それよりこの夜想苑には不思議がもっとたくさん。でも、ここは不

思議を披露するところじゃない。でも、不思議だらけ……だからお兄さん招待されたんだよ」

 氷崎は戸惑った。世の中にはおかしなことが幾らでもあるのだろう、ぐらいには考えていた。しかし、それは別世界の

話。向こうから誘いを受けることなど全くないと思っていた。

(わからない。どうして俺なんかに……?)

 銀色の少年はやはり微笑んだままだ。今度は氷崎の疑問に答えてくれそうにもなかった。

「もう行くね。それじゃ……」

「ああ……」

 氷崎としてはまだ訊ねたいことがあったが、なぜだか呼び止める気になれなかった。

「そういえば……お兄さんのお名前は?」

 それが重要なことでもあるかのように、銀色の少年は真剣な眼差しを氷崎に向けた。

「氷崎悠虚だけど、それが何か?」

「ヒサキユウコ……ふふ、お兄さんの名前も十分に不思議。でもボクの名前も不思議。銀色……ねっ、不思議。まんまでしょ」

 銀色の少年、銀色は少女のような笑顔を残し、炎の少年、エンと同じく、振り向くこともなく闇に消えた。

 氷崎の周囲を仄白く包んでいた明かりは潰え、闇はその静寂を取り戻した。銀色が駆けていった方向を知らなけれ

ば、前後左右すら判断に危うい。それでも、彼の心は穏やかだった。

「そのままか……じゃあエンは、炎(えん)……かな」

 そう呟いたとき、孤独と静寂がそれほど似ていないことに気付いた。

「不思議っていうより、変だな。……おかしなとこにいるもんだ」

 氷崎は銀色の走り去った闇へと一歩踏み出した。

 自分でもよく分からなかったが、今ならこの暗き道もそう長くはないように思われた。

「うじうじしてる暇があったら、少しでもあの生意気なお子様に追いつくか」

 例えれば、長いトンネルなのだろう。いつかは出口に辿り着く。ただ、真っ暗な道を縫い進むことに変わりない。

(気持ちだけ先走るのには、もう疲れたし)

 そう考えて程なくであった。

その奇妙な浮遊物が現れたのは。

「……魚?」

 白色の発光体が闇の向こうから漂流してきたのだ。氷崎は一瞬、ギンイロ(銀色)かとも思ったが目線の先で漂うのは

少年ではなく魚だ。

 ぱくぱくと口を動かし、尾びれをくねらせながら宙を泳いでいる。あまりにも進行速度が遅く、それに気付いたのはかな

りの至近距離までに到達してからだった。

「……でかいな」

 縦幅は氷崎の半分ほどはある。体長はおそらくは氷崎をすっぽり隠してしまえるほどだ。これほどの体躯を誇ると、喰

われやしないかと不安になったが、どうやらおとなしい魚のようだ。

(そうだ。こいつを使えば……)

 何を思ったのか、氷崎は発光魚の頭を両手で挟んだ。

 魚の方は捕らえられたにもかかわらず、ぴちぴち暴れる気配もない。ただ口をぱくぱく動かしているだけだ。

 魚が抵抗しないことを確認し、氷崎はそのまま魚の進行方向を逆転させた。周囲全てを照らし出すには不十分だが、

足下を照らせるだけの光量は備えていた。

「こいつを引っ張って行けば、暗さに悩まされることはないな」

 そう言って、魚の側面に手をおいた。そしてすぐ手を引いた。

 魚臭さはないのだが、鱗のぬめり具合がどうにも生々しい。

 次に氷崎は魚の口に手を入れた。そしてすぐ手を抜いた。

 湿った唇に手をぱくぱくされるのは気味の悪いものだ。

 他にひっぱっていくのに都合の良さそうな部分もない。

 氷崎は仕方なく魚の横に並んで進むことにした。

 ――とても長い時間が過ぎたように感じる。氷崎が気付いたとき外界では雨が降り出していた。夜空を隙間も見せぬ

樹葉に囲まれているおかげか、垂れる雫は露ほどもない。こうなると、ただ暗いだけの道にもありがたみを感じる。

 氷崎はもくもくと歩を進めた。

 そして、ようやく見えた。

「……出口だ!」

 走った。ひたすらに目指した。たとえ雨に打たれようと、その身に感じた風は冷ややかで、心地よかった。闇が開けた

瞬間は疲れなど微塵も感じさせない、実に晴れやかな顔をしていた。ただ一つ心残りなのは、エンがやはり待ってはい

なかったことぐらい……。

(あー……俺の人生、こういうものかな)

 それを確かめるには、これから生き続けるしかないのだが、このとき氷崎が得た実感は、どこまでも彼の真実である。

「本当に長かった……」

 振り返り過去の闇を見直した。

ゆっくりと暗闇を泳ぐ発光魚がようやく顔を覗かせた所だった。

(それにしても、ゆっくりだ。あいつには感謝しないとな)

 氷崎が魚に近付こうとしたときだった。出口を抜けた途端、魚はゆっくりと反転し、今来た道を再び泳ぎだした。

(……そういうお仕事か)

「さかなー、ごくろうさーん」

 発光魚は深海に潜るようにして消えていった。

 ゆっくり、ゆっくりと。

 その別れに名残惜しさを感じながらも、仕方がないことと割り切った。子供の頃なら、追いかけて連れてくるのだろう

が……。

 いつの間にか星空は雨雲に席巻され、白んでくるだろう空は未だ夜の暗きを呈していた。別にこのような自然現象が

夜想苑の由来ではないだろう。しかし、長い時間を共有した魚を見送った後とあってか、この雨が夜との惜別を想わせ、

氷崎はこの不思議の園に親しみを感じていた。

 暗黒の樹路を抜けた先は広場になっていた。中央には大きな看板があり、そこには夜想苑の全体図が展開してある。

地図によると、この広場は苑内のほぼ中央に位置し、従って氷崎の立つ現在地はまさにど真ん中ということになる。縮

尺は記されていないが、今通ってきた道からすると、夜想苑の規模は相当大きなもののようだ。

「こういう全体図は入口に一つ設置してあるのが普通だと思うけどなあ。それにあの道、『黒樹の回廊』なんて名前があ

るのか……そのまんまか。それより最初の分かれ道で明かりがついてたのは、なんで噴水に続く道だけなんだろうな?

 他にも変な名前の道が幾つもあるのに……あ、でも『倒錯の並木道』とかは避けたいな」

 氷崎は中央広場から伸びる道の数本を目で追った。『月華郷』や『竜石の瀑布』のような得体の知れないものもあれば

『陳列館』や『大食堂』のようにあからさまな名前の施設もある。中には『廃屋群』や『地震後』といった必要の意図を問い

たくなるようなものまであった。しかし、そのどれもがエンと出会った場所『無刻の噴水』よりも遠くに位置している。つま

り、ここから非常に遠い。中でも、食堂が震災地に隣接し、遠隔地にあることは少なからず氷崎を不愉快にした。

 雨足は弱まるどころか激しさを増す。氷崎は中央広場から最寄りの施設を探した。程なく『縲紲(るいせつ)の宿』が眼に

飛び込んだ。そこに辿り着くまでには『虞淵(ぐえん)の緑地』を抜けなければならないが、地図で見る限りではそれほど広

い場所ではない。緑地帯を抜けた所で道が二手に分かれており、左手に行けば宿だが、右手に行けば廃屋へと繋がっ

ていた。

「左側の道だな……」

 氷崎は方向を確認すると中央広場の西を目指した。

 程なくして緑地に足を踏み入れることになったが、緑地というにはどうにも木々が少ないような気がした。ふと目をやっ

た立て札には『植樹未定』と記されている。何やら付属文もあるが、今はそれを読む気にはなれなかった。

 氷崎は中央広場から最も近い、雨宿りには最適の、黒き樹影の地を無視したことを少し後悔していた。もちろんそれは

彼なりの言い分があってのことだが……。

(もう、あの真っ暗な道に戻る気はしないな。あそこでいつ止むとも知れない雨を眺め続けるのは、ある意味疲れる)

 自分は賢い人間ではない、と開き直りながらも草地をまっすぐ突き進む。

 雨足が強まる。

 ふと、ふと視線を景色の端に泳がせた。

 そのまま、ただまっすぐ進めばよかったのだろうか?

 視線の先には人為的に掘り返されたと思しき土の盛り上がりがあった。

 氷崎はほんの軽い気持ちで近寄った。

 そのまま、ただまっすぐ進めばよかったのだろうか?

 肌に痛いほど叩きつける雨は警告していたのかも知れない。

 来るな、と。

 しかし、雨滴がその穴を埋めてしまうより先に、その男は来てしまった。

 それはあまりに唐突で、あまりに残酷で、それ故に不思議ではなかった。

「……おい。どういうことだよ! 誰がこんなっ……!」

 氷崎は穴に降りた。底は浅い。

 豪雨により流れ落ちる泥をかき上げ、冷たくなった二人の少年を穴から引き上げた。

「大丈夫か、おい! エンくん! ギンイロくん!」

 氷崎がいくら二人の顔を叩いても反応はない。ただ、冷たいだけだ。

 生身の感触はあるのに、それをソレとしか表現できなかった。

「なんてことするんだ。こんな子供に……」

 エンの胸には空洞ができていた。細い棒に貫かれたような。

 銀色の後頭部にも穴が開いていた。これはエンのものと比べて小さく、貫通までは及んでいないものの、致命傷である

ことに変わりなかった。

 不思議と二人とも血痕はない。

 それ以前、血が通っていたのか?

「この子たち……機械」

 開いた傷口から覗くのは、明らかに人間の内容物ではない。

 氷崎は言い表しようのない感覚に襲われた。

 銀色は自分たち兄弟を人間ではないと言ってはいたが、あのときは冗談と聞き流した。実際は機械仕掛けだった。だ

が、それが今どれほどの意味を持つというのか。抱きかかえた亡骸は、あどけない顔で眠る少年である。

 二人の少年は未来を奪われたのだ。

 氷崎はやり場のない怒りをかかえ、二人を墓穴に戻した。

 泥をかぶせる度に、情けなさが込み上げる。

 自分が二人の死に対し、何もできないことは分かっている。このまま埋めてしまうのが怖ろしくもあったが、氷崎にはこ

れしかできない。何をしても満たされることなどない。

 二人の埋葬が終わる頃には、雲間に光が射し込んでいた。

(……もう、ここを出よう)

 氷崎の気持ちは既に夜想苑にはなかった。

 行きとは全く違う道を選んだ。朝を迎える今となっては、明るい道を探す必要もない。最初の門に戻るまで遠回りするこ

ともなかった。

 密度の濃い夜のはずだった。だが、何も思い出す気になれない。

 氷崎はここに来たことを後悔した。

 思考を凍てつかせ歩いたからだろうか、気付いたときには門の前にいた。特別に道を選んだつもりはなかったが、早く

目の前の門をくぐり去りたかった。

 氷崎は少し前からする動悸が疎ましかった。

(はやく出よう……)

 しかし、氷崎の足は立ち止まった。なぜなら、受付の犬がちょうど門の真正面に陣取っていたからだ。

 氷崎は無視するつもりで、横を通り抜けようとした。

「ふんふん。出て行くんだね、お客さん」

 氷崎の足が止まる。

「どうだい、楽しめたかい?」

「…………」

「ふんふん、その様子だと無理だったみたいだね。そうかい、そうかい。なら、お客さんを帰すわけにはいかないね」

 そう言うと受付のプレートがかかった自分の寝床に入り、何やらもぞもぞと探し始めた。

電光掲示板の数字は依然『2』のままだった。

「ふんふん、ふんふん」

 犬は折本を口にくわえてきた。それを受け取って欲しそうに差し出す。

 氷崎はそれを手に取った。夜想苑のパンフレットだ。

夜想苑(ここ)の不親切は今に始まったわけではないので、氷崎は何も言わなかった。ただ、これから出ていこうとする者

に案内書を渡す犬に呆れていた。

「これで俺にどうしろと?」

「ふんふん、わからないかい? だろうね。そいつを開いてごらん。ここの全体図があるね。右上の方に『月華郷』が見え

るね。そこさ。そこにこれから行くのさ」

「ここからじゃ一番遠い」

「だから行くのさ」

「……遠慮しとく」

 氷崎はパンフレットを犬に突き返した。

 犬はあっさり受け取った。だが、それは氷崎の勘違いだった。

 犬は受け取るやいなや氷崎の顔にパンフレットを投げつけた。

「……もういい。帰る」

 氷崎は門をくぐった。歩き去る背中に犬は吠え続けた。

「ふんふん。僕の名前はホワイト。自分で付けた名前じゃない。だけどエンはその名を自分で付けた。この意味、分かる

かい?」

 再び、氷崎の足が止まる。いや、振り返り犬の前まで引き返した。

「知ってるのか、エンくんを?」

「ふんふん。悪いね。ここからは規則で話せない」

「規則って……何が話せないだ! あの子は、あの子たちは死んだんだぞ!」

「じゃあ、お客さんがこのまま帰ろうとするのは、どう説明するんだい?」

「? どういうことだ」

「分からないかい? なら、行くしかないね」

 そう言うと、犬は小屋に戻り、今度は紙切れをくわえて来た。氷崎は混乱しながらもそれを受け取った。

「ふんふん。それは『昼のチケット』……お客さん特別だよ」

 氷崎はチケットを持ったまま動けなかった。未知に対する勇気を試されているような気がしていた。 そんな氷崎を後押

しするかのように、純白の犬、ホワイトはパンフレットを差し出す。

「お客さん、ここに来て何か変わったかい? ふんふん。変わっただろうね。なら、早いとこ『昼のチケット』を渡してくれな

いか。ぐずぐずしていると陽が高くなってしまうよ。と言っても『月華郷』は真昼に行くもの。のんびり行けばいいさ」

 ここに来て聞きたいことは多くあった。しかし、誰も答など与えてくれはしなかった。

 氷崎は今までの人生、他人に求める生き方をしてきたのだと知った。答は用意されているのではなく、絶えず自分で掴

み取っていかなければならない。

 事実ほどあやふやなものはない。人によりその側面が異なるからだ。しかし、各々が実感で捉えた事実はその人にと

っての真実である。氷崎悠虚という男はそれが苦手なだけである。

 氷崎はそれを自覚できたのであろうか?

 それは本人に聞いてみなければ分からないが、彼の中で『行動』に対する強迫観念が薄らいだのは確かなようだ。

「そこに行けば真実が分かるんだな?」

「ふんふん、それはお客さんしだい。あの子たちもそう思うんじゃないかな。特にエンはそういうこと口にしないからね」

 ホワイトはチケットを受け取ると、夜のとき同様にそそくさと犬小屋に潜り込んだ。

 あの時とは違う。今は目に滲みる朝焼けを背負っている。

 氷崎は再び、夜想苑の門をくぐった。



                        了



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