渇き人
フェイド




 太陽の光と熱が襲ってくる。

 遮るものは何もない。窓にかかったボロ切れには意味がない。

 暑い、暑い、ひたすら暑い。頭の中身が沸騰しそうなくらいに。

 俺は悲鳴を上げたくなるのをこらえながら、何に使うのかもわからない機械を組み立てていた。前の担当者から流れて

きた機械を、決められた通りにコードをつなげ、接合し、次の担当者に流す。

 それだけの作業だ。

「よし、本日の作業はここまで」

 監督官の、俺たちとは対照的に肌の白い男がそう言うと、その場にいた全員が、途中でも作業を放り出し、次々に出

て行く。

 俺も例外じゃない。こんな作業になんざ何の未練もない。工具を置いてさっさと出口に向かう。

 疲れた。体が重い。頭がはじけそうだ。何より、喉が乾いた。

 おそらく周りにいる全員が同じ気分だろう。目がとろんとして、しっかりとしているやつらなんてどこにもいない。

 そのとろんとした目が見ているのはただ一点だ。

 働き終えた労働者に与えられる一種の給料、エルドラドの果実――略してエルの実。このちっぽけな、拳二個分程度

の実が、俺たちの唯一の食料にして水分でもある。

 これを手に入れるためだけに、俺たちは働いている。

「R‐369」

 自分の名前を言う。銃を持った監視兵が手元のリストにチェックを入れるのを確認すると、横の兵士が俺にエルの実を

よこす。

 俺は受け取ると、さっそくかじりついた。口の中に、果汁が広がる。甘酸っぱさが、全身に染み渡っていくような感じが

した。ゆっくりと味わうこともせず、あっという間に平らげる。

 工場を出た。

 太陽はいまだにその力を衰えさせない。

 ギラギラと、俺たちとこの石と鉄でできた町を焼くそれはまるで。

 悪魔のようだった。



  「よぉーサブロク、お疲れさん」

 部屋に戻るなり、陽気な声をかけてきたのはS‐032のやつだ。

 こいつも俺と同じで、肌が日焼けで真っ黒だ。だが、その明るさはまだ日に焼けていないらしい。

「だれがサブロクだ、だれが」

 そう言うと、S‐032は口元をにぃーっと歪めて、

「いやほらほら、369でサブロク。いいネーミングだろ?」

 まぁた始まったか、とため息を一つ吐く。

「なにバカ言ってんだよ。明日も早いんだから、とっとと寝ろ!」

 こいつのたわ言に付き合っても一文の得にもならない。

 それどころか、損することのほうが多い。疲れてるんだから、さっさと寝て明日に備えなきゃならんのに、こいつはときた

ら……。

「お兄さんつれないねぇー。毎日毎日、起きて、働いて、寝るだけの生活に少しは彩りを添えようという、私めの心遣いが

わからないのかい?」

 身振り手振りを交えながら、しれっとまともそうなことを言うが、そのにやけた顔を見る限り冗談としか思えない。

「わかんねぇ、わかんねぇ。バカの考えは一般人にゃわかんねーよ」

「またまたー、自分もオバカの仲間のくせに」

 頬を引きつらせる。このまま喋っていてもこいつのペースに持っていかれるだけだ。こういうのは無視するに限る。

 俺は自分の寝床に入り、布団を被って目を閉じた。

「ちぇ、つまんねーの。まぁいいや、俺も寝るかなー」

 そう言ってヤツも布団の中に入ったらしい。が、いかにもわざとらしい歯ぎしりやらいびきやらが俺の眠りをさまたげよう

とする。

 無視だ、無視。放っておけば飽きて静かになるだろう。

 しかし、何でまたこんなうるさいヤツと同室になんてなったのやら。他の連中はみんな無駄なことをしない、静かなヤツ

らなのに。

 まったくとんだ貧乏くじだ。

「あっ、そうだ。一つ言い忘れてたことがあった」

 急に飛び起きたかと思うと、俺の方を真剣なまなざしで見すえる。

 なんだ、何かあるのか? こいつがこんなに真剣になること――想像もつかないな。しょうがなく俺も起き上がって視線

を合わせる。

「あのだなぁ」

 もったいぶった切り出し方。

「俺のことはサニーって呼んでくれ」

「……は?」

 思わず間抜けな声が出た。

「いやほら、032だから、サニーな。あぁ、呼び捨てでも構わないけど、できればサニーちゃんって呼んでほしいなぁ」

 呆れて声も出せない。

「死ね」

 それだけ言うのが本当に精一杯だった。



 毎日毎日、少しも変わらない生活。

 起きて、働いて、寝る。それだけの生活だ。

 そうしなければ、この世界では生きていけない。全てが干上がってしまったこの世界では、エルドラドと呼ばれる地から

送られてくるエルの実がなければ、生きていけないんだ。

 だから、働く。働けなくなれば、死ぬ。残酷なようだが、これがこの世界の鉄の掟。誰も、このルールから逃れること

はできない。

 そう、できないんだ。

「た、助けてくれぇ……」

 いつものように仕事を終え、エルの実を食べて帰る途中、そんな声が聞こえてきた。

 その声の主を見る。

 やせこけて、肌の黒い男だった。見るからにひからびているところからして、エルの実にありつけなかったんだろう。

 男は、まだエルの実を食べずに持っている男にしがみついて、一口だけ、一口だけと訴えて放さない。

 しがみつかれた方は何とか引き剥がそうとするが、思いのほか力が強いのか、なかなか離れないようだった。

「いい加減にしろよっ!」

 結局、男は力任せに突き飛ばした。ひからびた男が壁に打ちつけられる。その時の男の目は、絶望と死の恐怖に満ち

ていた。

 けっ、と吐き捨てるようにしがみつかれていた男が言い、背を向けて歩き出す。男は手にしていたエルの実を、そのま

ま食べてしまった。

 酷いようだが、これが現実だ。

 いちいち物乞いに施してやっていたら、自分がそのうち食えなくなる。俺も昔、似たようなことがあって以来、エルの実

はもらったらすぐに食べてしまうようにしている。

 俺もその男のように背を向けて、歩きだそうとした。弱者を待っているのは死だけってのが、この世界のルールなんだ

から。

 ところが。

 その常識が突然破られた。

「さぁ、飲んで。これを飲めば、すぐによくなるから」

 優しそうな女性の声。思わず振り返る。さっきのひからびた男のそばに寄り添う、一人の女の子がいた。

 まだきっと15歳ぐらいだろう。着ているものと、肌の色からしても俺と同じ労働者だ。

 それが、ひからびた男の手に何かを入れ、何かさせようとしている。

 何だ……?

「こ、これは?」

「いいから、はやく」

 うながされるままに、手の中のものを口に運ぶ男。すると途端に、男の目が変わった。絶望に満ちたうつろな目が、今

は力に満ちている。

 今のは……まさか。

「あぁっ!」

 俺とは逆側で今の光景を見ていた男が声をあげた。

「お、おい。今のもしかして『水』じゃねぇのか!?」

 どうやらヤツも俺と同じことを考えたらしい。

 そしてそれは多分正解だ。

「み、『水』? 今飲んだのが、あの?」

 飲んだ男も、まさかと驚いている。

 無理もない。この世界から『水』ってのが消えてから何年経ったのか、わからないぐらいだ。俺たちの間じゃ、生まれて

から一度も見たことのないヤツの方がはるかに多いし。

「お、おい姉ちゃん。今の、あんたがやったのか?」

 男の問いに、ちょっと困ったような顔をしながら頷く女の子。

「た、頼む。俺にも『水』をくれ!」

 男が手で作った器に、彼女がそっと手を添える。途端に手と手の隙間から滴り落ちてくる液体。間違いない、『水』だ!

 男はその落ちる一滴すら惜しいように、一瞬で飲み干した。

 今度は俺と男以外に多くの人がそれを見た。一人、二人と彼女の周りに人が集まっていく。

「お、俺にもくれ!」

「俺にも!」

 彼女はその一人一人に応え、『水』を生み出していく。飲んだヤツももう一度と手を差し出すせいで、キリがない。

 次第に男たちが騒ぎ出す。

「聖女だ。聖女が現れたぞっ!」

 この『水』が消えた干からびた世界で唯一、水を生み出す存在。それが聖女と言われる、いわゆる民間伝説的な存在

――

「『水』を、『水』をくれっ」

「てめぇ、さっき飲んだだろうがっ!」

「聖女さま、どうかお恵みをぉ」

 まるで、全員が乞食になったように手を差し伸べる。

 その一人一人に答え、水を生み出し与える女。

 イライラしてきた。

 全員が全員、アホウみたいなツラしやがって。それに、与えっぱなしの女の方にも腹が立つ。このままじゃ――

 そうだ、このままじゃいけない。こんなヤツらに、『水』なんてくれてやってたら今にえらいことになる。

 男たちの数は……5人か。何とかできなくもない。

 よし。

 何気なく、自分も聖女に気がついたという風に近づいていく。男たちの間をかきわけ、同じように手を差し出すフリをし

て。

 いきなり裏拳を顔にぶちかました。

 バランスを思いっきり崩して二人が倒れる。残りの三人が何が起こったのかと混乱しているスキに。

 彼女の手を取って、走り出した。

「あっ、こら、待てっ!」

 そこまできてようやく事態を飲み込んだらしい男があわてて俺の後を追ってくる。

 その差約3秒分。

 女を引っ張って走ってるんだから、すぐに追いつかれるだろう。

 彼女の顔をちらりと見る。何が起こったのかわからないというように、顔中にクエスチョンマークを散りばめていた。

 それでも健気に全力で走ってくれているらしい。助かる。

 さて問題はここからだ。

 どうやってこいつらをまくか……。正直、あまり考えてなかった。

 無謀といえば無謀だが、こうするしかなかったんだからしかたない。

「こら、待てぇ!」

 後ろから叫び声が聞こえる。怒りと、狂気の入り混じったような声。捕まったら何をされるかしれたもんじゃない。

 と、そこに。

「おぉ、サブロクー。何楽しそうなことしてんだ?」

 S‐032だ。天の助けとはまさにこのことかというようなタイミングで出てきてくれた。作業中なのか、鉄パイプまで持っ

ている。

「頼む、後ろの連中どうにかしてくれっ!」

 状況をすぐに理解したのか、ひゅう、と口笛を鳴らすと、

「俺のことサニーちゃんって呼んでくれる?」

 本気で腰が砕けたかと思ったが、何とか気を取り直す。死ぬほど嫌なことこの上ないが、この際しかたない。

「わ、わーったよ。サニーちゃん、後ろの連中よろしくっ!」

「ほいきた」

 サニーの隣を走りすぎる俺と女。一瞬ちらりと後ろをのぞき見る。

「おーっと、ごめんよぉー。手がすべっちまったい」

 持ってた鉄パイプを、いきなり横にして男どもの首元に直撃。突然止まった前のヤツに激突して後ろの連中も激突。ど

うやらそれでご臨終らしい。

 一見優男のくせに、やるときはやるなー。

 だがまだまだ足は緩めない。倒れた連中が聖女の名前を出したら他の連中も追っかけてくるだろう。……032のヤツ

も追っかけてくるかもな。



 走る、走る。ひたすら走る。

「ここならいいか」

 人の姿も見えなくなってきた、町外れの廃屋の中。埃くさい、暗い、熱いの三拍子揃った最悪なところだった。

 とりあえず息を整える。どのくらい走ったんだろう。横目に彼女を見ると、肩で息をして相当辛そうだ。

「ご、ごめん。大丈夫か?」

 考えてみれば女に走らせる距離じゃない。逃げることに必死で、そこまで考えが及ばなかったか。

「だ、大丈夫」

 息も絶え絶え、と言った風だ。まぁ、それもそうだろうな。

「それよりも、何でこんなことを……?」

 当然といえば当然の質問に、どう答えたものか一瞬悩む。

「別に、大したことじゃない。ただイライラしたからってだけ」

「イライラ、ですか?」

 頷いて返す。意味が当然わかってないらしい彼女に、続けて説明。

「あんな物乞い見て、イライラしないヤツなんているか? 『水』くれ、『水』くれって、バッカみてぇにさ」

 言いながらさっきの様子を思い出す。わらわらと彼女に群がり、『水』を求める連中。口を開けて、目をぎらつかせて。本

当に腹が立つ。あんなことをするぐらいなら、干からびて死んだ方がマシだ。

「あなたは『水』、欲しくないんですか?」

 きょとんと不思議なものを見るような目で言う。

「いらね」

 これは本当だ。あんなもん、見たくもない。

「変わってますね? あなたみたいな人、見たことありません」

 まぁ、そうだろうな。みんな『水』の話になると冗談でも目が変わっちまう。それぐらい、心の底から欲しがってるんだ。

「別に当然のことだろ? 何かに頼ったら負けってのがこの世界のルール。『水』に頼ったら、それ無しじゃ生きられなくな

っちまう。辛いし、耐えられないヤツもいるけど、今の状態が一番いいんだよ」

 自信を持って言う。自信というより、確信だ。

「……わたしは、そうは思いません」

 だけど彼女はそれを否定した。やんわりと、笑顔で。

「『水』がなければ、人は体だけじゃなく、心まで乾いてしまうような気がするんです。みんながみんな、心まで乾いてしま

ったせいで、この時代があるんだと思うんですよ」

 その笑顔に何もかも見透かされているような気がして、目を逸らした。

「関係ないさ。『水』なんて所詮、一時凌ぎにしかならないんだ。今の方法以外じゃ、この世界じゃ生きていけやしないん

だから」

 即座に言い放った俺に、しかし彼女も信念を崩さない。

「かも、しれませんね。わたしも、ついさっきまでそう思ってました。あの男の人を見るまでは」

 あの男……さっきの物乞いか。

「自分の能力は、こういう人を救うためにあるんだ、って何か目が覚めたような感じがして。一時凌ぎでいいんだって、そ

う思えたんです」

 笑顔でそう言う彼女の横で、俺はため息をついた。

「そんな物乞い助けてどうなるってんだよ。それで世界が変わるとでも?」

 呆れ気味に言った俺の言葉に、彼女は力強く頷いた。

「ええ、わたしはそう信じます。きっとこの力は、できる限り多くの人を助けるように、そして世界を少しでも潤すようにっ

て、神様がくれたんだって。そう思ったから、わたしはこの力を使ったんです」

 ふざけんなよ。

 イライラしてきた。余計なことしなくていいんだ。連中にそんなことをしてもまったくの無駄なんだよ。理想なんか必要な

いんだ。俺たちに必要なのは現実であって、今日を生きていくためのエルの実なんだよ。

「そんなことしても何の意味もない!」

 思わず、そう言っていた。ストレートに表現された感情に、彼女は少し体を震わせたが、じっと俺の目を見据えて聞いて

くる。

「どうして、ですか?」

「あんた一人が犠牲になっても何も変わらないからさ。連中は、あんたから搾り取るだけ搾り取って、ゴミ屑みたいに捨て

るんだ。それだけなんだよ、何も変わりゃしない!」

 少し息が切れた。体が興奮しているのか、熱い。それだけの力がこもった言葉を、彼女はしっかりと受け止めてくれた

はずなのに。

「そうかもしれません。けど」

 わずかな沈黙。寂しげな笑顔。それを、直視できない自分。

「それでいいんだと思います」

 彼女がそう言ったきり、俺たちは黙り込んだ。重い沈黙が俺たちを包み、押し潰すかのようにその場に漂っている。

 俺は、それに逆らって必死に声を絞り出した。

「今日したことは忘れろ。明日からはまた、普通に働く生活に戻るんだ。まだ間に合うから。今なら、まだ――」

「ありがとう。でも、わたしは戻りません。そう決めたんです」

 そう言ってにこりと微笑んだ彼女に、今度は俺が言葉を失った。

「たとえわたしが死んだとしても、きっとそれは無駄にはならないと思いますから。誰かが、きっとわたしのように、また」

 本気で、そう思ってるのか?

 まるで、瞬間洗脳だ。聖女とやらの意識に目覚めた人間は、全員こうなるってのか。どうあがいても、変えられないの

か。俺は、また彼女が物乞いに『水』を与えるのを、今度は黙って見てるだけしかできないのか。

「……そんなバカな話があるか」

 俺は、彼女の前に立ちふさがるように立った。見下ろすようにして、彼女の目を見る。一点の曇りもない、澄んだ『水』

の目だ。

「認めない。俺は認めないぞ。『水』を与えるのがあんたの信念だってんなら、それを認めないのが俺の信念だ」

 彼女は、困った顔をして俺の目を見ていた。

 きっと、バカなヤツに見えてるんだろうな。それでも、彼女に彼女の道を歩かせるわけにはいかない。彼女のためにも、

俺のためにもだ。あんな光景はもう、見たくない。

「いや、ここは認めてくださいよー。サブロク先生」

 妙に粘着質な、ぞくっとするような声が後ろから聞こえた。

 振り向く。

「お前、どうしてここに?」

 S‐032がそこにいた。他にも、ゾロゾロと、数え切れないほどの連中がそれぞれ手に何かしらを持っている。

 全員、殺気立っていた。

「まったく、何かと思えば聖女さまを独占か? いい加減にしとけよ、半殺しじゃ済まないぜ……って後ろの怖いお兄さん

たちが言ってるけどどーするよ?」

 そう言ってカラカラ笑う。だが、いつもの陽気さがない。

「タチの悪い冗談だな」

「あー、お前ほどじゃないって」

 じりじりと、俺に近づいてくる連中。

「友達のよしみで、見逃してくれたりしない?」

「後ろの100人、全員友達にして世界中に笑い声響かせられるならOK」

 無茶なことを。そんなことできたらまずお前をぶっ殺してるよ。

 ……んなこと考えてる場合じゃない。

 まずいな。逃げ道はないし、何より逃げようにもおそらく彼女が逃げようともしないだろうし。八方ふさがりだ。

「待って」

 彼女が、俺と連中の間に入って、そう言った。

「『水』なら差し上げますから、ケンカはやめてください。あなたがたの目的はわたしの『水』でしょう?」

「いや、ですが」

 その言葉に気をそがれながらも、まだ俺への殺気は収まらない。

 彼女はS‐032の前に立った。そして、手を取るとそこに『水』を生み出した。それを見た瞬間、あっという間に殺気は消

え、代わりに期待めいた気配がこの暗い、埃臭い、暑い空間に立ち込めた。

 彼女を目がけて差し出される手、手、手。その一つ一つに、『水』を生み出していく彼女。歓喜の声。下卑た声。物乞い

の声。

 イライラした。俺にはやっぱり、止められないのか? 色々と手を考えるが、さすがにこの人数をどうにかすることはで

きなさそうだ。

「こ、これが『水』か。『水』なのか!」

「お、俺にも。俺にもくれっ!」

「こら押すんじゃない、順番だ、順番っ!」

 騒ぐ連中に、笑顔を見せながら一人、また一人と彼女は『水』を与えていく。その横顔は、輝いているように見えた。

 だが、その輝きに次第に陰りが見えてくる。青ざめ、汗が浮かび、疲れが滲み出してくる。

 だが、連中にはそんなことお構いなしだ。搾り取れるだけ、搾り取る。あいつらが考えているのはそれだけだ。

 もう限界だった。

 一人でどこまでやれるかわかりゃしないが、そんなこと関係ない。顔の緩んだバカどもの顔を、ひたすら殴りつけてや

る。

 そう思って、飛び出していこうとした次の瞬間――

 ズダダダダダダッ!!

 銃声が響き渡った。

 足元の埃が舞い散り、全員の動きが止まる。

「動くな」

 こんなことされて、動けというほうが無理な話だ。

 銃弾は、図った様に連中の間をすり抜けて足元に突き刺さっている。

 どういう仕組み、弾道の銃を使っているのかわからないが、つまりは、変な動きをすればピンポイントでいつでも殺せる

ぞという意志表示だ。

「げ、治安維持軍かよ。何でこんなところにまで……」

 S‐032が怯えた声をあげる。闇の中から現れたようなヤツらが合計5人。それぞれ銃を持っている。

「そこの女」

 隊長格らしい男が、彼女に向かって言った。何の抑揚もない冷たい声だ。

「治安維持法第16条、項目4に基づき逮捕する。抵抗する場合は射殺する。以上だ」

 無駄のない、簡略でわかりやすいことこの上ない説明だ。

「ふざけんなぁっ! 誰がてめーらなんかに聖女さまを……」

 再び銃弾が飛び散った。

 しかも、今度は連中の顔の真横をすり抜けて行った。顔の直前まで来るたびに、軌道を変え軌道を変え、向こう側の壁

に突き刺さる。

 もう、誰も何も言わなかった。

「……わかりました」

 彼女が、彼らの方へ歩いていく。

 俺たちは成す術もなくそれを見守っていた。

 連中の目は失望と落胆に満ちていた。まるで、子供がおもちゃを取り上げられたかのような目だ。

 一方の俺は、どこかほっとしていた。これで彼女が連中の思うままになるのを見なくて済む。彼女も『水』を与えなくて済

む。

 よかったんだ、これで。

 だが、彼女の目を見た瞬間、そんなのはどこかへ吹き飛んでしまった。

 悲しい目。どこまでも悲しい目だった。そうだ、彼女の使命は終わってしまったんだ。こうして治安維持軍に捕らえられ

た時点で、もうおそらく彼らの所に戻ることはないんだから。

 彼女の手に、手錠がかけられる。彼女の目から、輝きが完全に消えた。もうこれで逃げることはできない。二人の兵士

に囲まれて、彼女は連れて行かれる。抵抗するものは誰もいない。

 これで、よかったんだよな? 自分の胸に問いかける。間違っていないと答えが返ってくる。なら、どうしてこんなに心が

騒ぐんだ? どうしてこんなに不安にかられるんだ?

「R‐369!」

 様々な葛藤に、呆然とした頭に兵士の声が響く。だが、響いただけだ。それが自分のことを指す記号だということも忘

れて、考えていた。

「おい、サブロク。呼んでるぞ?」

 S‐032の声で、ようやく正気にかえる。男に目を向ける。冷徹な、にごった目だった。まさに彼女とは正反対だ。そんな

ことをぼぅっと考えていると、まったく思いもかけなかった言葉をくらった。

「お前も、治安維持法違反の容疑で逮捕、連行せよとの命令が下っている。大人しくついてこい」

 俺が逮捕? まさか。

 そう思うやいなや、手には手錠がかけられていた。重い。腕に食い込んでくるような感触。

 武器は最新鋭のわけのわからないものを使ってるくせに、どうしてこういうのは昔ながらの旧型なんだろうな。

 くそっ、まだ頭がはっきりしてないのか。こんなどうでもいいことを考えてる場合じゃないだろう。

「なんで、俺が?」

 手錠の重さに、口まで重くなっているのを感じながら、必死に搾り出す。

「あの女と同じ理由だ。住民を扇動し、騒ぎを起こした」

「別に俺は扇動なんか!」

 だが、この兵士にはまったく聞く耳というのがないらしい。

「その判断をするのは我々ではない。反論は存分に評議会で行ってもらう。さぁ、さっさと歩け!」

 背中を突き飛ばされる。俺の両脇にも兵士が二人。残った一人の兵士が、大量に集まった物乞いどもに何か叫んでい

る。

「サブロクー。元気でなー。生きてたらまた会おうぜ」

 S‐032の間の抜けた声が背中を刺す。

 だが、そんな小さな刺激が気にならないほど、手錠は重かった。



「処刑」

 評議会という、事件の推移からその罪にふさわしい刑を選定する機関は彼女に対し、そういう結論を下した。

 その場にいた俺は、まったく言葉を失ってしまった。まだ大して話もしていない。本当に簡単な説明を受けただけでの

結論だった。

「執行は明日の正午。以上」

 まったくどうやら評議会はそれで終了のようだった。

 一方の彼女自身は、目を閉じて黙ったまま。あの手錠をかけられた時から、まるで死んでしまったようだった。

 そして、彼女を擁護しようという人間も誰もいない。始めからそう決まってたんだ。なのに、俺は何を喜んでいたんだ?

 食い止めなくちゃ。殺させてたまるか。必死で、声をしぼり出す。

「ま、待てよっ! いくらなんでも、たったそれだけで処刑だなんて早すぎるだろっ!?」

 席を立ち上がりかけていたこの評議会のトップらしい男が、また席に座りなおして俺の目を見た。冷たい、温もりのまっ

たくない目だった。

「早くない。法に乗っ取った採決だ。聖女とやらが現れた場合、即刻捕獲し処分せよと条文に記載されている」

「んなバカなことがあるかっ!? 彼女が何をしたってんだよ!」

 そんな法律、認めてたまるか。てめえらが勝手に作ったルールに、従う必要なんかない。そうだ、そんな必要ありゃしな

いんだ。

「『水』を与えた。それがどういう結末をもたらすのか、君はよく知っているだろう? 我々はあの一件を教訓に、条文を追

加したのだよ」

 その言葉に、思わず声が出なくなる。

 あの一件、15年前の。なるほど、また繰り返しになることをさけるために準備を整えてたんだな。だからあんなに対応

が早かったのか。

 声が出なくなった。あれだけ暴れてた腹の虫が、完全に萎縮してやがる。考えてみればごもっともじゃないか。当たり前

だ……。

「今日、『水』を飲んだ連中は――」

 俺の様子に満足したのか、彼女の方を見ながらヤツが言う。

「一部、仕事を放棄してきた者もいるらしい。残念だが、明日から彼らに仕事はない。結局君のしたことは、干からびる人

間の数を増やしただけだ。無駄なことをご苦労だったな」

 まるで死人のようだった彼女が、急に生き返ったように顔を上げた。

「そんな! たった、たった一日だけであの人たちを殺すんですか?」

 男の氷のような表情はまったく変わらない。

「それがこの世界のルールだ。働かないものは、死ぬ以外にない」

 さっきまで、俺が言っていた通りのことだ。

 俺もあの一件でそれを学んだ。その通りだと今も思っている。

 でも、何かが違う。何かが間違ってる。だけど、それが何なのかさっぱりわからない。自分がもう、わからなくなってき

た。

「そうしなければ、この世界の秩序は守れない。15年前のことは君も知っているだろう。この町に初めて聖女が現れた、

あのことは」

「ある日突然現れた聖女さまが、『水』をこの町の人々にくまなく与えたという話ですね。もちろん、知っています」

 当然のように彼女は答えた。そう、誰でも知っている話だ。ねじ曲げられ、きれいに脚色されて、連中が喜びそうなもの

に加工されているが。

「そう、そして治安は大きく乱れ、我々はその収集にてこずった。数百人もの人間が仕事を放棄したのだからな。あの時

は、臨時措置としてやむなく何もなかったことにしたが」

 みんなここまでは知っている。重要なのは、その先だ。

「では、その聖女がどうなったのかを知っているか?」

「いえ……。治安維持軍の人に連れて行かれたと聞きましたが」

 ここから先は、判で押したように誰も知らない。物語のラストは、いつの日か再び聖女が現れるだろうという予言で終わ

っている。

「その通りだ。だが、彼女を我々が確保した時、すでに彼女は力を使い果たしていた。もはや『水』の一滴も出すことので

きないほどにな。そしてその最後を看取ったのが、彼だ」

 男が俺を見る。冷徹な目、それが求めているものは明らかだ。澄んだ目、それが求めているものも、明らか。

 俺に喋れって言うんだな、あの時のことを?

 わかったよ。

「……その人は、俺の姉さんだった」

 ぽつりとつぶやくように言った言葉に、彼女の目が見開かれる。

「姉さんのところに行きたくても、連中に囲まれて行けなかった。ようやく行けたときは、もう姉さんは死ぬ寸前だった。そ

れでも笑顔で、満足したような顔をしてたよ。きっと、誰かが私の意志を継いでくれるって」

 次第に声が大きくなってくるのを感じた。あの時感じた怒りが、言葉に混じって騒ぎ出す。

「だけど、結局姉さんがやったことは、全部無駄だったんだ! 連中は何も変わりやしなかった。あいつらにとっちゃ姉さ

んの命は、エルの実一つ分ぐらいしか価値がなかったんだ!」

「そう、だったんですか……」

 彼女はどことなく寂しそうな、悲しそうな目をした。きっと、今までの俺の不可解な行動の理由もわかったろう。

「だからあんたを見たときイライラしたんだよ。このままじゃまた同じことの繰り返しになるってな。また、一人の命が無駄

になるって思って――」

 そして言葉は絶えた。

 俺と彼女はお互いの目を見合ったまま、動かない。

 その目の中に浮かんでいるのは、深い悲しみか、絶望か、哀れみか。どれにしたって、ロクなもんじゃない。

 だけど気のせいか。その奥に、一瞬光のようなものが見えたのは。

 男が席を立ち、沈黙を終わらせた。

「ご苦労だった。だが、結局は同じことだ。今回は我々の処置が早かったおかげでたいした混乱もなく、一人殺すだけで

全て解決だ」

「一人……殺すって!?」

 驚く俺を見ようともせず、男は出口に向かって歩んでいく。

「処刑は明日の正午丁度に、公開処刑という形で行う。以上だ」

「待てっ、まだ話は終わってないぞっ!」

 重く閉じられた扉が、その声を妨げた。もう、声は届かない。

「さぁ、来い」

 兵士が彼女を連れて行こうとする。彼女は、おとなしくそれに従った。

 俺にできることは、その後ろ姿を見送ることだけ。

 やるせなさが胸に満ちていた。結局、俺はまた助けられなかったんだ。同じことの繰り返し。15年前と、結末はまるで

変わってない。

「バカみてぇだ」

 口の中で、そうつぶやいた。それが聞こえたのかどうか、彼女は扉から外に出る寸前で立ち止まった。

振り返り、俺の顔を見ながら、言う。

「でも、私は」

 どうしてこんな時に、と思うような笑顔を彼女は俺に見せた。まるで曇りのない、きれいな微笑みだった。姉さんの、よう

な。

「あなたのお姉さまのしたことも、わたしのしたことも、無駄じゃなかったと思います」

「え……?」

 それだけだった。彼女は、扉の向こうに消えていった。

「さぁ、お前はこっちだ」

 彼女とは逆側に引っ張られながら俺は、彼女の最後の言葉を頭の中で繰り返していた。



 太陽が、もっともその力を振るう時間帯。

 広場に設けられた処刑場には、多くの人だかりができていた。

 聖女が処刑されるという話が、治安維持軍により伝えられたからだ。

 仕事に行く前の連中、もう終わった連中、さすがに仕事中の連中はいないようだが、この滅多にないイベントを一目見

ようと集まってきたらしい。

 聞きたくもない声が、勝手に耳に入ってくる。

「あーあ、もったいねぇなぁ。なんでまた殺しちまうのかね」

「くそっ、俺まだ『水』飲んでねぇぞ。昨日の連中がうらやましいねぇ」

「へへ、『水』、うまかったぜぇ。生き返った気分だったよ」

 下卑た声だ。イライラする。こんな連中に『水』を与えたってだけで、彼女は死ななくちゃいけないのか。

 今すぐにでもこの連中を張り倒してやりたい衝動に駆られながら、俺は最前列で彼女を見ていた。

 彼女は、十字に組まれた木に縛り付けられて、空を見ている。

 もう、覚悟はできたとでも言うのだろうか。静かな顔をしていた。口元に、おだやかな笑みさえ浮かんでいるほど。

 あと、5分。

 治安維持軍はすっかり準備を完了しているらしい。

 合図さえあれば、いつでも殺せるというように男が立っている。

 そしてその合図を下す人間も、ひときわ高いところに特別に設けられた席に腰掛けている。もちろん、昨日の男だ。何

の関心もないような顔をして、細い目を彼女に向けていた。

 その手が上がって下りれば、処刑が終わる。それだけのことだ。

 残り、3分ほど。

 今まで、こんなに長く時間を感じたことはない。

 広場に設けられた時計の秒針が、カチッ、カチッと音を立てるたびに背筋に冷たいものを感じる。

 もうすぐ、もうすぐだ。俺にはもう、どうしようもないのか。何もできないのか。彼女のために、何か――

 男が立ち上がった。

 静まり返る広場。ひそひそと、ささやき声が聞こえる程度になった。

 彼女は、変わらずに空を見ていた。

 空。俺たちを焼く太陽が支配する世界。恨みや憎しみを込めた目でしか見たことのない空を、彼女は微笑んで見上げ

ている。

 いま彼女は、何を思っているんだろう?

 自分のこと、家族のこと、友達のこと。きっと、色々と考えてるに違いない。いや、もしかしたら何も考えてないのかもし

れない。

 なんであんなに微笑んでいられるんだろう。自分の死が、目の前だっていうのに。

まるで、姉さんみたいじゃないか……。

 このまま、彼女は銃で撃ち抜かれても笑顔で死んでいくんだろうか。

 そんなバカなことが許されるのか?

 俺はここでじっと見ているしかないのか?

 何か俺に、できることがあるんじゃないのか?

 脅迫されるようにそんな思いが頭を駆け巡っていた。

 しかし、時間は止まらない。

 男がついに手を上げた。さらに静まりかえる人の波。その中で、確かに感じる奇妙な雰囲気がある。何か自分たちに

いい奇跡が起こるんじゃないかという、いやらしい期待感が足元をくすぐるように満ちていた。

 そんな都合のいい奇跡なんか起こるわけがない。いや、起こしちゃいけない。正直、さっきからの彼女を見ていて俺も

何かを感じてはいた。でもそれは、連中が考えてるようなことじゃなく。

 何か、すごく大切なことを彼女が伝えようとしているような気がして。

 俺はもう、限界だった。

 この連中と一緒にいることも、男が手を振り下ろすのを待つのも、自分の気持ちを押さえ込むのも、何よりも彼女の死

を見るのも。

 嫌だったから、俺は飛び出した。

「キサマ、待てっ!」

 突然のことに驚きながら、兵士が俺に向かって叫ぶ。銃を俺に向け、照準を合わせる音がしたが、俺は関係なく彼女に

向かって走っていく。

 ダンッ!

 銃声が響いた。

 百発百中の、あの弾丸が俺をめがけてすっ飛んでくる。どうやってもよけれやしないだろう。一発食らえば間違いなく死

ねる。

 だが、弾は俺に当たらなかった。

 妙な軌道の後、弾は俺の足元に着弾した。どうやら、威嚇射撃だったらしい。弾をリロードする音がした。これ以上走れ

ば、間違いなく今度は殺されるだろうな。

 それでもいいかと思えた。死んでしまえば、何も見ないで済む。

 もう彼女の顔も、連中の顔も何もかも見ないでいい。それが俺にとっては一番楽なのかもしれない。 でも、ダメだ。俺は

彼女をやっぱり助けたい。

 あと30Mが地平線の彼方みたいに遠くに感じられる。一歩一歩が、足かせでもつけられてるのかと思うぐらい重い。

 それでも、彼女を目指して全力で走る。あと少し、あと。

 不意に、視線を感じた。

 視線の主を見る、あいつだ。高台に立って、手を上げている男。こちらを見て、しかし表情は凍ったまま。

 まさか。

 時計を見る。

 秒針が頂点に向かって進んでいく。進んでいく。進んで――

 男の手が。

 無情に振り下ろされた。



「結局、何も起こらなかったなぁ」

「まぁあんなもんだろ。久々に面白いもん見れたんだからいいじゃんよ」

「ちげぇねぇ」

 そんな会話をしながら、消えていく男たち。

 その中には、昨日彼女から『水』をもらった顔もある。

 畜生め。

 これを見て、何とも思わないのか。

 十字に組まれた木に張り付けにされて、胸を撃ち抜かれて死んでいる彼女を見て。そして、最後の顔までやはり笑顔

だった彼女を見て。

 お前らが思うのは、そんなことなのか?

 ほら、やっぱり無駄だった。君のやったことは無駄だったんだよ。連中は何も変わりやしない。ただ奪うだけ。奪えなくな

れば、興味を失って他の獲物を探しに行くだけ。

 彼女を木に縛り付けている縄を取り去ってやる。どさりと、支えを失った体が俺にのしかかってくる。

 軽かった。

 そっと、彼女を横たえてやる。

 もう兵士たちも撤収の準備にかかっていた。手を下ろした男の姿はもうとっくに消えている。全てが、彼女を忘れ去ろう

としていた。明日からは何事もなかったかのように、またあの生活が繰り返されるだろう。

「ごめん」

 ぽつりと、そんな言葉が出た。

 君はみんなを助けようとしてくれたのに、結局は姉さんと同じ目に合わせてしまった。もう二度と、あんなことにならない

ようにと思ったのに。

 俺はまた、守りきれなかった。

 無力だ。どうして俺はこんなに無力なんだろう。

「ごめん……ごめん」

 謝ることしかできない。

 せめて、俺だけでも彼女のために謝ろう。

 無力な俺には、それぐらいしかできることがないから。

 ぽたり。

「え?」

 彼女の頬に、何が落ちた。

 『水』だ。『水』が、彼女の頬を伝って落ちていく。

 ぽたり。

 また一滴、彼女の頬に『水』が落ちた。

「あ…れ…」

 何でだろう、彼女の顔が歪んで見える。

 俺はやっと気がついた。俺の目から、『水』が流れていることに。それが、俺の頬を伝って、彼女へと零れ落ちていく。

 俺が――何の力もない俺が、『水』を生み出しているっていうのか?

『ほら、無駄じゃなかったでしょ』

 不意に、彼女の声がしたような気がした。同時に、懐かしい声も。

「姉さん?」

 空を見上げる。

 そこには、彼女とそして、姉さんの姿があった。

 二人とも笑顔で俺を見つめていた。とても、幸せそうに見えた。

「無駄じゃ、なかった?」

 どういうことだ。俺の、この『水』が二人の望んでいたことだと?

 二人は答えない。ただ、ゆっくりと頷いた。そして二人は手を繋ぎ、空へと弧を描いて飛んでいく。

 俺はその光景を、目から『水』を流しながら見ていた。

 やがて、二人の姿が空の彼方に消えた時――

 空に、変化が現れた。

「おぉっ、なんだありゃ!?」

 誰かが声を上げ、空を指差す。それにつられて空を見た連中も同様に、驚きの声を上げた。

 空に、変なものが現れたからだ。

 今まで誰も見たことがない、とてつもなく大きな黒い何かだ。誰も、空には太陽以外に見たことはない。あっという間に

空を覆いつくしたそれに、誰もが恐怖と不安を感じていた。

 だが、それは杞憂に終わる。

 ぽつぽつと、何ががその黒いものから落ちてくる。自分の体についたそれを、始めは誰もなんなのか理解できなかっ

た。

 だが、時間が経つにつれてその何かの量が増えてくる。

 誰かが、気づいた。

「み、『水』だっ! 『水』が空から降ってきてるんだ!」

 その勢いは、どんどんと強くなっていく。

 そして雨が強くなればなるほど、人の数もますます増えていく。

 誰もが降り注ぐ『水』の下で喜びの声をあげる。

 まるで全ての人の渇きが満たされたかのように、町はかつてないほど歓喜に満ちあふれていた。誰もが与えられた仕

事を放棄し、『水』を求めて外に飛び出してくる。

 肌の黒いも白いも関係ない。誰もが、『水』を――

 感じていた。



「おぉーい、サブロク! そろそろ仕事の時間なんだからよ、手短になー」

 運転席のサニーが、助手席から飛び出した俺に向かって叫ぶ。

「わかってるよ! 少しだけ待ってろ、すぐ戻るから」

 走る。柔らかい草の感触と、穏やかな太陽の光を感じながら。

 俺は、走っていた。

 あの空から降ってきた『水』――『雨』は、結局七日七晩降り続いた。渇ききった世界は、その全てを飲み込み、大地に

蓄えた。

 そして、全てがが蘇った。

 川が流れ、草が生え、空に雲が漂う。この劇的な変化に、エルドラドの執行部はこの地を特別保護区と指定し、総力を

挙げてこの大地の復活に力を入れ出した。

 もともとこの地で働いていた俺たちは、そのまま作業班としてそっくり抱え上げられ、色々な仕事をしている。前のあ

の、単調でくだらない仕事と比べるともう、天地の差がつくぐらいに今は充実している。

 それもかれも。

「――君と姉さんのおかげだ」

 俺は、小高い岡の上にそっと置かれた石に手を合わせながら、言った。

 ここには、彼女と姉さんが眠っている。

 あれだけの奇跡を起こしたというのに、ずいぶんな扱いだなとは思ったけれど、彼女たちにはこっちのほうが似合って

いるような気がしていた。

 結局、『雨』はただの自然現象だとされ、彼女たちには何の関係もないとされてしまった。でも実際のところ、誰もそんな

風に思っているヤツはいやしない。

「おぉい、サブロクっ! 置いてくぞ、もう限界だっての!」

 バンバンとドアを叩きながら叫ぶサニー。せっかくの墓参りがまったく台無しだ。

「うるさいなー、だいたい自分が遅れてきたくせに、人に急げって言うのはどうかと思うぞ?」

「ぐ……。と、とにかくはよ行かねぇと、監督官にぶっ殺されるぞ!?」

 はーいはいと手を振って適当に答える。サニーはそれで沈黙した。ささやかな勝利に、口の端をゆがませながら、お墓

のほうに向き直る。

「それじゃ、行ってくるよ」

 この丘から見える景色を、もっときれいなものにするために。誰もが与え合うことができるような世界を作り上げるため

に。

 俺たちがやるべきことは、あまりにも多い。でも、一つ一つ、確かに乗り越えていけばいい。それだけのことだ。

 背を向けて、走り出す。サニーのすさまじい顔が目に入って、俺はまた笑った。その俺の笑顔を見て、すさまじい顔がさ

らにすさまじくなる。

 笑い声が、空に響く。

 その空に、二人の笑顔を見たような気がして。



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