孤独な、翼
FADE




 





 どこまでも深く、そして暗い森の中を俺はさまよっていた。

 高くそびえる木々が太陽の光すら拒絶している。その隙間を通り抜けてくる光はごくわずかで、ろくに前すら見えないこ

の森の中で、ただ俺はさまようだけ。

 なぜこんなところを歩いているのだろう。いやそもそも、どこから俺はこの場所に来たんだろう。それすらもまるでわから

ない。

 気が付いた時には、ここを歩いていた。

 木々の間を風が通り抜ける。何かの叫び声のような不気味な音を立てて、それは俺のすぐ側を通り抜けていった。そ

の風があまりにも冷たかったために、俺は思わず体を震わせた。

 風だけじゃない。辺り一面に広がる森の光景もまた冷たく、薄暗さもまた冷たい。果ては、かすかに届く太陽の光さえも

が冷たく感じられる。ここでは、何もかもが冷たく感じられた。

 あぁ、寒い…。なぜ、こんなところを歩いているんだろう?

 だが、それに答えてくれるものは何もなかった。ここにいるのは俺一人。あとは無限に広がっているかのようなこの冷

たい世界があるだけなのだから。

 歯ががちがちとなり始める。吐く息が白い。立ち止まったら、凍えて死んでしまうかもしれない。それほどまでに寒かっ

た。

俺は歩き続けた。しかし何も変わらない。景色すら変わらない。ただ同じ場所で足踏みをしているのかと錯覚するぐらい

に何も変わらない。

足が重くなってきた。もうかなりの距離を歩いたはずだ。しかも、ここはコンクリートで舗装された道じゃなく、獣が通るよう

な、道なき道なんだから。足の疲労は極限にまで達し、まるで鉛かなにかになったかのようにただ重い。

もう、歩くのをやめようか? 疲れに屈し、そんなことを考え始めた時だった。

「歩け、歩け、歩け、歩け、歩け、歩け…」

 不意に、そんな声が響いた。頭上からだ。見上げればそこには数え切れないほどの鳥たちが、俺のいるあたりを中心

に飛んでいた。様々な色の羽をもった鳥たちだった。そして、その口から『歩け』と繰り返していた。

 正直、恐ろしくなった。鳥が喋るなんて、常軌を逸していることだ。しかも、俺を中心として飛びつづけている。まるで俺

を監視しているようだ。こんな冷たく限りない世界の中で歩くこと自体、ただでさえ恐ろしいというのに、それに拍車をか

けるように現れた声。俺の背筋に冷たいものが流れ落ちていった。

 だが、その声は鳥たちに留まらなかった。段々と、その声が聞こえる位置が降下し、広がっていく。空を飛んでいる鳥

たちに加えて、木にとまっている虫たちが、森に生息する動物たちが、俺に向かってこう言う。

「歩け、歩け、歩け、歩け、歩け、歩け、歩け、歩け、歩け、歩け、歩け、歩け…」

 ただ淡々と無感情に繰り返されるその『歩け』のコーラスに、俺は背筋に汗をかくどころか、そのうち全身ががたがたと

震えるようにまでなり始めた。そして、それはついには足元からさえ聞こえ始める。地面に生息するダニなどの微生物ま

でもが俺に『歩け』と言い始めたのだ。

「う、うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 繰り返されるその言葉に、理性のタガが外れ、声の限り叫びながら俺は駆け出した。歩くなんて悠長なことはしていら

れない。恐怖が疲労のあまりに鉛のように重く感じられた足すら持ち上げる。ただただ、この『歩け』の大合唱から逃げ

出したい、それだけを考えて走り続けた。木の根に足を取られて転んでも、何かで引っかき傷を作ろうとも、走り続けた。

すると、眩しいほどに光り輝く何か、天国のようなものの入り口かと思わせるようなものが現れた。そこから俺に向かって

くる光は、暖かく優しい。まるで地獄にたらされた一本のくもの糸のようにすら思われた。俺は全身の力を総動員して最

後のスパートをかけ、その場所へと飛び込んだ。

 果たして、そこは天国のような場所だった。

 いや、実際はただの開けた場所だったのだろう。しかし、あの暗く恐ろしい森の中を駆け抜けてきた俺には何よりの場

所だった。もう、あの『歩け』のコーラスも聞こえてこない。危機を脱したんだと感じた。

 それを認識すると、途端に気が楽になった。俺は全力で駆け、疲れ果てた体を仰向けに放り出す。地面に生えた草の

匂いに抱かれ、流れていく雲を見つめて、全身で暖かな太陽の光を感じる。なんだか、一人だけ世界から取り残されて

いるような錯覚すらした。時がまるで止まっているような―そんな感覚。

ふと、俺は誰かの視線に気付いた。俺を見詰める、優しい視線に。俺は体を起こすと、その人を見た。思わずどきっとし

た。その人は女だった。俺と同年齢ぐらいの女の子。透けるような白い肌、澄んだ黒い瞳、長くて美しい黒髪の、白いワ

ンピースを着た女の子。幻想的とすら言える雰囲気を帯びた、まるで人形のように美しい女の子だった。なぜこんな子が

こんなところにいるのだろう?

彼女は座っていた石から立ち上がり、俺のほうへ歩み寄ってくる。その顔は喜びに満ち溢れ、もとから美しいその顔が、

さらに美しく輝いているかのように感じられた。彼女は俺のすぐ側にまで近づき、そして立ち止まった。

「君は…? 誰?」

 だけども、彼女はその言葉に答えようとはしない。

「待ってた…。あなたが来るのを…」

 そして彼女は俺の背に手を回し、俺の胸にその顔を寄せる。突然の彼女の行動に、俺の胸は急速に高鳴り、顔は真っ

赤になった。しばらくその状態が続く。俺は何も出来なかった。言葉を発することも、指一つ動かすことも。今まで、女の

人にこんなことをされたことなんて一度もない。無理もなかった。  そんな瞬間に、俺は意識が遠のいていくのを感じた。

 深い海の底に向かって沈んでいくように、少しずつ世界は暗くなっていく。俺の体はまるで幽霊のようになり、俺を抱き

しめていた彼女の手は、掴むべきものを見失って空を切る。そして、体と同様に俺の意識もまた薄れていく。

 意識が完全に落ちる瞬間、彼女と目が合う。その目を見た俺の心は、なぜか、別れたくないと思っていた。

 そして俺は彼女の目に、寂しさを見出したような気がした。錯覚かもしれないが、そんな気がした。そして、その目がこ

う俺に告げているかのようだった。

『大丈夫…。また、会えるよ』







 キーン、コーン、カーン、コーン…

 授業の終わりを告げるその音が、どうやら俺を現実に引き戻したらしい。気がつけば、俺は机に突っ伏した格好だっ

た。居眠りをしていたようだった。

 妙な夢だった。まるであの全力疾走が後を引いているかのように、全身がひどくだるい。おまけに、あの少女とのやり

取り…いったい、どういうことなんだろうか。

 ただの夢…で片付けていいのだろうか?

 そこでふと妙なことに気がついた。

 いつ眠くなって、寝ようと思って腕の枕を下に寝ようとしたのか思い出せない。唐突に意識を失って、唐突に目覚めた

―そんな感じだった。

 思わず隣の席のやつに聞いてみる。

「なぁ、俺…寝てたか?」

 すると相手は怪訝そうな表情になった後、

「何言ってんだ? あんだけ気持ちよさそうに熟睡しといてよ。竹中が睨んでたぜ」

 竹中というのは、国語の教師で、さっき授業をしていた男だ。あまり生徒に関心を払わないタイプだった。何かを思って

も、何も言わない。でもそれがだいたい目の調子でわかるために嫌われている男だ。

 まぁ、それはともかくとして。どうやらやはり俺は熟睡していたみたいだ。俺が依然納得のいかない顔をしていると、そ

んなことはどうでもいい、といった調子で隣の席の男―前川が話し掛けてくる。

「なぁ、それよりもさ。次の数学の宿題やってきたか? もちろんやってきたよな? なんせお前、一度も宿題とかそういう

の忘れたことないもんな」

 どうやら完全に俺の解答を当てにして自分はまるでやってこなかったらしい。少し腹も立つが、別にいつものことなので

ノートを取りだし、渡してやる。前川はサンキュー、と言うや否や、すぐにそれを写し始めた。

 宿題とか、そういうの忘れたことない…か。不意に前川のその一言が引っかかった。実際、本当に宿題なんかを忘れ

たことはなく、毎日しっかりとやっているためか学校での成績も優秀だった。テスト前なんかは、対策を聞きに俺のところ

に人が集まるくらいだ。

 よく人に聞かれる。なんでそんなに勉強してんだ?

 その問いに対して、俺はいつも適当にあやふやな言葉で返していた。自分のことを話すのは嫌いだったし、それに正

直には言いたくもない。なぜなら、実際のところの解答はこうだったからだ。

 何もやることがないからだよ―



   放課後、帰り道。

 いつもなら教室でクラスメートとだべって、日が暮れる前ぐらいには帰るんだが、今日はあの夢のことがどうにも頭から

離れず、すぐに帰ることにした。

「あの子…かわいかったなぁ」

 まるで人形のような美しい少女。特に、あの純粋さをまったく失っていない目が印象に残った。そんな子が自分に抱き

着いてくるなんて…。これはどういうことだ?

 とはいえ、俺はフロイトの本なんざ読んだことはない。夢分析なんて、出来るはずもないんだが、よく言われているよう

に、いわゆる欲求不満なのかな? なんて考えてしまう。別にそっちの方面にはさほど興味がないつもりだけど…。

 でもそんなこと以上にあの夢にはなにか意味があるような気がしてならない。夢の前半部での森の疾走なんて、何の

意味があるんだろう?

「あぁ、やめやめ! どうせこんなこと考えても俺にはわかりゃしないしな…」

 そんな風に独り言をつぶやいては考えるのをやめようとするんだが、やはり拭い去れない。まるで自分の頭にへばり

ついたかのように、消すことができなかった。

 結局、電車に乗って、家に着くまでの1時間ほど、そのことばかり考えていた。もちろん、答えが出るわけもなかったけ

ど。

 とにかく、家に着いた。いつもなら7時過ぎに帰るのに、今日は5時。家にいた母さんも驚いたらしい。何かあったのだ

ろうかと、心配そうな顔をして台所から出てくる。台所のほうからは美味しそうな匂い。酷いことを言うようだが、手の込

んだ料理を作る以外に能がないこの人らしく、今日もまた手の込んだものを作っていたらしい。それはそれで結構だけ

ど。

「どうしたの? ずいぶん今日は早いみたいね…」

「…うん、まぁね。たまにはこんな時もあるよ」

「お腹すいたなら、何か作ろうか?」

 何か、俺のことを心配しているかのような口調でいう母さん。だけど今はそれが少し煩わしい。

「いや、いいよ…。ご飯、出来たら呼んで。部屋にいるから」

 適当に母さんをあしらい、心配そうな視線を背中に受けながら俺は階段を上り、二階の自分の部屋へ。母さんがやっ

たのか、すこし散らかっていた部屋がこざっぱりと片付けられていた。それに感謝しつつ、ドアを閉めてカギをかけると、

そのまま倒れこむようにベットに横になった。

 特にやることもない。ふと机に目をやると、読みかけの小説があったので、それを手にとって読み始める。でも、内容は

まるで頭の中に入っていなかった。

 どうしても、彼女のことが頭から離れなかったからだ。ここまで気になると、逆に苛立ってくる。なぜ、こんなにも気にな

るんだろう?

 何を判断するにも情報が足りなさ過ぎた。彼女のことを、俺は何も知らない。また眠れば、彼女は俺の前に現れるだろ

うか? けれど、今は不思議なほど目が冴えて眠ろうと言う気もしなかった。

 そうして、ただただ時間が流れていく。まるで自分がその流れから取り残されたかのような錯覚すら感じながら…。

 こんこん。

 不意に、ドアをノックする音が聞こえた。

「一真…? 夕飯、出来たわよ? はやく来なさい。お父さんも、もう帰ってきてるんだから…」

 半ば眠っていたかのような俺の意識は、その声で現実に引き戻された。どうやらあれから二時間あまりも経っていたら

しい。ベットから体を起こし、体を伸ばす。小説はいつの間にか読み終わっていた。内容はほとんど覚えてないに等しい

けれど。

「ああ、わかった。今、行くよ」

 その俺の答えを聞くと、部屋の前から立ち去る母さん。それでもなんとなく動く気がしなくて、ぼぅっとベッドに腰掛けた

まま時間が過ぎるのを感じていた。

「一真〜〜〜!?」

 母さんの催促の声が一階から響く。しょうがなく俺は適当に返事をし、ベッドから起き上がった。んん、と背筋を伸ばし、

部屋から出ると階段を下りていく。これから始まる、退屈な時間に耐える心構えをしながら。

 こんな風に言うと、両親が嫌いなのかと思われるかもしれない。だけれども、好きと言うわけでもなかった。自分を産ん

で、育ててくれたことには感謝してる。でも、それ以上ではない。

 なんと言えばいいんだろうか…。尊敬できない。それが、俺の両親に対する考えを一言で説明できる言葉だろう。

 父はごく普通のサラリーマン。この不況の時代に、いつ首を切られるかわからずに必死に働いている何の取り柄もな

い人だ。母はごく普通の主婦。ちょっと手のこんだ料理を作ることだけが取り柄だ。

 何の変哲もない普通の家庭。そんな中に育ってきた俺は、しかし普通ではなかった。この家庭の中で起こる普通の光

景に、違和感がする時点でそれは間違いない。一体いつから感じるようになったのか、きっかけはなんなのか。それは

よくわからないけれども。

 それでも、親は親だし、ここは俺が育ってきた家だ。否定するつもりはない。彼らには、彼らの生き方があるんだろう。

俺にはそれがわからないだけだ。

 もしかしたら、それが理解できるようになった時が、大人になった時なのかもしれないな…。

 そんなことを思いながら、両親との夕飯の時を過ごした。今日も、母さんの作る料理はおいしかった。







 夕飯の後、しばらくテレビを見ていると、ニュース速報で凶悪な殺人事件が発生したと言うテロップが画面の上の方に

流れた。

 どうやら、都心の駅前で無差別殺人が起こったらしい。犯人は19歳の男性。凶器はナイフ…。死者3名。怪我人は5名

らしい。

「またか…最近、多いな」

 そう言いながら、テレビのリモコンを手に、番組を変える父。どうやら詳細なニュースをやっているところがないか見るつ

もりらしい。ニュース番組をやっていたチャンネルで手を止め、しばらく待つ。

 父さんの言葉で気がついたが、ここ数年、いわゆる凶悪犯罪が多発している。それも、犯人はいずれも低年齢だ。自

分と同年代の人間が人を殺したと言うニュースを初めて見た時は、何かぞっとしたことを覚えている。

 テレビのニュースキャスターが、スタッフから渡された原稿を受け取ると、沈痛な面持ちで喋り始めた。先ほどのテロッ

プの内容に付け加えて、犯人に関することや被害者の名前などが述べられていき、しばらくすると、現場の映像も映し出

された。未だに残る大量の血痕が、事件の壮絶さを無言で示していた。

「こりゃあ…また、酷くやったもんだな」

 父さんがぽつりと言う。俺も食い入るようにその映像を見ていた。その内、病院に運ばれた怪我人の一人が亡くなった

というニュースが入る。これで、4人目だ。

 画面がスタジオに戻り、ニュースキャスターが、犯人に関する詳細を喋り始めた。

「容疑者の名前は、時任真治。無職。どうやらここしばらくは天使教の施設に出入りをしていたようです…。警察は、容疑

者と教団の関係について…」

 天使教。その言葉がいやに耳に残った。ここ最近、よく聞く名前だ。

「また天使教か? たしか、この前の事件も天使教の信者だったんじゃないか?」

 俺は父さんの問いに適当に相槌を打って答える。この前の凶悪犯罪もたしか、天使教の人間の起こした事件だった。

教団は一切関係ないと主張し、警察の調査の結果、関係がないということも立証されていた。それなのに、また同じよう

な事件が起こった。これは偶然なんだろうか?

 天使教自体はかなり古い歴史を持つ宗教らしい。ヨーロッパの一部で信仰されており、最近になって日本にも入り込ん

できたが、あまり浸透してはいない。信者には若者が多く、その一部が最近こうした凶行に及んだことで、知名度が一気

に上がった。不名誉な知名度だけれども。

 別に教義などに危険なものが含まれているわけでもない。洗脳だとかそうしたことをやっているわけでもない。彼らが

言うのはただ一つ。やがてこの世に蘇る天使によって、世界は正しい方向へ導かれる。それだけだ。

「まったく、最近は物騒になったな…。俺がガキの頃は、こんな事件が起きることは本当に滅多にしかなかったのにな。

最近じゃ、そう珍しくもない」

「やぁねぇ…。どうしてこんなことが起こるのかしら…」

 父さんと母さんが昔を思い起こしながらそんなことを呟く。当たり前だ。時代が違うのだから。今は不況の時代。暗いも

やが国全体にかかっているような時代だ。それに付け加えて、述べきれないほどの様々な原因がある。この先、こういっ

た凶悪犯罪はますます増えていくんだろうな。

 そうは思っても、俺にはどうでもいいことだった。そんな怠惰な時間を過ごしていると、不意に眠気を感じた。色々考え

すぎて、疲れたのかもしれない。

 そして、俺はソファーから立ち上がり、テレビに背を向ける。

「あら…? 一真、どうしたの?」

「もう寝るよ。なんだか調子が悪くてさ」

 嘘だった。別に調子が悪いことなんてない。ただここでこうしているよりも、早く眠って、彼女と会って話をしてみたい。そ

れだけだった。

 心配する二人と適当に言葉を交わし、俺はリビングを出、真っ直ぐに部屋へと向かった。いつもより早足気味になって

いる自分に、思わず苦笑する。

(あんな今日の昼に、しかも夢の中であったようなヤツに会いたいからってこんなに心が急くなんて、な)

 高まる高揚。微かな期待。これが指し示すものは?

(あいつのことを、俺が好きになったとでも?)

 その考えに、思わず再び苦笑していた。

(面白いな…。今まで、誰にも恋愛感情なんて抱かなかったのに。実在するのかどうかさえわからないんだぞ? …それ

だけ、あの娘が可愛かったってことか? それとも…)

 それとも、何なんだろう? 自分で言いかけておいて、今ひとつよくわからなかった。そんなことを考えているうちに、部

屋に着いていた。とりあえず、服を着替えベッドに横になる。今日は部屋がむっとしていて、何だか暑かった。

 目を閉じる。…が、何となく眠れない。眠気は感じても、何となく眠れないのだ。

 そのままの格好で物思いに耽る。ちらりと時計に目をやると、9時半を指していた。いつもなら、予習と復習をやってい

る時間帯だ。でもそれすら今日はやる気にならない。

 物思いに耽るといっても、どうせ考えることはあの少女のことだった。しかも、結論は出ないまま、同じことを繰り返すだ

け。情報が足りなさ過ぎる。もっと、彼女のことを知りたかった。

 繰り返される思考の中で、気がつくと眠りに落ちかけていた。人間、目をつぶっていれば、勝手に眠れるものだな、と改

めて思った。

そのまま、眠気にまかせて夢の中へと落ちていく。彼女にまた会えることを、期待しながら…。







 世界が一瞬、真っ白になる。全てが白く、ただ白く。

 それはまるで自分を縛り付けていた現実と言う世界を消し去るかのように、白く。

 そして再び彩りが世界に満ちた時、俺が再び目を見開いた時。

 俺の前に、再びあの少女の姿があった。

「こんにちは。また会えたね?」

 突然現れただろう俺に、彼女は動揺など少しもすることなく、声をかけてきた。場所は変わらず、あの森の中の開けた

場所。不思議なことに、日が完全に沈んでいた時間帯だったにも関わらず、この世界はまったくの昼間そのものだった。

 彼女とこの夢の世界の光景に驚きを感じながらも、俺はさっそく彼女に問いただしてみる。

「君は…何者なんだ? どうして俺の夢に出て来るんだ?」

 だが彼女は、俺の言葉に答えることもなく、ゆっくりとその視線を遥かな空に向けると、穏やかな笑みをたたえながら、

言った。

「雲ひとつない、きれいな空だね…。そう、思わない?」

 彼女の突然の言葉に、思わず眉をひそめるが、とりあえず彼女の言う空を俺も眺めてみる。確かに、きれいな空だっ

た。

「あぁ、そう…思うけど?」

 それがどうしたというのだろう?

「本当に…きれいだよね」

 そう言って、彼女はその視線を空に向けたまま、次の言葉を発しようとしない。

 聞きたいことは山のようにあったけど、彼女が俺に空を、自分と同じように見て欲しいのではないかと思い、俺も何も言

わずに空を見上げた。

 どこまでも広く、そして蒼い空。そこから降り注ぐ、暖かな日差し。常に俺たちの上にあって、常に俺たちを包んでいる、

空。

 なぜ、彼女は俺にこれを見せたいんだろう…?

 空を見上げながら、俺はちらりちらりと彼女の横顔をうかがった。その視線はぴくりとも動くことなく、遠い空を見詰めて

いた。そして、その横顔は美しかった。

 そう、美しかった。その顔自体美しいのだから、当然美しいに決まっているんだけれど、その美しさは、それだけでは

説明がつかないように思われた。

 いつの間にか、俺の中にあった疑問の数々は影を潜め、ただただこの少女との奇妙な、しかし心地よい時間の共有を

楽しんでいた。ゆっくりと、時が過ぎていく…。

「ねぇ」

 唐突に、彼女が切り出した。空は、いつの間にか赤々と染まっていた。

「空を見て…どう思う?」

「どうって、別に…。きれいだなぁ、ってぐらいしか」

 彼女は空を見詰めたまま、だけど一瞬その瞳に暗い影のようなものが走った。

「…空を見ていて、何か強い哀愁のようなものを感じたりすることはない?」

 哀愁…? 別に、そんなことは思わない。とは言えなかった。事実、空を見上げると、何か言い知れぬ悲しみに似たよう

な感情が俺の心を突き抜けることがある。何が原因なのか、そんなことはわからないけど。

「あぁ…。時々、ね」

 彼女はゆっくりと俺の方を向き、そして俺の瞳を見詰めた。

 その眼に、思わず俺はどきっとした。いつの間にか夕焼けに変わり始めた空が、彼女の美しさと、そして―儚さのよう

なものをさらに際立たせているように思えた。そして、それと同時に全てを見透かされているかのような錯覚も覚えた。

 その推測は間違っていなかったのだろう。彼女は、にこりと笑い、そして言った。

「ありがとう…。キミはやっぱり、私の探してた人だった」

「…? どういうこと?」

 だが彼女はやはり答えない。微かな沈黙の後、微かな憂いを込めて彼女は言う。

「ううん、気にしないで…」

 俺は、その言葉通りにそれ以上は何も聞かなかった。その様子に、彼女はまた言葉を紡ぐ。暖かな、微笑みを湛えな

がら。

「優しいね…キミは」

 その言葉に、少し驚いた。今まで、そんなこと言われたこともなかったから。無愛想だとかそういうことなら、色々影で言

われたこともあったけれど。

「…別に、優しくなんてないよ」

 正直な気持ちだった。でも、彼女はそれを否定する。

「優しいよ…。そうでなかったら、私なんかと付き合ってくれないもの」

「そんなことないよ。…君になら、誰だって優しくなるさ」

 本心から出た言葉だったけれど、彼女はまた微笑みながら、言う。

「ありがとう…」

 その言葉と、その笑顔に何となく気恥ずかしいものを感じて、押し黙ってしまう。そのまま、二人とも言葉を交わすこと

なく、空を見上げていた。

 赤々と染まる空が、さっきよりも美しく感じられた。

 そして、ゆっくりと太陽が沈んでいき、夜が訪れようとした時、彼女がゆっくりと口を開く。

「そろそろ、お別れだね。もう、時間が来ちゃったから…」

 この夢から覚める時が来たと言う事だろうか。まだ、何も答えを聞いていないというのに…。まだ、彼女の名前すら知ら

ないのに。

 まだ、別れたくない。もっと彼女のことを知りたい。

 気が付けば、俺はそう思っていた。そして、俺の口は彼女に、勝手にこう言った。

「なぁ…。また、会えるかな?」

 その言葉に彼女は少し驚いた様子を見せたけれども、すぐに俺に今日一番の微笑を見せ、大きく頷きながら、

「うん…。キミが私に会いたいと思えば、いくらでも…ね」

 と言った。それだけで、俺には十分だった。

 その言葉を聞くや、俺の存在はこの夢の世界から遠のいていく…。少しずつ、姿が薄れ、意識が薄れていく。また会え

ると、確信をもちながら。

 俺の存在は、霧散した。







 それからの日々、彼女は俺が眠る度に俺の前に現れた。

 俺が眠ってから目覚めるまでの間、俺たちはほぼ毎日のように“会って”いた。

 でも別に変化があるわけでもない。相変わらず彼女は俺にはよくわからないことを時々ぽつりぽつりと呟くだけ。後は、

ぼぅっと空を眺めることの繰り返し。

 けれど、相変わらず俺は彼女のことをよく知らなかった。

 実際、俺は彼女の名前すら知らないのだ。いや、知らないと言うか、なんというか…。俺は何となく、彼女に聞いてみた

けれど。

 彼女は、名前を持っていないと言った。理由はよくわからない。彼女は自分のことについて、多くのことを語ろうとはしな

かったから。

 ともかく言えることは、彼女は不思議な存在だと言うことだけだ。

 それでも、俺は満ち足りていた。現実から完全に切り離されているかのような、この世界と少女が俺に安らぎを与えてく

れる。現実では決して味わうことの出来ない充足感が俺を満たしてくれる。

 だから、俺は彼女を問い詰めることを避けた。この不思議な二人のバランスが崩れてしまうような事態だけは避けたか

ったからだ。俺はこの世界を、彼女を失いたくないと心から思っていた。

 そんな風にして、彼女と付き合い始めてから一ヶ月が過ぎた。

 ある日、いつものように透き通るような空を彼女と眺めていた時だった。

 彼女が俺の目をじっと見詰めていることに、俺は気がついた。

 それに気が付いて、彼女の方を見ても、彼女は目を逸らそうとしない。何か、それがくすぐったいような気持ちになっ

て、思わず口に出す。

「…どうかしたの?」

 だが、彼女は答えない。俺の目を見たまま、黙っている。そして、不意に視線を空へ戻すと、彼女はゆっくりとその想い

を口にした。

「私ね…ずっと、一人だったんだ」

 彼女は、どうやら自分のことを話そうとしているらしかった。付き合い始めて1ヶ月。初めて聞く、彼女の物語だった。

「生まれてすぐに捨てられちゃったみたいでね。赤ちゃんの頃も、子供の時も、少しだけ大人になった時も…。ずっと、ず

っと一人ぼっちだった。お父さんもお母さんもいない。友達もいない…」

 彼女の瞳が、悲しみを帯びる。その目から、彼女の悲しみがとてつもなく深いものであることが、よくわかる。俺は、だ

まって彼女の話に耳を傾けた。

「私ね、本当はすっごく甘えん坊なの。いつも誰かに構って欲しいって、心の底では思ってるのに、でも出来なくて…。い

つも、一人で泣いてた。何度泣いたのか、数え切れないぐらいに…」

 そして、彼女の瞳に一瞬、闇が広がる。

「だから、私…。捨ててしまったの。全部。何もかも…ね」

「…捨てた?」

「そう、捨ててしまったの…。悲しみに耐え切れずに。ただただ自由が欲しくて、たまらなくて…。でもそれは、自由じゃな

くって…」

 彼女の言っていることの意味がよくわからなかった。いや、まるでわからなかった。どういう…ことなんだろうか?

「ごめんね、わけのわからないことばかり言って…。ごめん…ね」

 そんな俺を見透かすかのように彼女はその話を続けることをやめた。一瞬、彼女の目に涙が見えたような気がした。

 一瞬の沈黙の後、彼女は思いつめたような表情をして、俺に言った。

「ねぇ…。私のこと、どう思う?」

 突然発せられたその問いに、思わず呆然としてしまう。それは…俺が、彼女のことを好きなのかどうかという意味か?

…そんなこと、言えるはずもない。

 その戸惑った俺の様子を察して、彼女は言い換えた。

「ごめん。言い方がまずかったね。…私のこと、何だと思う?」

「何だ、って…。そんなこといわれても…」

 正直戸惑っていた。今まで聞きたくても聞けなかったことを逆に聞かれたのだから。今までの二人のバランスが崩れ始

めたことを俺は感じていた。それゆえの戸惑いだった。

「お化けか何か、そんな感じのものだと思ってる?」

 自分を卑下するかのような言い方をする彼女。俺は、それをすぐに否定した。

「いや、そんなことないよ…。でも、確かに不思議な人だとは思うよ。なんで、君が俺の夢に現れるのかもわからない

し…」

 その答えに、ふふ、と微笑んだかと思うと、彼女はまたも俺を驚かせるようなことを言い出す。

「ねぇ、私に会ってみたいと思わない?」

 その意味がまたも理解できず、俺の戸惑いはさらに膨れ上がる。

「…会ってみたいって、どういうこと? 俺たち、会ってるじゃないか?」

 彼女は俺の言葉を、ゆっくりと首を横に振って否定した。

「夢の中じゃなくて、現実で…。私、生きてるのよ」

 生きている。この、少女が? 今まで、最も聞きたかったことだった。彼女は、俺が作り出した存在なのか、それとも違う

のか…? その最大の疑問が解かれた時、俺の口から、自然に言葉が飛び出していた。

「会って…みたいな」

 その言葉に自分で驚いた。この世界で会うことと、現実で会うことに何の違いがあるというんだ? この世界では肉体だ

って存在している、温もりすらあるのに。それなのに、俺の心は彼女に会いたいと叫んでいた。

 彼女は、その言葉に心からの笑顔を見せた。それは、今までで最も美しい笑顔だったかもしれない…。

「私も…あなたと、会いたい。待ってるから…。絶対、会いに来てね」

「会いに来て、って…。俺、君がいるところわからないよ?」

 俺のその言葉を、彼女はにこやかに否定した。

「大丈夫、わかるよ、きっと…。きっと、ね」

 その言葉を聞くや否や、俺の意識と存在が薄れるのを感じた。どうやら目覚めが近いらしい。まだ消えたくない…。彼

女に聞かなくちゃいけないことは、まだまだあるというのに。

「でも、きっと驚くと思うよ。私を見たら…」

 それが、最後に聞いた彼女の言葉だった。







 俺は、はっきりと頭が覚醒した状態で目を覚ました。眠っていたのかどうかさえわからないほど、頭が冴えていた。

 そして、俺は彼女の言葉を思い出す。

『私も…あなたと、会いたい。待ってるから…。絶対、会いに来てね』

 一体、彼女はどこにいると言うのだろう…? 何をたよりにすればいいのだろう? 何もわからない。でも、会わなくちゃ

―いや、会いたい。

 そう決めたら、後はもう早かった。とりあえず、服を着替えて一通り準備を整えると、父さんと母さんの驚きを無視して

家を飛び出す。

 本来なら平日だから、学校に行かなければならない。けれど、もう学校なんてどうでもよかった。今の自分にとって見れ

ば、何の価値もなかったから。

 とりあえず、家を離れて適当に街を巡ってみる。さすがにわからない。いや、こんなところを探し回ったところでどうなる

わけでもないのはわかってる。何か、手掛かりはないんだろうか…。

 俺と彼女を結ぶもの―あの、夢は?

 あの時広がっている光景はもしかしたら現実に存在しているんじゃないだろうか? しかし、森の中の少し開けた場所

なんて、探せばいくらでもあるだろうし、そんなものを一つ一つさがすわけにもいかない。

 しばらく、歩きながら俺は考え続けた。そこでふと、なぜ俺はあの少女と夢の中で会うことが出来るのかと思いついた。

 もしかしたら、俺と彼女の意識は無意識のうちに繋がっているのかもしれない―

 そんな突拍子もない考えが、ふと浮かぶ。だが、そうでなければ説明がつかない。それは、俺が眠っている時だけに起

こることなんだろうか? 起きている時には、何も起こらない―?

 彼女と出会ってからの一ヶ月間を思い起こしてみる。夢以外で、彼女の存在を感じたことはなかったか? あったような

気がする。いや、あったに違いない。

 要は、彼女を感じようとする俺の意思があれば彼女を感じられるはずだ。そしてその先に、彼女はきっといる。

 今はそれだけしか手段がなかった。俺は、彼女の存在を感じようと全意識を集中させる。あの目を、あの笑顔を、あの

少女の姿を思い浮かべる。俺と彼女しかいない世界を思い浮かべる。

 会いたい―ただ、それだけを祈った。強く、強く。

 すると突然、俺の意識はまるで俺の体から抜け出したかのような感覚に襲われた。世界が一瞬、真っ白な光に包ま

れ、その光は俺を包み、通り越していく。

感じる―彼女の存在を。光が過ぎ去っていった後、俺は確かに彼女を感じていた。

 そう遠くはない場所だ。それでも歩きだと相当かかるだろうけど。俺は不思議な感覚に包まれたまま、危なっかしく歩き

始めた。フラフラと、だが確実に一歩一歩踏みしめながら。

 様々な想いが交錯した。なぜ、俺は彼女に会いたいのか、だとか、俺の今まで築いてきた全てを捨てるようなことをし

てまで会う意味があるのか、だとか…。でも、理由はもう、わかっている。

俺が、彼女を愛してしまっていたから。ただ、それだけだ。その答えを胸に抱いた時、全ての迷いは俺の中から消滅し

た。

 どれほどの距離を歩いたのか…。正確にはわからないけれど、俺はその場所に辿り着くことが出来た。そこは都心か

ら少し離れたところに位置する、この辺りではもっとも高いだろうビルだった。

 だが、俺はそこでとんでもない衝撃を受けることになる。一体、どういうことなのかさっぱりわからず、頭の中がパニック

になりかける。

 その元凶はそのビルが…あの、天使教の本部ビルだったからだ。一ヶ月前のあの殺人事件が頭を過ぎる。なぜ、こん

なところに彼女がいるんだ?

 俺は間違えたのかと思った。彼女の存在を感じるところは別のところじゃないかと考えた。でも、そうではなかった。俺

は、彼女をこのビルの、それもかなり高いところから感じていた。最上階に近いところにいるのだろうか?

 わからなかった。彼女と天使教をイコールで結びつけることがまったく出来ない。彼女が言っていた、私に会ったら驚

く、というのはこういう意味なのか…?

 とりあえず、悩んでいても仕方がないと俺は決断した。覚悟を決めて、彼女に会おう。ただ、問題は彼と会うことが出来

るかどうかだけど…。入信しなければ会わさないとか、そんなようなことを言われたらどうする?

 悩んでいても仕方ないと思った瞬間にこれか。思わず自分に苦笑する。そして改めてビルを見上げる。このビルを全て

使っているのだろうか。話に聞いていたよりも、規模の大きい宗教なのかもしれない。

 けれど、そんなことは関係ない。

 彼女がここにいる。それだけでもう十分だった。

 俺は、本当に覚悟を決めてそのビルへと歩み寄る。入り口の自動ドアが開いて、暖房で暖まった空気が通り抜けてい

く。俺は、ゆっくりとビルの中へと入った。

 ビルの中は、予想していたよりも明るかった。怪しげな宗教と言う意識が先行していたために、中も相当怪しいんじゃ

ないかと思い込んでいたけど。

 まず目を引いたのは、ビルのホールの中央に置かれた大きな彫像。大きな翼を背に持った、人間の像だった。印象的

だったのは、その像がただ空を真っ直ぐに見詰めていたところだった。

 そして所々に、同じように羽の生えた人の絵がたくさんかけられていた。どれも同じものではなく、別々のものだ。これ

が彼らの言う天使…だろうか。描かれた彼らの姿は屈強な男性のものもあれば、知的で聡明そうな顔をしたもの、果て

は慈愛に満ちた女性のものも含まれていた。

 それらに目を取られていると、人の良さそうなおばさんが俺に声をかけてきた。

「おやまぁ、ずいぶんと熱心にご覧になられまして…。お気にいられました?」

 別に気に入ってない、と言おうとしたけれど、おばさんはこちらの返答を待つまでもなく続けて喋りだした。その目の中

に、俺は一種の狂信的なものを見た。

「これらの絵画や彫刻は、過去から現在にいたるまで、天使教に身を置いた芸術家たちが作ったものなんですよ。見て

の通り、作り手によって様々ですけどね、全てに共通しているのは、私たちのような弱い存在を導いてくださる強さを持っ

ているということなんです。…見て、わかるでしょう?」

 説明などされなくても、そんなことはわかる。同時に、それらがどうしようもない欺瞞に満ちたものであることも含めて。

このおばさんは気がつかないらしいが。

 俺はなおも話を続けようとするおばさんを制して、話を切り出した。

「ちょっとお聞きしたいんですが」

「はいはい、私にわかる範囲でしたらいくらでもお答えしますけど?」

 にこにこと、人の良さそうな顔を崩すことなくおばさんは言う。

「このビルの…おそらく、最上階にある少女がいると思うんですが…」

 そこまで言っただけで、笑顔だったおばさんの顔が一瞬色を失い、あからさまな作り笑いになった。彼女の存在は、ここ

の人間にとって、そこまで重要だということなのか?

「あの方に、何か御用でも…?」

「ええ、会いたいんです」

 俺は単刀直入に言った。回りくどい言い方をしてもしょうがない。むしろ、今の表情の変化からして、これが一番効果的

だろう。

「ちょ、ちょっと待っていただけますか? 私ではとても話にならないので…」

 あわててどこかへと姿を消すおばさん。俺の読みは当たったらしい。しばらく時間が経ち、眼鏡をかけた長身の男がや

ってきた。白く長いローブのようなものを着ている。先ほどからこの服を着ている人間がちらほらいるところからして、お

そらくこれが天使教に所属している人間のユニフォーム的なものなのだろう。

 男は俺の前に立つと、恭しく一礼をし、はっきりとした口調で話し始めた。

「私は教団の幹部を務めさせていただいております武藤と申します。…失礼ですが、あなたが言う、少女の話…。どこで

お聞きに?」

「…別に。あんたには関係ないだろう」

 なんとなく、あの夢の世界のことを口に出すのがためらわれた。あの世界は、二人だけのものにしておきたいというよ

うな衝動が起きたからだった。

「では、誰か人からお聞きになられたのですか? …天使教に入信していた人間からとか?」

「違う」

 どうやら武藤は、それだけ聞けば十分だったようだ。彼は、にやりとなにやら嫌な笑い方をした後、さらに恭しい態度を

俺に取りながら、言った。

「かしこまりました…。それでは、この教団の長を務めている方のもとへとご案内いたしましょう。こちらへ…」

 そう言って武藤は、俺を誘導するように歩き出す。俺はそれに従い、武藤の後ろをついていく。エレベーターに乗り、遥

か上の階へと。

 不安と期待が入り乱れながら、俺の視線は少しずつ移動していく光の点を追っていた…。







 案内された部屋の奥に、その人はいた。

 ビルの外に広がる景色を、俺に背を向けて見ていた。部屋の中は全体的に暗く、ここもまた天使の絵がかけられてい

る。その人以外にこの部屋には誰一人としていない。

 バタン、とドアが閉められると、その人はゆっくりとこちらを振り向く。

「ようこそ…。深く傷ついた、魂の迷い子よ」

 逆光でその男の顔が明らかになる。白銀のように輝く髪をし、眼光鋭い目をした若い男だ。まだ二十代なのではない

だろうか。鼻筋が通った、非常に凛々しい顔をしている。本当にこの男が、こんなに若いにも関わらずこの教団を支配し

ているというのか?

 だがとりあえずそんな疑問はどうでもいい。俺は少女がこの教団の長でなかったことに、安堵していた。しかし、となる

と彼女は一体?

「彼女に会わせてください。この近くにいるはずです」

 気ばかり焦って、俺は何を言うより先にまずそう言った。すると、男は目を閉じ、口を閉じたまま、少し笑った。

「ふふ、若いな…。礼節を理解しなければ、我身を立てられなどしない。まずはするべきことがあるだろう?」

 男の態度が、俺にとってはかなり気に食わないものだったが、言っていることは間違いではないと思い、とりあえず非

礼を詫びる。

「…すみません。俺の名前は新井一真。ここにいるはずの、ある少女に会うためにここまで来ました。彼女に会わせてく

ださい」

 すると彼は答えを返す代わりに沈黙を俺に返してきた。嫌な雰囲気だった。俺の全てを見透かそうとするように走るあ

の、目線。俺は、この男が蛇のように狡猾な男であると直感した。

 男は口を開く。

「ふ、まぁいい…。私の方こそ、無礼か。私の名前は藤島という。それで、彼女に会ったとして、一体どうするつもりだ

い?」

「え…?」

「無目的と言うことはないだろう。顔を身に見に来たのか、言葉を交わすためにきたのか…。それとも愛の告白でもしに

きたのかな?」

 そう言って、くくく、と笑うその顔に俺は非常な憤りを感じた。握った拳にさらに力が篭もる。一気に近づいて殴り倒した

い衝動にかられた。

「まぁ、そう怖い顔をするな。何もキミたちの再会を邪魔しようなどとは露にも思ってはおらんよ。さぁ、来たまえ。彼女の

部屋へと案内しよう…」

 俺の険悪な様子を察知したらしい藤島はそれを受け流すかのようにそう促した。なんだか小ばかにされているように

感じられて腹が立つが、それよりも彼女に会いたいと言う感情の方が優先された。

 藤島は部屋の出入り口とは別の扉の前に立つと、ポケットから鍵を取り出して、扉を開けた。そしてこちらに恭しく一礼

をしてにやりと微笑む。

「さぁ、どうぞ…。この先に、彼女はいる」

 俺は藤島の顔を一度睨みつけてから、扉の向こうへと進んだ。すぐ彼女の部屋に出るのかと思ったが、あったのは意

外なほどに長い廊下だった。そして、その先に扉がある。おそらくあそこが彼女の部屋なのだろう。

 俺は廊下を彼女の部屋へと向かって歩き出す。彼女を感じる。彼女は確実にこの先にいる。ようやく…ようやく、会うことができる。期待感に胸が膨らんだ。

 俺は彼女の部屋の、ドアノブに手をかける。手が汗ばんでいるのを感じた。全身が緊張に包まれていた。心臓は高鳴

り、背中や額にも汗がにじむ。それら全てを抱えながら―俺はドアを開いた。

 だが、そこで待っていたのは―俺の、思いもよらなかった、現実…だった。







 さほどの広さもない、四角い部屋。壁は真っ白で、何の飾り付けもない。この部屋には、窓もない。それどころか、人間

の生活に必要だろうと思われるもの―タンスだの、机だの、テーブルだの、TVだの―が一切何もない。

 不気味なほどに生活感を感じさせないように意図して作られている。そう思った。

 ただあるのは、部屋と同じように真っ白なベッド。しわも汚れもない、使用の形跡など見て取れないぐらいに綺麗なベッ

ドだった。

 だが、それは決して使っていないというわけではなかった。少女が一人、そのベットに横たわっている。目を閉じ、胸の

上で組み合わされた手が、まるで神に助けを求めているかのようだった。

 それはあの夢の中で会った、あの美しい、少女だった。

 夢の中の少女もまた、寂しげな顔をすることがあった。その目が寂しいと叫んでいるのを感じた時もあった。

 しかし、今は無表情でその目が閉じられているにも関わらず、その奥から感じられる寂しさは、まるで俺の胸を押しつ

ぶすかのように迫ってくる。思わず、俺は涙が込み上げてくるのを感じた。そして、俺は何も躊躇うこともなしに、この悲し

い少女のために涙を流した。

 俺は、彼女の言った言葉を思い出した。彼女は、全てを捨てたと言っていた。それは、こういうことだったのか…。

 彼女は息もしていなければ、その肌の下に血が通っているようにも見えなかった。つまり、心臓が動いている様子もな

い。彼女はまるで死んでいるかのようだった。しかし、彼女は死んでいない…。生きている。この理解不能の状態を、どう

説明したらいいのか、俺にはさっぱりわからない。

 言うなれば、彼女は本当に全てを捨てたと言うことなんだろう。俺たちが共通に持つ、常識すらも全て。そしてこの状態

に、自分で望んでなったのだろう。永遠に一人で眠り続ける、孤独な夜を…。

 眠り続ける…。そう、自分で彼女のことを表現して俺は気がついた。眠ると言うことは、夢を見ること。俺と彼女が出会

ったあの夢は、実は彼女の夢に俺が入り込んでいたということなのでは…。

 そういえば彼女も言っていた。よりにもよって、俺と会った時の第一声だ。『待ってた…。あなたが来るのを…』と。待っ

ていたんだ、彼女は。その時点で理解するべきだったのかもしれない。こんな単純なことがわからなかった自分を、俺は

呪った。

「おや…。面白い、彼女の悲しみに触れて、気が狂わないとは」

 俺よりも大分遅れて―時間的には、10分足らずといったところか―藤島が部屋に入ってきた。藤島の顔には、なぜか

笑みが浮かんでいる。

「気が…狂わない?」

「今まで、キミと同じように何人かの人間が…男女を問わずだが、彼女に会いに来た。しかし彼らは彼女を見るなり、気

が狂ってしまったよ。もしくは、限りない絶望に襲われたか、どちらかだ」

 藤島は、俺の隣に立ち、彼女の顔を見詰めながら言った。その目は、まるで尊いものを見るかのような目つきだった。

「まさか、その人たちは…」

 俺の頭を一瞬、嫌な予感が過ぎった。そしてそれは、答えを聞くまでもなく、事実だろうと俺は確信していた。

「そう、いくつかの凶悪な事件を起こしたり、もしくは自殺をするなどした。…彼らは、弱すぎたのだよ」

 弱すぎた―。その言葉が、なぜか俺の心にのしかかった。彼らと俺とは、一体どこが違うのだろう? その疑問が晴れ

ぬまま、彼は続ける。

「そのうちの一人が、面白いことを私に教えてくれた。彼女の『夢』の存在…。大方キミも、彼女と『夢』で会って、ここまで

来たのだろう?」

「…確かに、その通りです」

 そして、彼の話を聞いていて疑問が一つ浮かんだ。俺はそれを包み隠さず聞く。

「彼女に会った人が、必ず狂うと言うなら…なぜ、あなたは狂わないのですか?」

 その言葉に、藤島は少しうつむき声を殺しながら笑う。そして、いかにも当然だろうと言わんばかりの様子で言う。

「彼らはそれぞれ彼女に何かを期待していた…。そして、それは裏切られた。私は何も彼女に望んでいない。望んでいる

のは、ただこの眠りから彼女が目覚めることのみ。それゆえに、私が狂うことなどない。そうだろう?」

「でも、それならなぜあなたは―この教団は、彼女をここに? こんな、中枢とも言えるような場所に彼女をかくまうんで

す? 彼女はあなたたちにとって一体、何なんですか?」

 俺のその質問は、長い間あったものだった。始めに彼女を見た時、そして彼女の状態を知った時からあったものだ。彼

女は、教団にとって重要な存在なのか?

 その俺の疑問は、概ね当たっていたようだった。藤島は、またあの笑い方をすると、顔を上げ、彼女をしばらく見詰め

た後、言った。

「彼女は我々の救世主だからな。愚かな者どもに彼女の神聖な眠りが妨げられることのないように、ここで眠って頂いて

いる」

 彼女に対しての言葉に、この男からは考えられないほどの敬意を感じた。それだけ、やはり彼らにとって彼女は重要だ

ということなんだろうか。

「救世主…? まさか、彼女があなたたちの言う、天使だとでも?」

「その通り…。彼女こそは翼を持つ天使にして、我々の救世主」

 藤島は、そう断定した。絶対の自信があるように、言い切った。彼のこの態度、この自信。本当に彼女は天使なのか?

「で、でも…。彼女には翼なんて生えてないじゃないか」

「ふふ…。それはキミには見えていないだけだ。その存在を確信し、認めることさえ出来れば、私のような薄汚れた者で

も見ることが出来る…」

 では、藤島の目には今も彼女の背に翼があるように見えると言うのか? そんな、馬鹿な。目に映らない存在はあると

は思っていたけれど、こんな…こんなことが?

「そんな…? 信じられない…。人に、翼が生えている? 冗談はやめてくれよ」

 すると、何を思ったのか藤島は俺のその言葉を聞くや否や高らかに笑った。愉快で愉快でたまらないといった笑い声だ

った。

「これは傑作だ…。まぁ、いずれキミにも見えるようになるだろうさ。…さて、私はこの辺りで失礼させていただこうか。せ

っかくの再会だ。心行くまで、ゆっくりと楽しむがいい。…では」

 そして、藤島は部屋から去っていく。最後に、一瞬にやりと笑ったように見えたのは、気のせいだろうか?

 ともかく、部屋には俺と彼女だけが残された。藤島がいた時には気がつかなかったが、この部屋には物音一つしなか

った。完全に防音されているんだろうな。そういう意味でも、ここは現実から隔離された部屋と言うことか…。

 そしてそんな部屋の中、奇妙な静寂が時を支配した。俺は何も言わず、ただ彼女の顔を、いやむしろ心を見詰め続け

た。そのほどに伝わってくる、彼女の深い絶望と悲しみに、俺はまた涙を流す。涙は汚れもしわもないシーツに、染みを

作った。

 彼女は何を望んで、眠りにつき、何も望んで、俺に会いたい、と言ったんだろう?

 そして、俺は何を望んで彼女に会いたいと言ったんだ?

 わかるようで、わからない。さっきから―いや、ずっと前からそうだった。無目標、夢も理想もなく、ただ流されるままに

生きてきた日々。自分が何か、こうしたいと思っているのに、それが何かよくわからない。それがうやむやになったまま

に、生きていたあの頃。

 でもそれは全てもう過去の話…にしたつもりだ。俺は、自分がこうありたいと思う道を歩き出した。そう思いたい。なら、

俺は彼女とどうありたいと思っている?

 ―俺は、彼女と共にありたい。彼女の苦しみを、寂しさを、孤独を癒してやりたい。そして、それは俺も同じ。俺も彼女に

癒してもらいたいと思っている。

 親友なんていえる友達はいなかった。みんな所詮は利用しつつ、されつつの関係。孤独だった。俺もそう、孤独だった

んだ。彼女に自分と同じものを感じたから、俺は彼女を好きになったのかもしれないな…。

 ―だから、目を覚まそうよ。もう君は、一人じゃないから。俺たちが、生きていける場所を、二人で一緒に作ろうよ…。

 俺は、眠る彼女にそう訴えかけた。まるで死んだように眠っている少女。全てを捨て、偽りの自由を手にした少女。そ

んな彼女を、俺は心から愛しく思った。

 そして俺は、堅く組まれていた彼女の手を取り、その甲に口付けをした。永遠の誓いを、交わすかのように…。







 それは、奇跡―と言っていいんだろうか?

 彼女の手の甲に口付けをし、俺の唇が離れた時、まったく温もりなど感じなかった彼女の手に、微かな温もりを俺は感

じた。

 驚いて俺は彼女の顔を見る。たどたどしく、まるでやり方を忘れてしまったかのような息をしている。心臓の鼓動が、ま

ったく無音のこの部屋に響き渡るかのように聞こえてくる。

 俺は彼女が目覚めたことを確信した。彼女のまぶたが、微かに震え、そして静かに―開かれた。その奥から現れた瞳

に、光が灯り、その澄んだ目が、俺の顔を映し出す。

 そして―

 彼女はにこりと、確かに俺に微笑みかけた。

 そんな彼女に、俺も微笑みを返しながら、言う。

「おはよう…。会いに、来たよ」

 彼女は、大きく頷いて、さらに笑みを膨らませながら、

「ありがとう…」

 それだけ、言った。でも、俺にはもうそれだけでも十分だった。

 生活感をあれだけ感じさせなかった部屋が、今は安らぎに包まれ、温もりに満ちた、空間。俺はようやく望んでいたも

のを手に入れた心地がした。

 しばらくの間、不思議な沈黙に包まれる。お互いがお互いの目を捕らえて、離さない。かつて感じたことのないほどの

充足感。夢の中で会うよりも、なお強い喜びに包まれる。お互いに、愛を感じていた。

 だが、一瞬彼女の目に暗い影が走ったのを、俺は見逃さなかった。それが、この幸せな空間を破壊してしまうきっかけ

となることも知らず、俺は彼女に尋ねた。

「…どうしたの?」

「う、ううん…。なんでも、ない…」

 彼女はそう言った。だから、俺はあえて深く尋ねようとは思わなかった。だが、その後の彼女の様子は明らかにおかし

かった。何かを言いたそうな雰囲気だったが、それを何か押し殺しているかのような感じ。

 だがしばらくして、彼女が決意と共に口を開く。それは、まるであの時―彼女が生きていると言うことを俺に伝えた時の

ようだった。

「ねぇ…。話、聞いたでしょう? 私が天使だっていう、話…」

 彼女の真剣な様子に、俺は黙って頷いた。やはり…本当に、彼女はそうなんだろうか?

「厳密に言うと、私は天使じゃない。…でも、確かに天使ではあるの」

「…どう、いうこと?」

 またしても、彼女の言っていることがよくわからない。俺は彼女が続けて生み出す言葉に、全神経を集中させた。

「…私には、翼が片方しかないの。だから、飛ぶことは出来ない。極めて不完全な存在なのよ。普通の人間でもなく、天

使でもない。…これが、私の悲しみを生み出した原因の一つなの」

「え、で…でも…」

 俺は戸惑いを隠せない。まだ、天使というものが存在していると言うことが信じられなかった。彼女はそれをわかってい

るようで、少し俯いたかと思うと、

「…そう、まだ信じられないのね。いいわ、見せてあげる。私の翼を、キミに…。私を信じて…。私のことを見詰めて…。私

の全てを、わかって…」

 その言葉に込められたのは悲しみなのか。彼女にとって、翼を見せると言うことがどれだけ辛いことなのか、その言葉

でわかった。これは冗談でもなんでもない。彼女は翼を持っている、俺はそう信じた。

 そして、彼女の背中に光が集中し―白い、塊のようなものが現れ―そして、それは徐々にその姿を現していく。徐々に

精密に、美しい形となる。

 それは見紛うこともなく翼、だった。白く、繊細で美しい―翼。

 だが、それは彼女の言う通り、片方しか存在しなかった。その翼を見ていると、なぜか無性に悲しくなってくる。彼女は

どれだけこの翼に悩み、苦しんできたんだろう。彼女の悲しみの原因は、確かにこれだった。

「…これが、私の翼。これが、私」

 悲しみのせいか、倒れそうですらある彼女。俺は、彼女に近づき、彼女を抱きしめた。そうやって、彼女の支えになって

やれるように。彼女は、安心して力を抜いて、俺に抱かれていた。

「…やっと、わかった。なぜ俺が君に惹かれたのかが。わけのわからない感情がどうして生まれたのかも、全部わかった

よ…」

 そう、わかったんだ。彼女の翼を見た瞬間に、全て。それは彼女の悲しい運命。そして―俺の、悲しい運命。

 彼女の翼を見た瞬間に、俺にも変化が訪れた。一瞬何か生じた苦痛。俺の中の悲しみが、解放される感覚。そして背

中に生じる何かの存在。

 そう、俺も翼を持っていたんだ。彼女と同じように。だからこそ、彼女の苦しみに共鳴し、涙を流した。彼女と巡り合えた

のも、無意識のもとでしか会えなかったのも、全てはこの翼のおかげなんだろう。

 彼女を抱きしめる力が、思わず強くなる。彼女も強く俺のことを抱きしめ返してくる。そして、お互いに、お互いのために

涙を流した。

「ねぇ…? 私、聞いたよね? 空を見て、哀愁のようなものを感じることはないか、って」

「うん…。その理由も、わかったような気がするよ」

「…昔話、してもいい?」

 俺は頷き、彼女のさせたいようにさせた。

「昔はね、私たちはみんな、対になった翼を持ってたんだよ。それで、この空を自由に飛び回ることが出来た。でもね…

いつからか、私達は飛ぶことを忘れてしまったの」

「…飛ぶことを、忘れた?」

「そう、気がつけば、私の背中にあった翼はなくなるか、もしくは…片方だけになっていた。結局、どうなったと思う?」

 俺の頭に浮かんだのは、先ほどの彼女の話だった。

「…空を見て、哀愁を感じながら、生きた…そういうこと?」

「うん…。でもそれだけじゃない。片方だけ翼が残った人たちの一部は、人の翼を奪って、自分の背につければ、また空

を飛べるんじゃないか、って…。そう、考えてしまったの」

「そんな…。無茶だ、そんなこと…。人の翼を奪ってまで、空を飛びたいのか? そんなことをして飛んだとしても、何の意

味もない…」

「でも、当時の人たちはそうは考えなかった…。おびただしい血が流されたそうよ。そして…気がつけば、誰も翼を持って

いなかった。翼は完全に失われて、もう誰も空を飛ぶことが出来なくなった」

「…それで、今の社会があるってことなの? この社会は、翼を失った人々が作り上げたものだと?」

「ええ…そういうこと。人類の有史以前の、遥かな昔の物語よ。そして、翼を失った人々が、いつかまた空を飛ぶことを願

って、作り出したのがこの天使教団…」

 彼女の話が一区切りした時だった。

「その通り、翼を得ると言うことは、我々の悲願…。遥かな、昔からのね」

 いつの間に入ってきたのか、藤島がそう言った。そして彼は俺たちに恭しく礼をすると、にやりと笑みを浮かべながら、

話し始めた。

「おはようございます…。お二人とも、ようやくお目が覚めたようで…。この瞬間に立ち会うことが出来た喜びを、なんと

表現すればいいのか…」

 俺はこの男に、強烈な拒否反応を感じていた。いや、この男だけじゃない。この場に誰か俺たち以外の人間がいること

が我慢ならなかった。

「何か用ですか? …用がなければ、はやく出て行ってください」

「ふふ…。まぁ、そう怒らないでください。用はありますよ。そちらの方が、今の話で語ることが出来なかったことを、私が

代わりに語らせていただこうかと思いましてね」

 その藤島の言葉を聞いた瞬間、彼女は青ざめ、慌てながら言った。

「…ダメッ!」

 だが藤島は一向にやめるつもりはないらしい。あの笑みをしたまま、彼は続けた。

「はは、何を言うのです。もともとあなただって、そのために彼をここに呼んだのでしょう? 知らないとは言わせません

よ、あのことを…」

「何だ? あのことって…?」

「…もともと、この話は我々天使教の上層部にのみ伝わる口伝…。まぁ、書物化もしていますがね。そこには、さきほどの

彼女の話以外に、我々にとっても非常に興味深いことが書いてありましてね…」

 藤島の話を、彼女は怯えるような心持ちで聞いていた。体が、かすかに震えている。

「かつて片翼の人々が、翼を奪い合った時、その一部に翼を得ることに成功した人々がいたのですよ。彼らは、再び空を

飛ぶことが出来るようになった」

 その藤島の言葉は、俺には信じられなかった。人の命を奪って、飛ぶことに成功するだなんて、考えたくもなかった。

「そんな…。そんなことが? その人たちは、そうしてまで空を飛んだとして、心が痛まなかったというのか?」

 だが、藤島から返ってきた答えは、もっと考えたくもないおぞましい答えだった。

「そんなことはないでしょうよ。なぜなら、その手にかけたのは、愛しき恋人なのですからね…」

「…馬鹿な! 恋人を殺してまで、空を飛びたいっていうのか?!」

「ええ、その通り…。口伝では、唯一その方法によってのみ、双翼の翼を手に入れることが出来るとあります。…あなた

も、それが目的だったのでしょう?」

 まさか、彼女が俺を呼んだのはそういうことだったのか…? 一瞬、俺の脳裏にそんな疑惑が生じた。だが、俺はそれ

をすぐに否定した。そんなことがあるわけがないと、俺は…信じている。

「違うっ! そんなこと…そんなことない!」

 彼女の否定の言葉を、むしろ藤島は楽しむかのように、受け流す。

「そんなことあるんですよ。それとも何ですか? あなたはこの男と肩を並べて一緒に空を飛ぼうとでも? それが不可能

であることも、あなたは知っているでしょうに」

「…なぜ、無理なんだ? そうすれば、飛ぶことも出来るんじゃないのか?」

 二人で空を飛ぶ―その可能性すら、否定されようとしていた。

「過去に、それを行った人々が何人いると思いますか? 膨大な数ですよ。しかし、その一件として成功した例がない。み

な途中で力尽きて、空から落ちるのみ」

「そんな…」

「それが現実です。片方だけ翼を持っていたとしても、何の役にも立たない。両翼があってこそ、始めて翼は意味をなす

ということですよ。まぁ、そういうことです。私が言いたいことは全て言わせていただいた。それでは、私はこのあたりで失

礼させていただきましょう」

 そして藤島は、入ってきたときと同じように、俺たちに向かって恭しく一礼をしたかと思うと、部屋を去っていった。

 と、何かを思い出したかのように戻ってくると、俺たちの足元にとんでもないものを置いていった。

「これが必要になることを、私は切に願っておりますよ…では」

 それは、ナイフだった。切った個所によっては、確実に人を殺せるだろう。この男は本気だ。本気で俺たち二人を…。

 藤島が出て行き、奇妙な沈黙が流れる。

「ねぇ…。どう思う? 今の話…」

 彼女がかすかに震えた声でそう言った。その手は俺の腕を強く掴んだまま、離さない。

「本当なのか? あの話…?」

 俺の言葉に、彼女は黙って頷いた。俺は生じる疑惑をどうしても押さえることが出来なかった。彼女は否定したし、俺も

否定した。でも、そうでないと誰が言える? 彼女は、俺を利用するために呼んだのか、それとも…?

 だが、その時、彼女がゆっくりと話し始めた。

「私ね…自由が欲しかった。でも、この現実に私が生きていけるような場所はなくて…それで、全てを捨てたの」

「ああ…わかるよ。俺も、似たようなもんだったから」

「でも、あの夢の中でもやっぱり自由なんかじゃなかった。いつも一人で寂しくて。夢の中だからといって、空を飛ぶことも

出来ない。結局、私は不自由だったの…」

 俺は、黙って彼女の話を聞いていた。その、結末ももうわかっていたけど。

「そして、あなたと巡り合って、目を覚ます決心をして…。あなたとなら、って思った。でも、やっぱり私には無理みたい…。

私、ただの弱い人間なのよ」

 そして彼女は、俺に言った。俺の、一番聞きたくなかった言葉を。

「私、翼が欲しい…。あの大空を、自由に飛ぶことが出来る、翼が…。もう、悲しみに縛られるのはイヤ…。勝手なのは

わかってる。まるでそのためにあなたを利用したように思われるのもわかってる。でも…お願い」

 彼女は、俺の瞳をじっと見詰めた。そして、最後の言葉を呟く。

「翼を、ください…」

 神は、なんて残酷な運命を俺に背負わせたのだろう。いや、彼女にもだ。彼女の悲しみが俺にも伝わってくる。悪意

が、まるでないのもわかるんだ。彼女の、空と翼に対する想いもわかる。そして―俺への想いもわかる。

 ―神様。俺に一体、どうしろと言うんだ? この生命を、一体何のためにあんたは俺に与えた? 答えて欲しかった。け

れど、わかっている。

 答えなんて、永遠に来ないことを…。

 俺は、何も言わず、彼女から離れ、床に置かれたナイフに手を伸ばし、それを手に取る。鞘からその刀身を露わにさ

せ、静かに見詰めた。その刃が、きらりと光を放つ。俺はもう迷わなかった。

 彼女の前へと戻る。抜かれた刃をそのままに。

そして、俺はそれを―

彼女に手渡した。穏やかな、笑みと共に。

「いいよ…。俺の翼、あげるよ。それで君が、幸せになるのなら…」

 この決断が過ちかどうか、そんなことはわからない。けれど、俺は彼女を愛している。彼女のために何かをしてやりた

いと思う。それだけだ。

 彼女は震える手で、ナイフを握り締めた。彼女の目から、涙がとめどなく溢れていた。俺はその目を、逸らすことなくじっ

と見詰めた。視線と視線が、絡み合う―

「優しい…ね。キミは…」

 彼女が、ぽつりと呟いた。彼女の視線が、俺から離れ、地面を見詰める。

 一瞬の静寂。近づく別れの瞬間。

 そして、彼女は言った。

「私には、その優しさだけで、十分…」

 彼女は一瞬だけ俺の方を向き、かすかに笑って見せた。涙に濡れるその顔が、再び下を向き―

 彼女は、手にしたナイフを、そのまま自分の胸に突き刺していた。

 俺には一瞬、何が起こったのか何も理解することが出来なかった。彼女は体を支える力を失い、地面に倒れる。あわ

ててその体を抱き起こすが、傷口の深さからして、もう手遅れだった。

「どうして…! どうして、こんなことをっ! 俺は本当に君のために翼を差し出すつもりだったのに…!」

 だが、もう彼女は言葉を口にする力も残っていなかったらしい。彼女は、最後に微笑みながら、こう言った。

「一緒…に、空を…飛び…たかっ…た…ね?」

 そして―

 彼女の体から、全ての力が消え失せた。残されたのは、空っぽになった彼女の体のみ。もう、彼女はここにはいな

い…。

「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 俺は、叫んだ。声が枯れるまで叫び続けた。そしてまた、絶え間なく涙が流れ続ける。体中の水分が全て出てしまうか

と言うほどに、流し続けた。

 彼女の体温は、徐々に失われていく。彼女の血液もまた、失われていく。俺の体は彼女の血で赤く染まり、俺は全ての

光景が赤く染まったようにも見えた。

 やがて、涙は枯れ、声も枯れた。俺の心も枯れ果てた。

 俺は、虚ろな心で、彼女の唇に、口付けを交わした。初めて交わす、そのキスは、ただ冷たさしか感じなかった。

 そして、その瞬間。

 彼女の背中にあったはずの翼が消え、俺の背にもう一つの翼が現れる。どこまでも白く、美しい、翼が。

 俺は、その翼を背に感じながら、彼女の体を抱きかかえ、静かに立ち上がった。

「おお…両翼の天使! 我らが待ち望んでいた、救世主がついに!」

 おそらく、モニターか何かで俺たちの様子を見ていたのだろう藤島が、慌てて俺のもとへと駆けつけてきた。他にも何

人か後ろにいる。

「天使様、どうか我らに翼をお与えください! 我々もあなたのように空を飛びたいのです!」

 藤島に続いて、他のやつらも同じようなことをすがるような口調で言う。

 しかし、俺は彼らに何の興味も抱かなかった。

「翼…その重みが、お前たちにわかるのか?」

 俺の発した言葉に、唖然とした様子で彼らは言葉を止めた。かすかに沈黙の時間が流れる。そして、俺は最後の言葉

を言う。

「お前たちが、翼を手に入れるなど、絶対に出来はしない…」

 俺はそう言うと、翼を大きく広げた。そして、ゆっくりと上昇した。足が地面から離れ、宙に浮いた状態になる。

「あぁっ!? お待ちください、どちらへ行かれるのです?!」

 俺はもう、答えなかった。

 翼が、羽ばたく。俺の体はどんどんと上昇していき、天井へと近づく。俺の頭が天井へと着き、そして通り抜けていく。

 その光景を、連中は呆然とした様子でただ見ていた。

 俺は天井を抜け、ビルから抜け、大空に出ると、風を感じるように目を閉じた。彼女の体を抱いたまま、俺は空中に静

止する。

 そして、俺は目を開く。目指すのは、あの遥かな遠い、遠い空。翼が、力強く羽ばたきだす。風に乗り、どこまでも飛ん

でいく。

 この、孤独な翼で。



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