Lost Flowers
FADE




 落ちていた。

 少年だ。虚ろな目が彼方に広がる光の帯を見つめている。

 まるでオーロラのようだった。

 周囲に広がる闇の中で、ただそれだけが輝いている。

 落下は止まらない。

 少年は光から切り離され、徐々に闇に飲み込まれていく。

 やがて光は消えた。

 ただ闇だけが存在する空間の中で、少年は落ち続ける。

 そもそも本当に落下しているのか? 少年以外には闇があるだけで、比較できるものは何もない。

 そんな闇だけの世界から、浮かび上がるように何かが現れた。

 男だ。

 落ちてくる少年をじっと見上げている。

 その纏っているスーツは周囲と同じ闇色なのに、なぜか混じりあわずに、際立っている。

 不気味だった。

 それをさらに強調しているのは、男の顔を覆っている仮面だ。服装とはまったく対照的な白い仮面。目と口の位置に刻

まれた三日月。その奥に輝く闇の色。

 それが圧倒的な質量を持ってこの空間に存在していた。

 男の視線が蜘蛛の糸のように少年に絡みつく。

 一定だった落ちる速度が緩まっていき、少年は落下をやめた。

 虚ろな目に理性の火が宿る。

「また……。また、お前か」

 男は答えない。

 代わりに答えたのは、男がいつの間にか手にしていた刀。納めるべき鞘もない抜き身の刃が、少年の胸元を掠めてい

く。

 血が滲む。

 痛みが走る。

 少年の顔が、にわかに険しくなった。

「何か言えよッ! いつもいつも、何も言わないでッ!」

 返す刃で振り上げられた剣が、眼前を通り過ぎていく。

 剣の向こうに見える仮面は、信じられないほど無表情だった。

 少年は確信する。

 今日も僕は殺される、と。

 これが夢だということはわかっていた。目が覚めれば、傷も何も残っていないということも。

 だが、いま感じている痛みは本物だ。男から感じる恐怖も。何もかもが夢とは思えないほどリアルだった。 

 逃げようと思った。

 隠れる場所も何もない闇の中を、ただこの男から離れたい一心で駆けていく。

 無駄だということはわかっている。目の前の男は、少年の生殺与奪の全ての権利を持っているのだから。

 離れていく少年に向けて、支配者は片手を突き出す。

 手から現れた何かが少年の体に纏わりつき、動きを封じた。

 抗う。

 死の恐怖に怯えながら。

 歯を食いしばり、全身の力を引き出して。

 しかしその抵抗は、解放されるどころか逆に締めつけられるという結果に終わった。

 少年の体が浮く。

 その背に、赤い血で染めたような十字架が現れる。

 ――いつも通りだ。

 少年はそう思いながら、これから先に起こるだろういつも通りのことを思い浮かべていた。

 心臓が激しく脈を打っている。

 体の穴という穴から汗が噴出し流れていく。

 手足が意思とは無関係にガタガタと震え始めた。

 男が、一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。

 瞬きすることを忘れた目は、大きく見開かれて男の動きに機能の全てを奪われた。

 男が立ち止まる。

 ゆっくりと、あくまでゆっくりと少年を見上げる。

 剣が持ち上げられていく。

 少年の顔が。

 苦痛に染まった。



「うああああああああああああああああああ!!!」



 全身を貫くような痛み。

 流れ落ちていくどろりとした液体。

 冷たさを求めて次々に飛び出していく熱。

 全ては闇に呑まれて消えていく。

 男はその光景をただ漠然と見ていた。

 表情はわからない。何を思っているのかもわからない。

 だが少年は知っている。

 この痛みが始まりに過ぎないことを。

 男が再び剣を持ち上げていく。

 白刃の煌きが何度も、何度も少年を切り裂いた。

 躊躇も容赦もなく、楽しんでいるでもなく。全ては儀式を執り行うかのように、淡々と。

 少年の体が朱に染まっていった。

 気が付けば少年は死んでいて当たり前の傷を負っていた。

 浅い傷口は数知れず。内臓は深く切り裂かれ、右の肩口がぱっくりと開いていた。

 尽きることを知らない赤い液体が流れ落ちていく。

 目は虚ろになり、口は開いたまま。

 もう抗う力もない。悲鳴をあげる力もない。

 しかしそれでも、

(死にたくない)

 心の中で叫んでいた。

 そんな少年を、相変わらず無表情の仮面が静かに見つめる。

 込められたのは喜びか、憎しみか、それとも哀れみか――どれともつかない虚無の視線。

 下ろしていた剣を再び持ち上げ、突きつける。

 そして、それを――

 少年の胸に、突き刺した。

「あ……あぁあああ、あぁ……」

 声にならない呻きが口から漏れ、血のように赤い涙が目から漏れる。次第に弱まり消えると共に、少年の命もまた。

 消えた。



 夢は。

 そこでいつも終わる。



   *



 少年――瀬戸翔太は、ゆっくりと布団から起き上がった。

 異常に喉が渇いているのを感じて、まず水を飲む。

 喉が潤うと汗だらけになった体に気付き、シャワーを浴びる。

 それでもあの夢の爪痕は消えない。

 じっとりと体のあちこちにへばりついたままだ。

 切り裂かれた痛みが、今にも襲ってきそうな錯覚に襲われる。

 翔太があの夢を初めて見たのは、一年くらい前だった。

 あの時はあまりの恐ろしさに、真夜中に飛び起きてそのまま眠れなくなったほどだった。

 それが月に一度から、二度になり、週に一度と次第に頻繁になっていき、今では二日に一度は見るようになっていた。

 まるでVTRを見ているようにその内容はいつも同じだ。

 翔太の意識はあっても、無視したように淡々と進んでいく。

 男の声を聞いたことはなく、その仮面の下に何かしらの感情を感じたこともない。

 ただいつも、冷酷に処刑を執り行うだけ。

 なぜあんな夢を見るようになったのか。

 理由はわからない。

 ふと翔太は時計を見た。

 八時。

 学校に行く時間だった。

 制服に着替えると、何か食べたいと思ったが、この家の冷蔵庫には基本、飲み物ぐらいしか入っていない。

 食べ物の代わりに、テーブルの上に載っているのは千円札が二枚だけ。

 今日一日の食事代だ。

 翔太が起きる頃には父親はもう家にいない。眠るころにもいない。朝早く仕事に出て、夜中まで帰ってこない。

 当然、家で食事をするわけもなく、いつも外で済ましていた。

 代わりに翔太に与えられるのはこの二千円だけ。

 家でコンビニ弁当を食べようが、ファミレスで済ませようが好きにしろ、という意味だ。

 昔は簡単なメモぐらいは残っていた。今ではそれもない。

 冷え切った親子の暗黙の了解だった。

 翔太はそれを取り、財布に入れると家を出た。

 空は曇っていた。



   *



 学校への坂道をゆっくり歩いていく。

 小高い山の上にあるこの高校は、自転車通学者にとっては極めて通いづらい。翔太の周りには、手で自転車を押して

歩く生徒が一杯だ。

 その中には見知った顔もいくつかあるが、翔太のほうから声をかけることはない。向こうからかけてきた時だけ、簡単

にあいさつをする程度だった。

 チャイムが鳴る寸前に学校に着いた。

 教室に入り、自分の席に座る頃に担任が教室に入ってくる。

 いつも通りだった。

 そして、いつも通りに退屈な時間が始まる。

 翔太は学校の授業にはまるで興味を感じなかった。

 ただ教科書の上を軽く撫でる程度の内容を聞いているよりは、マンガだの小説だのを読むか、寝るほうがマシに思え

た。

 だが時々、それさえも億劫になる。

 何もかもがつまらなく感じ、虚しい気分になる。教壇で何かを喋っている教師の声も、それを書き留める同級生の息遣

いも、何もかも遠くにあるような気がしてくる。

 そんな時、翔太は空を見た。

 どんな空だろうが構わない。晴れ渡った空でも、今日みたいな曇り空でも、ただぼうっと見ていた。 空を見ている間は、

あの夢のことも、学校のことも、何もかも忘れることができる。

 だが、虚しさが消えるわけじゃないし、心にのしかかる重みが消えるわけでもない。

 つまりは翔太なりの逃避行動だった。

 チャイムが鳴る。

 結構な時間が過ぎていた。昼休みだ。

 クラスメートは持ってきた弁当を広げるか、学食へと友達を誘って姿を消していく。

 賑やかな声に次第に包まれる教室。

 昨日見たテレビの話、最近の音楽の話、気になる異性の話。



 とりとめのない、右から左へとせわしなく駆けていくような日常が繰り広げられる中で、しかし翔太は動かない。

 心はまだ、空と繋がっている。

 明らかにクラスから浮いている翔太を気にするやつは誰もいない。それが当たり前のように認識されていた。

 高校入学から一年と三ヶ月あまり。クラスメートとはろくに口も利いてない。話しかけられても、極めてそっけない対応し

かしないせいで、次第に誰も声をかけなくなった。

 そんな翔太が注目を集める瞬間が、二日に一度だけある。

 というよりも、翔太に声をかける男に注目が集まる。男はいわば、有名人だったから。

 今日はその二日に一度の時だった。

「よぉ、瀬戸」

 ぽんと肩を叩き、気さくに声をかけてきたのは背の高い男。

「……なんだ、達樹か」

 気のない声。翔太が人と話す時はいつもこの調子だった。

 だが、達樹は気にした風もない。

「なんだとはずいぶんだなー。ほら、どうせまたメシ食ってねぇんだろ。食い行くぞ」

「いいよ別に。お腹すいてないし」

「よくない! 健全な男子がこの時間に腹が減らないなんてあるわけないだろ。さー行った行った」

 何事にも消極的で興味を持たない翔太と、活発で強引なところもあるが、面倒見のいい性格をしている達樹。

 見るからに対照的な二人だ。

 翔太にとっては、ほとんど唯一と言ってもいい友人である達樹だったが、実際の所あまりどうとも思ってなかった。

 達樹の方から声をかけて来なくなったら、そのまま縁切れだろうと思うほど、その感情はあっさりしている。

 そういう翔太の考えを、達樹は正確に理解していた。それでも文句一つ言わず、二日に一度メシを誘いに来る。

「……んで、やっぱり描く気は起きないのか?」

 学食で向かい合わせに座り、ハンバーグ定食を食べながら一方的に話をしていた達樹が本題を切り出した。どんな話

をしてても、これだけは絶対に毎回必ず聞く。

 描く、というのは絵を描くということだ。

「ないね。いくら聞いても変わらないよ」

 うどんをずずっとすすりながら、翔太が答える。

「そう……かぁ。もったいないな」

 達樹は本当にがっかりした様子で、残りのハンバーグを口に入れた。もぐもぐと口を動かしながら続ける。

「お前の才能は親父が認めるほどなんだぜ? 親父、人を誉めることなんて滅多にないのにさ」

 今まで何度も、何度も繰り返した言葉をまた繰り返す。その言葉が翔太にとって何の意味もない事は十分にわかって

いた。

 達樹の父親――山岡清二は日本画壇の巨匠だ。

 描けば描くほどに絶賛され、その絵は法外な値段で取引されていた。性格も頑固で、妥協と言う言葉を知らないと評判

だった。

 その山岡清二が認めるほどの画才を翔太は持っていた。同様に達樹もその才能を認めていた。

 父親譲りの画才を持つ――実際、数多くのコンクールで金賞を取っている――達樹がこんな公立の高校に入学したの

は、翔太がいくからと言うほど思い入れは強い。

 だが翔太は、高校入学とほぼ同時に絵を描かなくなった。

「……別に僕に才能なんてないよ」

「いや、ある。ぜーったいに、ある!」

 ぽつりと呟くような翔太の言葉を、達樹は身を乗り出すようにして否定した。まくし立てるように続ける。

「なぁ、描いて見ろよ。何があったのかわからんけど、お前なら絶対にいいものが描けるって。保障する」

 翔太は黙って何も答えなかった。

 はーっと大きくため息をついて、達樹は浮いた腰を落ち着かせると、呟くように話しだした。

「どんなコンクールで賞取っても、お前の絵がないんじゃな。自己満だけど、お前が描かないと、俺も本当に描いた気に

ならないんだよ……」

 少しの沈黙の後、達樹は席を立った。改めて笑顔を作ると、

「まぁ、気長に待つとするさ。明日明後日でお前が死んじまうわけじゃないからな」

 達樹は少し肩を落としながら、帰っていった。

 徐々に騒がしさが消えていく学食に、翔太は一人残っていた。

 空から雨がこぼれだした。

 窓の外に見える、紫陽花がしっとりと濡れていく。

 梅雨らしい霧雨が、外の景色をぼやけさせる。

 翔太は空を見ようとした。雨に滲んだ窓が邪魔をする。その先に見えるおぼろげな空は、暗かった。

「明日明後日で、死ぬわけじゃない……か」

 死ぬと言う言葉。

 昔なら笑い飛ばしていただろう。

 暗い空を見ながら、それを否定できなくなっている自分に、翔太は気が付いた。

 雨は降り続いている。



   *



 暗い世界。

 光は既に消え去った。

 翔太がゆっくりと、ゆっくりと落ちていく。

 学校から帰り食事を済ませた後、父親の帰りを待つまでもなく眠った翔太を待っていたものは、あの夢だった。

 目は開いているが、眠っているかのようにそこに意思はない。

 全てが昨日と同じだった。

 ダーク・スーツと、対照的な白い仮面を纏った男が現れる。

 手に、白刃の煌き。昨日あれだけ血で汚れたとは思えないほどに光を放っている。

 その照り返しを受けて、翔太の目に光が宿った。

 じっと、男の姿を見据える。

(なぜ、こいつは俺を殺そうとするんだろう……)

 翔太はもう、男に語りかけようとしなかった。

 ただ、その仮面の奥を見つめて、何か――ほんの少しの何かを探りだそうとした。

 だがそこにあるのは、虚無。

 何もない。まるで操られた人形のようだった。

 人形は迷うこともなく、極めて正確に決められた通りにその刃を構えた。

(また……また、殺されるのか)

 一歩退く翔太。背に現れる赤い十字架。

 まるで意思とは正反対に、処刑されるのを心待ちにしているかのように震えたまま、ぴくりとも動かない体。

 ゆっくりと持ち上げられていく、剣。

(いやだ)

 男が剣を。

(……死にたくない!)

 振り下ろした。

 この日を境に、翔太は毎晩、夢を見るようになった。



   *



 キーン、コーン、カーン、コーン……。

 退屈な時間の終わりを告げる鐘がなる。

 翔太は自分の席に座ったまま、動こうとしなかった。

 クラスメートが部活動に、遊びに、家にと消えていく。

 一時間もすると、教室に人気がなくなる。

 翔太はぼうっと空を見ていた。

 今日は晴れていた。

 久しぶりの青い空が、点々とした雲の向こうに見える。

 けれど、翔太の心はその晴れた空とは対照的に、大雨が降っているかのようだった。

 一週間経った。

 毎晩かならず見るあの夢が、徐々に翔太を蝕んでいた。

 体のあちこちに切り裂かれたあの痛みが記憶されているようで、今にもよみがえって来そうな恐怖をいつも感じてい

た。

(どうしたらあの夢を見ないで済むんだろう……)

 翔太はそればかりを考えていた。

 だが、原因も何もわかっていないのだから対策の打ちようがない。せいぜい眠らないことぐらいしか思いつかない。

 病院に行って診察してもらおうかとも思ったが、それ以上に病院にだけは行きたくないという気持ちの方が上回った。

 結局堂々巡り。

 解決策など、どこにもなかった。

 風に流され、雲がゆっくりと進んでいく。形を変え、散らばったり、くっついたりしながら、ゆっくりと。

 翔太はぼうっとそれを眺め続けていた。

 何も考えず、現実の全てから自分を切り離して。

 それだけが翔太にできる唯一のことだった。

 雲が流れ、時間が流れる。

 最終下校を告げるチャイムが、苦痛へのカウントダウンの開始を告げる鐘が、翔太以外に誰一人いない教室に鳴り響

いた。

 翔太は、空から目を離した。

 ゆっくりと立ち上がり、鞄を手に取ると、教室から離れる。

 力のない足取りだった。

 肩を落とし、うつむきながら歩く。

 立ち止まりたかった。戻りたかった。しかし、もうそんな時間は残されていなかった。

 一歩一歩が、処刑場に向かって行進しているかのよう。

 体の節々があの痛みを思いだして、暴れだす。

 男の姿が脳裏によみがえってくる。

 その仮面の下にある何かが、死ねば楽になれる。苦しまなくて済むんだと語っているような気がした。

(今日、もしかしたら僕は……)

 背筋にぞくりとするものを感じた。

(苦痛に負けて、死ぬ事を受け入れてしまうかもしれない)

 翔太は立ち止まった。

 立ち止まる時間はなかったはずだが、立ち止まった。

 その目が、空へと釘付けにされていた。

 夕焼け。

 黄金の太陽が生み出した、見渡す限りの赤い世界。

 なぜだかわからないが無性に心が騒いだ。

(もっと見晴らしのいい場所で見たい)

 翔太の体も心も、その念で支配された。

 早足気味に引き返す。気が付けば走っていた。階段を駆け上り、屋上のドアを開く。

 期待した通りの光景が広がっていた。

 山の上にある学校ということも手伝って、見た事もないほどきれいな夕焼けのように思えた。

 空も、雲も、街も何もかもが赤く染まっている。

 それは不思議と幻想的で、狂おしいほどに輝きを放っていた。

 翔太は空を眺めるのが好きだったが、夕焼けにここまで美しさを感じた事はなかった。

 いつも、空の一つの表情という程度にしか思っていなかった。

 それが今日に限って、どうしてなのかわからないが、この世の至上の美と言ってもいいほどに美しく感じる。

 そう感じる自分を不思議だと感じつつ、翔太はその光景に目を奪われていた。

(どうしてこんなにきれいだと思えるんだろう……)

 太陽は黄金の光を放ちながら次第に沈んでいく。空もまた、輝きを全身で受けて姿を変えていく。

 翔太は言葉を無くしたまま、それを見続ける。

 世界が徐々に色褪せていく。

 燃えるような赤が徐々に青く、そして闇へと姿を変えていく。

 太陽は最後の最後まで鮮やかな光を放ちながら、消えた。

 翔太はその面影を追い求めるかのように、全てが終わった後も動けないでいた。

 静まりかえった屋上。

 時々、まばらに部活帰りの生徒の声が聞こえる程度だった。

 そこに、ギィィ、という鈍い音が突然割り込んでくる。

 屋上のドアが開いた音だった。

 翔太が振り向くと、相当な距離を走ってでも来たのか、息をきらせて肩を上下させている女の子がいた。

 サンダルの色からして翔太と同学年らしい女の子は、何とかという風に顔を上げて、景色を見る。

 途端にがっくりと肩を落とした。

「あぁ〜、間に合わなかった……」

 大きくため息をついて、ようやく翔太に気がついたらしい。多少あたふたとした感じで、

「あ……。ご、ごめんなさい! 人がいると思わなくて」

 頭を下げる女の子に、どうしたものかと翔太は押し黙ってしまう。ここしばらく達樹ぐらいとしか話をしていないのもあっ

て、何を言えばいいのかわからない。

「もしかして怒ってます?」

 黙っている翔太に不安を感じたらしい。

「いや別に怒ってないけど……」

 結局そっけない態度でそう言う。他の男なら何か気の効いたことでも言えるのだろうが、翔太にはそういうものはない。

 一瞬の沈黙。

 女の子が切り出した。

「夕陽、見てたんですか?」

 にこりと笑う。その笑顔に、翔太はなぜか戸惑った。

「う、うん」

 女の子は、翔太と同じようにフェンスに寄りかかった。

「いいなぁ。わたしも屋上で見たいなーって思って、急いで来たんだけど。今日の夕陽は、声も出ないくらいだったから」

「そうだね。何も言えなかった」

 まだあの夕焼けの残像を求めて空を眺めながら言う翔太を、女の子が何かに気付いたかのようにじっと見ていた。

(なんだろう。どこかで会ったことでもあるのかな?)

 あいにく翔太のほうには覚えがまるでなかった。

 何で自分を見ているのか疑問に思ったが、結局はどうでもいい、好きにさせておこうと思った。

 しかし何だろう。

 自分の心の中で、何かが違っているのを翔太は感じていた。今までにない、何かが生まれている。その何かに対する

戸惑いが、翔太に空を見させていた。

「空、好きなの?」

 黙ったまま空を見続ける翔太に、女の子が問いかけた。翔太はちらりと彼女を見て、すぐに空へ視線を戻す。

 女の子はまた笑顔だった。

「別に好きなわけじゃない」

 内心、戸惑いに囚われながらのそっけない返事だった。

 だが、女の子はそれを気にした風もない。

「そうなの? さっきからずっと空を見てるから、そうなのかなって思ったんだけど」

「空を見てると落ち着くんだ。それだけだよ」

 女の子はフェンスに肘を立てて頭をのせた。遠くの空を見るようにして、呟く。

「わかるなぁ。その気持ち……。わたしも昔、そうだったから。空を見ては、幸せだった頃のことばかり思い出してた」

 慣れているように自然なその姿勢が、彼女の言葉が嘘じゃないことを証明しているような気がした。

「今は、別の理由で空が好き。空と言うより太陽かな」

「太陽?」

 翔太にはその気持ちがよくわからなかった。翔太にとっては、太陽は空を構成する一つのファクターでしかない。

「うん。何て言えばいいのか、ちょっとわからないけど。特に夕陽は好きかな。最近雨続きで見れなかったから、少しへこ

んでたんだ。それで今日の夕陽だったから」

「そうなんだ」

「本当は家に帰ってる途中だったんだけど。引き返してきちゃった。本当なら今頃……」

 突然、あっと声を上げて体を起こす。腕時計を見て、そのまま面白いぐらいに硬直した。

「も、もうこんな時間!? ご、ごめん、わたし帰らなくちゃ。ご飯の支度しなきゃいけないから」

 言うや否や、全速力で屋上の扉へと走る。

 離れていく彼女を見送りながら、翔太は心の中の何かを明確に感じていた。それは離れていくごとに強さを増していく。

 もっと話がしたい。

 そう何かは叫んでいた。ここしばらく、そんな風に感じたことはまるでなかった。けれど、それが声になることはない。

(なんで、こんなに戸惑うんだ? どうして?)

 自分に問いかけても、答えは出ない。不可思議な感覚に囚われながら、目は彼女の姿を追っていた。  屋上の扉が開

かれる。

 と、そこで女の子は立ち止まった。

「あ、そうだ」

 くるりと振り返る。薄暗闇の中でも、彼女が微笑んでいるのがはっきりと見て取れた。

「お名前、教えてもらってもいい?」

 心が騒ぐ。その感情を押さえつけながら、翔太は言う。

「……瀬戸翔太」

「瀬戸くん、かぁ。わたし、遠藤夏純。純粋な夏って書いて、かすみって読むんだ。よろしくね」

 言い終えると、翔太に向かって大きく手を振る。

「それじゃ瀬戸くん。今日はありがとう。またね!」

 翔太は黙ったまま、手を振って応える。

 夏純が扉の向こうへと消えていく。

(不思議な……人だな)

 心に降り積もった何かは、不思議な熱を持ったまま残っていた。それを感じながら、翔太はまたフェンスに肘をつく。

 しばらく、そのまま空を眺めていた。

 不思議とその日、あれだけ恐れていた夢は見なかった。



   *



   教壇で英語の教師が何か喋っている。

 静まり返る教室の中に、時々雑音のようなひそひそ話があちこちで起こっていた。

 翔太は相変わらず空を眺めている。

 教師も生徒も、翔太のことなど気にもしない。

 時計の針が進んでいく。

 雲が流れていく。

 そして今日も退屈な時間が終わった。

「あ、瀬戸くん。こんにちはー」

 教室を出て、廊下を少し歩いていたら声をかけられる。

 夏純だ。相変わらずの笑顔だった。

 あれから何度も会っているのに、夏純の笑顔を見る度に戸惑うのは変わらない。

「こんにちは」

 翔太の返事がどこか素っ気ないのも変わらない。

「瀬戸くん、もう帰るの?」

 夏純は、学校で会う度に翔太に話しかけていた。

 なぜ翔太なんかに、とまわりの人間は時々変な目で見るが、当の本人はまるで気にしていないようだった。

「うん。やることないから」

「いいなぁ。わたしこれから委員会なんだ。瀬戸くん、委員会とか部活とか、入ってないの?」

 夏純はそんな調子で翔太について色々と聞いてくる。

 そうしないと夏純が一方的に喋りっぱなしになるし、何より翔太のことをもっと知りたいからのようでもあった。

「入ってないよ。高校に入学した時に少し入った程度」

「へぇー。どこに入ってたの?」

「えっと……」

 少しためらった後、美術部と言おうとした瞬間、

「夏純ー。委員会始まっちゃうよー?」

 後ろから声をかけられ、夏純は慌て気味に今行くと答える。

「ごめん。委員会始まっちゃうみたいだから、わたし行くね。それじゃ、瀬戸くん。またね!」

 夏純は、会話の終わりには必ずまたね、をつけた。

 不思議なことに、それを聞くたびに翔太は何か、安心めいたものを感じていた。

 夏純の姿が教室のドアの向こうに消え、帰ろうかと足を一歩踏み出した時、

「瀬戸くーん。またねぇ〜」

 耳元でそんなことをささやかれるや否や、首に腕を回され、きつく締め付けられた。

「こいつー。いつの間にあんな可愛い子とお知り合いになったんだ。ん?」

 達樹だった。

 にこにことしながら首をますます思いっきり締めつけてくる。

 どうやらさっきの会話の一部始終聞いていたらしい。

「く、苦しいってば!」

 ばんばんと達樹の腕を叩くが、それでも解放されない。

 身長も体格も達樹の方が全然いいせいで、振り解こうにも振り解けない。達樹の思うがままだった。

「おじさんに正直に白状すると誓ったら解放してやろう」

 話したくない。そう思ったがしかしどうにもならない。

 翔太は観念した。

「わ、わかったよ。喋るから、離せ!」

 途端にぱっと解放される。

 翔太がげほげほと咳き込む傍ら、達樹の笑顔はますます彫りを深くしていた。翔太がにらむが、悪びれた風もない。

「さーて、ゆっくりと聞かせてもらおうか。とりあえず廊下で話すのもなんだ。どっかで座りながらにするか。なーに、ジュー

スぐらいはおごってやるよ」

 結局、達樹が握ったペースが翔太に戻ってくることはなかった。そのままズルズルとあまり喋りたがらない翔太から、達

樹は夏純と出会った経緯を全て聞きだしていた。

「ほぉー。それはそれは。よござんすねぇ」

 聞き終えた達樹が、缶コーヒーをぐぐっと飲みながら言う。

「な……なんだよ、その言い方」

 あまり喋りたくもなかったことを無理やり喋らされた翔太は少しぶすっとしながら、達樹の奢りのコーラを飲んだ。

「いやいや、翔太くんにもようやく春が来たんだなーと」

「違うって、だからそういうのじゃないって言ってるだろ」

 何度もそう言っているが、達樹は聞こうともしない。実際、翔太にそういう気持ちがあったわけじゃなかった。

「まぁ、お前も何だかんだ言って顔のつくりが悪いわけじゃないからなぁ。相性があえば大丈夫、大丈夫」

 はぁ、と溜め息をついて翔太は黙りこくった。こういう達樹に何を言ってもしょうがないと思ったからだった。

 そんな翔太を見て、達樹が不敵に笑う。何か嫌な予感がした。

「んで、彼女とどこか行ったりしたのか?」

 黙って首だけ横に振って答える。

「ダメだな。いいかね、翔太くん。君も男なら、がんがん自分から誘っていかないと、そのうち向こうも飽きちゃうぞ」

「飽きるって……なんだよ、それ」

「嫌われちゃうってこと」

 ぴくり、と翔太の耳が反応したのを達樹は見逃さなかった。

「お前、うどん貯金続けてるんだろ?」

 いきなり話題が変わって、翔太は多少面食らう。

「え? あ、ああ続けてるけど」

 うどん貯金、というのは達樹が勝手につけた名前だ。

 実際のところは翔太の父親が毎日置いていく二千円を、なるべく食費を抑えることで溜めている金のことだった。

 そのために翔太は学食で食べるとしたら、一番安いうどんしか食べない。それがうどん貯金の名前の由来だった。

「それなら金のほうはOKだな。よし、行くか」

「行くって、どこに?」

 立ち上がった達樹を、不安げに翔太は見た。こういう時の達樹は何をしでかすかわからない。

「美容室。ちょうど俺も今日行こうかなーとか思ってたところだし。まずはそのボサボサ頭をなんとかする」

「び、美容室って……。僕、そんなとこ行ったことないし」

 あからさまに戸惑う翔太の手を、達樹が引っ張って立ち上がらせる。

「大丈夫、大丈夫。俺がついてるから安心しろ」

 そして結局、翔太は自分には生涯きっと縁のないところだろうと思っていた美容室に、足を運ぶことになったのだった。



   *



 日が暮れかけていた。

 翔太の長めで手入れのされてなかった髪はどこへやら。ばっさりと切られてさっぱりとした髪形になっていた。

 何事も初体験の翔太は戸惑ってばかりで何が何だかわからなかったが、達樹はどうやらえらく満足したらしい。

 これで彼女もイチコロだとか言って、上機嫌で帰っていった。

 翔太は自分の髪を不安げにいじりながら、家へと向かって歩いている。足取りはいつもに比べて遅い。

 今日の達樹の一件で、酷く疲れていたからだった。

(家に帰ってご飯食べたら、もう寝ようかな)

 そんなことをぼうっと考えながら、道を歩く。

 家が見えてきた。住宅街の一端に建てられた、翔太と父親の二人で住むには大きすぎる一軒家が。

 ふと翔太は気が付いた。

 家の門の前に、誰かが立っている。

 黒いスーツを着ている男らしい。父親かと思ったが、それにしては背が少し高いように見える。こっちを向いていないの

で顔もわからない。

 ゆっくりと近づいていく。

 辺りには誰もいなく、不気味なほど静まり返っていた。

 なぜか翔太は心臓が締めつけられるような感覚がしていた。

 それは男に近づいて行くほどに強まっていく。

 不意に男が。

 こちらを向いた。

「な……!?」

 翔太の目が見開かれた。

 男の顔には、常識では考えられないものがあった。

 仮面だ。

 目と口の部分に、合計三つの三日月が刻まれている、白い仮面。その奥は、日の光が届いていないように思えるほど

暗い。

 その闇を直視した翔太は、心臓が握りつぶされるような恐怖を感じた。背に冷や汗を感じる。

 間違いない。

 あの男だった。

「ど、どうして……?」

 ここしばらく、あの夢は見なかった。

 夏純と出会って、学校で話をするようになってから突然見なくなったのだ。

 その男が、突然、夢ではなく、現実に現れた?

 翔太の頭は何も考えられなくなり、体はガタガタと震えはじめた。忘れかけていた、あの痛みの記憶が蘇ってくる。

 男は動かない。仮面の暗闇が、じっと翔太を見据えていた。

 にらみ合うように二人とも、黙ったまま動かない。



『よう。臆病者』



 沈黙は破られた。

 しかし男の口から声が発せられて破られたわけじゃない。

 翔太の頭の中でその声は響いたのだ。

 初めて聞く男の声だった。低くて、濁った不気味な声。

 翔太は、声も出ない。

『ずいぶんと楽しんでるみたいだな。俺が夢に出なくなって、そんなに安心したか? ふふふ、ははははは……』

 声は笑っていたが、姿はまるでぴくりともしていない。一体何がどうなっているのか、考えることもできない。

「ど、どうして……。僕が夢を見てるのか?」

 声が震えているのがわかっていても、どうにもならない。

 夢だと信じたかった。夢だと言って欲しかった。

『残念ながら、これは現実だ。そして、この刀もな』

 突然、どこからともなく現れた刀が、男の手に納まっていた。

 夢と寸分も違わない、紛れもなく自分を切り裂いてきた刃がそこにある。翔太の全身が震え、硬直した。

『まぁ、そんなに固くなるなよ。今日は、ただのお披露目だ。すぐに殺してしまっては、楽しめるものも楽しめないからな』

 愉快そうな声だった。翔太の驚きようを、心底楽しんでいるように見えた。

「本当に、殺すつもりなのか」

 全身の力を総動員して、声を出す。

 だが、それは聞くまでもないことだった。

『当たり前だ。俺が存在する理由はそれ以外にない』

 絶望を感じた。

 あの刀の一振りで、簡単に自分は死ぬだろう。そして、男はそれをなんなくやってのけるだろう。

 あの、夢のように。

『もっとだ。もっと恐怖を味わえ』

 男の声が、にわかに鋭くなる。

『気が狂うほどだ。何もかもを忘れ、ただ処刑の時が来るのを怯えて待ち続けるがいい。お前は、俺という死刑執行人が

現れるのを恐怖して待つ、死刑囚だ』

 おぞましい声。

 それだけで気が狂ってしまいそうなほどに。

 男の笑い声が、頭の中で響き渡る。その声が徐々に薄れていくと共に、男の姿も消えていった。

 翔太はがくりと膝をつく。

 放心状態で、何も考えられない。

 風が吹いた。全身から汗が吹きだした翔太の体を冷ましていく。汗は、悪寒へと変わっていった。

「助かった……のか?」

 いや、助かってなどいない。

 このままでは、確実に殺されてしまう。

 生き残る方法は、希望はどこにもないのか。何か些細なものでもいい。何か、何かないのか。 

 そう思った瞬間、首筋に冷たいものを感じた。

 白く輝く刃が、そこにあった。

『覚えておくんだな』

 全ての可能性を否定するような、冷徹な声だった。

『生き残ろうなんてことは考えるな。お前は、必ず死ぬ』

 刃が消えた。男の姿も消えた。声も消えた。

 首筋から、一筋の赤い雫が流れ落ちていった。



   *



 昼休みを告げるチャイムが鳴る。

 翔太は呆然と空を見ていた。目は虚ろで、見ているというより向いていると言ったほうがいいかもしれない。

 あれから一睡もしていなかった。

 いつ出てくるか、いつ殺されるのか。そんな恐怖が延々とまとわりつき、離れなかったからだ。

 今まで男が現れたのは夢の中で、殺されたとしても実際に死ぬわけじゃなかった。心を保っていられた理由はそこにあ

る。

 だが、今度の場合は違う。

 現実に現れ、実際に傷をつけられた。あの時、首に剣がもっと強く押し当てられていたら間違いなく死んでいただろう。

 だが、殺さなかったのも事実だった。

 いったいあの男は何をしたいのか。何が目的で自分を殺そうとするのか。

 翔太はその事をひたすら考えていた。

 気がつけば、夜が明けて学校の時間になった。

 学校に行くような気力なんて残ってなかったが、一人でいるよりも大人数のところにいたほうが安全かと思って登校し

た。

 授業なんて聞いていられない。

 空を見ても男の顔が浮かんでくる。

 もし今、目の前に男が現れたら翔太は気が狂ってしまうだろう。そのくらい、追い詰められていた。

 ぽん、と肩に手が置かれる。

「うわあああぁっ!」

「のわっ!」

 思わず叫び声をあげて翔太が振り向くと、そこには達樹が驚いた顔をして立っていた。

「な、なんだよ瀬戸。驚かすなよ」

「あ……。ご、ごめん」

 翔太の息が荒い。額には汗も浮かんでいた。

「具合でも悪いのか? 顔色、真っ青だぞ。無理しないで帰ったほうがいいんじゃないか?」

 帰るのだけはごめんだと翔太は思った。

 まだ、周りに誰かがいたほうが安心できる。

「だ、大丈夫。ちょっと驚いただけだから……」

 そう言う翔太を達樹はいぶかしげに見るが、

「……まぁ、自分でそう言うならいいだろ。とりあえず、メシ食いに行こうぜ。栄養はしっかり取っとかなくちゃな」

 翔太は力なく頷くと、席を立った。

 よく考えてみると、翔太はあの時から何も食べてなかった。それでも気が張りつめてるせいか、腹が減ったとは感じて

いない。あまり食欲もしなかった。

 学食への廊下を歩く。

 思わずあちらこちらに気を配りながら、翔太は歩いていた。

「なんだ、愛しの彼女でも探してるのかい?」

「違うよ」

 冗談半分で言った言葉を、極めて真剣に否定されて達樹はなんとなく口ごもった。

 そのまま二人、黙って歩く。

 すると達樹が何かに気付いたようで、ひじで翔太をつんつんと突く。気付いた翔太が、達樹の視線を追いかけると、

「あ、遠藤さん」

 ちょうど教室から出てきたところの夏純がいた。手に弁当箱の包みらしいものを持っている。

「あれ、瀬戸くん?」

 夏純が目をぱちくりとさせる。

「髪切ったんだねー。わからなかったよ」

 そう言ってにこりと笑う夏純を見て、翔太は不思議と気が楽になったような気がした。

「うん。昨日切ったんだ」

「なんか、別人みたい。かっこよくなったね」

 そのセリフを聞いた達樹が、得意満面といった感じで翔太の背中を叩く。押し殺した笑いが口から漏れていた。

「あれ、そっちの人は?」

「あ、こいつは……」

 紹介しようとした瀬戸を制して、達樹が一歩前に出る。

「どうも、瀬戸の友人で、山岡達樹と言います。よろしくー」

「山岡くんって……。あれ、あの山岡くん? 絵画コンクールで金賞とったっていう」

「まぁ、一応そういうことで名前が知られてる山岡です」

 それを聞くや夏純の顔にぱっと花が咲いたようになった。

「わぁ、すごい! あの山岡くんなんだー。あ、わたし、遠藤夏純っていいます。よろしくね」

「よろしくよろしく。んで、遠藤さん。もしかしてこれからメシにするところ?」

 中身のありそうな弁当箱に目をつけたらしい達樹が言う。

「うん。友達と食べる約束してたんだけど、ドタキャンされちゃってね。天気もいいし、屋上あたりで食べようと思ってたん

だけど」

 どんどん、と達樹が気付かれないように翔太の背中を強く叩いた。だが翔太は何も言い出さない。はぁー、と溜め息を

あからさまに吐いて、達樹が言う。

「なら、俺たちと一緒に食べない?」

 そんな二人のやり取りを見て取ったのか、ふふふと笑うと、

「あ、いいよ。わたしもそうしたいなーって思ってたんだ」

「よっし、商談成立。それじゃ二人、先に屋上行ってろよ。俺、学食に行ってなんか買ってくるから」

 姿を消す達樹。残された二人。

「それじゃ、先に屋上にいきましょ」

「そうだね」

 翔太は、さっきとはまるで違う気分だった。なぜかわからないが、夏純のそばにいると安心する。 不安が消え去ったわ

けじゃない。今でもあの時の恐怖が染み付いている。それでもなぜか大丈夫だ、生きていられるという気がするのだ。根

拠も何もないけれど。

 屋上に出る。

 空は所々に雲を残しながらも、晴れていた。

「いい天気だねー」

 目を細めて、太陽を見つめる夏純。つられて、翔太も太陽を仰ぎ見た。六月の太陽は、眩いほどに光を放っている。

「……この分だと、はやく咲くかなぁ」

 突然、呟くように夏純が言った。

「え、何が?」

「わたしがね、一番好きな花。毎年、毎年楽しみにしてるんだ」

「質問の答えになってないよ」

 翔太が困り顔で言うと、

「さて、なんでしょう?」

 お決まりの笑顔だった。

 夏純が好きな花。なんとなくわかりそうで出てこない。

(花のことなんて、ここしばらく考えたこともなかったな)

 本気で悩んでしまう翔太に、夏純が合いの手を入れようとすると、

「うぉっす、お待たせー」

 屋上のドアがけたたましく音を立て、達樹が紙袋を抱えて入ってくる。袋には結構な量が入ってそうに見える。

「ほれ、瀬戸。元気ないお前は肉でも食ってろ」

 と言われて渡されたのはカツサンドだけ三つ。

「あ、ありがと……。でも、こんなに食べられないよ」

「ぶつくさ言わない。男ならそんくらい食えるって」

 有無を言わさぬ達樹の強引さに、

「それじゃ、ご飯にしましょ」

 夏純がくすくすと笑いながら言った。

 太陽が輝く下で、他より少し遅めの昼食が始まった。

 食べながらの話で、時間がゆっくりと過ぎていく。

 基本、達樹と夏純が色々な話をして、振られた話を翔太が相変わらずの片言で答えていた。それでも、普段に比べる

と翔太の口数は多いほうだ。

 達樹はそれに気をよくして、翔太に話をさせようと色々と切り出す。

 いつしか、昔話に華が咲いていた。

「え、それじゃ二人は同じ中学出身なんだ?」

「あぁ、それどころか小学校から一緒だよ。部活も一緒で、ガキのころはよく一緒に絵を描いてたよ」

「へぇー、瀬戸くんも絵、描くんだ?」

 それは意外だったという風にまじまじと翔太を見る。

「う、うん。下手だけどね」

 突然、達樹が吹き出した。

 のどに何か詰まったみたいで、ごほごほと咳き込む。

「お前……。俺を殺す気か?」

 ぜぃぜぃと息が荒いままの達樹に、

「いや別にそんなつもりで言ったわけじゃ」

「十分だよ」

「どういうこと?」

 二人の会話の意味がわからなかったらしく、夏純が言う。

 達樹が、ごほんと咳払いを一つしてから、

「こいつ、すげぇ絵の才能があるんだよ。俺の親父が認めてるぐらいのな。それなのに最近はまるで描こうとしねぇ」

「え? どうして描かないの?」

 二人の視線が翔太に集まる。特に達樹の視線が、刺すようだ。

「いや別に……。描く気がしないだけだよ」

「出たよお決まりのセリフが」

 達樹が溜め息をつくと、

「どうして? ……絵を描くのが嫌いになったの?」

 夏純の言葉に、翔太よりもまず達樹がぴくりと反応した。

 高校入学以来、何度も絵は描かないのかと聞き続けた達樹が、ただの一度も聞いたことのないことだったからだ。

 達樹には翔太が絵を描かなくなった理由は何となく察しがついていた。だからこそ聞かないでいた。

 だがそういう事情を夏純は何も知らない。少し責めるような口調だったが、そこには優しさが込められている。

 達樹は黙って、翔太の様子を伺う。

 一瞬の沈黙。

 翔太が、ゆっくりとした口調で話し出す。

「なんでだろう。自分でも、よくわからないんだ」

 さらに一瞬の沈黙。翔太の視線が、空を指した。

「でも描く気がしなくなったのは多分三年前、母さんが死んでからじゃないかと思う」

「おかあ……さん?」

 夏純が呟いた。

「うん。それでも描いてはいたんだけど、高校に入った頃あたりから、完全に描く気がしなくなっちゃったんだ」

 さっぱりとしたような翔太の口調が、逆にその悲しみの深さを物語っていた。その表面を切り裂いて中をのぞけば、ま

だ泣き叫ぶような声が聞こえてきそうだった。

 それを感じ取ったのか、夏純が気遣うように、

「ご、ごめんね。つらいこと思い出させちゃって」

「いいんだ。別に気にしないで」

 それきり、二人の会話は絶えた。お互いに気を遣っているつもりなんだろうが、逆効果だった。

 やれやれ、という風に達樹が口を開く。

「ま、この話はこのくらいで終わりにしよーや。ほれ瀬戸。そのカツサンド食わねーなら俺が食っちまうぞ。もちろん代金

お前持ちだけどな」

 言うや否や、さっと達樹の手が伸びて、手付かずだったカツサンドを奪った。

 翔太はあっと声を上げ、腰を浮かす。

「誰も食べないなんて言ってないだろ。返せよ達樹」

「ひひひ、やだねーっと」

 カツサンドを取り返そうとする翔太だが、それをひょいひょいとかわしながら達樹は袋を破っていく。

 そんな二人を見て、夏純はにこっと笑った。

 翔太は横目でちらりとそれをのぞき見た。よかった、と安心した瞬間、達樹の口の中にカツサンドは消えていた。

「あぁ! お前、本当に食べやがったな!」

 口をもがもがと動かしながら、

「早い者勝ちってやつよ。諦めろ」

 余裕の勝利宣言だった。

 キーン、コーン、カーン、コーン……。

 チャイムが鳴ると同時に、

「それじゃ、瀬戸くん。またねー」

 達樹はにこにこと手を振りながら、屋上のドアの向こうへと消えていった。

「まったくもう」

 はぁと溜め息をついた翔太を見て、夏純が笑顔を新たにする。

「いい人だね。達樹くん」

「まぁ、ね」

 この前まで、どうでもいいとしか思っていなかったはずなのにと、翔太は思いながら頷く。

 いやな感じはしなかった。

 こう思えるのは夏純のおかげなんだろうと素直に感じていた。

「それじゃ、わたしも行くね」

 ドアに向かって小走りで駆けていく。翔太もその後を追うように歩き出した。

 不意に、夏純が振り向く。

「瀬戸くん」

 呼びかけたが、応える前に夏純は続けた。

「やっぱりわたしたち、似てるよ」

「え?」

 意味がわからなかった。

「それって、どういうこと?」

 夏純は答えない。ただ笑っていた。

「またね!」

 背を向けて、また小走りに駆ける。

 屋上のドアが、重苦しい音を立てて、閉じた。

 翔太は立ち止まったまま、夏純の言葉を思い返していた。

「似てる? 僕と、遠藤さんが?」

 どう考えてもわからない。似てるというより、対照的だ。いったい、どこをどうとって似てると言ったのか。

 わからないまま、時が過ぎる。



『馬鹿なやつだな』



 不意に頭の中に声が響いた。

 背筋に悪寒が走る。翔太は、慌てて辺りを見回した。

 男はフェンスに寄りかかるようにして立っていた。

 相変わらずの白い仮面と黒いスーツだ。手には当然のようにあの刀が握られている。

『そんなことを悩む必要はない。お前に許されているのは、俺が現れるのを恐怖しながら待つことだけ』

 フェンスから背が離れる。

 ゆっくりと、ゆっくりと翔太に近づいていく。

『昨日言ったばかりなのに、もう忘れたか? お前は、死刑囚なんだよ。忘れられないように、体に刻み込んでやろうか』

 ヘビに睨まれたカエルのように、翔太は動けない。吹き出す汗。震える体。男が近づいてくるのを待つことしかできな

い。

「や、やめろ……」

 殺す気だ。翔太は直感した。途端に足から力が抜け、無様にしりもちをつく。男は、目の前に迫っていた。

『無理な相談だ』

 剣が持ち上げられていく。

『さぁ、死ね。あの世で母親にでも甘えるんだな』

 抑揚のない、冷たい声が途切れる。

 翔太の視線が、ただ剣にだけ注がれる。冷え切った刃が、光を反射して妖しくきらめく。

『愚か者に、裁きを!』

 刀が振り下ろされる。風を切り裂いて、真っ直ぐに。

 翔太は目を閉じた。

(死にたくないっ!)

 そう心の中で叫んだ瞬間、翔太の頭の中でなぜか夏純の姿が浮かび上がった。あの笑顔が浮かび上がった。

 恐ろしいほど長く、短い時間が流れる。

 翔太は恐る恐る、目を開いた。

 刀は、翔太の肩を切るか切らないかの寸前で止まっている。

 男の舌打ちがした。

『まだわかってないらしいな。おとなしく殺されれば』

 不意に、剣が姿を消した。

 空いた手が翔太の首を掴む。このまま握りつぶされるんじゃないかというぐらいの力が、そこにかかった。そのままの

体勢で、翔太は持ち上げられる。

 声も出せない。もちろん息もできない。口から、泡が吹き出していく。体が、びくびくと痙攣(けいれん)しはじめる。

『殺されれば楽になれるというのが、なぜわからんのだ』

 男の声は苛立っていた。だが、それにも関わらずもう一息のところで、男は手を放した。

 叩きつけられる翔太。肺が酸素を求めて暴れだす。体がまるで言うことをきかずに震え続けている。

 そんな翔太を、冷たく見下ろす仮面の男。

『まぁいい。まだ生かしておいてやる』

 苛立ちは消え、再びあの抑揚のない冷たい声が響く。

『次で最後だ。それまでそんな風に震えているんだな』

 そして男は姿を消す。

 翔太は倒れ込んだまま。

 汗が流れて、滴り落ちていく。

「また、助かった……」

 心臓の勢いが止まらない。全身の震えも止まらない。

 恐怖はまだ心を支配し、呆然としたまま頭も動かない。

 そんな状態で一つのことを考えていた。

(どうして、殺さなかった?)

 殺そうと思えば殺せたはず。はっきりと殺すと宣言さえしていたのに、なぜ殺さなかったのか。

(もしかしたら)

 確証はない。

 何か別の理由で殺さなかったのかもしれない。

 だが、どうしても生まれた小さな可能性を信じたかった。

(あいつには、僕を殺すことができないんじゃないか?)

 だがどうして殺せないのか。

 それがわからない限り、安心はできない。

 キーン、コーン、カーン、コーン……。

 授業の始まりを告げるチャイムが、まるでどこか遠くで鳴っているかのようだった。



   *



 放課後。

 家に帰ろうと翔太は廊下を歩いている。

 翔太は窓から空を見た。

 曇っていた。晴れるかもしれない。雨になるかもしれない。

(天気予報は、どっちだっけな)

 ぼうっとした頭で、そんなことを考えていた。

 梅雨時なんだから、雨になる可能性のほうが普通に考えれば高い。だが翔太は今日、傘を持ってくるのを忘れてい

た。

(晴れないかなぁ)

 ぞくり。

 背筋に悪寒が走った。

 ぼうっとしていた翔太の頭が、急に研ぎ澄まされたようにはっきりする。視線の主を探して、辺りを見回した。

 どこにもいない。気配も消えていた。それでもどこかから、あの男の笑い声が聞こえてきそうだった。

(また、か……)

 翔太は深く溜め息を吐いた。

 あれから男は姿を見せなくなった。

 代わりに視線だけを何度となく感じていた。さっきのように、ほんの一瞬気が緩んだ時に一瞬だけ視線を感じさせ、消

える。

 翔太の不安と頼りない希望は膨らむばかりだった。

 次はいつ出てくるのか、今度こそ殺されるのか、男は自分を殺せないんじゃないか、生き延びる方法はないのか。

 そんな考えが翔太の中に充満して、離れない。

 自然、気は張り詰めて、眠ろうにも眠れず、疲れは溜まるばかりだった。

 気が休まる時といったら、夏純と話をしているときだけ。話をすればなぜか安心できる。大丈夫だと思える。

 だが、それは話をしている間だけだ。

 終わり、別れると必ずあの男の視線を感じる。氷を押し付けられたような鋭い冷たさを背中に感じるのだった。

 まるで狩りのチャンスを待つ猟師のように獲物が疲れ、油断する一瞬の隙をうかがっているのかもしれない。

 そう思うとますます気が許せない。

 そんな状態が一週間も続いて、翔太はもう限界に来ていた。

「あれ、瀬戸くん」

 夏純だった。心配そうに顔を覗き込んでくる。

「なんか、顔色悪いよ。大丈夫?」

 不意に、夏純の顔がぼやけて見えた。同時に、体から力が抜けていく。体が言うことをきかない。

「うん、だい……じょう、ぶ……」

 翔太の意思に反して、体が勝手に倒れていく。

「せ、瀬戸くん? 瀬戸くん!?」

 夏純の声が遠くに、か細くなっていく。

 廊下に完全に横になった時、翔太の意識も途切れた。



「あれ……?」

 目を開く。ぼんやりと、白い天井が見えた。

 続けて、心配そうにしている女の子の顔。

「目、覚めた? 大丈夫?」

 頭が動いてない。何がなんだかよくわからない。

「ここは?」

「保健室だよ、バカ!」

 達樹がぬっと視界に入り込んでくる。

「いきなり倒れやがって。運んでくるの大変だったんだぞ!」

「倒れた?」

 次第に頭がはっきりしてくる。

「あ、ああ……。そうか、いきなり目眩がして」

「はいはい、ちょっとごめんなさいね」

 夏純と達樹の二人を押し分けて、女の人が翔太の前に立った。校医の和田さんだった。

 翔太の顔をじっと見て、額に手を当てる。ふむ、と納得したように言うと、

「単なる疲労ね。あと、寝不足。家に帰ってゆっくりなさい」

 それっきりで、すたすたとどこかへ行ってしまう。

 達樹がはぁ、と深く溜め息を吐いた。

「おまえな、倒れるならもっとマシな理由で倒れろよ」

 いきなり、めちゃくちゃなことを言う達樹。眉の間に、しわができている。何だかんだ言って心配していたらしい。

「まぁ、よかったじゃない。大事にならなくて」

 こっちはすっかり安心して笑顔になった夏純。

「確かにそうだけどな。まぁいいや。それじゃ俺、美術室に戻るわ。和田さんの言うとおり、しっかり休んどけよ?」

「あ、うん。ごめん達樹」

「いいってことよ。そんじゃーな」

 達樹が保健室から出て行く。翔太はとりあえず起き上がってみた。体が重いが、動けないほどじゃない。

「大丈夫?」

「うん。問題ないよ」

 ベットから降り、足元に置いてあった鞄を手に取った。

「帰るの?」

 翔太は頷いて返す。すると、夏純がうーんと何か悩んでいるかのようなしぐさをした。

「心配だし、瀬戸くんと一緒に帰ろうかな」

「え?」

 思わず翔太は声を出していた。

 今まで、二人が一緒に帰ったことはなかった。いつも学校で会って、話をするだけだったから。

「だめ?」

 翔太に断る理由も何もない。むしろ大歓迎だった。

 男がいつ現れるかわからない今は、本当なら帰る時も誰かについていて欲しいと思っていたぐらいだ。

 そうしないと不安に押しつぶされそうだったから。

「そ、そんなことないけど」

「よし、じゃあ決まり」

 夏純は、嬉しそうに微笑んだ。



 曇り空は結局、どちらに傾くこともなく曇り空だった。

 その下を、二人が歩いている。

 翔太の足取りはやはり疲れが出ているのか、いつもと比べれば遅い。それにあわせて、夏純もゆっくりと歩いている。

 取り留めのないことを話しながら、翔太はふと思った。

(そういえば、この前の似てるってどういうことなんだろう)

 結局、その意味は聞いていない。

 自分で考えて答えを出そうとしたが、わかったのは実は夏純のことはよく知らないということだけだった。

 さっきからの話を聞いていても、自分のことについてはあまり触れようとしない。

 どうしてなんだろう、翔太は単純にそう考えていた。それでも、自分からその話を振ろうとは翔太は思わない。

「ねぇ、瀬戸くん」

 呼びかけられてはっと気付く。

 一瞬、そんな考えに囚われて話を聞いてなかった。言葉に戸惑いが混じっているのを感じながらも、返事をする。

「な、なに?」

 だが夏純はそんな翔太の戸惑いなど気にしてない様子で、

「普段、どんなもの食べてるの?」

 話を聞いてなかったことを責められてるんじゃないと安心したが、言われて翔太は悩んでしまう。誇れるものも何もな

い。正直に言った。

「朝は食べない。昼は学食でうどんを食べて、夜はカップラーメンかコンビニ弁当かな」

「やっぱり……」

 夏純が溜め息をついた。

「そんなものばっか食べてると、栄養が取れないよ? きっと今日倒れたのだって、そういうのばっか食べてるからだよ」

 ぐさっ、と突き刺さるような言葉だった。言われてみれば確かにそうかもしれない。

「今日の晩御飯、惣菜でもつけてみようかな」

 夏純が翔太の返事を聞いてまた溜め息をつく。

 すると目を閉じ、唇をとんがらせて何か悩み始めた。急によしと頷くと、翔太の方を向いた。

「瀬戸くん。今日の晩御飯、うちで食べていかない?」

「はい?」

 思わず間抜けな返答をしてしまった。どういう意味か理解するのに少し手間取る。さすがにそれはまずいと判断し、

「で、でも迷惑じゃ」

「いいのいいの。三人分も四人分も一緒だし。うちのことはぜんぜん気にしないでいいから」

 意外と強引なところがあるなーと翔太は改めて思った。多分断っても意味がないような気がなんとなくした。かといって

素直にうんと言うのも気が引ける。

「よし。そういうことで決定ー。もう買い物してる時間ないから、ありあわせになっちゃうけどね」

 そう言って笑う夏純に、翔太はもう素直に従おうと思った。どっちかと言えば、結局は行きたいのだ。

「それじゃ、ご馳走になります」

 夏純はまたにっこりと微笑んだ。



 夏純の家に着いたのは、六時前だった。

 それなりの広さの一軒家だった。家の中は、小奇麗に片付けている。翔太はあまり掃除をしない自分の家と単純に比

べて、それだけで何か感じ入っていた。

 日が長くなってきたせいか、まだ外は明るい。曇り空の切れ目に、少し晴れ間が見えた。

「それじゃ瀬戸くん、適当に楽にしててね」

 ソファーに座った翔太に飲み物だけ出すと、夏純はエプロンをつけて料理をし始めた。

 慣れた手つきだった。

 トントントンという音の小気味の良さからして、時々しているという程度のレベルじゃないように思えた。

 その姿に、何か懐かしいものを感じる。微かに聞こえてくる鼻歌が、ますますそれを深く感じさせた。

「遠藤さん、普段からご飯作ってるの?」

 夏純の背に向けて、翔太が言葉を投げかける。

「うん、そうよ。うち、お母さんいないから」

 夏純はあっさりと言う。その言い方が、戸惑いを生んだ。

「え? それって」

「あ、そういえば話してなかったね」

 振り返ることなく、料理を続けながら、

「うちのお母さんも、三年前に死んだんだ。それからかな、わたしが家事全般やってるの」

 翔太は言葉もなかった。

 夏純には、そういう暗い影のようなものを見たことがなかった。だからこそ料理をしているのは、きっと母親も働いてい

るからだろうとぐらいにしか思っていなかった。

 それがまさか自分と同じように母親を亡くしているだなんて。

 翔太は、はっと気がついた。

「もしかしてこの前の似てるって言ったのは、そういうこと?」

「うん。そうだね。それだけじゃないけど」

 思い出すように、ぽつりぽつりと夏純が話し出す。

「わたしもね、瀬戸くんと同じだったの。お母さんが死んで、家族三人の慣れない生活が始まってからは、いつも泣いて

た。そんな時、空を眺めて昔のことばかり思い出して」

(遠藤さんが、泣く?)

 翔太にとって、想像もできないことだった。夏純といえば、笑顔としか考えられないぐらいに印象が強い。

「わたしだけじゃない。お父さんと、あと弟がいるんだけど、二人も同じでぜんぜん笑わなくなったの。毎日が辛くて辛く

て、正直、死のうかと思った。今の瀬戸くんみたいにね」

 どきりとした。

 自殺じゃないけれども、確かに死に近づいてはいる。

 翔太がそんな状況に追い詰められていることに、夏純は気付きながら接していたというのか。

 だがそれよりも、夏純が自殺をしようとしたことがあるという言葉のほうが翔太には衝撃だった。

「でも、そんな時思い出したんだ。お母さんの最後の言葉。泣きじゃくるわたしに、お母さん、なんて言ったと思う?」

「……わからない」

 正直、検討もつかなかった。

 自殺しようとした人間を引き止めるような言葉なんて、考えもつかなかった。だが、翔太は難しく考えすぎていた。

 答えはもっとシンプルなものだった。

「笑って、って。その時は意味がわからなくて、ずっと泣いてたの。お母さん、多分わたしたちを励ますためだと思うけど、

最後まで笑ってたんだ」

 夏純の声に悲しみの色はまるで見えない。翔太は、自分との絶対的な違いをそこに感じた。

「それで思ったんだ。笑おう、って。少しずつでもいいから、笑おうって。そうすれば、必ず何かが変わるって」

 笑顔を積み重ねた結果、どうなったのか。答えは、聞くまでもない。今の夏純の姿がすべてを物語っている。

 翔太は何とも言えず、考え込んでしまう。

「あ、ごめんね。なんか変な話しちゃって」

 気遣うように、振り返りちらりと翔太を見る。夏純の視線に気付いた翔太が、慌て気味に手を振りながら、

「い、いや別にそんなことないよ。変なんかじゃない」

 夏純がまたふふ、と微笑むと、

「ありがとう」

 そう言って、料理のほうに目を戻した。

 また、鼻歌が微かに聞こえてくる。その背中を、なんとなく翔太は見つめていた。まるで、母親そのものだなと思った。

 炒め物のおいしそうな匂いが漂ってくる。

 食欲を刺激する匂いに、思わず腹の虫がぐぅと鳴った。

 夏純が微笑む。

「そろそろ、弟が帰ってくる頃かな」

 できあがった料理を皿に移し変えながら、夏純がそう呟く。と、同時にドアが開く音がする。

「ただいまー」

 声に続いて姿も現す。

 小学校の高学年くらいに見えた。服はほこりまみれで、かなり汚れている。たぶん外で遊んできたんだろう。

 不意に、翔太と夏純の弟の目があう。

「あ、お邪魔してます」

 途端に、壁に背をつける弟。

 心底びっくりしたように、目を見開いたまま、

「ね、姉ちゃんが男連れ込んでるー!!」

 言った瞬間、夏純のげんこつが飛んだ。

「初対面の人にあいさつもしないで、何バカなこと言ってんの」

「だって事実……」

 夏純がじろりと睨んだ。弟の口元がひきつる。

 あらためて翔太の方を向き直り、

「は、はじめまして。遠藤春樹って言います」

「えと、瀬戸翔太です。よろしく」

 お互い何かどぎまぎしながらのあいさつだった。

「ほら、春樹。もうすぐご飯だから、先にお風呂入ってきて」

 はーいと返事をすると、すぐ姿を消した。

 やはり少し、気まずいものがあったのか、それとも少し内気な性格をしているのか。

 どっちもかな、と翔太は思った。

「ごめんね。変なこと言って」

 呆れ果てたという風に夏純が言う。

「いや、別にぜんぜん気にしてないし」

 正直に言う翔太を見て、夏純は大きく溜め息を吐いた。

「まったく、うちのバカどもときたら……」

「ただいまー」

 今度は大人の声だった。

 背広姿の、サラリーマン風の男がリビングに入ってくる。きっと夏純の父親なんだろう。どことなく目が似ていて、優しそ

うだった。

 そんな風に翔太が顔を見ていると、不意に目があった。

 どこかで見たような動き方をする。

「か、夏純が男連れ込んでるー!!」

 親子そろって、同じ反応だった。



「いやー。さっきはいきなり、すまなかったねぇ」

 服を着替えてきた夏純の父親が、開口一番、そう言った。

 けど、内心どう思っているのかはそのにやにやとした顔を見ればわかる。

「あ、いえ。別にそんな」

 言いながら翔太は、どことなく達樹と似ている感じがするなと思っていた。妙にいたずらっぽいところが、特に。

 ただ、こっちの方がどことなく家庭的な温かさがある。

「なんせ夏純が男の子なんて連れてきたのは初めてでね。ちょっとびっくりしちゃったんだよ」

 言いながらはははは、と笑う。夏純と同じで、笑顔がよく似合う人だな、と翔太は思った。悪い気はぜんぜんしない。

「もう、びっくりするのにも仕方があるでしょ? あんな驚き方するなんて……」

 夏純ができあがった料理を運びながら、頬を膨らませて言う。

「まぁ、年頃の娘を持った父親なんて、みんなこんなもんよ」

 そう言って笑う父親をよそ目に、夏純は料理を並べていく。どれもこれも、おいしそうだった。

「あ、今日のご飯はすごいなー。四品もあるよ」

 風呂から上がってきたらしい春樹が、テーブルの上を見て歓声を上げて、笑顔になる。子供らしい、無邪気な笑みだっ

た。

「今日はお客さんも来てるしね。腕によりをかけてみました」

 並べ終わった料理を前に、夏純がにこりと微笑む。

「そりゃあ期待できそうだ。冷めないうちに食べるとしよう」

 夏純父の言葉に従うように、夏純も春樹もテーブルにつく。もちろん翔太もだ。

「いただきまーす」

 食卓に並んだ料理に向かって、手をあわせ声をあわせる。

 その空気に、どうにも翔太は慣れなかった。この温かさに、どうしても違和感を感じてしまう。

 その戸惑いが、食事が始まっても翔太の箸をなかなか進ませない要因となっていた。

「瀬戸くん、遠慮しないでいいよ?」

 夏純が、瀬戸の戸惑いを察して声をかける。

「そうそう。とりあえず一口食べてごらん。そんな悩み、ぶっ飛んじゃうから」

 夏純父の言葉に、こくりと頷いて翔太は箸を伸ばした。一品つまんで口に運ぶ。

「どう?」

 一瞬、言葉が出なかった。代わりにコクコクと頷き、

「おいしい」

 とやっとの思いで言った。

 お世辞抜きで、本当においしかった。声が出なかった理由はそれだけじゃない。夏純の作った料理には、久しく翔太が

忘れていた母の味、とでも言うような温かさがあったからだ。

「まぁ、姉ちゃんの料理がまずいわけないけどな」

 春樹が当たり前のように言う。父親もまったくだと頷いた。

「よかった。口に合わなかったらどうしようかと思った」

 安心したようにほっと息をつく夏純を横目に、翔太はどんどんと箸を伸ばし始める。ほとんど夢中になって食べていた。

「はは、言ったとおりだろう?」

 その様子を笑顔で見ていた夏純の父親が、声をかける。

「はい。おいし……」

 口にものを入れたまま喋ったせいか、のどに詰まって声が続かなかった。それと察した夏純が差し出した飲み物を、一

気に全部飲みほす。

 げほんげほんと咳き込んでから、

「お、おいしいです」

 そんな翔太の様子に、三人が声をあげて笑う。

「よしよし、そんなら遠慮はいらん。載ってるもん全部食ってもかまわんぞ」

「父ちゃん、それ言い過ぎだよ。ここに育ち盛りが一人いるってこと忘れてもらっちゃ困るな」

 口を尖らせて春樹が言うと、がはははと豪快な笑い声をあげた。つられて夏純も笑っている。

 よく笑う家族だな、と翔太は思った。

 だがさっきの話からすると、このよく笑う父親も、春樹もそして夏純自身も、笑顔をなくした冷たい家族だったのか。

 正直、信じられない思いだった。

 同じ時期に、母親を亡くした過去を持つ二人。

 しかしこの対照的な違いはなんだろうか。笑顔という、ほんのささいなものだけで、ここまで違いが生まれるものなの

か。

 実際に翔太は自分に当てはめてみた。

 母の死から、人が変わったように仕事にのめり込んだ父親。それにともなって、自然に絶えてしまった会話。それを修

復するのには、どれほどの努力が必要なのだろう。

 翔太は身震いした。到底できないと思った。夏純はどれほどの失敗、どれほどの落胆を乗り越えてきたんだろう。

 ちらりと夏純をのぞき見る。いつものように笑顔だった。

 この笑顔の裏には、それだけの苦労が積み重なっているんだなと思えた。だから、こんなにも安らぎを感じるんだろう

な。

 そんなことを考えてるうちに、春樹が肉の最後の一切れを奪い取り、テーブルの上には皿だけが残った。

「ごちそうさまでしたー」

 食べる前と同様に、みんなでそろって手を合わせる。この家の一種の決まりごとなのかもしれない。

 夏純が食器を片付け始める。手伝おうとする翔太を制して、春樹に皿運びの手伝いをさせていた。

 食卓に残ったのは翔太と夏純の父親だけ。

「いやー。今日のメシは格別にうまかった。君のおかげだよ、瀬戸くん。普段はもっと手抜きするんだけどさ」

 夏純父が一杯になった腹をさすりながら、翔太に笑いかける。

 だが翔太のほうはどう答えていいのかわからない。曖昧に受け答えるだけだった。

 そんな翔太を、夏純父が、急にまじまじと覗き込んだ。

「ふーん。なるほどねぇ」

 妙に納得した風だった。昔の自分たちの姿を、翔太の中に見たのかもしれない。

「瀬戸くん、これからも夏純と仲良くしてやってくれ」

「え?」

 いきなり真面目な顔でそう言われ、翔太は戸惑った。それを解きほぐそうというように、夏純父は続ける。

「いやさ、あいつも三年前に母親をなくしてから、ずっと気丈に代わりをしてくれてさ。あの子がいなかったら、今頃どうな

ってたかわからないぐらいだ」

 夏純には聞こえないぐらいの声で、ひそひそと喋る。翔太は何も言わず、それに聞き入っていた。

「正直、申し訳ないなと思ってたんだよ。遊びたい年頃の娘に、毎日毎日こんなことさせてさ。文句一つ言わないからな

おさらね。そんなあいつが、君を連れてきた」

 夏純父はにっこりと微笑んだ。

「初めて見たときはあんな反応したけど、本当はかなり安心したんだよ。夏純も、ちゃんと女の子してるんだなってね」

 カチャカチャと鳴っていた皿の音が、止んでいるのに二人は気がつかない。

 夏純父は、にやりと笑って翔太の肩を掴み、引き寄せる。

「だからさ、頼むよ瀬戸くん。おじさんも影ながら応援するから。二人がいいなら、いけるとこまでいっても構わないから」

「い、いけるところまでって……?」

 なんとなくその意味を理解した翔太だが、それ以上は何も言えず、ただ赤くなるばかりだった。

「あ、でも子供ができないように注意はしてくれよ。子供は責任がとれるようになってから……」

「お、と、う、さ、ん」

 その声にゆっくりと二人が振り向く。ぷるぷると眉根を震わせながら、夏純がそこに立っていた。

 夏純父の頬を、汗が伝っていく。

「ち、違うんだ夏純。これはな、父親として当然の……」

「問答無用!」

 ぱこーん、と音が響いた。

 頭をおさえてうずくまる父。げんこつを握り締めた娘。

 翔太はそれを見て、何かこらえきれないものを感じた。

「ふ、ふふふ」

 はじめは忍び笑いだった。だが段々と押さえきれずにそれが膨れ上がっていく。我慢する必要もないなと翔太は思っ

た。

「あはははははは」

 気がつけば翔太は、声をあげて笑っていた。

 どれくらいぶりに笑ったのかわからなかった。もしかしたら母さんが死んでから、初めてかもしれないと翔太は思った。

 翔太が笑ったのにつられて、三人が一緒に笑う。

 この笑い声と、そして何よりの笑顔が、翔太の凍りついた心をついに溶かしたのだった。



「それじゃ、お邪魔しました」

 帰り支度を整え、翔太が頭を下げる。

「はいはい、またいつでもおいで」

「兄ちゃん、今度いっしょにゲームしようぜー」

 笑顔で言う二人に、翔太は頷いて返した。

「それじゃ、わたし少し先まで送ってくるから」

 ういうい、と言いつつ何やら耳打ちをする二人に、夏純がまたげんこつを握り締めて見せる。

 そんな光景に、翔太は何か微笑ましいものを感じた。できることならずっと一緒にいたいとすら思ったが、そうもいかな

い。

 少し未練を感じながら、翔太は家を後にした。

 外はすっかり暗くなっている。

 曇り空が少し晴れていた。隙間から星の光が見える。それをぼんやりと見ていた翔太に、夏純が声をかけた。

「今日はごめんね。うちの連中、バカばっかりで」

「いや、そんなことないよ。楽しかった」

 翔太は不思議と体が軽くなっているのを感じていた。あれだけ疲れが溜まって、重かったのが嘘のようだった。

「でも今日は、本当によかった」

「何が?」

 にっこりと、夏純が笑う。

「瀬戸くん、笑ってくれたこと。今まで、瀬戸くんの笑顔って見たことなかったから」

「そう、だね。僕も久しぶりに笑った気がする」

「笑うことって、すごい大事だよ。父さんも春樹も、お母さんが死んだ後はろくに口も聞かなかったぐらいだったけど、必死

で笑いかけ続けたら、少しずつ変わっていってくれた」

 だからね、と夏純は続ける。

「瀬戸くんに、もっともっと笑ってほしいんだ。そうすればきっと、絵も描く気になれると思うから」

 夏純の言う意味を、翔太はようやく理解できた。その上で、強く頷いて見せる。事実ほんの少しだけだったが、絵を描こ

うという気持ちも生まれていた。

 それはほんの小さな、生まれたばかりの若い芽だった。水をやらなければ、たちまち枯れてしまうぐらいの。

 だが翔太は、きっと大きく育つと確信していた。

 夏純がいてくれれば、きれいな花を咲かせてくれると信じていた。この、笑顔さえあれば。

「遠藤さん」

「ん、なに?」

「僕、絵を描くよ」

 今までにないくらいの、力強い言葉だった。

「描いて、遠藤さんに一番に見せてあげる。すぐには無理かもしれないけど、きっと、必ず」

 そう言って翔太は、笑顔になった。夏純もにこりとして、うん、と頷く。その顔に、喜びがあふれていた。



  『おめでたい連中だな』



   一瞬、頭の中が真っ白になる。

 声がした。

 背筋が凍えるぐらいに冷たく暗い声が、頭の中で響いた。

「な、なに? 頭の中で声がする!?」

「……!? 遠藤さん、あの声が聞こえるの?」

 不安に見開かれた目を向けて、夏純は頷いた。

 カツ、カツ、カツと靴が鳴る音が響いてくる。

 その音の方向に、二人は振り向いた。

 翔太が考えていた中でも、最悪の事態が起ころうとしていた。

 闇の中から、不気味に白い仮面がせり出して来る。続いて、闇と同化しているようで、闇より際立っている黒いスーツ

が現れた。そして、不可思議なほど妖しい光を放つ刀――

『残念ながら、お前が絵を描くことなどありえない。言ったろう? お前は死刑囚だと。そんな時間は残されてはいない』

 あの男が、ついに現れた。

 体がガタガタと震えだす。汗が滴り落ちていく。

「瀬戸くん? どうしたの、瀬戸くん!?」

 目を見開いたまま微動だにしない翔太に必死に声をかけるが、その目は男を凝視したまま、動かない。

 恐怖が心を支配していた。あれだけ希望や可能性を男の行動から推察していたのに、直面しただけで消えうせた。10

0%でない可能性と、100%の死では比べようもない。

 それでも、翔太はなんとか言葉を搾り出す。

「遠藤さん、逃げて……。はやく、逃げて」

 夏純には何がどうなっているのか、まるでわかっていなかった。それでも男の雰囲気と翔太の様子から、この後なにが

待ち構えているのかだけは理解した。

 逃げ出せば、翔太は殺される。

 夏純は、翔太の前に出た。守るように、翔太を背にかばう。

 男の笑い声が、頭に響いた。

『これは傑作だ。まるで子供を守ろうとする母親だな』

 陽気に残酷な声だった。

 夏純の体に、震えが走る。異様な風体の男を前にして、怖くないわけがなかった。ただ、翔太を守ろうとする一心で夏

純は立っていた。

『だが』

 男の声から、陽気さが消えた。冷酷で非情な、氷のように鋭く突き刺さる声に変わる。

『目障りなんだよ、お前は。おかげで、俺の計画はずいぶんと狂わされた。母親代わりなど、やつには必要ない』

 ゆっくりと靴音を立てながら、夏純の傍へと歩み寄っていく。

 夏純もいつの間にか、全身が動かなくなっていることに気がついた。信じられないくらいに、ぴくりとも動かない。

 男の手が、夏純のあごに触れた。

『しかし好都合だ。お前には死んでもらう』

 翔太の頭が、真っ白になった。

「なぜ」

 必死の思いで、翔太が口を開く。

「なぜ遠藤さんが殺されなくちゃならないんだ! お前は俺を殺したいんだろう!? 素直に殺せばいいじゃないか!」

 男の高笑いが頭の中で響く。

『この女が死ねば、もうお前を支えるものは何もない。絶望、失望、怒り、後悔にまみれて落ちていくだけだ。その時こ

そ、死刑を執り行う絶好の』

「殺したければ、殺しなさいよ」

 男の言葉をさえぎって、夏純が言った。だが気丈なその言葉とは裏腹に、目には涙が溢れ、体は変わらず震えてい

る。

「でも瀬戸くんは絶対に負けたりしない。絶対に!」

 がしりと、男の手が夏純の口を掴む。夏純は、何かを言おうとしているが言葉にならない。

『生意気な口だ』

 声に苛立ちが含まれていた。そのまま、夏純の体を宙に浮かせる。すさまじい力が込められていた。

『なら、望みどおりに殺してやる!』

 男は剣は使わなかい。代わりに、手から何かのエネルギーのようなものを送り込んでいるように見えた。それは空気中

でバチバチと音を立てている。

 夏純の顔が、苦痛に歪む。翔太はそれを見続けていた。薄く目を開けた夏純と、目が合う。はやく逃げて、とその目が

語りかけているように見えた。

(助けたい)

 その想いが、次第に心の中で膨れ上がっていく。男が発した恐怖という名の金縛りを押しのけるほど、大きく膨れ上が

る。

 腕一本だけが、自由になった。

 目の前には油断しきった男がいる。翔太は、体に残されたすべての力を右腕に集め、そして。

 殴りつけた。

 完全に鳩尾に入ったと確信した。男がくの字に大きく体を曲げる。夏純はその手からようやく逃れ、力なく地面に落ち

た。

『ぐ、ぅ……。油断したか』

 男の苦しげな声を聞いたのはこれが初めてだった。だが翔太の体はまた自由にならなくなっている。これ以上はもう、

どうにもなりそうにない。

 一瞬の間。

 男が、苦々しく言った。

『まぁ、いい。当初の目的も果たした。女は生かすだけ生かしておいてやろう。次に会う時こそ、お前の最後だと思え』

 男の姿が闇に交わるようにして消えていく。数秒で、その気配は完全に消えた。

 翔太は、急激にプレッシャーがなくなったのを感じた。体が自由に動くようになる。全身が、鉛のように重い。

「遠藤さんっ!」

 地面に横たわったまま、ぴくりとも動かない夏純。

 翔太は抱き起こして、肩を揺さぶった。

 体は十分に温かい。死んでいないことは確かだった。

 気が急く。

 早く声が聞きたかった。

「遠藤さんっ!」

 呼びかけに答えるように、ぴくりと体が反応した。

 ゆっくりと、まぶたが開いていく。黒目が頼りなく動いた後、瀬戸の姿を映した。

「……だれ?」

 翔太の顔が強張る。およそ夏純らしくもない、温もりが感じられない声だった。笑顔も、そこにはない。

 それだけで、理解できた。

 目的は果たした、女は生かすだけ生かしておいてやるという、男の言葉の意味が、泣きたくなるほど明確にわかった。

 もう夏純はここにいない。

 彼女は、記憶を失っていた。



   *



 空は黒い雲で満ちていた。

 雲同士がぶつかり、混ざり合い、うなり声をあげている。

 翔太はフェンスに手をついて、そんな空を見ている。

 目は、虚ろだ。感情という感情が全て消えうせたように、灰色の濁った目をしている。

 この空は、まるで翔太の心に呼応しているかのようだ。

 ただ、雨が降り出すのを待つばかりだった。

 屋上の扉が開く。重苦しい音を立てて、閉じた。

 達樹が険しい顔をして立っていた。

 翔太は振り向かない。視線は空に向けられたまま動かない。

「おい、瀬戸」

 早足に翔太に近づきながら、達樹が呼びかける。

 返事はない。

「瀬戸!」

 耳元で叫びながら、肩を掴んで揺さぶる。それでようやく達樹のことに気がついたらしい。

 ゆっくりと、首を達樹の方へと向ける。

「あぁ、達樹か」

 力のない声だった。

 ただ声だけ出したという程度で、感情は何も込められていない。目も達樹を見ているようで、まるで見ていなかった。

「何してんだよ、こんなところで。今は遠藤さんの傍にいてやるべきだろ? お前がそんなんでどうするんだよ」

「いいんだ」

 翔太は空に視線を戻した。

「何がいいんだよ」

 達樹の言葉に苛立ちが含まれていた。

「いいんだよ。もう」

 その絶望の深さが、達樹にも伝わってくる。奈落の底へ落ちていくような錯覚に囚われるほど、恐ろしい絶望だった。

 夏純の記憶が失われた、昨日の夜。

 それからの翔太は、心が欠けてしまったようだった。時間が経つほどに、その空白が広がっていく。  夏純は記憶も感

情も、何もかもが消えたまま病院のベットで眠っている。

 このまま目を覚まさないんじゃないか。

 そう思ってしまうほどの、深い眠りだった。

 翔太は、その現実の前から逃げ出すように夏純から離れ、屋上で黒い雲に覆われた空を見ていたのだ。

 その心の空白は、ますます広がっている。

「いいわけが……」

 ないだろうが、と叫びたかった。だが、叫べなかった。達樹は握り締めた拳を、さらに強く握り締める。

 まるであの時のようだった。

 翔太の母親が死んだ、あの時のよう。

 達樹は覚えている。翔太の目を。自分を見た時の限りなく深い絶望に包まれた、灰色の濁った目を。

 あれから三年、絶望が少しずつ消えはじめ、夏純との出会いがきっと翔太に絵を描かせるだろうと期待していたのに。

 全ては、もろくも崩れ去った。

「……勝手にしろ!」

 達樹は、そう叫ぶとその場から離れた。

 あの時のように、時間がきっと解決してくれる。翔太も、夏純も必ず元に戻る。そんな頼りない考えに、達樹は身を委ね

るしかなかった。

 屋上の扉が、大きく音を立てて閉じる。

 翔太は、一人になった。

 ぽつり。

 雨の粒が、一粒だけ空から落ちてくる。

 ぽつりぽつりぽつり。

 それを皮切りに、どんどんと落ちてくる雨の粒。

 すぐに、ザアザアと強い雨になった。

 翔太は動かない。

 ずぶ濡れになろうが、指一本動かさなかった。

 雷が落ちる。

 激しい音を立てて、二度三度と立て続けに落ちた。

 その音に混じって、カツ、カツ、カツという音がする。

 靴音だ。

 翔太は、フェンスから身を起こす。ゆっくりと、靴音の主のほうへと振り返った。

「待ってたよ」

 翔太が呟くように言う。

 雨の音にかき消されそうなほど、か細い声だった。

『覚悟はできているようだな』

 男の声が、頭の中で響く。

 もう恐怖も何も感じなかった。体は震えない。頭も冷静だ。動こうと思えば、自由に動ける。

 だが、翔太に抵抗する気はなかった。

『ふふふ……。いいぞ。すばらしい』

 男の声は、愉快そうだった。

『絶望、失望、怒り、後悔。ありとあらゆる負の感情が一緒くたに混ざりあう混沌だ。俺はこれを待っていた』

 もし、男の仮面の下に顔があるとするならば、そこには間違いなく歪んだ笑顔があったろう。そう思えるような声だっ

た。

「そんなことはどうでもいい。早くしろ」

『ふふふ、いいだろう』

 男がゆっくりと翔太に近づいていく。

 雷が、また落ちた。ゴロゴロとうめき声のように鳴り響く。

 雨はますます、勢いを強くしていた。

 刀が、翔太の心臓の位置にあてがわれる。そのまま真っ直ぐに貫けば、万が一にも生き残る術はない。 

『これで最後だ。何か言い残すことはあるか?』

「ない」

『……いい答えだ』

 稲光が走る。

 刃が、翔太の胸を刺し貫いていた。



   *



 ジリリリリリリ……。

 目覚まし時計が鳴り響いている。

 夢の中から引きずり出された翔太は、やかましい音を出すそれを探して、手を伸ばした。

 なぜか見つからない。

 おかしいなと思いながら、寝起きで重い体を起こす。

「おはよう、翔太」

 同時に、目覚まし時計の音が止まった。

「ああ、おはよう……」

 相変わらず、紛らわしいことが好きだなと思いながら、ベットから降りる。朝日に、笑顔が映えていた。

「母さん」



 テーブルには、トーストが用意されていた。

 バターを塗り、ジャムを塗ってひとかじりする。

「おう、翔太。おはよう」

 大きなあくびをしながらリビングに入ってきたのは、

「おはよう、父さん」

 紛れもない、翔太の父親だった。

 テーブルにつき、同じようにトーストを食べ始める。

 二人ともぼうっとした頭で、朝から元気なニュースキャスターの言葉を、聞いているようで聞いていない。

 極めてスローペースでトーストをかじっていた。

「二人とも、そんなにゆっくりしてたら遅刻するわよ」

 いつものことにくすくすと笑う。

 言われてやっと気付いて、残り半分のトーストを一気に口に入れるのがこの家族の習慣だ。

「行ってきまーす」

 ここのところ、家を出るのは翔太が一番早い。

 母親の気をつけてね、という言葉を聞いているのかいないのか、全力で走り出す。

 そんな翔太を、母親は微笑みながら見送っていた。

(次の角を曲がる、と)

 学校に行くにはずいぶんと遠回りだった。

 よほどの理由じゃない限り、朝からこんな面倒なことはしない。というより、できない。

 その、よほどの理由が頬を膨らませて待っていた。

「瀬戸くん、おそーい」

「ごめんごめん。ついまた、のんびりしちゃって」

 夏純だった。頬を膨らませていたのもつかの間、すぐにいつものように笑顔になる。今日もご機嫌のようだった。

「さ、行こっ」

 そして二人で登校する。

 六月の末だというのに、抜けるような青空だった。

 天気がいいせいか、話も弾む。ブロック塀の上を歩くネコがいたせいで、今日の話題はネコ関係だった。

 そんな二人の後ろからそろーっと近づいてくる男がいる。気付かれないように手を伸ばし、一気に肩を掴んで引き寄せ

た。

「よう、お二人さん。今日もお熱いねぇー」

 そう言って、二人のびっくりした顔を見比べる。

 達樹はひどく満足に笑っていた。

「な、なんだ達樹かー」

「達樹くん。心臓止まるかと思ったよ……」

「はは、わりぃわりぃ」

 そんな風に達樹を加えて、三人で登校する。

 これが毎日の基本形だった。

 翔太の心は幸せと言ってもいいぐらい満ち足りている。

 温かい家庭、友人、そして夏純。

 今まで翔太が失ってしまったものの全てが、ここにある。あまりにも、都合が良過ぎるほどに。

 そう。

 この世界は偽物だ。

 現実に似せて、翔太の理想を具現させた虚構に過ぎない。

 もし、翔太が後ろを振り返ればたやすく気がついただろう。

 歩いてきた道は、既にない。通り過ぎた場所は、闇にのまれて消えていっている。

 ここはさながら、闇の中に作られた小さな箱庭だ。

 どこまでも歩いていけると思わせておきながら、実はただ同じ場所で足踏みをしているだけ。

 その永遠の繰り返し。

 だが翔太は気付かない。というよりも、気付こうとしない。

 この世界は翔太にとって、あまりに居心地が良過ぎた。

 それに、目を覚ます必要もない。

 翔太は現実で死を望み、男の刃に貫かれたのだから。

 三人が歩く。

 道はどこまでも続いているように見える。

 立ち止まることなど、ありえない――はずだった。

「どうしたの、瀬戸くん?」

「どうした、瀬戸?」

 二人の言葉も、今の翔太には届かない。

 翔太は、立ち止まっていた。

 その目がただ一点を見たまま、動こうともしない。

 翔太は、どうしようもないほど心がざわめくのを感じた。

 不意に、夏純の言葉がよみがえってくる。



――わたしがね、一番好きな花。



 あの時は結局、答えは聞けないままだった。



――さて、なんでしょう?



 その答えが、この花だとしたら。

 この一輪だけの、六月に咲くには早過ぎる花だとしたら。

 翔太は呆然とその花を見つめながら、近づいていく。

 その花を、手の中に収めた。

 なぜだろう。不思議なほどの温もりが、その花から伝わってくる。あまりにも温かすぎて、涙があふれてくる。

 ひまわり。

 太陽のような姿をした、花。

 それはまるで――

「遠藤……さん」

 翔太は、その一輪だけ咲いたひまわりに、夏純を感じていた。

 頬を涙が伝っていく。

 間違いない。そのひまわりは、夏純だと翔太は確信した。

 考えてみれば、夏純はまるでひまわりそのものだ。

 太陽が好きで、いつでも太陽を求め続けて、その姿さえ太陽に似ている花を咲かせる、ひまわり。

 その種を夏純はきっと、母親からもらったんだ。

 始めはきっと、弱々しい小さな芽に過ぎなかったその花を、夏純は挫折を味わいながらも、育て上げた。





 凍りついていた家庭に、ひまわり畑を咲かせた。一面、見渡す限りに輝いているような、花畑を作り上げた。

 そして母親がしてくれたように、同じように笑顔をなくした翔太にひまわりの種を渡し、さらには育ててさえくれた。

 その花が、いま目の前で揺れている。微笑んでくれている。

 それに比べて――

 自分がやってきたことはなんだ。

 結局は与えられるのをただ待つだけで、求められたらその分返していただけだ。

 絵を描いたことだってそうかもしれない。

 始まりは、子供の頃。

 母さんがくれた絵の具を使ってのただの落書きだった。

 その落書きを誉めてくれた、優しく包んでくれた母さんが、もっと描いてと言ったから、ただ描いていただけ。

 夏純の時だってそうだ。結局は、安らぎを与えてくれた代償として絵を描こうとしていただけじゃないのか。

 そして今はどうだ。

 何も望む必要がないような、与えられたこの妄想の中で立ち止まっている。何も生み出そうとは思わない。

 夏純の言っていたことを何一つ理解していなかった。

 涙は、とめどなく流れ落ちていく。

(何かを人に与えることができるようになりたい)

 翔太は自然にそう思っていた。

 そのための鍵は、目の前で咲いている。

 今は一輪しか咲いてないけれど、もっともっと咲かせることができれば。それこそ、ひまわり畑と呼べるくらいに咲かせ

ることができれば、きっと――

 翔太は顔をあげた。

 その胸に、決意が満ちていた。もう、迷うことはない。

 広がる景色に別れを告げる。

 途端に、闇がそれらに食らいついていく。

 夏純と達樹の姿をしたものも、消えていく。

 一分としないうちに、周囲は完全な闇へと変わる。

 闇の中で、ひまわりだけが淡い小さな光を放っていた。

『あの世界を、否定したか』

 闇の中から、男が姿を現す。相変わらずの格好だ。だが、刀は持っていない。

『バカな男だ。せっかく、お前が望んだとおりの理想の世界を与えてやったというのに、自分で破壊するとはな』

 翔太は男から、何のプレッシャーも受けていない。もう、男には翔太と敵対する気持ちはないのかもしれない。

 もし受けたとしても、もう震えて動けなくなるようなことはないだろう。胸に輝く、ひまわりがあれば。

「確かにあの時の僕の理想――いや、妄想はそうだったのかもしれない。だけど今は違う。僕は理想を見つけたんだ。こ

の理想を成し遂げるために、僕は現実に帰る!」

 強く宣言するかのように言った。男に、自分に。

『……まぁ、いいだろう』

 男の声はどこか、苦々しかった。

『もうお前を拘束する力も俺にはない。せいぜい、現実で苦しむがいい。今まで与えられたことしかなかったお坊ちゃん

が、どれだけできるのか。見せてもらおうじゃないか』

 男が手を横に伸ばす。

 闇の中に、真っ白な穴が生まれた。

 翔太は、その穴に向かって歩いていく。それに触れられる位置まで来た時、翔太は立ち止まった。

 男の方を振り向く。

「一つだけ、聞いておきたいことがある」

『なんだ?』

「結局、お前は何者なんだ? どうして僕を殺そうとした?」

 翔太の問いに、男は何が面白いのかケラケラと笑い出した。

「何がおかしい?」

『いや、別に。気がつかないものだなと思ってな』

 男が仮面に手をかける。

 ゆっくりと、それが取り外されていく。いつでも無表情だった、その仮面の下から現れたものは――

『俺は、お前だよ』

 翔太とまるでそっくり同じ作りをした顔がそこにあった。ただ、目には優しさも何もなく、残虐な光が宿っている。

『本当なら、間抜けなお前を始末した後、俺がお前になりかわる計画だった。今となっては、もうどうにもならんがな』

 翔太は、一瞬ぶるりと震えてうつむいた。恐怖のせいじゃない。怒りが、体に充満していく。

「それだけのために、遠藤さんに手をかけたっていうのか!?」

 許せなかった。この男が自分と同一人物なんじゃないのかというのは、なんとなくだったが感づいてはいた。

 だがまさか、夏純に危害を加えるとは思ってもなかった。言ってみれば、自分が夏純から記憶を奪ったようなものだ。

 男は、黙って頷く。

 途端に翔太の怒りが、男の顔を殴りつけていた。

 何がおかしいのか、殴られたにも関わらず男は笑い出す。

『俺を殴っても無駄なことだ。殴るべきは、自分自身だろう?』

 男の姿が消えていく。闇に溶けていくように、次第にぼやけていく。最後にその顔が、にやりと笑ったように見えた。

「そんなこと言われなくても、わかってるよ」

 男の消えた闇に向かって、翔太が吐き捨てるように言う。

 この罪は、これからの自分の行動で償おう。

 翔太は心の中で、そう思った。

 白い穴に触れる。その瞬間、穴から閃光があふれ出した。闇が光に貫かれていく。あっという間に、世界は光に満ち

た。

(帰ろう……。あの世界に)

 翔太の意識は、次第に薄れていった。



   *



 翔太は目を覚ます。

 白い天井がまず目に入った。どうやら、病院のベットで寝かされているらしい。無造作に体を起こした。

「のわっ!?」

 そんな声を上げて、誰かが上体を大きく反らす。

 まだ焦点が合わない目でそっちを見ると、どうやら達樹らしい。心臓に手を当てて、息を荒くしている。

「お、お前なぁ、びっくりさせるなよ。死んだように寝てたくせに、いきなり起き上がりやがって」

「あ、ああ。ごめんごめん」

 何がごめんなのかよくわからないが、とりあえず謝る。

 呼吸を落ち着かせた達樹が、顔を覗き込んでくる。じろじろと、異常がないかと確認しているらしい。

 満足したのか、元の体勢に戻ると、

「見たところ大丈夫そうだな。お前、二日間も寝てたんだぜ」

「二日?」

 思わず聞き返していた。

 あの世界ではずいぶんと長い時間が経っていたような気がしたが、案外短かったのかもしれない。

 ふと、翔太は気がついた。

 達樹の向こう、壁際のイスに座っている男の人に。

「父さん……?」

 久しく見ていない顔だった。眉根にしわを寄せて、厳しい表情をしているのは相変わらずだと思ったが。

「翔太、山岡くんにお礼を言っておきなさい。ほとんど付きっきりで看病してくれたんだから」

 ずいぶんと重苦しい声だった。疲れがはっきり表れている。

 達樹が慌て気味に手を振る。

「い、いやいや付きっきりだなんて。おじさんにはかないませんよ。二日間、ろくに寝てないんじゃないですか?」

 多分、事実なんだろう。険しい顔に疲れがそのまま表れていた。それでも翔太の父は認めずに気丈に振舞う。

「大丈夫そうだから、私は仕事に戻る。一応、医者にしっかり診てもらいなさい」

 そう言って、荷物をまとめて帰ろうとする父親を、

「父さん」

 翔太が呼び止めた。立ち止まり、首だけを翔太に向ける。

「ありがとう」

 精一杯、笑顔を作って言ったつもりだった。

 それがどこまで届いたのかはわからない。

 翔太の父は結局黙ったまま、病室の扉を開けて出て行った。

「しっかし、お前の家は色々と複雑だなぁ、やっぱり」

 少しの沈黙の後、そう言う達樹に翔太は思わず微笑んだ。

「大丈夫だよ。きっと、昔みたいに戻れる時が来ると思う」

 翔太を、達樹がまじまじと見る。信じられないものを見るような目つきだった。

「お前……。本当に瀬戸か? まるで別人みたいだぞ」

「同一人物だよ」

 翔太は、笑顔を新たにした。達樹はなんとなく違和感がするようで、翔太の顔を見ずに窓の外を見ていた。

「それより達樹。僕、決めたことがあるんだ」

「おう、なんだ?」

 達樹が半分警戒、半分好奇心という風に反応する。

「次のコンクールに向けて、僕も絵を描く。それも、達樹の絵なんて目じゃないくらい、すごいやつをね」

 達樹が完全に沈黙した。

 あんまりにも突然、待ちわびていたことが起きたために、頭の中の収集がつかなくなったのだろう。

 そんな達樹の反応を、翔太は楽しんでいた。

「ほほほほほほほ、本当かっ!?」

 その言葉が出るまでに、ゆうに一分はかかった。すっかり興奮しきった達樹に、翔太は笑いながら頷いて返す。

「こ、こうしちゃいられねぇ。あんな絵、今すぐにでも描きなおさないと話にならん。じゃあな、瀬戸っ!」

 何も描き直さなくても、と言おうとした時にはもう達樹は部屋にいなかった。相変わらず、思いつめると行動が早い。

 さてどうしたものかとベットに座っていると、医者が来た。

 どうやら、翔太の父親が帰る前に知らせたらしい。

 診断結果は、異常なしだった。



 翔太は、夏純の病室を訪ねた。

 春樹が難しい顔をして、姉を見つめている。

「あ、兄ちゃん。目、覚めたんだ?」

 部屋に入ってきた翔太に気付き、春樹が声をかける。

「うん。僕は大丈夫。遠藤さんの具合は?」

 春樹は、首を振って答えた。

 記憶を失ってから三日。症状に変化はないどころか、ますます感情が消えていっているように見えるらしい。

「遠藤さん」

 翔太が呼びかけに、反応はない。

 それでも翔太は、諦めずに声をかけ続けた。

 何度も何度も、時間の許す限り。だが、夏純にはまるで他人という概念がないのかとすら思えるほど反応がなかった。

 翔太は毎日、夏純に会いに行った。

 結果が変わらないまま、一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。

 気がつけば七月の中旬。梅雨も明けようとしていた。

 翔太は病院への道を歩いている。太陽が、少しずつその力を増してきている。もう、夏なんだなと翔太は思った。

 夏、という言葉に翔太は閃き、道を引き返し、街の方へ走る。

 あるはずだ。きっと、あるはずだ。

 その思いに駆られながら、翔太はあるものを探した。

「あった!」

 翔太は思わず叫んでいた。

 色とりどりの花が店頭に咲いている中に、大きく花を開いたひまわりの姿があった。

 半ば興奮気味に、翔太はひまわりを買う。

 あの世界のひまわりに、負けず劣らずきれいだった。

(これなら、きっと……)

 翔太の中に、確信に近い希望が芽生えていた。何の根拠もない。冷静に考えれば、目を覚ます可能性は無いに等しい

のに。

 ひまわりを握り締めたまま、翔太は走る。

 次に立ち止まったのは、画材屋だった。

 幸い手元には今までうどん貯金で貯めたお金がある。買おうと思えば、どんな画材でも手に入った。

 だが、ずらりと並ぶ画材の中で、翔太が手に取ったのは油絵の具でもなく、水彩でもない。

 色鉛筆だった。

 自分でもなぜそれを選んだのかわからない。でも、これがふさわしいという気がなぜかしていた。

 病院へと走る翔太。少しでも早くと、心は急いていた。

 扉を思い切り開け放つ。

 息の荒い翔太に、春樹が驚いていた。だが、春樹がそれよりも驚いたのは翔太の手に握られたひまわりのようだっ

た。

「へぇ、よく姉ちゃんがひまわり好きだって知ってたねー」

 まあねと答えつつ、翔太は花瓶にひまわりを移し、夏純から見える位置にそれを置いた。

「これで、よしと」

「兄ちゃん、何する気?」

 やろうとしていることがよくわからないのか、春樹が翔太の動きの一つ一つに目を配りながら尋ねた。

「ま、見てればわかるよ」

 翔太が色鉛筆を手に取り、画用紙に絵を描き始める。実際に描くのはどれくらい振りかなと思い返しながら、描いてい

く。

 時がゆっくりと流れていく。

 次第に出来上がっていく絵に、春樹が思わず声を漏らす。まるで、魔法を見ているかのような気分だった。

 徐々に翔太の熱が上がっていく。ささいな、細かいところにいたるまで丁寧に仕上げていく。

(僕なりの答えを、全て詰め込んだ絵を描く。それが、あの時の約束の本当の答えになるはずだから)

 その気持ちが妥協をまるで許さなかった。

 描き始めてから、一時間ほど経った。

「できた……」

 色鉛筆の良さをこれ以上ないぐらいに引き出した、翔太からしても満足のいく絵がそこにあった。

 ひまわりの絵。

 夏純の想い、翔太の想いが一つになってそこに表れていた。

 誰もがこの絵を見れば、思わず微笑むだろうと思うような、心を温かくさせる絵だった。

「すげぇよ兄ちゃん! 俺、こんなうまいの見たことない!」

 はしゃぐ春樹に、翔太は微笑む。

(ここからが、問題だ)

 絵を持って夏純の傍に寄る。

 心臓がバクバクしているのがわかる。

 何も起きない可能性のほうが高いのはわかっている。

 だが膨らむ期待はもう、どうにもできない。

「……遠藤さん。絵、描けたよ」

 夏純の視線の先に、ひまわりの絵を差し出す。

 反応は、なかった。

(やっぱり、ダメか)

 溜め息を吐く。正直、残念だった。

 だけど、これで終わりじゃないと翔太は思っていた。

 いくらでも描けばいい。

 自分の心が伝わるその時まで、

 描き続ければいい。それだけのことだ。

 そう思って、絵を夏純の視線から外そうとする。

 すると夏純の手が伸びる。

 絵を掴む。

 夏純の目に、光が戻ってくる。同時に、涙が溜まっていく。

「せ……と、くん……」

 目と目があう。

 翔太は、にっこりと笑う。

 夏純も笑顔を作ろうとする。



 全ては、ここから始まっていく。



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