革命の涯 [ -運命-Shicksal- ]
畔上和人




 頑丈な石造りの螺旋階段を一歩一歩踏みしめ、登っていく。

 外は嵐。遠い雷鳴が、塔の厚い石壁を通してその青年の耳に響き渡る。

 最早、後戻りはできない。覚悟を決めるしかない。この足を進めるとともに、迷いを打ち切っていかねばならない時がき

たのだ。寒くはないが、表情が凍てついた水のように強張っている。機械的な運動を繰り返す四肢に張り付いた緊張感

が、いつまでたっても抜けない。

 手にした蝋燭の明かりのほかは、全くの闇に閉ざされた道。

 行くべき先があることを信じていなければ、進むこともままならない。

 恐怖。

 だが、彼の真に恐れているものは闇ではない。それよりもむしろ、彼は自身の目指すべきもの、塔の頂上にある部屋

で彼を待つものを恐れる。尤も、その対象は彼の愛す歌姫なのか、それとも彼女に会うことで起こる何かなのか、彼には

よくわからなかったのだが。

 ――何をそう恐れる。これが、お前の決めた道だろう。

 そう自分に何度も言い聞かす彼の心のなかは、まるで嵐の様。

 才知の青年政治家の彼が硝子の声で叱咤して、自らの正当化に理性を懸命に働かす一方で、その誰かではない、彼

が――自分が、その声に反発を覚えている。その心情はまったくの、逆。

 ――しっかりしろ、情けない奴め。一歩進む度に身に重い煩悶を捨て去りながら行くんだ。これらのものは、もう自分に

は要らないものとなったから。今の自分に要るものは私自身だけで十分だ。実際それが一番辛いのだが、身軽な方が

何でもできる気になるものだ。

 真剣に心の安定を求める自分に、彼は少し呆れた。一体、彼女が何をしたというのだろう。自分が恐れているのは、畢

竟、自分の生み出す幻ではないのか。そういうことは今までにも身に覚えがあった。見つめれば今度は目をはなすことを

恐れるがゆえに、自分の心に目を向けることを恐れてしなかったということは。

 ――わかっている。

 自分を見つめる、その勇気はもう自分にはあるはずだ。彼は自身を一喝した。

 勇気。

 それはかつて、友がくれたもの。だが、友が聞けば、「それは俺が与えたのではない。お前自身のなかに元々あったの

だ」と抗議したことであろう。そう思うと、彼の唇に微かな笑みが浮かんだ。

 友は言った。

 ――『どこまでいっても、お前はお前だ、レンブラント』

 懐かしいその声が、耳の奥でまだ反芻している。

 辛辣な真実、厳しき慈愛をもってして、風のように飄々たる友は彼の心の隙間に入り、秘めたる想いをくすぐり、暴い

た。

 求めていたのは、その一言だったのかもしれない。

 恐怖が消え失せ、勇気に変わる。青年は、深呼吸をひとつした。

 ――行こう。

 彼の心は、決した。



   序と、終わりに



   なぜ、自分は此処に来たのだろう。

 今の僕を突き動かすものは、誇りや名誉といったものではない。生き残るために同じ人間同士で殺し合い、勝敗と正邪

を幾多の犠牲の上で決める――なんて、まるで愚かで悲しいこんな戦場に、一体誰が好きこのんでいくものか。

 ただ、僕は己の思うに従って此処まで来た。強制的な徴兵による兵士ではなく、ましてや何かの使命感によるものでは

なくて一介の従軍医師として出征を決めたのは、僕がたんにそうしたかったからだ。

 僕たちは、生まれたときから死ぬことが決まっている。しかし、いつ死ぬかはわからない。わからないが、そういう運命

の下にあることだけはいつか知り、そして人生を歩んでいく。

 いや、此処へ来たのは、その運命に早々と従うためではない。

 大体、僕は自分が思っているほど強くはないし、また弱くもない。小さな弾丸ひとつで死ぬかもしれないが、だからとい

って、常に死の影に怯えて生きていけないなどということはない。

 ――僕が此処へ来たのは死ぬためではなくて、生きるためだ。



 暗黒の宇宙(そら)、煌煌と瞬く星たちの下に大地は息づいていた。

 その鼓動はまるで寄せては返す波の様。夜明け前の静寂が闇に溶け込み、そのせいで闇は一層その深淵を深める。

大地に生きるものたちの多くは日々新たに生まれ来る暁を待ち侘びて、眠りのなかで寝返りを打つ。

 闇の静寂、望まれる暁――それらは、この西の荊棘(けいきょく)の戦場にも変わらずに来る。しかし、目覚めている者

はまだ少ない。昨日の泥まみれの戦の後だ。それも仕方ない。

 疲れた大地の上を、カイン・ルントガングは颯爽と歩いていた。歩きながら、その知性の光を秘めた切れ長の黒い瞳

で、辺りの様子を鋭く見渡していた。彼の眼には同じように大地に横たわる人間でも誰が生きているか、またそうでない

かを正確に映しだされた。

 とはいえ、死者に対して特別な感慨はわかない。恐ろしいことだが、紙一重の差で決まる戦場の生死と長期化する戦

いの終わりに、彼の神経は次第に鈍磨しつつあった。

「少佐殿!」

 不意に彼を呼び止める擦れた声が、背後で聞こえた。振り返るが、しかし人の動く気配はない。

「ここです」

 大地からひょっこりと、塊が出てきた。どうやらトレンチの中にいたらしい。泥と硝煙で汚れたまだ幼さが抜けきらぬ青

年の顔が、暗闇の中で弱々しげに笑った。

「どうした」歩み寄る。

「銃弾に掠った左腕が――いや、大したことはないんですが――ずきずきと痛むんです。少し、看てくれませんか」

 頷いて、カインは下げていた革の手提げ鞄から消毒用の酒の小びんと真新しい包帯をひと巻き取り出した。

「少し沁みるが、我慢しろ」

「どうせなら、浴びるより飲みたいですね、その酒」

 苦笑いする兵士を横目に、彼は口に酒を含んで傷口に吹きかけた。兵士の顔が苦痛に歪む。瞬く間に包帯が巻かれ

た。その手際の良さは驚くばかりだ。だが、それは慣れというより彼の職業に関係がある。泥と血に汚れた灰色の制服

の襟に付けられた徽章(きしょう)は彼が少佐であり、また同時に医師でもあることを示していた。

「よし、いいぞ」

 兵士の疲れた顔に、ようやくほっとした笑みが浮かぶ。本来なら清潔を保ったまま傷を回復させねばならないが、こん

な所ではそれは不可能だった。

 兵士は気分が落ち着いたからか、礼を言った後、ふと気づいた。この人はなぜこんなところにいるのか。救護兵ならい

ざ知らず、従軍医師自身が兵隊に混ざって前線を歩くなど、この危機的状況にある戦場においては聞いたことがない。

しかも、いつ敵兵の銃弾が来るやも知れぬ夜明けの荒野を、この人は歩いていたのだ。権威を振りかざす将校達とも、

兵隊の後ろを行軍する医師たちとも彼は違う。

 一体、何を考えているのか、不思議に思った。

「治療して助かりましたが、もし歩いているのが敵に見つかったら、狙い撃たれますよ。何か、探し物でもありましたか」

 彼の突然の質問に、その医師は驚いた様子を見せた。

「そうだな…」

 煮え切らない返事。何かを隠しているわけではないが、口ごもる。実は思索をするのにこの暁の刻が最適だったとい

う、ただそれだけのことだった。危険のことは今言われて初めて気づいた。感覚の鈍磨は、どうも自分の生命に対しても

起こっていたらしい。

「考え事をしていた。暁のこの時が、一番落ち着くのでね」

「…はぁ。少佐殿は、大器なんですね。俺なんか、朝が来るのが怖いくらいなのに」

「正直だな」

「嘘はつけませんから」

 そう言って、兵士は力なく笑った。進め、戦えの軍隊では、たとえ真実でもそんな弱音は絶対、吐けない。だが、何故だ

ろう。その中でも異色なこの医師を相手にしているからだろうか、今は素直に本音が出た。

「…いつ終わるんでしょうね、この戦いは」

 今の圧政に一揆を起こした反乱軍の勢いは、戦いが長引くにつれて強大になっている気さえする。その度に、彼のよう

な若い兵士まで国を離れて戦場に駆り出される。秩序を守るという大義名分の名のもとに争いが起こされ、自分だけで

なく己のまわりをも破壊される。善悪の判断は混乱で惑わされる。勿論、常に正しい判断がなされるわけでもないし、そ

れが実行されるとも限らないのだが、あらゆる問題が複雑に絡み合って、解決すべきことはより難解さを気取るばかりと

なってしまう。

「俺たちがいくら命をかけて戦っても、本当の終わりは来ないのかなぁ…」

 若い兵士が呟く。   

「……」

 本当の終わり。片方が幸せになれば、もう一方が不幸になる。

 誰かの犠牲の上に、生きる――それらは、どうしようもないことなのかもしれない。しかし、だからといって、それだけで

終わらせられるだろうか。自分には、どうしようもないものなのか。

 戦いを望んでいるのは、戦いたいからではない。人を、殺したいからではないのに――。

 兵士たちが戦場で死に、大地が荒廃していく様を目のあたりにする度に、カインの心は掻き乱され、彼に模索を命じ

た。なぜ争わねばならないのか。なぜ死なねばならないのか。解決の方法はないのか。戦いは、そしてその死は必然な

のか――と。

 そして気がつけば、彼は此処――戦場に来ていた。

 ――ただ、嘆くだけでは何も変わらない。今、自分がなすべきことは何なのか。

 カインはトレンチから頭を出し、闇の空間を凝視した。 

 ――『俺は、生きる』

 脳裏に、そう言い切った友の言葉が浮かぶ。病弱なその身体で、常に死を想って生きてこなければならなかった。悲観

的な運命論に、かつては首をうなだれていただけの友。その彼が、今は虚飾が渦巻く心の闇を凝視し、そこに光もて暴

こうと、独り必死で戦っている。

 終わらせたい――そのために、真実から目を逸らさない。

 ――彼は、強くなった。

 終わらせるための戦いは、欺瞞であっては到達できない。自身のすべて、その涯のなかにある。

 どんな虚飾(うそ)も弁解も通じない。そうでなければ戦いの終わりに、始まりはないから。

 ――自分の信念を貫いて生きろ、わが友よ。俺もそうしよう。

 彼が此処に来たのは死ぬためではない。生きるためであった。



   もう荒野の地平線が赤くなっていた。夜明けが来て、今日もまた、日が昇ろうとしている。薄暗い光が大地に横たわる

兵士たちを照らし始めた。

 カインはその様子を、じっと見つめた。

「いや、来るさ。俺たちが終わらせるんだ」

「えっ」

 独白のような彼の言葉に、兵士は躊躇する。彼は今何と言ったのか?――だが、医師の表情からはその意図は読み

取れない。

 彼は喉まで出掛かった言葉を、ぐいと飲み込んだ。

 ピィ―――――…ッ。

 遠くで伝令の笛が聞こえた。夜明けとともに、今日すべきことが伝えられる。

 カインは基地の方へ足を向けた。

 その去り行く背中に、兵士が声を掛けた。戦友の間では挨拶のような言葉。だが、それには心からの彼の本音が込め

られていた。

「…生きてまた会いましょう、少佐殿」

「俺もだ」

 朝日が昇り、今日もまた、戦いが始まる。



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