傷痕に光る
風谷光司




   ***

 色のある世界。

 色のない自分。

 できの悪い合成写真のように、溶け込めずにいる。

 座り込んで、動けなくなって。

 いっそここから消えてしまいたい。

 そう思って。

 できなくて。

 そんな自分に、差し伸べられた手。

 色のある世界に、私が生まれた。

 手にすがって、引っ張られて歩き始めて。

 いつしか一人で歩けるようになって。

 その手は消えた。



 この世界を歩き始めた私は、一体、どうすればいいのだろう。



 夜の闇が世界を覆うと、町は急激に静まり返った。

 代わりに家々からの灯りと、自動車のライトが、静と動の光を演出し始める。

 私はそれらを一望できる位置、公営団地の屋上にいた。

 身にまとっているのは一応よそ行き用の、でも大手デパートブランドのシャツとスカート。

「……っ! さむ……!」

 秋も暮れ始めた、この季節にこの格好。しかもこんな高いところの風にうたれて平気なはずがない。もちろん、それだけしか着ていないということはない。

 上に羽織っているのは、首筋を隠すほど襟の長い淡いピンク色のマント。裾には控えめにレースがついている。

 そして頭にはマントに合わせたピンク色の、つばの広い三角帽子。猫のキャラクターのピンバッジつき。

 題して、少女趣味な魔法使い。

 ――恥ずかしいとは思う。

 まるで演劇の衣装のようなこの格好だけど、まさにその通り。これから私は演技をしに行くのだ。道化と言い換えてもいいかもしれない。

「……えと、確か、こっちだったと思うんだけど……」

 私は砂をすくうように左手を上げる。右手は背丈ほどもある杖をもっているし、帽子が飛ばないように押さえているので、もうマントは防寒としての役割を果たしていない。左右でくくった髪と同じく、もって行かれそうなくらいなびいている。

 虚空に伸びた私の手。でも私の視線はもう少し手前、細い手首に向けられていた。正確に言うと、その手首に巻かれたリストバンド。もっと言えば、そこに浮かび上がる小さな光の棒。

「こっち? ……違う。じゃあこっち、かな……?」

 手を左右に振りながら、かがんだり立ったり、少し動いて回ったりしてみる。それでも私の目当てのものは見つからない。

「えっと、それじゃあ……」

 一歩右に動こうとした私に合わせて、不意に突風が殴りつけた。空気を食べたマントがとても重くなり、身体が引かれそうになる。

「!」

 思わず下を見た私の目に、眼下の光景が飛び込んでくる。

 絶対死ぬ。

「ひっ、やっ……やっ!」

 自分の身体を抱き込むようにして、バランスを保つ。

「……っ! ……いっ……んっ……!」

 風が弱まって、何とか直立の姿勢に立て直す。

「……ふう……」

 安堵の息。

 それに重なって、金属が擦れ合うような音が高く長く響いた。

「……来た」

 左手首に浮かぶ光の棒が、何かに反応するように振れている。私は腕を動かして、方向を特定する。

 息を、鼻から大きく吸って口から吐く。よし、と自分を奮い立たせるためにうなずいて、言葉を紡いだ。

「受信、完了。逆探知、及びプロファイリング開始」

 私の演技が始まる。



 俺がそのニュースを見たのは、三日前のことだった。

 何の気無しにリモコンをいじっていた指が、あるチャンネルで止まった。目が画面に釘付けになる。

「雄二、ちょっと来て」

 はるか遠くから声が聞こえる。そっちに意識を向ける余裕はない。

 東京の某区で起きた殺人事件。

 同棲していた二十四歳の女性を殺害した容疑で、中年の男性が捕まった。

 映し出される犯人の顔には、見覚えがある。

 「秋藤」という姓を見るまでもない。一秒に満たない時間で、記憶と映像がつながった。

「雄二、どうしたの? ゆう……」

 後ろで、何かが割れる音がした。

 画面に映る男は、二、三度会ったことのある実の父親は、俺を無表情に凝視していた。



 その日のことはよく覚えていない。警察が来て色々聞いていったが、俺が物心ついたときにはすでにいなかった父親だ。何を答えられるわけもない。向こうもそれはわかっているらしく、特に重要視して話を聞いているふうではなかったことだけが印象にある。



 それから二日、風邪を引いて学校を休んだ。朝から晩まで部屋で寝ていた。退屈だとも思わなかったし、思える状態でもなかった。

 今朝もまだ体調が悪い気がしたが、母に説得され、散々文句を言いながらも学校にいった。着いたのは三時間目と四時間目の間の休み時間。廊下を歩いていた友人とすれ違う。

「よお」

 いつもの調子で声をかけると、そいつはいつもなら絶対にしない対応を返した。

「あ……!」

 目線を合わせようとせず、何かを飲み込むようにうつむく。

「ん? どした?」

「いや、別に……教室、入るのか?」

「たりめーだろ」

「あー、ほら、職員室行ったか? 遅刻届は……」

「出してきたぞ」

「じゃあ……そうだ、体調は大丈夫か? 保健室でも寄ってこいよ」

「はあ? 平気だよ。余計な心配すんな。じゃな」

「あ……」

 まだ何か言いたそうなそいつに手を振り、俺は教室に足を踏み入れる。

 あふれていた喧噪の波が、すうっと引いていった。

 一瞬自分に集中した視線が、逃げ出すように散る。代わりに奇妙な圧迫感が胸の中に生まれた。

 遠慮と緊張が混ざったような空気の中、俺は窓側最後尾の席に着く。

 教室のざわめきは、なくなったわけではない。勢いは衰えたがあちらこちらで続いている。普段と違う雰囲気をいぶかしみながら、俺は表面上平静を保って教科書やノートを準備する。それでも、いつも以上に神経質になっていた耳が、ひそめられた声を聞きとった。

(……だって、殺人だよ?)

 息が止まった。

 やはり、そういうことか。

 そう意識して見てみれば、違和感の正体は明白だ。俺を避け、俺に怯えることでできる不自然さ。

 ほどなくして、授業開始のチャイムが鳴った。

 見たこともない素直さで、教室中が指定の位置に動く。

 その授業の記憶は、少しもない。



 覚悟はしていた。

 話題性に乏しいとはいえ、殺人事件だ。それに家には一度警察が事情聴取に現れている。どこから、などということを考えるのは無駄だが、噂として広まる可能性は充分にあった。

 だから覚悟はしていた、つもりだった。

 決定打になったのは、俺のいなかった二日間だろう。無責任な邪推と、たちの悪い盛り上がりが過熱していく様は、自分も経験があるだけに容易に想像できる。本人達自身も冗談と本気の区別がつかなくなり、膨れ上がる想像力は止めることができず、漠然とした恐怖が積もっていく。簡単な図式だ。

 それでも、どこかで信じていたのだ、俺は。



 それ以降学校では、誰とも話をしなかった。

 俺が休み時間や昼休みに黙っているなど、普段なら考えられないことだが、今日ばかりはどうしようもない。質量をもった空気が俺を包んでいて、他人に近づくことを許さないのだ。誰かが話しかけてくることも、もちろんなかった。

 それでも常にいくつかの意識は、ガラスを隔てているかのように遠くから、身に注がれていた。

 そして空虚な時間が過ぎ、何年かぶりの独りの帰路。

 独りがこんなに寂しいということを、俺は、忘れていたのか、知らなかったのか。

「雄二、大丈夫だった?」

 家に帰るや否や、玄関まで出て来た母さんが心配そうに聞いてきた。

「……ん、ああ、風邪? 大丈夫。大したことないよ」

「……あ、そ、そう。大丈夫……なのね?」

「ああ。じゃ、部屋に戻るから」

 そんなに心配なら、いっそのこと休ませてくれればよかったのに、と思うが、口には出さない。

 自分の部屋。雑然と散らかった漫画も、ゲームも気を紛らわせる役にすら立ちそうにない。着替えもせずにベッドに身を預ける。

 指の一本すら動かせない、いや、動かす気になれないほどに全身が重い。その原因が、久々の学校で疲れた、というだけでないのは明らかだ。

 もう何もする気になれない。どうしていいかわからない。

 何もかも夢だったら、などと陳腐なことを考えてしまう。このまま眠って明日が来て、日常が戻って来ていれば――

 誰もいない黒い砂の海、そこに沈むように、いつの間にか俺は意識を手放していた。



「……なるほど」

 受け取った情報を噛み締めて、私は部屋の中をのぞき込んだ。件の秋藤雄二さんは五、六時間眠り続け、さっきようやく起きたところらしい。ベッドに仰向けたまま天井をじっと見ている。

 多少ためらいはあったが、私は意を決して部屋に飛び込んだ。テレビとゲーム機の手前、わずかに空いたスペースに降り立つ。待つこと数秒。反応がない。気づいていないようだ。しょうがなく声を出して呼ぶことにする。

「ぁ……」

 思いっきりかすれていた。

 小さく二つ咳払いして、再度挑戦。

「あのっ……!」

 なかば裏返っていたが、音としてはしっかり出た。

 半拍の間を置いて、秋藤さんが跳び起きる。私と目が合ってお互いに固くなる。

「だ……誰だ?」

「え、あ、えとっ、名乗るほどのものでもないんですがっ!」 そんな答えがあるかと思う。

「い、いつから、どうやって?」

 軽くパニックになっているようだけど、それはこっちも同じだった。

「つ、ついさっきからです! それから、どうやって、というのはええと」

 私は右手にもっている杖を掲げ、左手で帽子の縁を揺すって、

「ね?」

 会心の営業スマイルを作った。

「いや、ね? って言われても……」

 効かなかった。

 このままではいけない。わかってもらえるように説明しなくては、と思うのだが、

「私、魔法使いなんです!」

 だめそうだった。

「魔法、使い……?」

「そ、そう、そうなんです!」

 しかし意外にもあっさりと、秋藤さんはこの宣言を受け入れてくれた。この機を逃してはなるまいと、私は勢い込んで畳み掛ける。

「先程私は誰かと聞かれましたがその、魔法使いでして、ですからあの、どうやって入ったかというのも魔法使いであるからそんなの聞くにも値しないことでしてその、だから」

「わかった、わかったから落ち着け。ほら、深呼吸して」

「あ、は、はい」

 言われるままに深呼吸して、ついでに唾も飲み込む。

「落ち着いたか?」

「はい……」

「じゃあ、だな……」

 秋藤さんは体を動かし、ベッドに腰掛ける形になった。そして眉を寄せて、私にきつい視線を向ける。

「魔法使いなのは認めてやるとして、何しに来た? 返答次第では、悪いけど追い出すぞ」

 どうやら冷静な判断力が戻ったらしい秋藤さんは、完全に私を怪しんでいた。私はやや気圧されながらも、その目を正面から見返す。

「私は……」

 答えを口に出そうとして、飲み込む。

 これを言ってしまえば、もう、今までのような情けない姿でいるわけにはいかない。悠然として問題を解決する、魔法使いでいなければならないのだ。

「……どうした?」

 震える拳を握り締め、私は一度飲み込んだ言葉を紡ぎ直す。

「私は、あなたを助けに来ました。秋藤雄二さん」

 名前を知っていたことにか、言葉の意味にかはわからないが、秋藤さんが驚いて目を丸くする。

「助けに、って何だよ。いったい俺が何を」

「それは、あなたが一番よくわかってるんじゃないですか?」

 おそらく彼にとっては残酷な言葉を、私は平然と吐いた。

 秋藤さんの口が数度開閉して、結局言葉は出ず、代わりに挑むような目が問を語っていた。

「私、魔法使いですから」

 すべてを知っている、とばかりに微笑む。

「この時間を選んで来たのも、あなたがさっきまで眠っていたからです。気分、少しは楽になったでしょう?」

 あえて、言わずともよいはずの事柄を口にする。その意味はもはや挑発でしかないだろうし、私の微笑は皮肉にしか取られないだろう。

 秋藤さんの顔が沈み、全身が影を背負う。

 私はうずく左手首をさりげなく押さえ、光を失った瞳と対峙する。

「……誰が頼んだよ」

 やり場のなかった絶望が、怒りという出口を得て噴き出す。幽鬼に憑かれたかのような形相もしかし、打ちひしがれた直後よりは格段にマシだ。

「お前に助けてくれって、誰が頼んだよ。魔法使いだか何だか知らねえけど、」

 遮るように、私は左手を前に出す。手首に浮かぶ光の棒が、激しく震えている。

「言われなくても、わかります」

「……魔法使いだから、か?」

 聞き飽きたという口調に、私は首を横に振った。

「見ればわかります」

 同情ではなく、憐れみではなく、その苦しみを知りたいと願って、理解れると信じて私は告げた。秋藤さんの顔が泣き出しそうに歪む。

「だったら、どうしてくれるっていうんだよ。助けに来たって言ったって……!」

 もう充分だろう。

 私は目を背けたくなるのを必死でこらえ、杖を振った。

「今からやります」

 糸が切れたように、秋藤さんの身体がベッドに崩れる。

 ――ため息をひとつ。

 私は口を固く結び、ピクリとも動かない秋藤さんを見下ろす。おそらく今彼は誰もいない、何も見えない暗闇の中をさまよっていることだろう。

 その暗闇は、秋藤さんが作り出した心の風景。

 ここからが勝負なのだ。

 私は部屋の隅にあった時計を見た。

 午後十一時四十八分。

 私は期限を午前零時と定めた。それ以上はもたないだろう。

 秋藤さんに視線を戻した。

 相変わらず、少しも動かない。

 左手首はまだうずいている。

 時計を見る。

 十一時五十分。

 まだ三分も経っていない。どうやら私は、思っていたほど我慢強くなかったらしい。

 気を取り直して、秋藤さんに意識を集中する。

 十一時五十四分。

 今度は三分を超えることができた。

 まだ秋藤さんに変化はない。

 五十六分。

 祈るように息をひそめて待つ。

 まだ何も起きない。

 五十七分。

 もうあまり時間がない。

 かなり焦っているのが自分でもわかる。

 五十八分。

 もう無理かもしれない。

 弱気な考えが頭をかすめ――

「……け……」

「!」

 噛み付くように、秋藤さんの口に顔を近づける。一息すらも聞き逃さないために。

「……け、て……たす、け、て……」

 間違いない。

 見れば彼の手もまた、すがりつくものを探すように、持ちあがっていた。

 私は背筋を伸ばすと、杖を振って彼の空間を開く。そしてその中に手を差し入れた。

 弾かれたように、秋藤さんがその手をつかみに来る。すさまじい力に引き倒されそうになりながらも、私は逆にその手を引き上げた。

「……っ!」

 声にならない声をあげて、秋藤さんが身を起こす。

 暖かい安堵感が、私の身を包んだ。

 本当に良かった。

 けれど、今私は彼を救う魔法使い。ゆるみそうになる気を鼓舞して、さっきまでと同じ微笑を浮かべる。

「お帰りなさい」

「あれ……? ゆ、夢か……?」

 秋藤さんは状況が飲み込めず、荒い息を吐きながら辺りを見まわす。

 後ろめたさが消えた私は、その姿を微笑ましく見ている。

「……いや、あんた今お帰り、って言ったよな?」

「はい」

「……つまり、そういうことか?」

「私、魔法使いですから」

 あいまいな問いに、あいまいな答えを返す。笑顔にも余裕がこもる。

「どういうつもりだよ。いきなりあんなとこに放り込んで。あれが俺を助けるってことなのかよ」

「だから、今助けました」

 私の手と、汗でじっとりと濡れた秋藤さんの手は、まだ繋がっている。秋藤さんはあわててその手をほどいた。

「……けど、それ以前にお前があんなとこに送ったんだろうが」

「それは違います」

 秋藤さんが眉をひそめる。

「送った、というのは違います。私はあれを見せただけです。秋藤さんは、最初からあそこにいました」

「……わけわかんねえぞ」

「あれは、秋藤さんの心の風景。秋藤さんが今感じている世界の姿を具現化したものです」

「あれが、か……?」

「はい」

 私が即答すると、秋藤さんは軽く口を尖らせて黙り込んだ。どうやら納得してくれたらしい。物分りのいい人で助かる。

「じゃあ、なんでもっと早く助けてくれなかったんだよ。あんた、俺を助けに来たんだろう? だったらもっと――」

 予想通りの反応。私はここで冷たく言い捨てなければならない。

「誰も、助けを求めてなんかいないんじゃなかったんですか?」

 秋藤さんはぐ、と口の奥を詰まらせ、恨めしそうに私を見た。

「秋藤さん」

 私は微笑を消し、彼の目に真っ向から立ち向かう。

「誰も、求められてもいない助けの手を出したりはしませんよ。それこそ、魔法使いでもない限り。……けど、」

 左手を突き出す。光の棒は鳴いているかのように甲高い音を立てて震えている。

「あなたの電波を受け取っている人はいます。私以外にも。そしてその人はあなたが苦しんでいるのを知って、でも何もできないことで悩み、苦しむんです」

 秋藤さんは口をなかば開けたまま、私の言葉を聴いている。どれだけ伝わっているかを知る術はないけど、私は語る以外にない。

「そんな、お人好しバカもいるんですよ、誰も助けてくれないと嘆くあなたの周りには。電波を受け取れていなくたって、あなたの苦しみを知れば助けてくれる人もいます」

 言うだけは言った。

 後はもう一言。私の中にある、数少ない確信を話すだけ。

「……そんなに世の中、捨てたもんじゃないですよ」

 気がつけば、私の顔には微笑が帰ってきていた。

 秋藤さんはうつむき、何かを考え込むようにしている。

 訪れた沈黙を、私は軽い口調で破った。

「……では、私は帰ります」

「え、あ、もう帰るのか? けど俺、まだ何も……」

「あとはあなた次第ですよ」

 とは言うけど、多分もう大丈夫だと思う。

「……また、来るよな? 今度は普通に話とかしてみたい」

「そう、ですね」

「あ、いやできれば、でいいから。ほんのちょっと、顔出すだけでも。……次に会うときまでには、もっとマシなやつになってるからさ」

 困っているのが顔に出てしまったのか、秋藤さんはあわててまくし立てた。私は表情を作り直して、

「はい。楽しみにしています」

 胸の奥の痛みをごまかすために、手早く切り上げる事にする。

「それでは」

 杖を彼の前に突き出し、

「え?」

「おやすみなさい」



 寝息を立て始めた秋藤さんに布団をかけ、私は一歩後ろに下がった。

「……さて」

 左手を出し、目を閉じて意識を集中させる。

「電波の配信先と接続」

 しばしの間のあと、私は届いた情報の経路をたどって動き出す。壁も床も関係無く、まっすぐに。

 秋藤家の居間に降り立った私は、テーブルに突っ伏して眠っている女性を見下ろす。秋藤さんのお母さんだろう。

 私は納得してうなずき、杖を掲げ――

「雄二……」

 その手が止まった。

「ごめんね……」

 涙を流しながら、眠っている女性はうわ言のように「ごめんね」と繰り返す。

 私は杖を下ろすとその場を去った。別の線をたどって、次の目的地へと向かう。

 歩けば十分はかかる距離を一分で飛び、ある家の中に入った。

 レースのカーテンを中心に、白を基調とした小奇麗な部屋。

 ベッドの中で、静かに寝息を立てる少女の横に立つ。その胸に、私の左手首と同じ小さな光の棒があるのを確認する。

 小さくうなずいて、私は杖を胸の前で持った。

 この場合は多少無理が利くのだ。私は彼女の意識に電波を送り込む。

「……気にかかってることがあるでしょ?」

 眠っている少女に語りかけるように、言葉を紡ぐ。

「どうして助けてあげないの?」

 一方的な介入でしかないため、相手の反応はない。それでも私は語り続ける。

「何も出来ないままでいいの?」

「彼は苦しんでる。わかってるんでしょ?」

「だったらどうして?」

「そうやって迷ってるうちにも、彼は傷ついていくんだよ。あなたならわかるでしょ?」

「関わるのを避けて、見て見ぬ振りして、それでいいの?」

「……勇気を出して、ね?」

 眠ったままの少女の目から涙がこぼれる。私は枕が濡れる前にそれを拭った。

 ――数分後、さらに飛んで、私はマンションの一室に入った。

 布団を蹴飛ばし、だらしない格好で寝ている少年に苦笑する。その胸には、私の左手首と同じ小さな光の棒があった。

 私は、杖を胸の前で持ち――



    ***

「ん、んん……」

 目を閉じていてもわかる光に顔をしかめ、目を開ける。カーテンの隙間から入る日差しがちょうど顔に当たっていた。寝返りをうって枕元の時計に手を伸ばす。

 六時五十分。

 いつもより三十分は早い目覚めだ。とはいえ、

(……昨日帰ってきたのが四時過ぎだから……十四時間以上もぶっとおしで寝てたのか……)

 空ろな意識で晩飯はいらないと言った記憶があるので、完全に寝続けていたわけではないだろうが、それにしても寝すぎだ。

 とりあえず起きあがって居間に降りる。

 母もすでに起きており、朝食の用意をしていた。

「おはよう」

「……雄二? 今日は早いのね」

「ああ」

「待っててね、すぐにできるから」

 時間が早い以外は、いつもどおりの朝だ。

 そんな事を考えて、ふと思い当たる。

「はい、お待たせ。……どうしたの?」

「あ、いや……」

 どうして今まで気づかなかったのだろう。いや、自分の事でいっぱいになっていただけの話だが。

 この人は、母さんはあの日からも変わらずにいた。俺なんかよりもよっぽどつらいはずなのに、そんな様子はまったく見せずに笑っていた。

 自分のバカさ加減に呆れながら、俺はトーストを口に運ぶ。

テレビを見ながらだらだらと食べ、結局いつもの時間に出る。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい……気をつけてね」

「ああ、大丈夫」

 通学路を歩いていくと、知った顔が前を歩いていた。昨日唯一話をしたあいつだ。

 ほんのわずか迷ったあと、速度を上げて横に並ぶ。

「よお」

「あ……! よ、よお」

 会話が続かない。それでも俺は通り過ぎたりはしない。

「は、早く行かないと遅刻するぞ」

 気まずさを回避するためか、そんなことを言って歩く速度を上げる。実際にはそこまで急がないといけない時間でもない。周りを歩く同校の生徒もしゃべりながら歩いている。

「待てよ」

 少し前を行く背中が、びく、とすくんだのがわかった。

「……頼むから、逃げないでくれ。俺は俺だ。お前が知ってる秋藤雄二と同じだよ。違うか?」

「………」

 俺が追いつく。そのまま歩けばまた、並んで歩く形に戻った。

「……悪い」

 俺ではない声が、またも沈黙を破る。

「俺、あいつらに交じって騒いでた。お前がいないからって好き勝手言ってた」

今度は逃げではない。向き合うための告白。あいつらというのが誰かなど気にならない。

「けど、あいつらが冗談で言ってんじゃないってわかって、俺……」

 そんなことで、後ろめたさを感じていたのだ。

バカな奴だ。

 そして――俺はもっとバカだ。

「何だそりゃ」

 嘘ではない思いを、意識して軽い口調にする。あふれ出しそうな思いを隠して。

「……何だよ、そのバカ面は」

「いや……怒らないのか?」

「何でだよ」

 目と口を完全な円にして開閉し、そいつは突然壊れたように笑い出した。

「は、はは……そうだよな。はは、ははは……」

「お前おかしいんじゃねえの?」

「ははは……かもな」

 変な奴だな、と俺も苦笑し、ひそかにつぶやく。

「……ありがとな」

「ん? 何か言ったか?」

「いいや」

 これで、この話はチャラになった。俺がそう決めた。

「それより、休んでた間のノート貸してくれよ」

「悪い、俺とってねえ」

「役に立たねえやつだな」

「何だとこの」

 ようやく戻ったいつもどおりの絡み。何かとても久しぶりな気がする。あまり人に聞かせたくないバカ話が展開され、互いに笑い合う。

 もう少しで校門、というところまで来たとき、

「秋藤くんっ!」

 やたらと気合の入った高い声が俺を呼び止めた。

 名前は思い出せないが、クラスの女子だ。眼鏡におさげが今時貴重なので覚えている。

「あ……」

 彼女は、俺の隣にもう一人いる事に気づいて少しためらっていたが、構うものかとばかりにまくしたてた。

「あの、あのね、皆何かいろいろ言ってると思うけど、気にしないでね。秋藤くんは秋藤くんだし、何も悪い事してないんだから、その……」

 言葉が見つからなくなったのか、そこで言いよどむ。

 朝っぱらから、いきなり人目も気にせずこんな事を言うというのは、おそらく俺に会ったら即、絶対に言おうと決めてきたのだろう。

「だから、その……負けないでね」

 ありがたさと、ほほえましいまでの必死さが相まって、頬が緩む。それを出来るだけ自然に抑えて、深くうなずいた。

「サンキュ。大丈夫だよ」

 彼女は満面に笑みを浮かべると、大きくうなずき、「じゃあね」と言い残して駆けていった。

「……なあ」

 跳ねるように去る背中を見送る。少しして、すぐ横から俺に呼びかける声。

「ん?」

「俺たちって、いつから知り合いだっけ?」

「中学ん時からだから、四年前だろ。それがどうした?」

「いや……ホントは俺が、あれぐらいするべきなんだよな、って思って」

「何だそりゃ」

「何でもねーよ」

 ふてくされたようにそっぽを向き、向き直った時にはもういつもの調子で、

「それにしてもすごかったな。あいつ、お前に気があんじゃねーの?」

「なわけねーだろ。あれはただの……お前と同じ、お人好しバカだよ」

「は? 誰がバカだって?」

「だから、お前」

「何だとこの」



「おまたせー」

 後ろから息を切らせて友達が走ってくる。

「はあ、はあ、ごめんねー、遅くなって。ほら、蝶結びほどく時固結びになる時あるでしょ?ちょっと緩めようと思ったらアレやっちゃって……何見てるの?」

「ん? ううん、別に」

 指摘され、私は視線をずらした。けど、こういう動作はたいていバレるもので。

「あ、あれ? あの隣のガッコの男子生徒? バカだよねー、勘弁してほしいよね公道でさー」

「そだね」

「あーいうのって、何も考えてなさそうだよね。いいよねー、悩みとかなさそうでさー」

 友達と一緒に改めて彼らを見る。片方が片方の首を絞めている。二人ともすごく楽しそうだ。

二人とも、胸には小さな光の棒が輝いている。

「そうでもないかもよ」

「え?」

「あーいうのでも、私たちが知らないだけでいろいろ苦労してるかも」

 むー、と唸ってうなずく友達。

「なるほどね、それはそうかも」

 進行方向が逆なので、彼らとはすぐにすれ違った。すぐに興味の方向は反れ、新しい話題にうつる。

「あ、そうそうそれでさ、昨日アレ見た? 八時からやってるやつ」

「あー、見てない。ごめん」

「えーうそ。あ、じゃあビデオ撮ってるから貸したげるよ。もーすごいんだこれが」

 熱っぽく話し始める彼女の話を聞きながら、自分たちも、傍から見ればあの男子生徒たちと変わらないんだろうな、と思う。口には出さないけど。

「……あれ? それ……」

 話に区切りがついた友達が、私の左手を見る。

「糸出てるよ」

「あ、ホントだ」

 手首に巻いているリストバンドから、糸がとびだしていた。

「いつも着けてるもんね、それ。いつから着けてるの?」

「えと、もうすぐ三年かな」

「はー、すごいね。友達とおそろい、とか言ってたっけ」

「うん」

「そーとー仲良かったんだね。その子と」

「うん。すごくいい子だよ」

「ふーん、でも私は友達も大事だけど彼氏ほしいなー。ユカはどんなのが好み? 私はねー」

 彼女がタレント談義に移ると長い。俳優、アーティスト、芸人までひっくるめて語ってくれる。私はそれが別に退屈とか言うわけでもないので、ところどころ自分の好みも挟みながら聞いている。

 彼女は、とてもいい子だと思う。



「どうだった? ひさしぶりの学校」

「……うん……水原さんが」

「あ、またそんなカタい呼び方する。みっちゃんでいいってば」

「う、うん……み、みっちゃんが、一緒だったから……」

「そんなことないよ。ユカちゃんが頑張ったんだよ」

「……う、うん……ありがと」

 一ヶ月ぶりの学校。二度と戻れないだろうと思っていた空間は、記憶の中のどんなものよりも暖かかった。

「よかった。無理やり連れ出してるようなもんだから心配してたんだ」

「無理やりだなんて、そんな……みっちゃんがいるから私……頑張れるん、だよ……」

「や、やだなあ。照れくさいからやめてよ。それに、何度も言ってるでしょ。頑張ったのはユカちゃんで、私はちょっと手助けしただけ。大したことはしてないよ」

「うん……」

 これが彼女の口癖。私はいつもうなずくけれど、彼女がいなければ今の私はない。それだけは間違いない。

「それに、今まで気づいてあげられなかったから……」

「うん、それは……いいから……」

 なのに彼女は「遅くなってごめん」と、いつでも私に謝っていた。私はそれがつらい。こんなにも優しい人がいるのに、どうして私は独りでいたんだろう。

「あ、ごめん。また言っちゃったね。それじゃ――」

 これからのためにと、彼女は気をつけるべき先生や、手を抜いても大丈夫な授業のことを教えてくれた。彼女の話し方はとても楽しい。私は、まだうまく笑えない自分が悔しい。

「……あれ?」

 私は彼女の左手を見て気づいた。

「ん? どしたの?」

「みっちゃん……それ……」

「あ、ああこれ? 忘れてた」

 左手に巻かれた赤いリストバンド。それは私がしているのとまったく同じものだった。

「へへ、おそろい」

 くすぐったそうに、彼女はそれを掲げてみせる。私も左手を上げ、並べてみる。

「何か良くない? こーいうの」

「……うん……すごくいい」

 心の底からそう思った。

今まで私にとって、それは忌むべきものでしかなかった。醜い傷痕を隠すための、ごまかしでしかなかった。それが今は、とても輝いて見える。

「友情の証、ってやつ?」

 涙なんてとっくの昔に涸れたと思ってたのに、目頭が熱くなった。

 彼女はいつも、こうやって私を励ましてくれる。どうしようもない私を助けてくれる。まるで、

「……魔法使い、みたい」

「え?」

「みっちゃん、魔法使い……みたい。みっちゃんと話してると……魔法みたいに、元気が出る」

「や、やだなあもう。そんな大したもんじゃないってば」

 彼女が照れて赤くなるのは、とてもかわいい。私じゃきっとこうはいかない。

「でもさ、私なんかでいいんだったら、ユカちゃんもなれるよ」

「……なれる? ……何に?」

「魔法使いに」

「っえ……?」

 裏返りかけた声は、はっきりと出ずにかすれた。

「うん、きっとなれるよ。かわいくて、優しくて、すっごく元気になれる魔法が使える魔法使いに」

「そ、そんな……私、なんか……」

「なれるよ」

 みっちゃんが私の左手を両手で包む。からかっている感じはなく、間違いなくそう信じている顔だった。

「誰よりも苦労した人は、誰よりも優しくなれる。誰よりも悩んだ人は、誰よりも人の心がわかるんだって。だから、」

 まっすぐに私を見つめて、微笑んでいた。強くて、優しい笑顔だった。

「ユカちゃんならなれるよ、うん!」

 他の誰に言われても、私は否定しないまでも、信じなかっただろう。でも、言ってくれた相手はみっちゃんで、私の手首には彼女とおそろいの、友情の証があった。

 今の私なら、魔法使いどころか怪獣にだってなれるに決まっていた。

「……うん、ありがとう」

「うん!」



「それで母さんがうるさいの。普段何も言ってこないくせに一度言い出すとうるさい事うるさい事」

「そうなんだ……っ!」

「? どうかした?」

「ううん、大丈夫。何でもない」

 私は気づかれないように、うずきだした左手首を右手で押さえる。

 私にしか見えない光の棒が、激しく震えていた。

「……そう? ……でさ、ユカんとこの母さんってどんな感じ? どこでもそんなもんなのかな?」

「……どうなのかな」

 最近になって気づいた。

 彼女が家族について話すとき、何でもないように見えるけど、どこかつらそうなのだ。

 アンテナも、電波を受信している。

「程度の差はあっても、そんなもんじゃないかな?」

「かなー? でもだからってさー」

「まあ、そうだよね……」

 彼女の力になりたいと思う。

 みっちゃんが私にしてくれたように。

 一人でも多くの人を、助けてあげたいと思う。

 皆を元気に出来る魔法使いに、なりたいと思う。

 それが私の、みっちゃんへの恩返しになるはずだから。



 一人で歩き始めた私は、歩けなくなってうずくまっている誰かを見つけた。

 私は誰かに手を差し伸べた。

 誰かは私の手をとって、私は誰かと歩き始めた。

 誰かが一人で歩けるようになる、その時まで。



inserted by FC2 system