とあるオバチャンの話 雅
「オバチャン、勘弁して下さいよ。そんな事言われても、オレ、バイトだから、そんなん決める権限ないんスよ〜」
下町にある、ごく普通の小さなコンビニで、バイトのあんちゃんが困っていた。
正面にはかっぷくのいい……というよりむしろ太ったオバチャンが、仁王立ちでスバラシイ存在感をかもし出している。
手に持っているのは何かのペットボトル。
周囲の客は目が点だ。
「じゃあ何? アンタはたったこれだけの水、た〜だ〜の水に、120円も出せるって言うのかい!?」
『富士の水』と書かれたペットボトルをバイトのあんちゃんに突きつけ、さらに詰め寄るオバチャン。
あんちゃんの顔は引きつっている。
「え、と、それは一応、ただの水じゃなくって、ミネラルウォーターといってですね、水の中にたくさんのミネラル、栄養素が
溶け込んでいるんだそうです」
オバチャンの頬がピクーンとつり上がった。
「ほぅ。そんなに栄養があるなら、これを飲むだけで生きていけるのかね。だったら120円でも高くないね。買おうか、この
『富士の水』とやらを」
ずいっとペットボトルを押し出すオバチャン。
「あ、い、いえ、別にそれだけ飲んでも生きていけませんよ。……あんたのダイエットには効果的でしょうけど……」
と、ペットボトルを押し返すあんちゃん。
「何か言った?」
「はい。――あ、いいえ!何も!」
少しの間、黙るオバチャン。
緊張をみなぎらせるあんちゃん。
「よし、30円で買った!」
「ありえません」
ムッとした顔のオバチャン。
なぜか少し勝った気のあんちゃん。
「あんたねぇ、これだって破格な値段だよ。たかが水のペットボトル1個に30円さ。水道局もびっくりなこの価格。どぅ?」
バイトのあんちゃんがため息をつく。
「どぅ?じゃないっスよ。水道局の料金がいくらだか知りませんけど、この商品は120円なんですってば。いくらこの会社
がタダで富士山の水を汲んできただけでも、もしこの会社が、水道の水をペットボトルに詰めただけでも、この会社の水
がまずくても!」
今度はオバチャンが少したじろぐ。
周囲の客は興味シンシンだ。
「何もアタシャそこまでは言ってないがね。じゃあ、どうだろう。45円!」
「まだ2ケタかよっ!」
思わず入ったあんちゃんのツッコミに周囲の客がどよめく。
オバチャンはなおも続ける。
「50円!」
「無理ですってば」
あんちゃんはオバチャンの相手に疲れてきていた。
そこへ、周囲の客1がチョロチョロとレジ前に来ると、リポDを買おうとする。無意識に反応してレジ打ちをしてしまうあん
ちゃん。
その客はその場でリポDを開けると、あんちゃんに渡す。
「こ、これは?」
思わず聞き返すあんちゃん。だが客は何も答えず、グッと親指を立てると、そのまま去っていってしまった。
周囲の客からなぜか歓声が上がる。そしてそれをためらいなく一気に飲み干すあんちゃん。
「60円でどうだい!?」
「やっと半額かっ!?」
あんちゃんのキレの戻ったツッコミに大歓声が上がり、ふと外を見ると、異常なまでのギャラリーの数。
「よし、仕方ない。清水の舞台から飛び降りる気持ちで……70円!」
「安い命だなオイ」
いつしかレジ前には、座ってやりとりを見ている客までいた。
「う〜む、これ以上はない。90円!」
「つーか120円以下はないっちゅーに!」
ドッと笑い声が上がる。
なぜかオバチャンが上機嫌になってきているのがわかる。
「だから、オレは負けてあげられないんですってば」
「むむむ。あんちゃん手強いなぁ。オバチャン腕がなるわ」
「ならさんでいいっ!」
息を切らすあんちゃんに対し、目を光らせるオバチャン。
「よし、もう仕方ない。じゃいいよ。オバチャンが悪かったよ。111円でいいかい?」
「よかないわっ! つーか何だよ、その111円って! 中途半端この上ない金額出してきやがって」
「パチンコなら確変大当たりの数字なのに……」
オバチャンは諦めたように、あんちゃんの肩をポンポンと叩くと、受け皿に130円をのせた。そして握手を求める。思わ
ず笑顔で握手し返すあんちゃん。
「ありがとうオバチャン。わかってくれたんだね。なぜだかわからないけど、むしょうに嬉しいよ!」
いつの間にか周囲は拍手で包まれていた。何をカンチガイしたのか「いい漫才をありがとー」などとも聞こえてくる。
「じゃあ、お釣り9円ちょうだいね」
オバチャンの一言に、あんちゃんは「ん?」と首をひねる。
「ちょっと待って。120円の消費税手6円ですよね?」
ギャラリー達がうなずく。オバチャンもうなずく。
「じゃあ、お釣りは9円じゃなく4円ですよ」
今度はオバチャンが首をひねる。
「アタシは別に120円で買うなんて一言も言ってないわよ。116円だもの。だから、消費税入れて121円で、9円のお釣
り」
手を出すオバチャンを見て、あんちゃんの体の中に衝撃が走った。
その前に130円あるなら別に値切らなくてもいーんじゃないかとも思った。だが、あんちゃんの心の中は言い知れぬ敗
北感でいっぱいだった。
「……わかりましたよ。握手もしちゃったし、負けましたよ」
仕方なくあんちゃんはレジを普通に打つと、自分のサイフから5円入れ、9円のお釣りを渡す。
たった5円の攻防に、いったい何分かけてんだろうとあんちゃんは思った。
オバチャンはメチャメチャいい笑顔で言った。
「あ、やっぱり小銭ジャマだから、募金箱にでも入れといて。じゃ、楽しかったよ。バイバ〜イ」
バイトのあんちゃんはそれ以来、ミネラルウォーターが大ッ嫌いになったそうです。