ポケットを空にして
大西こうじ




 だから山は嫌いだ。

 道こそ舗装されてはいるものの、町までの距離といったら。往復でフルマラソンができる、なんて自慢にもならない。

 驚くほど巨大な虫たちについては、部屋にエアコンがついて窓を開けることもなくなったから、まあいいとしよう。

 どうして、玄関を開けたら、そこにイノシシがいるのか。学校を休む理由がイノシシにはねられたから、なんてことがあっていいのか。学級閉鎖の理由が「クマが出たから」とはどういうことだ。学校に着いてしまってから言われて、こちらにどうしろというのだ。

 しかしまあ、それもこれもいいとしよう。今は。

 今はこの、ふざけているとしか思えない雨だ。当てにならない天気予報のおかげで傘など持たず、唯一の交通機関であるバスには乗り遅れ、それでもなんとか歩いて帰ろうとする健気な女子中学生に向かって、なぜ降るか。ここまで強く。唐突に。

 だから、山は嫌いだ。



 道のりの、半分より少し手前に位置する、小さな橋を駆け渡る。

 浅いと思って踏んだ水溜りが意外に深くて、水しぶきがスカートまで濡らす。そうでなくとも湿って太ももにまとわりつきかけていたのが、ぴたりと張りつくようにして足の動きを妨げる。息も切れてきた。わき腹は少し前から痛みっぱなしだ。

 左右を木々に埋めつくされたアスファルトの道路は、曲がりくねりながら続いている。まだ先は長い。ここからは傾斜もきつくなる。

 短く切ったばかりの髪から垂れる水が、口に入ってくる。生ぬるい。

 そう感じたら急にどうでもよくなってきた。雨の勢いはわずかに衰えてきたようだったが、それでもやみそうにはない。ローファー・シューズの中には水の膜でもできてしまっているようだし、制服は上から下までぐっしょりだ。

 足を止め、頭の上に掲げた傘がわりのスポーツ・バッグを下ろす。

 息を整えていると、途端に幾分かはましだった顔に滝ができた。ぽたぽた、ではなく、ぼたぼたと、雨粒を垂らしながら、ゆっくりと歩き出す。

 衣替えも終わって、さあこれから暑くなるぞ、という季節であったことを幸いとするべき。空気だけはきれいな山の、天然のシャワーでも浴びていると思えば。濡れて困るものを持っているわけでもなし。

 そんなことを考え、言い聞かせしながら、大きく手を振って歩いてやる。

 大きく曲がったカーブを抜ける。ぱっ、と目に入ってきたものが何であるのかを認めて、自分でも驚くほどぴたりと足が止まった。少しはゆるみ始めていた表情が強張るのを、はっきりと感じる。

 そこには、雨宿りには最適そうな、バラック造りの小屋があった。



 入り口以外にはどこにも空き口がないせいか、中はほこりで一杯だった。

と思う間もなく、鼻がつん、となり、次いでむずむずっ。一拍おいて、ふぁっくしょい。思わず鼻をすすってしまい、今度はもっと強く、つーん、ときた。慌てて生ぬるくなった手でつまみ、うつむくことでなんとか今度は押さえこむ。

「なにやってんだか」

 がっくりとうなだれるようにして息を吐く。

 ふと、何も入れていないのに、口が開いたままの胸ポケットが目についた。また、ボタンをとめ忘れている。

 鼻をつまんだ手の中指で、白い小さなボタンを、ぴんっ、と弾いてみる。

「痛っ」

 つめの先だけが、かすめるように当たってしまい、針先で軽く刺されでもしたような痛みが胸に走った。

「なにやってんだか」

 呟いて、胸ポケットを包むように手を添える。少し前までは指を伸ばして添えられたのに、今はそこにある隆起に沿って、自然と指が丸くなる。ふくらみがまた、大きくなっているような気がした。いやだな、と思った。

 さっ、と胸をはたいて気を取り直す。濡れて頬に張りつく髪をかき上げながら、あらためて小屋の中を見渡してみる。

 広さは六畳ほど。出入りをしやすくするためか、小屋の入り口には戸がなかった。床は土間というのか、踏み固められた土の地面が剥きだしにされており、そこに農機具らしい機械や、スコップ、長靴などが無造作に置かれていた。近くの農家ででも使われている物置小屋らしい。

 毎日バスで前を通っていたはずなのに、今までどうしてこんなものがあることに気づかなかったのだろう。気づく必要がなかったから、か。

 とにかくこれで雨ざらしからは解放されたのだから、と物置小屋に感謝して、ポケットからハンカチを取り出した。だいぶ濡れてしまっていたが、かろうじて乾いている場所を探して、顔や腕を拭いていく。ハンカチはすぐに、水の中に浸しでもしたように湿ってしまう。絞ってみると、雑巾かと思うほどの水が出た。

 空の様子をうかがおうと振り返り、入り口から手を出してみる。

 するとそれが合図にでもなったのか、見る間に手に当たる雨粒が大きく、落ちる勢いが激しくなりだした。

 こうまで間が悪いと、かえって愉快にさえ思えてくる。

 薄笑い、天を仰いで、溜め息一つ。



 威勢よく落ちてくる雨粒が、トタンでできた屋根を打つ。規則的なようでいて不規則なそのリズムは、聞いているこちらを妙に不安な気持ちにさせる。

 地元の子たちの中には、空を見ただけで、もうすぐ雨が降るだとか、逆にやむだとかいった簡単な天気予報のできる子もいるようだが、都会から越してきたばかりの身には、そんな特殊能力などあるはずもない。一体いつまでこうしていればいいのか。

 途方に暮れた。途端に疲れた。

 タイヤがぺしゃんこになったリアカーの、持ち手の部分に腰を下ろす。しっかりと座れるわけではないが、立っているのにくらべれば、寄りかかれるだけでもだいぶ違った。

 そのまま、うーん、と大きく伸びをする。息を吐きながら、今度は下へ。前屈の要領で体を伸ばす。

 顔を上げると、正面にある小屋の入り口に赤いスカートがあった。

 もちろんスカートがふわふわと勝手に動き回るわけもない。正確には、赤いスカートをはいた女の子がいた、だ。ただ、そう感じさせるほど、鮮やかな赤色をしていた。

 薄青色のパーカーを羽織り、フードを深くかぶった姿で、その子は雨に打たれていた。フードの奥から、驚いたような目がこちらを見ている。肩が上下しているのは、直前まで走っていたためだろう。

 知らない子だったが、無視するわけにもいかない。

「あの、どうぞ」

 なんとなく立ち上がり、そう声をかけてみる。が、女の子は動かない。

 どうしたものかと思いつつ、言葉を続けた。

「そこだと、濡れちゃうよ。中、入りなよ。ね?」

 たっぷりと、切らしていた息が元に戻るほどの時間を置いて、その女の子は小屋の中へと入ってきた。おずおず、という形容がぴたりとくる進み方だった。

 小屋の中に明かりはなく、入り口からの外光だけが唯一の光源だった。

太陽が出ていたとしてもそれほどの明るさは期待できず、まして雨雲などあろうものなら、夕闇の中とたいして変わることがない。

 そんな中で、少し離れたところに立つ女の子の、スカートばかりが目を引いた。スカートの赤だけが、薄暗がりの中に浮かび上がりでもしているようだった。

 女の子が、まったく動こうとしないでいるせいもあった。着ている服から落ちる水滴が、足下に小さな水たまりさえつくっているというのに、フードを取ろうとも、滴を払い落とそうともしない。こちらに背を向けてうつむき、じっと立ちつくしたままでいる。

 あまり関わり合いになりたくはなかったが、さすがに見かねた。地面に置いてあったバッグからハンカチを取り出し、差し出しながら言った。

「あの、これ、少し濡れてるけど」

 女の子はゆっくりと振り返った。暗い上に、フードをすっぽりとかぶっているせいで、どんな顔をしているのかはよくわからない。ただ、じっとこちらの様子をうかがっていることだけはわかった。

「ほら、拭かないと。そのまじゃ、風邪ひいちゃうよ?」

 なるべく優しく、笑顔など見せながら言ってみる。間を置いて、すうっ、と女の子の手が伸びてくる。ハンカチを受け取ると、女の子は小さく頭を下げた。

 女の子の頭の上から、ようやくフードがとられる。直接に雨を受けてはいなかったせいか、あらわれた髪はしっとりとした濡れ方をしていた。薄暗がりの中にも映える真っ白な頬や首筋と、そこに張りつく濡れた黒髪との対比は、見ているこちらをどきりとさせる。

 そんな考えを持ってしまったことが妙に気恥ずかしくなり、視線が外れる。するとそれを待っていたように、声がかけられた。

「……が、とう」

 なんと言ったのか、はっきりとは聞こえなかったが、前後の状況から「ありがとう」だとわかり、外していた視線を戻すと、今度は向こうがうつむき、視線を外していた。それでこちらは気が楽になり、多少の余裕を持って答えることができた。

「どういたしまして」



「何年生?」

「……三年」

「このへんに住んでるの?」

 こくん、と頷く。人形のような動作に、またもどきりとさせられる。

「あ、えっと……雨、やまないね」

「……うん」

 かなり、口の重い子らしい。

「おうちの人、心配してるね」

「いない」

「えっ?」

「おうち、今誰もいない。おとうさんお仕事だから」

「あっ、そう。……でも、おかあさんは?」

 女の子は少し黙って、

「いない」

 と首を振って答えた。その答え方と、黙ったことから、なんとなく事情は察せられた。

「そっか……じゃあ、うちと同じだ」

「……?」

「うちはおかあさんがいて、おとうさんがいないんだけど、ね」

 大したことじゃないよ、と笑って見せたが、女の子は笑ってはくれなかった。

 話を変えた。

「学校の帰り、じゃ、ないよね」

 ランドセルを背負っていないから、それはわかる。女の子も頷いた。

「じゃあ、遊んでたの?」

 こくり。

「一人で?」

 言ってしまってから、あっ、と思った。確たる理由があるわけではなかったが、なんとなく、言ってはいけないことのような気がした。慌てて取り繕おうとすると、

「…………ううん」

 女の子が返事をした。それを聞いて、ほっとする。

「そっか、お友だちと一緒だったんだ。あ、じゃあ、その子は、どうしたの? 先に帰っちゃったのかな?」

 置いてけぼりにされてしまったのだろうか。それで雨に降られてしまったのであれば、この子にとっても今日は災難だったことだろう。

 しかし、女の子は首を振った。

「えっ? でも……」

 まだ遊んでいる、とは考えにくい。雨はまだ、降り続いている。周囲はこれ以上ないというくらいの山の中だ。まさか。

「……?」

 こちらの様子を怪訝に思ったのか、女の子が首をかしげている。

「あの……あのさ、それじゃあ、そのお友だちは、どうしたの?」

 女の子は答えない。じっ、とこちらを見ている。拒むような目。違う。

うかがう目。こちらのなにかを見つけようとする、判断しようとする、そんな目だった。

 不意に女の子の目が落ちる。がくりとうなだれるようにして、うつむいたのだ。

視線のそれたことには安堵を、続く女の子の様子には不安を覚えた。なんなのだろう、この子は。

 女の子の右手が上がり、胸の前、パーカーの左胸にある、ポケットの上に添えられた。中になにか入っているのか、添えられた手の指は軽く曲げられ、ポケットを包み込むようにしている。

 そのまま、うつむき、胸ポケットに手を添えたまま、女の子は何事かを呟くような仕草を見せた。が、口は確かに動いているのに、なにを言っているのかわからない。けっこうな音を立てている雨音のせいばかりではなく、実際に女の子の口からは声が、言葉が、出されてはいないようだった。

 女の子の不思議な呟きはしばらく続けられた。途中で見ていられなくなり、視線を地面に落とす。そうしていると、小屋の中には雨音だけが響いているのがよくわかった。

 くすり。女の子のかすかな笑い声に、ぴくりと肩が反応してしまう。下ろしていた視線を上げると、女の子の目とぶつかった。

 女の子は笑っていた。そのまま、言った。

「お友だち」

 なんのことだかわからず、きょとんとしていると、女の子はまだ添えたままにしていた胸ポケットの上の手を、ゆっくりとどけた。女の子の視線が、ポケットの中へと注がれる。その視線の動きにつられるようにして、こちらの目もポケットへ向かう。

 女の子が言った。

「わたしの、友だち。……おねえちゃんなら、見えるよね?」



 見えるよね。

 その言葉に反応して、頭の中に広がっていくものがあった。小さな頃の記憶。確かに覚えていたはずなのに、いつのまにか忘れてしまっていた記憶。

 小さな頃、まだ身長も体重も、今の半分ほどで、もちろん胸のふくらみなどまったくなかった頃。お気に入りだった赤いスカートに合わせた白いシャツの胸ポケットは、いつも一杯にふくらんでいた。

 そこには、天使がいた。ポケットにすっぽりと入る、小さな天使が。

 両親にも、幼稚園や学校の先生、友だち、誰にも見えない小さな天使が。

 一人ぼっちで泣き虫だった私を元気づけてくれた、見えない友だちが。

 いつも一緒だった。どこへ行くにも。なにをするにも。いつも天使は、胸のポケットから、私を元気づけてくれた。

 いくつかの季節がめぐって、急に天使は無口になった。話しかけても、私がぽろぽろと涙をこぼしていても、声をかけて、元気づけてはくれなくなった。

 そうして、もう着ることのできなくなった赤いスカートと白いシャツとを捨てた朝、天使の姿は、消えていた。



 女の子は笑っていた。それまでの、どこかぼんやりとして、終始うつむいているようだった表情からは想像もつかない、元気でほがらかな笑顔を見せていた。

 返事をしなければならない。でも、なんて言おう。

たしかに頭の中では迷っていたはずだった。なのに考えるより先に、口は動いていた。

「うん、見えるよ。かわいい、友だちだね」

 ぱっ、と女の子の目が輝くのが見えたようだった。先ほどよりも、もっと明るく、そして大きな笑顔で、女の子は「うんっ!」と返事をした。

 その笑顔のせいだったのかはわからない。

 とにかく、笑顔をつくってはいられなくなった私は、身をひるがえすようにして足もとのバッグを取り上げた。

「ごめんなさい」

 言って、驚き、あっけにとられている女の子の横を駆け抜ける。小屋から走り出た勢いそのままに、走り続けた。

 乾きはじめていた制服や髪を、それっ、とばかりに雨が濡らしていく。

 それでもかまわず、走り続けた。今は雨が、やまないことを願いながら。



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