響き、応える海の歌
司堂 晶




 放課を報せる鐘が鳴り響いた瞬間、ヒビキは例のごとく勢いよく教室を飛び出した。正午をわずかに過ぎたころ、初夏

の日差しが肌を焼く中、あとからあとから流れ落ちてくる汗にもかまわず、今日もいつもの場所へと向かう。

 海岸沿いの土手を走って走って、目指した先に見えるのは目を焼くほどに真白い砂浜。目的地が見えた途端、ヒビキ

はその場所目がけて滑るように駆け下りた。その勢いで、靴底で削られた土と砂が舞い上がる。

 一息ついて、靴の中に入った泥を落としていると、急に目の前が暗くなった。顔を上げると、この浜辺でよく会う馴染み

の中年男が、釣具一式をかかえてたたずんでいた。その男は、日に焼けた豪快な笑顔で開口一番、

「今日も『彼女』とデートか? まったく飽きないなぁ、毎日毎日」

 このオヤジ。ヒビキはうんざりとした表情で言葉を返した。

「何度も言ってるだろ? 俺とあいつはそんな関係じゃない」

「ああ、ああ、わかってるわかってる」

 絶対わかってない。男の笑みを見ながらヒビキは内心で舌打ちをした。

「まあ、今日も気持ちのいいやつを頼むぜ。彼女……海の歌姫によろしくな」

 海の歌姫、ね。何がおかしいのかほんの少し口の端をつり上げたヒビキの表情を見ることなく、男は数百メートル先に

見える岩場の方へと去っていった。

 ヒビキは気を取り直して海の方へ真正面に向かい合った。今日も快晴。空の青と海の碧が水平線の彼方で溶け合って

いる。

 靴底を通して、砂の熱さがじりじりと伝わってくるのを感じながら、目を閉じ、海鳴りに静かに耳を傾ける。そのまま深く

呼吸をし、潮の香りを肺の中いっぱいに満たす。この浜辺に来るたびに行なう、自分なりの精神集中の手順だ。

 やがて静かに両眼を開く。水面に反射する日の光を全身で受け入れながら、息を継ぐ。

 そして最初の言葉を音にのせて、ゆっくりと吐き出した。



 日が昇り 日は暮れる



 透き通るような高音が、心地よく響き渡る。まぎれもなく少年の声帯から発せられる、少女のような、それでいてどこか

そうではない、碧い響きだ。



 季節は巡り 時は過ぎる



 素朴で、単調なメロディーが、浜辺の空気を優しく満たしていく。



 勇み旅立つ 海の子供ら



 ……来る。

 ヒビキは歌いながら、徐々に迫りつつあるもう一人の歌い手の気配を感じ取った。



 漕ぎ出す海原 わが子を招く



 控えめな歌声がヒビキの歌声に重なった。ヒビキの顔に無意識に笑みがこぼれる。最も満たされる瞬間は、すぐそこま

で来ている。

 さあ、歌おう。一緒に。

 至福の二文字を胸いっぱいに満たし、もう一度、同じ歌詞を繰り返す。



 日が昇り 日は暮れる

 季節は巡り 時は過ぎ行く

 勇み旅立つ 海の子供ら

 漕ぎ出す海原 わが子を招く



 二つのソプラノが、絡まり合って海風の中に抱き込まれていく。海風はそれを、この小さな浜辺から、町の至る所に運

んでいく。一つはヒビキの歌声。しかしもう一つの見事な声の主の姿は……浜辺のどこにも見当たらない。

 それは海のずっと沖合いの方から響いてくるようだった。ヒビキに負けないくらい見事な高音で、しかし彼のそれとは性

格を異にする、柔らかく包み込むような、深みのあるソプラノ。

 町の人間たちが、伝承にある『海の歌姫』のものだと信じて疑わない、極上の歌声である。

 海の歌姫の伝承。昔この町が小さな小さな漁村に過ぎなかった頃のお話。

 人々が漁をなりわいとして暮らしていた、穏やかで豊かな海に、ある日突然魔女がやって来た。海の魔女が歌うと、海

は荒れ、多くの漁船が彼女の怪しい歌声の餌食となり、沈められた。困り果てた村人たちは、海の神に祈った。

 そうすること、七日七晩。願いは聞き届けられた。どこからともなく一人の娘がやって来て、海の魔女に歌で勝負を挑ん

だ。結果は娘の勝ち。魔女は去っていき、海には平和が戻った。娘は海の神の養女となり、今でも海の彼方で大好きな

歌を歌い続けているという。めでたしめでたし。

 町の人間なら、誰もが知っているおとぎ話である。ヒビキ自身、五年前この町に引っ越してきてからほどなく、近所に住

む老婆に教えてもらったことだ。

 確かに、ある時期に嵐が頻発し、多くの船が沈んだという事実は、町の古い記録にも残っている。そして、現に今でも、

歌声は海の向こうから聞こえてくる。

 しかし、伝承はやはり伝承だ、とヒビキは思う。

 何故なら……海の歌姫と呼ばれる者の歌声は……男のものだからだ。

 男、といっても、実際はヒビキと大して年の変わらない少年なんだろうが……否、ヒビキは何故か歌声の主の正体は少

年だ、という確信を持っていた。

 不思議なことに町の人々は、歌声を少女のものだと信じ込んでいるようだった。無理もない。海の向こうから聞こえてく

る見事なソプラノに匹敵する声を発することのできる少年など、ヒビキ以外には誰もいなかった。その上に、海の歌姫の

伝承による先入観が、歌声の主の本当の正体を覆い隠してしまうのだろう。



 潮騒 聞こえ来る

 白波は いざなう

 勇み旅立つ 海の子供ら

 漕ぎ出す海原 その腕を広げる……



 高く、低く、透明な歌声はどこまでも広がっていく。

   初めて一緒に歌った五年前のあの日からずっと続いている、暗黙の了解のうちに成り立った習慣である。雨の日だ

ろうと風の日だろうと、一日たりとも欠かしたことはない。特に気分のいい日には、日が完全に沈むまで歌い続けることも

度々ある。

 こんなことだから周囲の人間に、「恋人に相当なご執心」だの何だのと誤解されてしまうのだ。

 かといって否定したところで誰も信じてはくれない。『彼』を知ってしばらくは、あの声は男の子のものだ、と何度も訴え

たけれども、大人たちは子供のいうことだ、と笑うばかりで取り合おうともしなかったし、同い年の友達に言ってもうそつき

よばわりされるばかりだったので、やがてあきらめた。

 おまえがちゃんとでてきて正体を明かさないからだぞ、と、一度も顔を合わせたことのない存在に対して一人ごちつつ、

周囲に何と言われようとこの習慣をやめられない自分自身に、苦笑するのだった。



「祭りの儀式で歌えって? 俺に?」

 放課後。ヒビキは今日も職員室に呼び出されていた。しかし、呼び出されたからといって動じる彼ではなかった。こんな

ことはもはや日常茶飯事なのだ。

 何故呼び出されたのかについてはあまり興味がなかった。というより、心当たりがあり過ぎて、特定できなかった。

 (クラスメートたちの陰謀でまつり上げられた)学級委員としての雑務か、ついこの間行われた中間テストの結果(それ

はそれは惨々たるものだった)についてのお説教か、あるいはおととい用水路で拾ったミドリガメを教室に持ち込んだ

(おかげで大嫌いな数学の授業が半分以上中断した)犯人が自分だとバレたのか、エトセトラエトセトラ。

 そんなことに思いを巡らせながら担任のオオシマの前に立ったヒビキに言い渡されたのは、全く予想外の提案であっ

た、すなわち、

「今年町で“海皇祭”っていう祭りが行われるのは知っているな? その祭事の中で、海の神に歌を献上する場面がある

んだ。それでおまえにその代表としてでてもらいたいんだが」

 こういうことである。

“海皇祭”についてヒビキはよく知らない。この町で十年ごとに行われる行事であるらしい、と聞いたことがある程度だ。

彼がこの町に引っ越してきたのは五年ほど前だから、今年が初めての参加となる、が。

「……どうして、俺が?」

 思わずぞんざいな口調で問い返すヒビキに、オオシマは、ああ、おまえは知らないんだったな、と言って、それに答え

た。

「海の神に歌を捧げるくだりは、正確には海の歌姫の婿取りを表わす場面なんだ。海の神は自分の娘に匹敵するほど

の歌い手しか婿として認めない。それも見事なボーイソプラノの持ち主を、ね」

 そこでオオシマはいったん言葉を切り、それから何故かニッと笑った。

「祭りの実行側から学校の方に、『誰か代表を出してくれ』と確信犯めいた依頼があってな。真っ先におまえが候補に挙

がったんだ。一部職員からは、『歌なんぞ歌わせるヒマがあったら勉強させることの方が重要かつ深刻だ』とかいう意見

も出たし、この間の中間テストの結果を考えると私もそれには同意せざるをえなかった。あとは、何故か数学のウラガミ

先生が、真向かいに座っていた私の方まで泡が飛んでくるほどの熱弁をふるっておられたな。恐ろしい早口で、授業中

にミドリガメがどうの、とか意味不明なことをまくしたてていらっしゃったが……」

 ヒビキの睨みつけるような視線を、オオシマはわざと無視し、話を続けた。

「まあ、なんだかんだ言っても、おまえの歌唱力は皆も認めるところだからな。結局おまえ以外考えられないってことで、

最終的には満場一致で決定した次第だ。納得したか?」

 大半の物言いにおおいに引っかかるものを感じたが、ヒビキはとりあえずこっくりとうなずいた。

「一応最終的に歌い手を決定するのは実行側だが……多分おまえで確定すると思う」

 わざわざうちの学校を指定してくるあたり、なあ。

 オオシマの呟きに、ヒビキは苦笑で答えた。

 実はこの町ではヒビキは有名人だ。それには善きにつけ悪しきにつけいろいろな意味が含まれてはいるが。その中で

も、彼を最も有名たらしめているのは、海鳴りとともに気ままに歌い続けていた歌姫と初めて、そして唯一共鳴できた人

間である、という事実だ。

「というわけで、これが楽譜だ」

 オオシマはそう言って、彼の机の上に置いてあった紙の束をヒビキの前に突き出した。ヒビキは反射的に両手を出し

て、それを受け取ってしまう。

「祭りはこれからだいたい三ヶ月後だ。練習する時間はたっぷりある。しかしなぁ……」

 オオシマは苦笑まじりに言葉をついだ。

「毎日毎日あの浜辺で歌を献上しているようなものなのに、また改まった儀式でわざわざ同じことをするのも、なあ? 大

体婿取りなんかしなくたって、おまえたちはもう夫婦みたいなものだろうに……」

 だからぁ、あいつは男なんだってば。

 ヒビキはこの時、いっそ海の歌姫の正体を公表してやろうかと、かなり真剣に考えた。どうしてどいつもこいつも、こうい

うオヤジ的な発想に好きこのんで傾きたがるのだろうか。

 悪態が喉元までせり上がってきたが、言ったところで無駄だ、という冷めた理性でそれを押しとどめると、ヒビキは「失

礼します」と言って、足早に職員室から出ていこうとした。

「ヒビキ、ちょっと待て」

 思わず殺気立った眼で振り返ると、オオシマはそれに怯む様子など微塵も見せずにこう言った。

「出席簿と日誌が教卓の上に置きっぱなしになってるはずなんだ。持ってきてくれ」



 夕刻、といっても、今の季節は太陽が沈むのが遅いので、空も海も、未だ赤く染まってはいない。ヒビキは、今日は真っ

先に歌い出すことをせず、砂浜に腰をおろして、もらったばかりの楽譜をパラパラとめくっていた。



 宵の闇色 染め上げた絹糸

 海の紺碧 たたえた双玉

 日の落ちる先 果ての果て

 巡る潮風 調べをのせて……



 歌詞を一通り読んでから、今度は譜面上に並んだ音符をゆっくりと目でたどっていく。そうしながら、メロディーをたどた

どしく口ずさんでみる。歌姫をたたえる歌詞。歌姫を表わす可憐なメロディー。

 ……なんだか、好きになれない。

 目を通し終えた後、ヒビキはたったこれだけの感想をポツリと思った。当然といえば、当然かもしれなかった。この歌の

歌詞もメロディーも、『海の歌姫』のために作られたものだ。歌姫の正体を知っているヒビキにとっては、どうしても違和感

が拭い去れない。

 この歌は、『彼』には似合わない。

 祭りの儀式の中で歌い手として参加できることは、一つの栄誉といってもいい。それに選ばれたことについては、ヒビ

キもやはりそれなりに嬉しいと思う。かといって、特に気負いはない。オオシマが言っていたように、ヒビキは毎日この浜

辺で『歌姫』と共に歌っている。それは町の人々も皆知っていることだ。日頃やっているのと同じことを、多少改まった場

所でする、それだけのことである。

 しかし、その儀式によってたたえられるのは、いもしない『歌姫』だ。町の人々はそれでいいのだろうが、ヒビキ個人とし

ては、『歌姫』ではなく『彼』をたたえたい。そういう意味では、あまり気乗りはしなかった。

「ああ、もう!」

 けだるく沈みそうになった気分を振り払うように、ヒビキは叫び、顔を上げた。視界に入ったのは、ほんの少し赤く染ま

り始めた太陽と空と海の色。

 ……歌おう。

 立ち上がって、服についた砂をはらい落とし、いつもの手順で精神集中を始める。くさくさした気分も次第に落ち着き、

澄んだ心でいつもの歌を歌ってみる。清浄なボーイ・ソプラノが、浜辺に海に広がっていく。



 日が昇り 日は暮れる

 季節は巡り 時は過ぎ行く……



(…………?)

 聴こえてこない。

 いつもなら、二節ほど歌ったところで控えめに調子を合わせながら、溶け入るように加わってくるのに。

 彼の気配も、海風の中に感じ取ることができるのに。

 動揺をギリギリのところで押さえつつ、ヒビキは歌い続ける。しかしいつまでたっても、歌声は聴こえてはこなかった。

 こういう日もある、という楽観的な思考では片づけられない。なにしろ、五年もの間、このようなことはただの一度も起こ

ったことなどなかったのだから。

 様々な感情が入り乱れて、ヒビキの心臓を締めつけた。



「ねえ、ヒビキ君」

 またか。

 心中では、もういい加減にしてくれ、という思いを抱きながら、ヒビキは手にしたモップを動かすのを止め、声のした方を

振り返った。

 クラスメートの少女が、やはりモップを握りしめ、幾分緊張した面持ちで立っていた。クラスでも二言、三言程度、しかも

ごく事務的な内容でしか会話を交わしたことのない少女だ。そんな関係だから、今月一緒に割り当てられた廊下掃除の

当番でも、お互い黙々と作業をしている。それでなくてもけっこう内気なタイプのようなので、自分に声をかけるのは、か

なりの勇気が必要だっただろう。 「……なに?」

 そんな彼女の気持ちを汲んで、できるだけ柔らかく問い返す。……彼女がたずねたいことの内容は、だいたいわかっ

てはいたけれど。

 少女のモップを握る手に力がこもる。

「あ、あのね、最近浜辺の方からあなたたちの歌う声が聴こえてこないなぁ、って思って。……どうしたの?」

 やっぱり。

「今はちょっとお休み中」

「……お休み中?」

 少女は不思議そうに目を丸くすると、小さくうつむいて、そっか、とつぶやいた。ほんの数秒、二人の間に沈黙が流れ

る。と、彼女が不意に顔を上げ、

「あ、あの」

 懸命に言葉を選んでいる様子で、瞳がためらいがちに揺れる。

「わたし、ね、刺繍が好きなの。だから学校から帰ったら毎日作ってるんだけど……」

 彼女は何度か瞬きをした。

「そ、それで、針を動かしてたら、いつもあなたたちが歌っているのが風に乗って聴こえてくるの。思わず聞きほれて手が

止まっちゃうときもあるけど、心にピタッとシンクロ……っていうのかな。そういうときには自分でもびっくりするくらい針が

進むの。えと、だからつまり……」

 耳まで真っ赤にしながら最後の言葉を一息に吐き出す。

「だからってわけじゃないけど……わたし、あなたたちの歌が好きなの。だから……早くまたいつもみたいに聴かせてほ

しいな」

 ここまで一気にしゃべるのと同時に、掃除終了を告げる鐘が鳴り響いた。それを幸いとしたのか、彼女はヒビキに向か

って何故か頭を下げると、そそくさとモップを片づけに走って行ってしまった。

 ヒビキはしばし呆然としていたが、やがて気をとりなおすと、モップを引きずりながら掃除用具入れの方に向かった。

 これで何人目になるだろうか。

 二、三日前から、ヒビキはやたらといろいろな人に声をかけられるようになった。担任のオオシマ、近所のおばさん、幾

人かのクラスメート、あるいは顔も名前も覚えがない、他のクラスの生徒……。

 そして皆必ず同じ内容の質問を持ってくる。

『この頃歌が聴こえてこない、一体どうした?』と。

 どうした、と聞かれても、ヒビキ自身どうしてなのかわからない。とりあえず「お休み中」だと答えを返すと、何故か皆そ

の先を無理に聞き出そうとはしなかった。

 ヒビキ自身はできるだけ平静を装っているつもりでいるのだが、用意した答えを返すときに、表情まで完璧に律しきれ

ているのか、全く自信がなかった。自然体の笑みを浮かべることに成功しているのか、中途半端に引きつった表情をし

ているのか。今にも泣き出しそうな顔をしているのかもしれない。

 午後の授業をうわの空で受けて(といっても嫌いな数学の授業なので元々まじめに聞いてはいないが)、ヒビキは今日

も浜辺へと向かった。皆には「お休み中」と言ってはいるものの、ヒビキは毎日変わらず浜辺に通い、歌っている。しか

し……応えてくれるはずの歌声は、一向に響いてこない。

 今日もダメか。

 ひとしきり歌い終えると、ヒビキは不意にそれを止め、小さくため息をついた。そのまま崩れるようにして、砂の上にド

サリと腰をおろす。

 今日の海は、鈍く重い青灰色をしている。薄い雲が広い範囲にたなびいて、太陽を霞ませているせいだ。

 そんな光景をぼんやりと眺めていると、近くで砂を踏む軽い音がした。

 多少気だるい気分で、しかし反射的にそちらに顔を向ける。見るとそこには、よく釣りをしにこの浜辺に来る、あの馴染

みの男が立っていた。だが、今日の彼は釣り道具の一切を持ってはいなかった。

 男はしばらくヒビキの顔をじっと見つめていたが、やがて目を丸くしながらこう言った。

「なんてぇ顔をしてるんだ」

 一体どんな顔だ、と心の中でボヤいたのが通じたのか、男はそれを読み取ったように話を続けた。

「なんつーか、なぁ、おまえさんいつもは歌った後、そりゃ満ち足りたように幸せそうな笑顔を浮かべてるんだが……今日

は表情が一向に楽しそうじゃあねえ。影まで浮かんでるぜ」

 この男、いつの間に自分のそんな様子を見ていたのだろうか。訝しく思いながらも、ヒビキは黙って男の言う言葉に耳

を傾けていた。

「……もう、一週間たつな」

 言いながら、男は特に了承をうながすこともせず、ヒビキの隣りにドカリと腰かけた。

 一週間。『海の歌姫』が沈黙して、今日でちょうど一週間になった。

「こんなことは前代未聞だ。この浜辺にはもう長いこと通ってるが、その間『彼女』の歌声はただの一度も絶えたことがな

かったってぇのに」

 ヒビキ、おまえさんがこの町に来る前も、来た後も。

 何度か聞いたことがある。ヒビキが引っ越してくる前からずっと、海の歌姫は変わらず歌い続けていた、と。

 ただ、その頃は浜辺に行けば、時折海鳴りに交じって聴こえてはくるものの、誰かと歌を合わせるわけでもなく、好きな

時間に気ままに歌っていたらしい。

 それが五年前、この浜辺で歌った一人の少年に対し、初めてその声を合わせたのだ。

 しかもそれを機に、それまで浜辺でしか聞くことのできなかった歌声は、どういう作用か少年の歌声と交じり合うことに

よって、町中に響き渡るようになった。

 なのに……それが突然途絶えた。

「不安か?」

 男が訊いた。不安? 不安というよりは……、

「……心配、かな」

 ヒビキの答えに男は、そうか、心配、か、と言って小さく息をついた。

「オレは、不安だ。いつも空気みたいに当然のようにあったモノが急になくなった。オレにとっては、平穏を乱されたのと

おんなじようなもんで、そのことが不安だ。でもおまえさんは、心配、なんだな」

 海の向こうにいる存在自身のことが。

「実を言うとな」

 男は海の方を見やりながら、静かに言葉を紡ぎだした。

「オレは、海の向こうに“誰か”がいるってぇのを心のどこかで信じきれてねえ。そりゃあガキのころは、じいさんやばあさ

んが聞かせてくれたおとぎ話をひたむきに信じて、海の向こうに夢を広げたもんだ。でも年を重ねるうち、……そうだな、

おまえさんと同じくらいの年になった頃からかなぁ、だんだん疑い深くなっちまったんだな。海の歌姫なんて、本当に存在

しているものなのか、あれは海鳴りが聴かせる幻に過ぎないんじゃあないか、ってな」

「……でも、現にあんたも聴いてるんだろ? 俺たちが一緒に歌う声」

「それでも、だ」

 男の声に、自嘲的な響きが混じった。

「確かに歌は聴こえてくる。おまえさんの歌声に合わせもする。そして町中に響く。それでも、オレは疑いを拭い去れない

んだ」

 でも。呟き、男は改めてヒビキの顔をみた。

「おまえさんは、信じてるんだな。海の向こうの“誰か”の存在を、信じて疑わないんだな」

 うらやましくも、思える。男はそこまで言い終えると、大儀そうに腰を上げた。

「しゃべり過ぎちまった、一方的ですまんな。あぁ、らしくねえなあ、オレとしたことが……」

 ぶつぶつ言いながら、男はゆっくりとした足取りで去っていった。ヒビキは無言でその背中を見送っていた。



 その夜、ヒビキは自室のベッドの上に仰向けに体を投げ出し、木目の浮き出た天井を見つめながらボンヤリと、男の

言った言葉を反すうしていた。

「海の向こうに誰かが存在している、それを信じて疑わない」……。

 海の歌姫の伝承に埋もれた『彼』。顔も名前も知らない。しかし、歌を重ね、海風を浴びることによって、ヒビキはたしか

に彼の存在を感じ取っていた。

 ただ、それを明確に意識したことなどなかった。だからこそ……

 気がつかなかった。

 ヒビキの頭に、ある考えが浮かんだ。

 試してみるくらいの価値は、ありそうだった。



 その日一日のヒビキの授業態度は、一言で片づけると『最悪』だった。

 目の下にくっきりとしたクマを作って登校してきたヒビキは、一時間目の数学の授業を寝息すらはばからずに終始爆睡

し、二時間目の国語も舟をこぎっぱなしだった。三時間目からは起きてはいたが、授業内容など耳から耳まで通り抜ける

どころか、耳に入ってすらいない様子で、教員の指名にも、三度呼ばれてやっとうろんな反応を示すというありさまだっ

た。四時間目、ヒビキが最も好きな音楽の授業ですら、歌いながらも心ここにあらず、といった状態で、彼としてはかなり

らしくないほどに、時折まったく見当違いの音を発声していた。午後の授業も同様に、まったくうわの空で過ごした。

 放課後、廊下を歩いていた音楽教員が、ある教室にふと目をやると、ヒビキが一人残って何やら一心不乱に書き物を

している様子が見えた。授業中とは打って変わった集中力が発揮されているのを見てとると、音楽教員は密かに苦笑し

つつ、静かに教室の前を通り過ぎた。

 そうして、それは完成した。



 昨日とは打って変わり、空には雲ひとつなかった。

 それでも、浜辺に着いた頃には、もう日が半分近く沈んでいた。

 思い切り走ってきたために乱れた呼吸を整え、落ち着いたところで、ヒビキは鞄の中に手を突っ込んだ。

 取り出したのは、コルクでふたをした、半透明な瑠璃色のビンだった。家の靴箱の上に立ててあったものだ。細工も何

もほどこされてはいない、シンプルな造りだが、混じりけのない冴えた青と、滑らかな手触りがヒビキにとってお気に入り

だった。

 その中には、幾枚か重ねたまま、細長く折られた紙が入っていた。

 ヒビキは右手にそのビンを握り締めて、赤から徐々に暗青色に染まりつつある海を見据えた。

 この方法がうまくいくという保証はない。これまで歌を歌い合わせる以外の接触方法など、一切試みたことなどなかっ

たし、なにより必要性など感じなかった。

 紙に書きつけたことばを海に向かって言い放つという方法も考えないでもなかったが、ヒビキにとって、歌ではないそれ

を声にして直に海にぶつけることには、何だか抵抗があった。

 一つ大きく息を継ぎ、ゆっくりと吐くと、ヒビキは右手を思い切り振り上げ、海に向かってビンを放り投げた。

 ヒビキの手を離れたビンは、ゆるやかに大きな弧を描き、十五メートルほど先で、海に落ちた。

 ビンはほんの少しの間海面を漂っていたが、海の暗青色に溶け入るようにして、間もなく波の間に呑まれていった。

 ヒビキはそれを見届けると、ビンが落ちた辺りを凝視して、しばらくの間たっていたが、太陽が水平線の向こうに沈んだ

のとほぼ同時にきびすを返し、そのまま帰路についた。



 そろそろ寝よう、そう思って自分の部屋に向かったところまでは覚えている。

 しかしその後の記憶はきれいに抜け落ちていた。

 頭の上では、星が音無き音をたてて瞬いている。一方で足元がしきりにちくちくする。それでも、くるぶし近くまでを柔ら

かく包み込む感触と、それの夜風を含んだひんやりとした冷たさは、心地よいと感じた。

 ヒビキはあの砂浜に立っていた。それも裸足に寝巻きという姿で。

 そして目の前に立つ存在と、静かに向き合っていた。

 それは少女だった。年齢は一見ヒビキと大して変わらないようにも見えたが、妙に大人びても見えた。というよりもこの

場合、そういう概念とは無縁といった方がよりしっくりくるかもしれない。

 髪は長く、艶やかな緑を帯びたようにも見える黒。それに、深く澄んだマリンブルーの瞳が印象的だった。

 何かを逡巡しているかのように揺れているその瞳は、ヒビキの姿を真っ直ぐに捕らえていた。ヒビキも見入るようにして

少女の瞳とぶつかり合っていた。

 どのくらいの間そうしていただろうか。

「あの」

 先に口を開いたのは少女の方だった。ほんの一言だが、銀砂のこぼれるような澄みきった声だ。歌など歌ったりした

ら、どんなにか朗々と美しく響くだろう。

「……なに?」

 ヒビキはどういうわけか臆面もなく普段通りの口調で問い返していた。

「あなたに、お願いがあるんです」

「……初対面の俺に、一体どういう頼み?」

 不可解だ。

 少女の瞳が一瞬、ためらいがちに揺れた。しかしすぐに、何か意を決したようにヒビキの目を見つめた。

「その……あなたのその声を、いただけないでしょうか?」

「…………え?」

 ますます不可解だ。これは言葉通りに受け取るものなのか、そうではないのか、それともこの少女がおかしいのか、自

分が夢を見ているだけなのか……。

 混乱しているヒビキに対し、少女は必死な面持ちで更に言い募った。

「無理なお願いなのは承知です、でもどうしても必要なんです! あなたにしか頼めない!」

「ちょっと待ってくれ」

 ヒビキはますます混乱する頭のなかをなんとか整理しようと格闘しつつ、少女の言葉を制した。

「どういうことだか話がさっぱり飲み込めない。……あんた、名前は?」

 ヒビキの問いに、少女は多少面食らったように数回瞬きをし、答えた。

「皆には、ヨウヒメ、と呼ばれています」

「じゃあ、ヨウヒメ。一体なんだってその……俺の声? とかが欲しいのか、とりあえず聞かせてくれないか?」

 何故こんなわけのわからない話に耳を傾けようとしているのか、疑問も大きかったが、この時はわずかながら好奇心

の方が勝った。

 ヨウヒメは、ごめんなさい、急ぎすぎました、と恐縮してから、不意に表情を曇らせた。

「……友達の声が、出なくなったんです」

 ただ一言を聞いただけだった。しかしその途端、ヒビキの中にある可能性が浮かんだ。……あまりにも馬鹿げた短絡

的な考えだが、しかし。

「一週間ほど前、その人は突然熱を出して倒れました。すぐに治療師たちを呼んで手を尽くし、なんとかその三日後、熱

はおさまりました。でも……目が覚めたときには声が出なくなっていたんです。……彼、は」

 ヨウヒメのマリンブルーの瞳に、透明な粒がかすかに盛り上がった。

「国一番の歌い手で、歌を歌うのが大好きで、わたしも彼の歌声が大好きで……。与えられた役目を役目とも思わずに、

いつも楽しそうに歌っていたのに。ここ数年は……」

 あなたと一緒に歌うのを、いつも楽しみにしていたのに。

 可能性は、確信に変わった。

「だから……あいつ」

 ヒビキは無意識に呟いていた。だから歌が聞こえてこなくなったのか。疑問がひとつ氷解するのと同時に、新たな不安

が浮かび上がる。だとしたら、彼は、もう……。

「治療師たちは、普通に治療をしても治ることはない、といいました。自然治癒もありえない、と。……ただひとつの方法

を除いては」

 それは? ヒビキは自然とその先をうながしていた。

「他人の声をもらい、自分の声に作り変えるという方法です。しばらくの間は元の持ち主の声で過ごすことになりますが、

いずれ馴染んで自分本来の声に戻るらしい、です。ただ、その選び方には条件があって……」

 ヨウヒメは小さく息をついた。

「彼の身体と馴染むのは、彼と同等かそれ以上の力を持っている歌い手の声。それに当てはまったのは……わたしが

知っている限りふたりだけ。ひとりはあなた、もうひとりは……」

 言いながらヨウヒメは自分の胸の中心に手のひらを当てた。

「……わたし、です。でも……」

 ヨウヒメはわずかに目をふせた。

「わたしの声は、リスクが大きくて使えません。できることならすぐにでも彼にこの声をあげたかったのだけれど……わた

しの声はいついかなる場合においても、歌うこと、使うことをしてはいけない、と定められていますから……」

 ヒビキは釈然としなかった。こんなに美しい声を持っているのに。

「どうして……」

「わたしの歌声は、強力過ぎるんです」

 ヨウヒメは、少し寂しそうに微笑んだ。

「この海で彼が歌うのは、この海の平穏を保つためです。それはあなたたち人間の生活のため、というより、海に住むわ

たしたちのためなんだけれど……。ずっと昔は、わたしがこの海で歌っていました。でも日々歌ううちに、わたしの歌声

の力は大きくなり過ぎて、次第に制御できなくなりました。わたしが必死で歌えば歌うほど、海は荒れて、ついには人間

たちまで巻き込んで……」

 しゃべりながら、ヨウヒメの声は次第にかすれて小さくなっていった。細い肩が小刻みに震えている。

 ヒビキはヨウヒメの嗚咽が止むまで、何も言わずただ静かに待っていた。

「…………でも、彼が来てくれて、どうしようもなくなったわたしの代わりに、歌う役目を引き受けてくれました」

 ヒビキはヨウヒメの話を聞きながら、よく聞かされた例の伝承を思い返していた。同時に、ついこの間もらったあの歌詞

が浮かぶ。



 宵の闇色 染め上げた絹糸

 海の紺碧 たたえた双玉……



 目の前の存在そのままを示す歌詞。海の歌姫は、本当にいたんだ。

 伝承も、全てが全て作り物ではなかった。

「……ほんとうは、あなたのところへは来ないつもりでした」

 ヒビキは、平静を取り戻したヨウヒメの声で、我に返った。

「わたしの声は使えない、あなたの声をいただくことは……彼自身が拒否しました。あなたのその声を奪ってまで、そこ

までして歌いたくはない、と。このままではいずれ海が荒れます。ですから国では今、次の歌い手を必死で探していま

す」

「……それでも来たのは?」

「……あなたからの手紙を、受け取りました」

「……」

そう、か、届いたのか。試みて正解だったといえるのかどうかはともかく、ヒビキは安堵した。しかし。

「あなたが作ったのね、彼のために。

  海鳴りの中に 潮風の中に

  その姿明かさず 密やかに息づく

  風に声を 波にこころを

  静かに託し 鮮やかに紡ぐ

  海の彼方で 伝説の陰で

  僕は知っている 君を知っている……

「やめてくれ」

 ヒビキの声は非難よりも照れの色の方が強かった。普段詩などをたしなむこともしない彼なりに、何とか頭をひねって

彼のイメージをことばにしてはみたものの、いざ音読されるとさすがに気恥ずかしい。

「彼、は、あなたのその……手紙を読みながら、大きく息をついて、耳をすますようにしながら目を閉じました。わたしに

はそれが、彼が歌い始める前にいつもしていた精神集中のしかただと、わかっていました。でもすぐに目を開き、手紙に

目を落としました。……わたしはそのとき、見てしまいました。彼の瞳がほんの一瞬、ひどく寂しそうに揺れたのを」

 ヒビキは黙ってヨウヒメのことばに耳を傾けていた。

「そのとき、彼は本当は歌いたいんだと思いました。歌いたくて歌いたくてしかたがない、と。だから……わたしはここに

来てしまいました」

 ヨウヒメは再びヒビキの目を見据えた。

「勝手過ぎるのはわかっています! それでも頼らずにはいられなかった! ……もう一度お願いします。あなたのその

声、いただけないでしょうか……?」

 ヨウヒメはそう言う間、一切目をそらさなかった。ヒビキも無言でそれを受け止めていた。

 長い沈黙の間、海鳴りだけが唯一の音として砂浜に満ちていた。

「…………なあ」

 やがてヒビキが静かに沈黙を破った。ヨウヒメの肩がわずかにビクリと震える。

「声を渡すと……具体的にどうなるんだ? それは言葉通りに……」

 声を一切失うということなのだろうか。

「……いいえ」

 ヨウヒメもまた、空気を壊すのを恐れるかのように、静かに否定した。

「いいえ、声そのものは失いません。話すことも、声を立てて笑ったり泣いたりすることもできます」

「歌も?」

 ヒビキの問いに、ヨウヒメは小さく目を見開いた。

「……はい、歌も歌えるでしょう。ただ……」

「ただ?」

「今、あなたが持っているその声は、もう二度と出せなくなります。あの、きれいな歌声、も……」

ヨウヒメの声がとまどったように震えた。

「……ごめんなさい、わたし、なんてことをお願いしようとしてたんでしょう。やっぱり」

「……じゃあ、やるよ」

 一瞬、空気が止まった。

「……え?」

「声、いるんだろ? だからあげる、って言ってるんだ」

 ヒビキはあっけらかんとして言った。そこには何らかの思惑など微塵も感じられない。

「でも、今の声ではなくなってしまうのよ? あのきれいな声では、二度と歌えなくなってしまうのよ?」

「さっきまでと言ってることが違うぞ……あのな、」

 ヒビキは、まだとまどったように揺れているヨウヒメの瞳をのぞき込んだ。

「声がどうなるかは問題じゃないんだ。俺の場合歌を歌えるってことの方が重要だからな。俺もあいつもあんたも、歌が

好きだ。その気持ちに、声がどうとかは関係ない、そうだろ?」

 ヨウヒメは見た目よりも幾分幼げに、小さくこっくりとうなずいた。

「でも今あいつは歌えない。そのことが苦しくて、悲しい。俺があいつに声をやれば、あいつはまた歌えるようになるし、

俺だって、どんな声になろうと歌えなくなるわけじゃない。万万歳だ、それでいいじゃないか」

 さすがに歌まで取られるって言われたら、断ったかもしれないけど。

 聞き役に徹した分を取り戻すように、ヒビキは一気にしゃべると、最後にそう言い放って、ニッと笑った。

 ヨウヒメは、しばらくの間それに呑まれたように沈黙していた。

「……本当に、いいんですか?」

「くどいよ。……でもあいつは怒るかもしれないな」

「……そうですね。覚悟はしてます」

 ヨウヒメはようやく困ったような、しかし不安が晴れたような笑みを浮かべた。

「あいつ、この期に及んで受け取らない、とか言わないよな?」

「……言いかねないかもしれません。あれでけっこう意地っ張りですから」

「でも選択の余地はないな。あんたも俺も、あいつに歌って欲しくて、何よりあいつ自身、歌いたいんだから」

 今度こそヨウヒメは、一切の陰もなく、本当に微笑った。

 ……思ったとおりだ。彼女は、明るく笑っているほうが尚更きれいだ。

「じゃ、頼むよ」

 ひとしきり笑い終えると、ヒビキはそう言って、ヨウヒメを見た。ヨウヒメはうなずき、ヒビキの喉元をそっと包み込むよう

にして、両の手のひらを押し当てる。その手のひらからは、足元の砂と似通った、心地よい冷気が感じられた。

 喉に手が触れた瞬間、ヒビキの身体がわずかに強張った。

「……やっぱり、こわいですか?」

「……ちょっとね」

 そんなことわざわざ訊くな、と思いつつも、ヒビキはついつい正直に答えてしまう。このままではなんだかくやしくて、ヒ

ビキはちょっとした意趣返しを試みた。

「ひとつ訊いていいか?」

「……何ですか?」

「あいつって、あんたの、何?」

 喉元に触れる手が、わずかにぴくりと動くのが伝わった。

「……友達、って、始めに言いませんでしたか?」

 そっか。そっけなく返事を返しながら、ヒビキは自分の予想が正しかったことに、内心ほくそえんでいた。「それだけ」で

はなさそうだ、少なくとも彼女にとっては。

「言い忘れていましたが」

「……なに?」

「今まで試したことがないので何とも言えませんが……もしかしたら副作用でしばらくの間は体調が崩れたりするかもし

れません。先に謝っておきますね」

「……それを早く言ってくれよ」

 ヒビキはがくりと肩を落とす仕草をした。何故か妙な敗北感を感じてしまう。

「では、いいですか?」

「……ああ」

 ヒビキは目を閉じ、静かに深く息をした。海鳴りにじっと耳を傾ける。

 手のひらを当てられた喉元が、じりじりと熱くなってくる。同時に、全身の体温が徐々に喉元にその熱を奪われるように

して、低下していくような感覚に襲われる。

 膝から力が抜けていく。思わず開いた眼に、ほんの一瞬だけヨウヒメの姿が映った気がした。

 だがそれもすぐにかすんでいく。

「ごめんなさい」

 銀砂のこぼれるような声だけが、鼓膜を震わせた。

「ありがとう」

 そのことばを最後に、ヒビキの意識はふつりと途切れた。



「もう、身体の調子は大丈夫なのか?」

 朝のホームルーム終了後。オオシマは、窓の外をぼんやりと眺めていたヒビキに声をかけた。

 訊ねながら、約二週間ぶりに登校してきた彼の様子を観察してみる。

 二週間もの間、原因不明の高熱で寝込んでいたというだけあって、少しやせたようだ。顔色も、いまだに心なしかすぐ

れない。しかし、表情だけは憎らしくなるくらいに平静な様子を保っていた。

「なんとかこうやって学校に来られるくらいにはなりましたよ」

 答えるヒビキの声は、ひどくかすれていた。オオシマは思わず眉をひそめた。

「喉までやられたのか。しばらくまともに歌えないなあ。……まあ祭りはまだ先のことだし、それまでには」

「そのことなんですが」

 ヒビキはオオシマの言葉をさえぎるようにして言った。

「その話は降ります」

「……喉がやられてるってだけなら、じきに治るだろう? なんでまた」

「治りません」

 ヒビキはきっぱりと否定した。「治らないんです、これは」

「またエラく悲観主義だなぁ、おまえらしくもない……。それとも長いこと寝込んでたせいですっかり気弱になっちまったん

じゃないだろうな?」

 からかうようなオオシマの口調にも、ヒビキは平静な表情を崩さなかった。

「“海皇祭”で求められているのは、ボーイ・ソプラノでしょう? だから、あと二ヶ月ちょっとじゃ、尚更無理です。確かに今

は喉をやられてるのもあって、ひどいことになってますが、これは……」

 訝しげに見つめるオオシマを見ながら、

「声変わりですよ」

 そう言ってヒビキは邪気なくかすかに微笑んだ。



 実に二週間ぶりに、ヒビキは砂浜に立っていた。

「よお、久しぶりだな」

 背後から、馴染みの声が聞こえた。振り向くと、あの男が、今日は釣具を抱えてヒビキをじっと見ていた。

「おまえさんが来なかった間に、歌姫はまた歌うようになった」

 いいながら男は、ヒビキの肩越しに、青い穏やかな海を見つめた。

「なんなんだろうな、久々に聴いたせいか、あちらさんの変化か……なんだかここんところおまえさんの歌によく似ている

ように聴こえてなぁ」

 ヒビキは何も言わなかった。

「……信じきれないとか言いながら……」

 男は独り言のように呟いた。

「なんだかんだ言ってあの歌声が聴こえなけりゃあ、こうして釣りをする気も起きないんだよなぁ、俺は……」

 そのまま男は釣具を抱え、いつもの岩場の方へ去っていった。

 ヒビキは再び海へと視線を戻した。

 ……あの夜の出来事のあと、ヒビキが意識を取り戻したのは、自室のベッドの上だった。夢を見ていたのかと一瞬む

なしくなったが、身体を起こそうとして異変に気づいた。異様に身体が重く、起き上がれなかったのだ。そのまま高熱を

出し、一週間近く寝込んだままだった。熱がほとんど引いた後も、しばらくは身体がまともに動かなかった。

 その間、多少はヨウヒメと『彼』(……そういえば、名前をきくのを忘れていた)のことを恨みがましくも思ったが……。

 そう、か。歌えるようになったんだな。

 男の話を聞く限り、まだ本調子ではないにしろ、いずれ元通りにはなるだろう。

 そのときは、俺も。

 今は、まともに歌うことができない。喉の蝕みがとれたとき、どんな声になるか見当もつかないが、たとえどのような声

になろうとも、ヒビキは歌い続けるつもりだった。

 波打ち際に歩み寄ろうとすると、こつんと、何か硬い物が靴の先に当たった。

 視線を落とすと、そこにはあの瑠璃色のビンが転がっていた。その中には、何度か丹念にたたまれた細い紙が入って

いる。

 もしやと思い、拾い上げる。ビンの中から紙を取り出し、広げてみた。

 …………。

 ヒビキはそれに目を通し終えると、一人苦笑した。

 内容は、ヒビキが書き送ったあの詩だった。しかもご丁寧に文字ひとつひとつの上に音符が振ってある。

 ヒビキは波がすぐ近くまで寄せてくるのにもかまわず、その場に腰をおろすと、未だかすれたままの声で、紙の上にち

りばめられた音をたどたどしく口ずさみはじめた。



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