魔法使いの弟子と精霊
司堂 晶




「セージとマジョラムの乾草を一束ずつと、セラファンの粉末を一瓶」

 少年は、手元のメモに書かれたとおりに購入品を注文した。

「はいはい」

 店の看板娘は、それに笑顔で答える。

 町の中心からほんの少し外れたところにある、小さな雑貨屋。

 その店内の一隅に設けられたカウンターごしに、少年と店の娘は言葉を交わしていた。

 娘は少年の注文どおりの品を、手際よく背後の棚から取り出し、紙袋に入れて少年の前に差し出した。

「最近あなた、よくこの店に来るわねぇ」

「お師匠様のおつかいなんです」

 代金を支払いながら、少年は答えた。

「おつかい? そういえばいつも薬草の類ばかり買っていくわね」

「ええ、お師匠様は薬師なんです。僕はそこで修行をさせていただいてます」

 少年はあらかじめ用意しておいた嘘を、滑らかに紡ぎ出した。

 元来嘘をつくのは苦手なタチだ。しかしマニュアルどおりの言葉を吐くことには、特に抵抗を感じない。

「どちらにお住まいなの?」

 娘は興味津々といった様子だ。

「住居は定まっていないんです。いろんな町を転々としているものですから。この町にも定期的に寄らせてもらっていま

す」

 これも嘘だ。少年と師匠の住まいは、この町からはやや遠く離れた、黒々とした森の、奥深く。

「もしかして、薬師にしてはずい分お若い、あの方かしら?」

「このお店には、よくお世話になってるって、言ってました。店番の娘さんに会ったらよろしく言っておいてほしいって」

 娘は目を丸くし、納得した、と言うように大きくうなずいた。

「ああ、やっぱりあの方ね」

 こちらこそいつもお買い上げいただいて……。言いながら娘は何度もお辞儀を繰り返す。

 その様子に、少年はさすがに少しいたたまれない気持ちになった。

 ほとんど嘘ばかりの内容を、この娘は頭から信じている。

 しかしとても言えない。師匠は薬師ではなく、本当は……魔法使いだなんて。

 自分は、その弟子だなんて。

 薬草類ばかり買っていくのは、確かに薬の合成に使うためだ。ただし薬師とは異なり、合成する薬は治療薬にとどまら

ない。

 それに本当のことをいうと、今日に限っては、おつかいが目的で町に出てきたのではない。……いや、ある意味おつか

いには違いないが、ここでの買い物は、本当の目的のための下準備だ。

「あの」

 少年は、未だぺこぺこと頭を下げている娘の動きをさえぎるように、声をかけた。

「……なぁに?」

 娘はお辞儀をやめ、しかし体を傾けたままの姿勢で、上目遣いに少年を見た。

「昨日、町の中央にある公園の中の池で、誰かが水の精霊を捕まえた、というのは本当ですか?」

 それを聞いた娘は、ああ、その話ね、と言って、大きくうなずいた。

「本当らしいわよ。……あなたも、水の精霊を見てみたいの?」

「ええ、まあ」

 確かに、見る必要はある。

「だったら、祈とう師さんの魔よけのお祈りも済んだはずだし、今日のお昼にはお目見えされるんじゃないかしら?」

「祈とう師の、お祈り?」

 首を傾げた少年に、娘は少し考え込むような仕草をした。

「んー……、精霊みたいに、人間ではないものは、怒らせると祟りが怖いから、そういうことが起こらないように、あらかじ

めお祈りをするんだって。よく、わからないけど」

 それだけ言うと、娘はうっとりとした表情で、カウンターに頬杖をついた。

「楽しみだなぁ。本物の水の精霊って、きっと公園にある彫像や、昔読んだ本の挿絵以上にきれいな人なんだろうなぁ」

「きれいな……人……?」

 少年の呟きに、娘は、あ、そっか、あなたは知らないのね、とつぶやいた。

「この町は水の町。さっき言った公園や、お役所とかいろいろなところに水の精霊の彫像があるの。そのどれもが、髪の

長いきれいな少女。そりゃ決まってるじゃない、水の精霊といえば、女の子なのが当たり前よ」

 興奮気味な、そして嬉しそうな娘の言葉を、少年は黙って聞いていた。



「あれが水の精霊か」

「絵本にかいてあったのとおんなじ姿だね、おにいちゃん」

「ごらんよ、あの真っ白い肌。透けるような、っていうのは、きっとああいうのを言うんだね」

「光みたいに淡い金髪だな」

「そうか? 俺には青みがかっているように見えるが」

「……確かに、そういわれてみればそうかもしれないな」

「それにしても美しい少女だ」

 町の中央にある公園の、一番中心にある広場は、人、人、人でごった返していた。

 そこかしこから聞こえてくる、人々のささやきを聞きながら、少年は広場の中央に置かれた檻の中のヒトをじっと見つめ

ていた。

「彼女の姿を見つけた時は、驚いたよ本当に! ぼくは思わず近くに置いてあった網の束を池に向かって投げてた。手

荒なことをしたと思ったけど、“怖くないよ”って話しかけたらわかってくれたみたいで……」

 檻の近くで、一人の男が近くの人々に向かって興奮気味にまくし立てている。どうやらこの男が、水の精霊を捕まえた

当の本人らしい。

「あの男の人はああ言ってるけど、私には少女が怯えているように見えるわ」

 少年の背後で、不安そうな別のささやき声が聞こえた。

「あたしには、そうは見えないけど」

 違う声が、反論した。

「大丈夫だよ。もし何かが起こったとしても、檻のそばに祈とう師がついているじゃないか」

なるほど、水の精霊が入れられている檻の後方に、頭部を厚手の布ですっぽり覆った人間が、ひっそりと立っていた。

 その者は、手元の杖をうやうやしく前方に突き出した姿勢をとったまま、微動だにしない。

 万が一精霊が暴れだしたとしても、彼(彼女?)がそばにいる限り、大丈夫。そんなやや緊張を秘めた安心感が、広場

にいる人々の間に漂っている。

 再び、檻に目を戻した。実のところ少年も、実物の精霊を見るのは初めてだった。

 周囲の人々の言っていることを合わせると、水の精霊は、青みがかったようにも見える長い金髪に、青い瞳、真白い肌

をした、十六、七才くらいの美しい少女、らしい。

 全然、違う。

 少年の目に映っているのは、皆が言う姿の少女ではなかった。少女ですら、なかった。

 襟足辺りまでの長さの銀髪に、青い瞳。真白いというよりわずかに青白い肌をした、やせっぽちの、六、七才くらいの

男の子だった。

 一体、何故。少年は、今日町に出てくる前に、師匠と交わした会話の内容を思い返した。



「昨日、南のほうの町で、水の精霊が捕まった。おまえ、ちょっと出かけていって、助け出してこい」

 壁一面が、本や紙の束で埋め尽くされた書斎の真ん中で、何やら書き物をしながら少年の師匠は言った。

「精霊……ですか?」

 少年が今学んでいるのは、主に薬草学だ。精霊については、『火・水・風・土の四大元素を始めとして、様々なものに存

在する。まれにヒトの姿を形作り、人間の前に現れることもある』といった、概説程度の知識しか持ち合わせていない。な

のにいきなりそのようなことを言われても。

「……自信、ないんですけど」

 もごもごと消極的な発言をする。しかし師匠は書き物を続けたまま、

「できる。第一できないと判断すれば、とっくに私が出かけてる」

 一蹴した。

「……期限は?」

「明日の明け方までだ。おそらく朝になったら精霊は、ここからずっと東にある城のほうに送られてしまうだろう」

「……どうして、そんな」

「見世物にされるんだろう。珍しいからな」

 師匠はにべもなくそう答えた。

「水の精霊は短い銀髪に青い瞳をした、少々やせぎすな、六、七才くらいの少年の姿をしている。まあ、今ごろ町は精霊

の噂で持ちきりだからな、こんなこと言わなくとも、すぐに見つけられるとは思うが」

 師匠はまるで見てきたかのように、精霊の特徴を並べた。千里眼でも使ったのだろうか。

 ああ、それと。師匠はさらに続けた。

「精霊に関しては、いろいろな情報が入ってくると思うが、あまり信用するな。惑わされるぞ」

 よく意味はわからなかったが、一応少年はそれを心にとどめ、小さくうなずいた。

「あの、それで具体的にはどうやって、水の精霊を逃がせばいいんでしょうか?」

 少年の問いに、師匠は書き物をしていた手を止め、少年と顔を合わせた。その口元は三日月型を形作っている。

 いやな笑顔だ。

「自分で考えろ」

 その答えに、少年は肩をがっくりと落とした。



 少年は小さくため息をついた。

 一応、救出のための策は考えたが、今回のような実技実践は初めてだ。いささか自信に欠けるところがある。

 それにしても。少年は改めて檻の中の精霊を見た。男の子の姿をした精霊は、そっと顔をふせ、体をぎゅっと縮めて怯

えているように見える。それはそうだ。わけもわからず捕まって、こうして人間たちに囲まれて。怖くならないはずがな

い。

 しかも周囲の人々には、精霊は少女の姿に見えているらしい。

『いろいろな情報が入ってくると思うが、あまり信用するな。惑わされるぞ』

 師匠が言っていたことを、頭の中で反復する。

 ……つまりこういうことだろうか。

 少年はひとつの推測を立てた。

 町の人々にとって、水の精霊は少女の姿をしているのが当たり前なのだ。それ故に、彼らには精霊が少女の姿にしか

見えない。

 師匠の忠告がなければ、自分も町の人々が言っているのと同じように、少女の姿にしか見えなかったのかもしれない。

 面白い存在だ。少年は精霊に対してそんな感想を持った。

 精霊学。精霊という存在を知り、追及する学問。今はその単語を思うだけで、全身が期待で震える。早く、早く学びた

い。

「精霊はこれからどうなるの?」

「東のお城の領主様に献上されるんだそうだ」

 その声に少年は意識を引き戻された。そうだ、精霊を助け出さなければならない。

 日中は無理だ。見物を終えて帰ろうとしている者もいるが、今やって来たばかりの者もいる。この様子では、夕方まで

人の出入りが衰えることはないだろう。

 決行するなら、深夜だ。

 少年は人垣をそっと離れ、救出のための段取りを思案し始めた。



 深夜の町は、昼間とはまったく質の異なるささやきに満ちている。こんな時間に町を歩いたことのない少年にとっては、

それが新鮮だった。人が出歩いているわけでも、騒いでいるわけでもない。なのに空気が静かに震えているように感じら

れるのだ。

 少年は再び公園の門をくぐった。そして中央の広場から、少し距離をおいたところにある木の陰に、その身を隠した。

 そこから、そっと広場の様子をうかがう。

 広場の中央には、昼間はなかったこじんまりとしたテントが建てられていた。水の精霊は、あの中にいるようだ。中から

は何人か、人の気配もする。多分、昼間見た祈とう師と、数人の寝ずの番なのだろう。

 少年はその場に座り込むと、昼間雑貨屋で買った乾草の束と粉末を、紙袋から出した。続いて、右ポケットから赤いガ

ラスの小瓶、左ポケットからはマッチを取り出し、自分の傍らにおいた。

 二種の乾草をひとつに束ね、近くに落ちていた棒切れの先にくくりつける。その上に、赤い小瓶の中の液体を、まんべ

んなく振りかけた。さらにその上から、セラファンの粉末をかける。

 出来上がったそのたいまつのようなものを眺める。手順に間違いがなかったか、頭の中でもう一度繰り返す。

 こんなもんかな。

 満足のため息を一つつき、マッチをすって、その先端に近づけた。

 火は音も立てずに燃え上がった。足元に転がされた小瓶と同じ、本当に真っ赤な色の炎が、たいまつを縁取る。煙は

一切昇らない。代わりに、ほんの少し甘い、花のような香りが周囲に満ちた。

 香りを吸い込みすぎないよう、鼻と口を左手の平でおさえながら、たいまつを頭上に掲げた。そのままそれを、ゆっくり

と 振り回す。

 たいまつの先から、香りは見えない輪を描き、広がっていく。公園の広場から、公園一帯へ。公園一帯から、町全体

へ。

 やがて、空気の震えが止まった。すべてのささやきが途絶え、静寂が訪れた。

 少年は木の陰から出て、広場のテントの方へ向かった。空気中に漂う甘い香りが鼻をくすぐる。

 テントの中を、おそるおそるのぞいた。中にいる人間は、全員眠りこけている。成功だ。少年は安堵のため息をつき、

滑るようにテントの中に入った。

 テントの中も、例の香りがひっそりと漂っている。皆が眠っているのは、そのせいだ。

 それはこのテントに限ったことではない。おそらく町全体が、今ごろ深い眠りの中だ。

 その中を、少年一人が平然と動いている。少年にとっては、森の中で何度も練習をした薬の、馴染みの香りだ。わずか

に眠気は感じるものの、香りに対する耐性は、すっかりできている。

 少年は檻の前に立った。檻のすぐそばでは、祈とう師がやはり眠りこけている。

 この祈とう師に、何の特別な力もないことは、少年には始めからわかっていた。ただ、町の人々の不安や恐れを取り除

くために、形式的な祈りや儀式をする人だ。

 檻の様子は、昼間とは打って変わっていた。何やらよくわからない紋様や、まじないらしき記号の書かれた紙が、檻の

全面にびっしりと貼ってある。護符のつもりなのだろう。しかしこれにも、何の効果もない。

 少年は檻の前側に貼りつけられた紙切れを、一枚ずつ静かにはがしていった。

 ほどなく、精霊の姿が明らかになる。やはり、自分にとっては男の子の姿だ。

 檻の中でうずくまっていた精霊が、愛らしい眼で少年を見る。目が合った。

 少年は、しぃっ、と言って、人差し指を唇の前に立てた。精霊は驚くだろうかと思っていたら、やはり驚いたように目を丸

くした。しかし少年の言いたいことは飲み込めたらしい。おどおどしながらも、小さくうなずいた。

「すぐに出してあげるからね」

 ここまでくれば、すぐだ。あとは檻の鍵を探して、開けてやればいい。

 少年は、思ったよりもコトがうまく運んだことに、少々驚きを感じていた。

 少年にとって、この救出の明暗の分かれ目は、眠り薬の合成だった。これまでに何度も作りはしたが、実際に人に対し

て使ったのは、これが初めてだ。どちらかというと、不安の方が大きかった。

 少年は、近くで眠っている祈とう師の服を探ってみた。いくら触れても、祈とう師はピクリとも動かない。薬の効き目は、

ばっちりだ。

 祈とう師はどうやら鍵を持っていないらしい。少年は、テントの隅で眠っている男のほうに向かった。

 昼間、水の精霊を捕まえた、と言っていた本人だ。この男が、鍵を持っている可能性は一番高いと少年は踏んだ。

 しかしこの男もはずれだった。少年は、テントの入り口付近で倒れふしている二人の男に近づいた。

 おかしい。

 少年は眉間にしわを寄せた。誰も鍵を持っていない。

 仕方がないので、もう一度檻のほうに戻り、よくよく眺めてみた。そして、愕然とした。

 どこにも鍵がついていない。

 代わりに見つけたのは、檻の上部に施された、溶接のあとだった。

 ひどい……。

 この場合の『ひどい』は、精霊に対する人間の仕打ちに向けられたものであり、同時に少年が師匠に対して向けた恨

み言でもある。あの人は、まさかこういうことをわかっていた上で、自分に仕事をさせようとしたのではないだろうか。だと

しても、一体何のために。少年には、師匠の意図がさっぱりわからなかった。

 しかし。少年は、ここで精霊を放り出すわけにはいかなかった。そんなことをしたら、精霊がかわいそうだ。師匠にも、

見下げ果てたやつだ、と見捨てられることになる。

 少年は檻の前に座り込み、思案を始めた。



 やっぱりだめだ。

 少年はテント内を歩き回った末に、再び檻の前に戻った。そのまま、膝を抱えてうずくまる。

 思いつく限りの方法を試してみた。

 檻のどこかに脆いところはないかと思い、鉄格子を一本一本調べてみた。無理矢理押し広げようともしてみたが、自分

が疲れるばかりでビクともしなかった。

 池にかえしてやればいいのだろうか。そうとも考え、檻ごと池まで持ち運ぼうとした。しかし檻は重く、非力な少年では

ほんのわずかほども持ち上げられなかった。

 何の解決になるかわからないが、とりあえず精霊が捕まったという池まで行って、小瓶に水を汲んで持ってきてみた。

試しとばかりにその水を、精霊に振りかけてみた。しかし水は、精霊の髪の毛や顎の先を、伝い落ちていくだけだった。

 くやしい。

 少年は自分が少しずつ涙目になっていくのを感じていた。同時に喉の奥が、何かでいっぱいになったかのように、ヒリ

ヒリと痛んでくる。

 泣いてはいけない。少年は涙を飲みこもうとした。しゃっくりのような音が、静かな空間に響いた。

 少年は顔を上げ、精霊を見た。精霊は、あどけない顔に不安そうな面持ちを浮かべ、少年を凝視している。その視線

に、少年はいたたまれない気持ちになった。

「ごめんね、僕が未熟なせいで」

 許してくれるわけがないと思う一方で、どうか許してほしいと願う自分がいる。その願望を汲み取ってくれたかのよう

に、精霊は首を横に振り、ふうわりと微笑んだ。許してくれる、ということだろうか。

 つくづく、興味深い対象だ、と少年は思った。

 精霊は、言葉を持っていないようだ。もし持っていたとしても、今の少年には彼らの使う言葉など、想像がつかない。

 その分、表情で語るすべをもっているらしい。言葉が使えない以上、精霊の感情の起伏を察するには、表情に頼るし

かない。しかし、特に注意深く観察せずとも、精霊の言いたそうなことは、おおむね解することができる。

「やっぱり、外に出たいよね?」

 聞くまでもないことだと思いつつ、少年は精霊に語りかけた。精霊はこくりとうなずいた。

 精霊とは、こんなにも素直なものだろうか、とも思った。こちらが話しかけるたびに、素直な反応を返してくれる。しか

も、こちらが望んだとおりの――。

 少年は、ひとつの違和感に気づいた。

 さっきから精霊が見せる表情は、すべて自分の予想内だ。不安にさせてしまうと思えば、精霊はそのとおり不安な表情

をしているし、許しを請えば、その願いどおりに許すような仕草を見せた。

 どうしてここまで自分の思い通りなのだろう。精霊の気持ちも、その、姿も。

 ……姿?

 少年の脳裏に、ひとつの考えがひらめいた。どうして町の人々には、精霊が少女の姿に見える? その一方で、どうし

て自分には男の子の姿に見える?

 もしかしたら自分は、重要な見落としをしていたのかもしれない。

 この仮定が正しいとしたら。少年の胸は大きく高鳴った。

 少年は再び精霊を見た。精霊は、先程とはまた打って変わって、喜びに満ちた表情をしている。自分の気持ちの昂ぶ

りが、精霊にも伝わっているらしい。それが、少年の推測を、ますます確信に近づけた。

 少年は、目を閉じて深呼吸をした。糸口の発見に高揚した心を、何とか落ち着けようと試みた。

 そして静かに目を開いた。

「今度こそ、出してあげる」

 厳かに宣言する。

 少年は静かな眼差しを精霊に向けた。それでも心は未だに波打っているのがわかる。精霊が、未だ嬉しそうな表情を

しているからだ。

 それを気にかけないように、少年は努めた。

 同時に、精霊の表情が少しずつ変化していった。満面の笑顔から、穏やかな笑みへと。

 まだ足りない。少年はその様子に、一切心を動かさないようにした。

 精霊から、少しずつ笑みが消えていった。

 少年は容赦しなかった。もはや心は動かなかった。

 精霊は完全に、表情を失くした。

 少年の心には、静寂が満ちた。それだけでは足りず、少年は心から静寂すらも追い出そうとした。

 精霊の輪郭が、徐々にぼやけていった。

 少年の目は、開かれていながら何も映さなくなった。

 そして心は、完全に空っぽになった。



 何やら、ばちゃり、と音がしたように思う。



 その音に揺さぶられ、意識を取り戻す。

 そこにはもはや、精霊の姿はなかった。代わりに、水が四方に飛び散っている光景が目に入った。水の精霊は、水に

かえった。すべて、見事に檻の外だ。

 精霊を、檻の外に。条件は見事にクリアできている。

「……できた」

 思わずぽつりとつぶやいていた。

 不意に、笑い出したい衝動に駆られた。それを何とかおさえながら、できた、できたと繰り返した。  その場に仰向けに

倒れこむ。今、少年の心を占めているのは、この上ない達成感と、もうひとつ……。

 少年はほーっ、と長い息をついた。そして苦々しげにつぶやいた。

「……だまされた……」



「ひどいです」

 少年は憮然とした表情で言った。

「ひどい?」

 対する師匠は、平然としていた。一体何がひどいのか、と言わんばかりの口ぶりだ。

 少年は達成感と、ちょっとした腹の虫を抱え、森の奥に帰った。その足で、師匠の書斎に殴りこみをかけたのだ。

「どうしてわざわざあんなことを言ったんです?」

 あんなこと――『精霊が男の子の姿をしている』とわざわざ言ったことだ。

 カラクリが知れた今、はっきりとわかる。銀髪で、青い瞳で、やせぎすの、六、七才くらいの男の子、と、事細かに並べら

れた精霊の容姿は、全部師匠が勝手に考えた、デタラメだ。

 町の人々は、『精霊は少女の姿をしている』という認識のために、精霊が少女の姿に見えた。

 少年は、『精霊は男の子の姿をしている』という情報に従って、精霊が男の子の姿に見えた。

 それが間違いの元だったのだ。少年自身も含めて、人が精霊に対し、『こういう姿であるはずだ』という認識を押しつけ

ることで、精霊はそれに縛りつけられたのだろう。誰も精霊そのものを、先入観なしに見つめるものはいなかった。少年

が、そのことに気づくまでは。

「私はヒントのつもりで言ったんだがな」

 それは確かにそうだ。町の人々と同じように、精霊が少女の姿に見えていたら、答えには行き着けなかったかもしれな

い。

「だからって、あんなヒントの出し方はないでしょう」

 もっとストレートに言ってくれれば、ややこしいことを考えずにすんだはずだ。少年の怒りのポイントは、そこにある。

「普通にヒントを与えても、つまらないだろう」

 台詞の一番最後に『私が』という主語が省略されていることを少年は察した。

 それに、と師匠は言葉を続けた。

「私は、情報を信用するな、と言った。かといって私の言うことを信用していいと言った覚えはない」

 師匠としては、これもヒントとしてサービスしたつもりだったらしい。

 無茶苦茶だ。

「……精霊は、どうだった?」

 肩を落としていた少年は、先程よりもやや静かな師匠の言葉に、途端に神妙な様子になった。うーん、と小さくうなり、

それから答えを返した。

「まるで、鏡のようだと思いました」

 人の心を映す鏡。高ぶれば高ぶりを、慈悲を求めれば慈悲を、恐れれば恐れを、精霊はその表情にあらわした。見る

側の心の移ろいを、そのまま如実に映し出す。精霊と向き合うのは、ある意味自分の心と向き合うことだったように思

う。

 そうか、師匠はそれを聞いて満足そうに何度もうなずいた。そして、にっこりと笑った。

「導入としては、充分だっただろう?」

「は?」

 少年は口をポカンと開けた。師匠は楽しそうな様子で続けた。

「もうそろそろ精霊学の勉強にも手をつけさせたいと思っていたところだ。そこにおあつらえむきに今回の精霊の話が流

れてきた。これはいい、と思って教材に使わせてもらったんだ」

 少年は口をパクパクさせた。この人は、精霊を自分の課外学習に利用したんだ。

 なんて……迷惑な。

 少年は、精霊に頭を下げて詫びたい気持ちになった。

「学びたいだろう? 精霊学」

 笑みを絶やさぬまま、師匠は少年に問うた。

 少年は無言でうなずいた。何だかまんまと策略に引っかかったようで、非常にしゃくでは、ある。しかし一度芽生えた興

味は、もはや抑えきれないくらいにふくれあがっていた。

 それを見て、師匠はうんうん、とうなずいた。

「早速明日から取りかかることにしようか。……ああ、そうだ。地下書庫の手前から二番目の部屋の利用を許可しよう。

精霊学関連の蔵書が、たくさんあるから」

 そう言って、師匠は机の中から鍵を一つ取り出すと、少年の手の平の中に落とした。

 少年にはその鍵が、とてつもない重みを秘めているように感じられた。この鍵一つが、また新たな探求につながる。少

年は、期待に胸をふくらませた。

 そして。少年は師匠をまじまじと見つめた。

 ある意味、この人のいうことが一番信じられない。

 少年は、これから先もこの師匠の下で、修行を続けていくために必要な、新たな教訓を身につけた。



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