大渇水 東郷英治
私たちは生まれたときから恵まれている
でも それに気づいている人なんてほんのわずか
だって どんなに大切なものでも
いつでも手に入るようになると そのありがたみなんてわからないものそれを失ったときに 後悔するまでは
朝。ベッドの上でまどろんでいた私は、枕元で鳴り止まない耳障りな電子音に引きずり起こされた。音の発信源である目覚まし時計を止め、時間を見た。七時三十分。
「はぁ。かったるいなあ、もう」
仕方ない、起きよう。寝ぼけた目をこすりながら、部屋を出て洗面所へ向かった。うちの洗面台にはシャワーがついていて、そこで朝シャンをするのが私の日課になっている。
私がいつものように髪を洗っていると、いきなり後ろから邪魔が入った。
「いぶき、水を出しっぱなしにするんじゃない!」
父が怒鳴るのを無視してシャンプーを洗い流そうとすると、いきなり水が止められた。
「あ、何するのよ!これから使うとこだったのに」
「お前が人の話を聞かないからだ」
父は私をきつくにらみつけた。
「はいはい、わかりました。わかったからいちいち怒鳴らないでよ」
「まったく」
父はブツブツ言いながらリビングへ向かった。いつものことだが、本当にうるさくてかなわない。
髪を洗い終えた私は、部屋で着替えてからリビングで朝食をとった。食べ終わった後、洗面所で歯を磨いていたそのとき。
「いぶき!」
あわてて出しっぱなしになっていた水を止めた。また何か言われると思ったが、父はそれ以上何も言わずに玄関へ行ってしまった。
「行ってらっしゃい」
「ああ」
母に無愛想な返事をして、父は仕事に出かけた。
「はあ、どうしてこう朝からうるさいんだろう」
父がいなくなったのをいいことに、陰口をたたいた。
「仕事で嫌なことがあったんでしょう。大目に見てあげて」
「お父さんの肩持つの?!」
母は私の味方だと思い込んでいた私は、驚いて聞き返した。
「大人はいろいろ大変なの。あんたにはまだわからないでしょうけど」
「大変なのはわかるけど、八つ当たりはやめてほしいの!」
母に子ども扱いされたようで、ついカッとなってしまった。
「そうやってすぐムキにならないの。あんたもお父さんのこと言えないわよ?」
「……はい」
くやしいが母の言うとおりだった。気をつけよう。
「それよりいぶき、時間は大丈夫なの?」
「あ、やばい!」
あわてて部屋へ戻り、バッグを持って玄関へ走る。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
玄関を飛び出し、学校へ向かって駆け出した。
放課後。クラスメイトの朱美と一緒に自販機で買ったジュースを飲みながら家へ向かって歩いていた。
「テストどうだった朱美?」
「うぅ、できればあんまり聞かないでほしいな」
「ご、ごめん朱美」
今日帰ってきたばかりの中間テストの結果が、私たちの大きな関心事だった。
「いぶきはどうだったの?」
「私はまあまあってとこかな」
「いいなあ。私なんか先生に呼び出されるかもしれない」
そんな話をしているうちに、私と朱美は川へさしかかった。川といっても、ほとんどドブのような汚い川だ。
「ねえ、これどうしようか?」
朱美が飲み終えたジュースの缶を指して言った。
「そこに捨てちゃえばいいじゃん」
私は自分の空き缶を横のドブ川へ投げ捨てた。
「あ、うん」
朱美は少しためらってから空き缶を捨てた。ドブ川の水は濁った緑色で、空き缶やビニール袋、カップラーメンの容器などのゴミに埋め尽くされている。ここまで汚れているのだから、今さら空き缶の一つや二つくらいどうということはないだろう。
「じゃあね朱美」
「うん、また明日」
朱美と別れ、私は家路についた。
これが私の日常
自分のしていることに何も感じないまま過ごす毎日
それが一変したあの夏
忘れもしないあの年
「いぶき、起きなさい」
今朝の私を眠りから覚ましたのはいつもの目覚まし時計ではなく、母の声だった。もっとも、夏休みに入ってからは目覚ましなんてほとんど使っていなかったが。
「いぶき!」
「もう、何なのよ朝から」
学校があるわけでもないのにどうして起こされなければならないのか。
「いいから早く着替えなさい」
「ちょっと待ってよ。顔洗ってくるから」
「なに言ってるの、今日から断水よ」
「え?!」
あわてて部屋を飛び出し、洗面所へ行ってみた。いくら栓をひねっても水が出ない。
そうだった、今日から水道が断水になると昨夜母から聞いていた。
「ほら、早く支度しなさい。給水に遅れるでしょ」
「え、私も行くの?!」
「当たり前でしょう、あんたが使う水なんだから。ほら、早く着替えなさい」
文句を言っても仕方がないので、部屋へ戻って服を着替えた。着替え終わって部屋を出るとき、ふと時計に目をやった。八時十分。
「ちょっと母さん、まだ八時過ぎじゃない!」
部屋を出て、リビングにいた母を問い詰めた。
「それがどうかした?」
「給水は十時からでしょ?こんな時間に起こさなくてもいいじゃない」
「なに言ってるの。十時ちょうどに行ってすぐ終わるわけないでしょ。ほら、さっさと食べちゃって」
「……はい」
しぶしぶ母に言われるまま朝食を済ませた。食べ終わると、私と母はすぐに家を出て給水へ向かった。
今日から断水になったので当然水道からは水が出ない。そのため各家庭で使う水を市が配給する、これが給水だ。給水が行われるのは私の母校でもある市立第四中学、略して四中。十時に四中の校庭へ給水車が来て、給水が始まる予定となっている。
行く途中、私たちと同じように四中へ向かう人を何人も見かけた。中には灯油を入れるのに使うポリタンクを持っている人もいた。
「母さん、入れ物は用意しなくていいの?」
「むこうで売ってるから大丈夫」
四中の前まで来ると、すでに順番待ちの列が校門からはみ出していた。給水車が来るまでまだ一時間以上もあるというのに。
「ちょっとウソでしょ?!」
「いぶきはそこに並んでて」
文句をこぼす私を無視して、母は校門の脇でポリタンクを売っている露店へ行ってしまった。
「しょうがないなぁ、もう」
私は否応なしに順番待ちの列に並ばされた。
「はぁ、暑い」
まだ九時前だというのにこの暑さは尋常じゃない。そもそも私がこんな行列に並ばなければならないのはこの暑さのせいだ。今年は梅雨の時期にほとんど雨が降らなかった上に、七月からは連日猛暑に見舞われた。そのせいで、だいぶ前からテレビや新聞などで水不足が騒がれるようになっていた。一ヶ月くらい前からプールや銭湯などが営業しなくなり、節水を呼びかけるポスターや看板をそこらじゅうで見かけるようになった。最近では飲食店もほとんどが営業停止となり、水道の水の出まで悪くなっていた。
もちろん私も水不足を他人事のように考えていたわけではないが、まさか断水になるとは思ってもみなかった。
「お待たせ」
母がポリタンクを三つ抱えてやってきた。
「三個も必要?」
「家族一人につき二十リットル、ちょうどこのタンク一個分だから、お父さんを含めて三個でしょ」
「そっか」
やがて十時になると校庭へ給水車が来て少しすつ列が進み始めたが、それからがまた長かった。結局、給水が終わって家へ帰ったときにはすでに十二時を過ぎていた。
「ああ、重かった」
「お疲れさま」
二十リットルもの水が入ったポリタンクは一個だけでも重いのに、母と二人で三個も運ばなければならなかった。毎日これが続くのかと思うと気が滅入る。
「でも、水不足って言ってるわりにけっこうもらえるんだね」
六十リットルもの水を目の前にして、ついそんなことを言ってしまった。
「なに言ってるの。たったこれだけじゃ何にもできないわよ」
母の言うとおりだった。その日から私の家ではお風呂にも入れず、洗濯もできない。トイレの水も流せないし、炊事や皿洗いに使う水も極力抑えるために食事はインスタントやレトルト、それに冷凍食品。普段私たちがどれだけ水を浪費しているかを思い知らされた。
そして わたしが今までの行いを後悔するときがきた
「はあ、はぁ……」
もう何時間歩いているのだろう。歩いても歩いても、あるのは延々と続く砂の山ばかり。確実に進んでいるはずなのに、目に映る景色はさっきからまったくと言っていいほど変化がない。
「み、水……」
口の中がカラカラに乾いてうまくしゃべれない。喉が焼けつくように熱く、呼吸まで苦しくなってきた。
そもそも私はどうしてこんな砂漠の真ん中にいるのだろう。疑問が浮かんでも、意識が朦朧としてそれを考えるだけの力も残されていない。
すでに足の感覚がなくなりかけていた。自分の足で歩いているはずなのに、義足をつけているのかと思うくらいだ。
「あ!」
砂に足をとられ、そのまま前に倒れこんだ。
「くうっ……」
砂に埋もれかけた体を起こそうとするが、力が入らない。足の感覚どころか、体中の感覚がすでに失われていた。太陽が発する目に見えない灼熱の炎からは逃れようがなく、こうしてじっとしているだけでも全身が焼き尽くされ、体力を奪われていく。このままでは力尽きるのが時間の問題だったが、もうこの場から一歩も動けない。
(疲れた。少し、休もう)
言うことを聞かない体に無理を言うのはやめた。このまま砂に飲まれて消えていく運命には逆らえないのだ。
私が覚悟を決めて目を閉じかけたそのとき。
「……あ、れ?」
一瞬遠くの方に何かが見えた気がした。日差しの熱さとまぶしさにやられてほとんど開かなくなった目を無理矢理こじ開けた。
「……み、ず!」
緑色が目に映った。オアシスかもしれない。いや、きっとそうだ。その瞬間、鎖が解けたように体が動きだした。私の中の生きようとする力が私を立ち上げ、前へと進ませた。
(蜃気楼かもしれない)
「そんなことはない」
(さっきまでは見えなかったのに?)
「見落としていただけだ」
(暑さで頭がおかしくなって幻覚を見ているに決まってる)
「うるさい、だまれ!」
酷使しきった体に鞭打ち、絶望に導こうとする声をはねのけながら、必死で歩き続けた。もうオアシスはすぐそこだ。
「み、水!」
緑に囲まれた小さな池。私は我を忘れて水の中に顔を突っ込んだ。渇ききったのどを潤し、水の冷たさを存分に味わった。
「はぁ、助かった」
顔を上げて一息つき、再び水を飲もうとしたそのとき。
「え?」
透き通るほどきれいな水が、突然にごり始めた。あっという間に池の水は気持ちの悪い緑色に埋め尽くされてしまった。そしてさらに、にごりきった池の底から何かが浮かんできた。
「こ、これって……」
見覚えのあるものばかりだった。空き缶、ビニール袋、カップラーメンの容器と食べ残し、それにシャンプーの泡。一瞬でドブのようになってしまった目の前の池からは、耐えがたい異臭が漂ってくる。こんな水を飲めるわけがない。
「そ、そんな、ウソでしょ!?」
いくらわめいても池の水は元に戻らない。
(お前にこのオアシスの水を飲む資格はない)
またあの声が聞こえた。反論の余地など皆無だった。さっきのように無理矢理否定しようという気力さえわいてこない。
残されたのは絶望の二文字。
「は……はは、わははは!」
狂ったような笑い声が響き渡る。もう何も考えられない。
「は、はは……」
鼻をつく悪臭と暑さにめまいを起こし、私はその場に倒れこんだ。
「いぶき、起きなさい」
聞きなれた声だった。声をかけながら私の肩を揺さぶる。
「いぶき、置いてくわよ」
目を開けると、母の顔がそこにあった。
『まもなく青森、青森でございます』
停車を告げるアナウンスが聞こえる、ということは。
「ほら、もう降りるわよ」
「あ、うん」
そうだ、ここは新幹線の中。あの砂漠とオアシスは夢だ。私は悪い夢を見ていたんだ。
「どうしたいぶき?」
ほっと胸をなでおろしていた私に、横に座っていた父が尋ねた。
「ううん、なんでもない」
数分後、列車は青森駅に到着し、私たちは駅を出てバスに乗り換えた。
東京が断水になってから今日で四日目。断水の影響で父の会社が休業になったので、私たち一家は青森にある父の実家へ行くことになった。帰省というより避難というほうが正しいだろう。
バスに揺られることおよそ一時間。ようやく目的地である父の実家へと着いた。
「こんにちは」
「おやおや、よく来たねぇ。東京は大変だったそうじゃないか」
玄関を開けると、祖母が出迎えてくれた。
「もう大変なんてものじゃありませんよ、お義母さん」
母が大変
「そうかい、まあとにかくあがんなさい」
「お世話になります」
私たちは家にあがり、居間で荷物を降ろした。
「暑かっただろう、風呂にでもはいんなさい」
「やった!」
お風呂なんて実に四日ぶりだ。断水になってからは、濡れタオルで体をふいて簡単に顔を洗うくらいしかできなかった。
私は一番乗りで風呂場へ行き、思う存分シャワーを浴びた。
「はぁ、さっぱりした」
着替えて居間へ行くと、父と母が祖母と一緒に麦茶を飲んでいた。私が座ると、入れ替わりに母が風呂場へ行った。
「いぶきも飲むかい?」
「うん、ありがとう」
祖母がコップに麦茶を注いでくれた。だが私は手をつけず、コップをただじっと見つめていた。
「どうしたいぶき?」
父が私の顔を見て尋ねた。
「……いや、水道から水が出るなんて当たり前なのに、こうやってシャワーを浴びて冷たい麦茶が飲めるのがすごくありがたい気がするの。変だよね、私」
自分で言ってて恥ずかしいはずなのに、何の抵抗もなくさらりと言ってしまった。
「変なんかじゃないさ」
「え?」
父がめずらしく上機嫌な顔を見せた。
「普段は水道から水が出るのが当たり前のように思うだろうが、好きなときに好きなだけ水が使えるなんて本当にありがたいことなんだぞ?」
「そ、そうだよね」
普段は怒ってばかりいる父が、こんなことを言うなんて思ってもみなかった。
「水だけじゃない。電気だって、食べ物だって、平和だってそうだ。いつでも手に入るものみたいに思ってたら大間違いだぞ」
「うん」
私は黙ってうなずいた。
「今回の水不足でみんな大変な思いをしているけど、これを機会にみんなが気づいてくれればいいと思ってるよ」
父は言い終えるとコップの麦茶を飲み干した。
「うん、そうだよね。ありがとう、お父さん」
「な、なんだいきなり」
私がガラにもないことを言ったせいで父は吹きだしそうになった。
「お父さん、お風呂あいたわよ」
シャワーを浴びた母が居間へやってきた。
「あ、ああ。ありがとう」
父は逃げるようにその場を後にした。
「どうしたのお父さんは?」
「ふふ、なんでもない」
疑問を浮かべる母に、私はいたずらっぽい笑みを返した。