愛という名の希望
東郷 英治






          ―序―

 

 

 日本国・旧首都・東京。二十二世紀末に起きた核戦争の余波で死の灰が降り注いで以来、この街は無人の廃墟と化していた。

 

 地上の放射能が人間の活動できるレベルまで薄れるには、二十年以上の歳月を要した。核シェルターから地上へと戻った日本

 

人は首都を横浜へと移し、失われた文明の復興へと乗り出した。

 

 新首都である横浜の繁栄は、人々に希望を与える光となった。一方、かつての首都であった東京は、誰もが目を背ける闇の街

 

と化していた。

 

 無人の廃墟と化したビル群はホームレスや犯罪者達の住処となり、政府の手が届かない無法地帯となるのに時間はかからなか

 

った。

 

窃盗・強盗・殺人などの凶悪犯罪は日常茶飯事。売春、賭博、麻薬・拳銃の密売などは、マフィアの手で半ば公然と行われて

 

いる。

 

誰もが自分の身を守るのに精一杯で、他人の事を思いやる余裕など持ち合わせていない。

 

そんな環境においても希望を失わずに、たくましく生きる少年と少女がいた。

 

         ―1―

 

 

「今日もボロ儲けですね、ヤスの兄貴」

 

「バカ。大声でそんな事を言うもんじゃねえ」

 

「おっと、失礼しやした」

 

 薄汚れた路地裏の道を二人の男が歩いていた。ヤスと呼ばれた男は黒のトレンチコートに身を包み、片手で煙草をくゆらせて

 

いる。もう一方はヤスよりも小柄な男で、革のジャケットとジーンズを着こなしていた。

 

 服装や二人の会話からすると、若手のマフィアとその子分といったところか。この街ならどこにでもいるような連中だ。

 

 二人は仕事を終えた後らしく、軽い足取りで路地裏の細い道を歩いていた。すでに日が西の空へ傾いており、日没まではいく

 

ばくもない時間帯だ。まだ十月になったばかりだが、時折吹き抜ける風は手がかじかむほどに冷たい。

 

「兄貴、帰りに一杯飲みにでも――」

 

「静かに」

 

 急に真剣な目つきに変わったヤスが、陽気な声を上げるサブを黙らせた。口だけでなく足の動きも止め、二人は十字路の手前

 

で無言のまま立ち尽くす格好になる。

 

(聞こえたか?)

 

(へい。さすが兄貴だ)

 

 二人は足音と声を消す事で、小さな足音をはっきりと聞き取った。彼らの見えない位置に何者かが歩いているという事だ。

 

 すでに女子供が出歩く時間ではない。日が暮れてしまえば、いつ強盗に襲われてもおかしくないような街だ。

 

(サブ、お前はそっちを見ろ)

 

(へい、兄貴)

 

 十字路の正面に人影はない。敵が潜んでいるとすれば、左右に伸びた横道のどこかだろう。二人の現在位置からは、ちょうど

 

死角になっている。

 

 二人は道の両端に張り付き、周囲を警戒しながら少しずつ進んでいく。時折聞こえてくる足音から、二人は姿の見えない相手

 

に近づいている事を感じ取っていた。

 

そして二人が十字路の手前まで辿り着いたとき、左手の道に眼を向けていたサブが小さく口を開いた。

 

(兄貴、カモですぜ)

 

 足音の主は一人の少女だった。深緑色のダッフルコートに、細い両足を包む黒タイツ。明るい茶髪をポニーテールに結い上

 

げ、かわいらしいフードの上まで垂らしている。

 

 顔立ちはやや幼く見えるが、男達の食指を動かすには十分だった。

 

(兄貴、やりましょうや)

 

(ああ。こんな上玉を逃がす手はねえな)

 

二人は野卑な笑みを浮かべ、即座に狩りの態勢に入った。

 

「っ!?」

 

 二人の足音を聞きつけて振り返った少女の顔が、一瞬で青ざめる。彼女は素早く背を向けて走り出したが、二人にとっては予

 

測の範疇だった。

 

「逃すかよ!」

 

肉食獣のような気迫と瞬発力で追跡し、瞬く間に獲物を捕らえる。少女の体を捕らえたサブは背後から羽交い絞めをかけ、後

 

から追いついたヤスが口を塞いだ。

 

「へ、残念だったな、お嬢ちゃん。こんな時間に一人で出歩いてるのが悪いんだ」

 

「――っ!」

 

 ヤスの片手に口を塞がれ、叫ぶ事もままならない。仮に彼女が声を上げたところで、助けがやってくる保証などないが。

 

「そう暴れんなよ。おとなしくしてりゃ、俺達も手荒な真似はしねえさ」

 

「兄貴の言う通りだ。どうせなら、一緒に気持ちよくなった方がいいだろ?」

 

“気持ちよくする”というセリフが、この上なく白々しい。力ずくで女を犯そうとする男に、相手をいたわる心があるだろう

 

か? 

 

彼らは動物の雄と同じで、自分の欲望を満たすことしか頭にないのだ。

 

「っ……」

 

「おう、なかなか物分りがいいじゃねえか」 

 

「優しくしてやりましょうや、兄貴」

 

 少女が抵抗をやめたことで、二人は上機嫌になった。わずかに残っていた警戒心も消え、今の彼らは獲物の味を楽しむ事しか

 

考えなくなる。

 

 その直後、少女の両目が不敵に笑った事すら、二人は気にも留めなかった。わずかな油断が命取りとなるとも知らずに――。

 

「ぐわっ!?」

 

 突然、ヤスが小さく悲鳴を上げ、前のめりに倒れた。

 

「あ、兄貴!?」

 

 ヤスの体が完全に倒れこんだ時点で、ようやく異常に気づくサブ。慌てて後ろを振り返るが、反応があまりにも遅すぎた。

 

「がっ!」

 

 ヤスの身に何が起こったのかもわからないまま、あっけなく昏倒した。

 

 先程の一文を訂正しよう。彼らは間違いなく動物以下の存在だった。強烈な欲望に頭が麻痺して、背後に敵が迫っていた事に

 

も気づかなかったのだから。

 

 

          * * *

 

 

「もういいぞ、梓」

 

「チョロイもんね」

 

 梓と呼ばれた少女は、すでに“暴漢に襲われるか弱い少女”の演技をやめていた。乱れた着衣を軽く直すと、なれた手つきで

 

チンピラ達の懐を漁り始めた。

 

「っと、これで全部かな」

 

 二人の衣服のポケット等から、合わせて五個の財布が出てきた。スリを警戒して所持金を分散しているのだろうが、この状況

 

では全く役に立たない対策だった。

 

「あとは、これだけ頂きましょ」

 

「そうだな」

 

 二人はチンピラ達の上着を手際よく脱がせると、二人で一枚ずつ羽織った。最後に周りを一通り確かめた後、チンピラ達を放

 

置してその場を後にした。

 

 

           ―2―

 

 

「ただいま」

 

 星司は片手で重い扉を開けながら、部屋の中へ声をかけた。

 

「おかえり!」

 

「おかえりなさい!」

 

「おつかれさま!」

 

 星司の声を受けて、部屋の中から次々と声が返ってきた。いずれも、子供の声ばかりだ。

 

「ただいま。みんな、いい子にしてた?」

 

「うん!」

 

「荷物持ってあげる!」

 

「ありがと。じゃ、このコートをかけておいてね」

 

「わかった!」

 

 星司がドアを開けて十秒も経たないうちに、二人の周りには大勢の子供達が群がっていた。彼らは皆、この地下室に住み着い

 

ている孤児たちである。

 

地下室自体はほとんど無傷で残っていたが、地上の建物はすでに半壊状態であり、近づく人間はほとんどいない。そのため、

 

強盗や盗賊達の目を逃れるのに好都合なのである。

 

 ここで暮らしているのは全部で20人あまり。半数以上が15歳にも満たない子供たちだ。

 

両親を殺された者、貧しさから身売りされた者、犯罪組織に拉致され、麻薬の密売を手伝わされていた者。惨めな境遇にあっ

 

た少年・少女達が助け合いながら、お互いに心の傷を癒して生きる共同体である。

 

 仲間達に対して、生き別れた肉親以上に強い絆を感じている者も少なくない。

 

 最年長である星司と梓は、子供達の親代わりだった。炊事、洗濯、子守などは他の子供達も手伝うが、生活費や食料の調達は

 

二人にしかできない仕事だった。

 

「ねえ梓、この白い粉はなに?」

 

「え、白い粉?」

 

 先程、梓がコートを預けた子供の手に、小さな袋があった。透明な袋に、真っ白な粉が詰められている。

 

 コートは先程、チンピラの着ていたものだ。チンピラが白い粉をポケットに入れるとしたら、答えは一つしかない。

 

「お砂糖?」

 

「そ、それは――」

 

「薬だよ。舐めても苦いだけだぞ」

 

 言葉に詰まりかけた梓の横から、星司が機転を利かせた。無邪気な顔をしている子供に、優しい声で語りかける。

 

「なーんだ。お薬ならいらない」

 

「俺が預かっておくよ。風邪を引いたら出してやるからな」

 

 星司は笑顔のまま袋を受け取り、自分のポケットに納めた。子供の方は、ただの粉薬だと思い込んでいるようだ。

 

「やだ。お薬、苦いから飲みたくない」

 

「そうか。なら、風邪なんかひかないように気をつけるんだぞ」

 

 傍から見れば他愛のない会話だった。袋の中に恐ろしい薬物が入っている事は、星司と梓の二人しか知らない。

 

(あ、ありがとう。星司)

 

(気にするな。誰かが砂糖と勘違いして、口に入れる前でよかったよ)

 

 子供達の騒ぎ声が響く中、二人は小声でやりとりを交わした。

 

「さあ、晩飯にしよう。みんなも腹が減っただろう?」

 

「うん、お腹すいた!」

 

「ごはんにしよう!」

 

 

            ―3―

 

 

「星司」

 

背後の暗闇から、彼を呼ぶ声が小さく響いた。

 

「梓か?」

 

「ピンポン、あたし。いつもの事ながら、熱心ね」

 

 小声だが、いつもの明るい口調で声をかける梓。一方の星司は背後の梓に振り向きもせず、小窓の外を見つめていた。

 

 ここは地下室と地上をつなぐ唯一の出入り口であり、星司が眼を向けている小窓からは外の様子が伺える。星司はここで見張

 

りの役目についていた。

 

 見張りは二十四時間必要な仕事だ。地下への入り口が巧妙に隠されているとはいえ、いつ侵入者が現れるかはわからない。

 

 星司は普段から、皆が嫌がる時間帯の見張りを引き受けていた。三度の食事の時間、深夜から朝にかけての時間など。

 

子供達が安心して眠りについている間、星司だけは眠ることを許されない。

 

そんな状況でも星司は愚痴をこぼさず、外敵から子供達を守る事だけを考えていた。

 

「熱心と言われるほどの事じゃないさ。ここで座っているだけだからな」

 

「またまた、謙遜しちゃって。あんたがクソ真面目なのは、よぉっくわかってるんだから」

 

 食事の量が少ない事や、気軽に外で遊べない事などへの不満を、子供達は素直にぶつけてくる。

 

普段から星司と共に仕事をしている梓は、彼の苦労を誰よりも理解していた。

 

「隣、座っていい?」

 

「ああ。眠れないのか?」

 

「うん。一人じゃ退屈だけど、みんなはもう寝ちゃったからさ」

 

 梓は言い終えると同時に、見張り用のパイプ椅子へと腰を下ろした。

 

「それなら、しばらく話し相手になってくれないか?」

 

「いいよ。星司もじっとしてると、眠くなっちゃうでしょう?」

 

「助かるよ。ずっと一人でいると、緊張しすぎて疲れるからな」

 

 見張り中であるため、星司は梓の顔を見て話すことはできない。それでも、星司の返事は先程よりも幾分リラックスした声に

 

なっていた。

 

「星司、いいものを持ってきてあげたよ」

 

「いいもの?」 

 

 窓の外へ目を向けている星司には、梓が何を持っているのかわからない。

 

「はい、どうぞ」

 

 何かの液体を注ぐ音がかすかに聞こえた後、金属性のマグカップを差し出された。

 

「……ウィスキーか。こんなもの、どこで手に入れたんだ?」

 

「闇市で見つけたの。メチルアルコールなんかじゃないから、大丈夫よ」

 

「せっかくだけど、俺の分はいいよ。瓶に戻しておいてくれ」

 

「あ、ひどい。せっかく買ってきたのに、そんな事言うの?」

 

「気持ちは嬉しいけど、今は見張りの最中だ。酔っ払って寝過ごすわけにはいかないだろう」

 

「いいじゃない、少しぐらい。酒の一杯や二杯で潰れるほど、ヤワじゃないでしょ」

 

「駄目だ。飲むなら一人で飲んでくれ」

 

「ちぇっ、つまんないの。だったらあたしも飲まない」

 

 梓は星司からマグカップを受け取ると、自分のカップと共に床の上へ置いた。

 

「大体、そんなものを買う余裕はないだろう。今日の稼ぎだって、せいぜい1ヶ月分の食料にしかならないんだぞ」 

 

「たまにはいいの。いつも二人で危ない仕事ばっかりしてるんだから、ごほうびがあっても罰は当たらないでしょ」

 

「ごほうび、ね。まあ、息抜きも大切なのは確かだけどな」

 

「そうそう。だから、あんたの分はとっておいてあげる。みんながいない時に、改めて乾杯しましょ」

 

 梓は月明かりの射す場所で、カップの酒を瓶に戻し始めた。星司は相変わらず窓の外を見たままだ。

 

「……さては、眠れないから起きてきたってのは嘘だな? 最初から俺と酒盛りをする気で来たんだろう」 

 

「う、ばれたか!」

 

いたずらっぽい声を上げる梓。

 

「やれやれ。ま、今はその気持ちだけもらっておくよ。また今度、見張りのない時に誘ってくれ」 

 

「はいはい。それじゃ、その時までお預けってことね」

 

 梓は酒を瓶に戻すと、気を取り直して星司と雑談を始めた。子供達の事、食事の事、些細な笑い話など。他愛のない話でも、

 

長く退屈な時間を減らしてくれる。

 

「星司、前から気になってたんだけどさ」

 

「何だ?」

 

「あんた、いつも獲物の首筋を狙ってるでしょ?」

 

 “獲物”という言葉は、昼間のチンピラ達のような輩を指していた。彼女にとっては、生活費を提供してくれるカモでしかな

 

い。

 

「そうだな。気になるか?」

 

「別に、血を見るのが好きなわけじゃないけどさ。あんなクズみたいな奴らに手加減するのは、どういう理由があるのかな、と

 

思っただけ」

 

 背後から襲って相手を倒す時、細い首筋は狙いがつけにくい事がある。最初から無防備な頭を狙った方が攻撃を当てやすく、

 

与えるダメージも大きいのだ。

 

 星司は今日の仕事に限らず、獲物の首筋を狙う事が多い。しかも、気絶させた相手の呼吸を確かめるクセがある。わざわざ狙

 

いにくい首筋を攻撃する理由は明らかだった。

 

「確かに、あいつらはクズみたいな奴らだ。生かしておけば、また悪さをするだろうな」

 

「今日の連中なんか、明らかに麻薬の売人でしょ。ああいうのが野放しになってるから、麻薬中毒が減らないのよ」

 

「俺も時々、自分が正しいのかわからなくなるよ。また悪事を働かないように殺しておいた方が、みんなのためになるんじゃな

 

いか、ってね」

 

 呟くような星司の声は自嘲の色を含んでいた。梓はそれを感じ取ったのか、追及をやめて星司の言葉を待っている。

 

「けど、俺達にはあいつらを殺す資格なんてない。あいつらも俺たちも、ある意味じゃ同類だからな」

 

「同類?」

 

「ああ。あいつらが犯罪者なら、俺達がやってる事だって立派な犯罪だ。警察なんてものがまともに機能してたら、今頃は一緒

 

にブタ箱へ放り込まれてるだろうさ」

 

「けど、それっておかしいよ。あたし達は、みんなを養うために金が必要なんだよ。それに、獲物はみんなクズみたいな連中な

 

んだし」

 

 やや感情的な口調で反論する梓に対し、星司はあくまで冷静に答える。

 

「生きるために必要だと言ったところで、罪が消えるわけじゃないさ。俺達が盗んだ金を何に使ったところで、盗まれた方には

 

関係ないだろう?」

 

 梓に一瞥もくれず、澄ました声で言い切る星司。もしこの場に第三者がいたら、星司の態度がひどく傲慢に思えるかもしれな

 

い。

 

 星司が窓から眼を離さないのは見張りのためであるし、落ち着き払っているのはいつもの事だ。その事は梓も重々承知してい

 

るはずだったが――

 

「……だからって、あいつらとあたし達を同類扱いするの? 弱い奴を虫けらみたいに扱って、甘い汁を吸ってる奴らと!」

 

「あ、梓?」

 

 星司は思わず声を上げ、窓から眼を離した。振り向いた先には、憎悪すら感じさせる梓の剣幕があった。

 

「あたしがどれだけ修羅場をくぐってきたか、あんたも知ってるでしょう? マフィアに売り飛ばされて、商売女の真似をさせ

 

られて、逃げられないように監視されて……。あんたが助けてくれなかったら、ずっと惨めな生活をしてたんだから!」

 

 夜中である事も忘れて、梓は一気にまくし立てた。心の傷に自ら触れてしまった彼女は、激しい感情を押しとどめることがで

 

きなかった。

 

「あたしだけじゃない。あたし達が養ってる子供達だって、みんな汚い大人の餌食にされてきたんだ。自分達の手を汚さずに、

 

善悪の区別もつかない子供を麻薬の運び屋にするなんて、人間のやる事じゃない。人の皮を被った悪魔みたいな連中なんだよ」

 

「…………」

 

「汚い大人から金を盗んで何が悪いの? あいつらがやってる事に比べれば、あたし達の悪さなんて小さなことでしょう?」

 

 梓の言葉が途切れ、彼女の荒い呼吸の音だけが小さく響いた。

 

梓の顔から眼を逸らしていた星司はゆっくりと顔を上げ、重々しく切り出した。

 

……悪かった。あいつらと俺達が同類だなんて言うのは、確かに間違ってるよな。無神経な事を言ってすまない」

 

 星司は謝罪の言葉を共に、深々と頭を下げた。無言で頭を下げたまま、梓に顔を見せようとしない。

 

「そ、そんな大げさに謝らなくていいのに。あたしが悪者みたいじゃない」

 

「ごめん。これからは気をつけるよ」

 

 星司は顔を上げると、再び窓へ顔を向けた。梓はしばらく星司の背中を見つめていたが、小さく溜息をついて眼を逸らした。

 

「ねえ、星司」

 

「どうした?」

 

「さっき、今夜はお酒を飲まないって言ったけどさ。やっぱり飲みたくなっちゃった」

 

 寂しげで甘えるような声だった。その言葉が何を期待しているのか、星司は先程の会話から予測をつけたのだろう。

 

 星司は無言のまま梓から眼を背けている。梓の方は期待のこもった視線を星司の背中へと向けていた。

 

 重く息苦しい時間が流れていた。数秒の後、それを打ち破ったのは星司の溜息だった。

 

「仕方ないな。一杯だけ付き合うよ」

 

「ありがとう」

 

 梓は小さく礼を言うと、酒瓶の蓋を開けた。

 

 

           * * *

 

 

「あたし、ってさ。あんたと一緒にいる……資格、ないのかな」

 

「ど、どうしたんだよ、いきなり?」

 

 星司がようやく一杯目のウィスキーを飲み干した時、梓が呟いた。酔いが回っているせいか、妙に間延びした口調だった。

 

「だって……あたしは。頭の出来も、心の広さもあんたと違うんだもの。あんたは獲物から金を盗むときでも、相手がかわいそ

 

うだって思えるんでしょ? あたしなんて、いっつも自分の事しか考えてない」 

 

 

「それは別に、いいとか悪いとかっていう問題じゃないだろ。俺と梓の価値観が違うってだけで――」

 

「そうだよね、違うんだよね。あんたは元々、お坊ちゃんだもの。本当なら、こんなスラムに住むような人じゃない。生まれた

 

ときからドブネズミみたいな生き方をしてる、あたしなんかとは……」

 

 星司の言葉を遮り、早口で言葉を続ける梓。最後の方は言葉が途切れ、微かな嗚咽がこぼれ出した。 

 

「あずさ」

 

 星司がいつもと同じ名前で呼びかける。しかし、その声はいつにも増して暖かく響いた。

 

両手で顔を覆って泣いている梓を、優しく包み込むように。

 

「俺とお前は生まれも育ちも違うし、意見がぶつかることだってある。けど、俺はお前を尊敬してるよ」

 

「――そん、けい……?」

 

 梓は俯いたまま、子供のような声で聞き返した。

 

「俺は両親が死んでから施設に入ってすぐ、そこでの生活に嫌気が差して飛び出してきた。けど、この街は甘ったれたガキが一

 

人で生きていけるような場所じゃない」

 

「俺がホームシックでわんわん泣いてた時、お前が通りがかったんだよな。『男がピーピー喚くんじゃない!』ってさ」

 

「…………」

 

 星司は茶化すような口調で軽く言ってのけた。彼の眼は梓の口元がくすりと笑うのを見逃さなかった。

 

「それからずっと、俺にはお前が必要だった。いつでも強気で、たくましくて、甘ちゃんだった俺を鍛えてくれた。お前がいな

 

かったら、今まで生きてこれなかったよ」

 

「……じゃあ、今はもう必要ないの?」

 

「え?」

 

 梓の問いかけが、星司にとっては不意打ちだったらしい。

 

 梓は顔を上げて、泣きはらした眼で星司を見つめた。追い討ちをかけるように、梓は再び口を開いた。

 

「今の星司なら、一人でも生きていけるよね。あんたのやり方に文句をつけたり、くだらない事でピーピー泣いたりするような

 

女はお荷物なんでしょ?」

 

「そ、それは……」

 

再び気まずい沈黙が流れた。自分を傷つけようとする梓をどうやって守ればいいのか。

 

星司は拳をきつく握り、歯を食いしばっていた。不甲斐ない自分自身への苛立ちが、両腕を痙攣のように震えさせている。

 

――その時。戸惑う星司の前で、梓の鋭い視線が急に丸くなった。

 

「ふふ、冗談よ。どうフォローすればいいのか、悩んでるんでしょ?」

 

「あ、ああ」

 

「ん、よろしい。あんたの気持ちはよくわかったから、許してあげる」

 

 梓の笑顔を見て、星司は安堵の息をもらした。心の中では、『やれやれ』とでも呟いているのだろう。

 

「しかし、あんたも不器用だよね」

 

「そ、そうか?」

 

「うん。すっごい不器用。ああやって泣きつかれた時は、素直に『好きだ』とか、『愛してる』って言えばいいの。大抵の女の

 

子だったら、イチコロよ」

 

「そ、そんな恥ずかしい事言えるか!」

 

 星司は声を張り上げ、慌てて窓の方を向いた。それを見た梓の顔が、猫のような笑みを浮かべる。

 

「やれやれ。これじゃ、当分はあたしがついてないと駄目ね」

 

「どういう意味だよ?」

 

「女の扱いに慣れてない坊やは、色仕掛けに弱いんだもの。ま、あたしがこれからみっちり教えてあげるから、覚悟しなさい」

 

「へいへい。わかりましたよ、姉御」

 

 星司は苦笑しながら、窓の外を見上げる。いつの間にか、漆黒の空が群青色へと変わっていた。

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