Vampire syndrome : Type-M 〜体験版〜
葦之雨楽斎






 人通りの少なくなる深夜帯、コンクリートの壁にまみれた路地にハイヒールの音はよく響く。一歩一歩の

 

足音がビルの谷間深くに落ちていくようだ。

 

 女性は一人、繁華街からも遠い路地を歩いている。点在する電信柱などに取り付けられた街路灯以外の明

 

かりはほとんど無く、ただ月明かりだけが女性の帰宅路をほのかに指し示していた。

 

 彼女の勤める事務所は入り組んだビル街の中にある。今日に限って残業が重なり、待ってくれるはずであ

 

った同僚も急の用事などで早々と帰ってしまっていた。

 

 薄情だと彼女は思った。このまま襲われたらどうしろというのか。

 

 女性の一人歩きはあらゆる面で危険である。最近では人外の存在がこの首都圏を中心に人々を脅かしてい

 

ると聞く。

 

 彼女はそれに対抗する術を何一つ持ち合わせていなかった。先程言った同僚ならそれを所持しており、そ

 

の意味でも一緒に帰る約束となっていたのだ。

 

 無防備な身でいることの危険性を切実に訴えたものの、同僚は、今日に限って狙われることはない、近頃

 

はここ近くの被害も減少してきているから大丈夫、ということを人事のような顔で言い残していった場面が

 

思い返された。

 

 せめてもう少し友人の身を案じるような言葉をかけて欲しかったものだ。だがそれも過ぎ去ったこと、も

 

うここまで来た以上は無事に帰宅できるように祈るばかりであった。

 

 息を潜め、目だけを動かして辺りを警戒する。あまり不審な、怪しい動きを見せると狙われるかもしれな

 

い、と感じての気休めではあるが。

 

 相手はそのような小細工は通用しない。生命活動をしている以上はその敵から自分の存在を隠し切ること

 

はできない。

 

 それでも気休めは必要であった。もし襲われたらと思うと背筋がピリピリしてくる。心が落ち着かない。

 

 自然と足が速くなる。ここからなら家まで後10分くらい。もう少し。今日は何事も無い。何事も無い。

 

無事に帰れるに決まっている。

 

 ふと。

 

「!」

 

 不吉で不快な音を耳にした、気がする。

 

 歩が固まる。頭の奥に変な感じを覚えた。

 

 背後を振り返って確認する。

 

 特に何も見当たらない。脅威も見当たらなかった。

 

 隙無く見渡しても妙なところが無かったのを確認すると、軽く安堵のため息をこぼした。驚いて損した。

 

 女性が気を緩めた、その折――。

 

 ――さっきよりも明確な、はっきりとした敵のサインを、体全体で感じた。

 

 肌を撫ぜる危機感。背を押す恐怖感。本能的に足が駆け出していた。

 

 獲物を発見した敵は逃すまいと追尾を仕掛けてきた。

 

「あっ、はあっぁ……だれ、誰か、助けぇって……!」

 

 敵の移動速度は女性のそれを上回っていた。敵の絶対的な速度自体はそれほど高くないのだが、ハイヒー

 

ルではどうしても走りにくい、精一杯の力で逃げるが時間稼ぎにもならなかった。

 

「きゃっ!」

 

 転倒。ヒールが道の段差に引っかかってしまった。ひざや手を打つ。しかしそちらを気にする余裕は無

 

い。脅威はこの機を狙い、一気に攻め立ててきた。顔だけ背後の方を向いた。女性の眼に、迫る捕食者の影

 

が鮮明に映る。恐怖に、転んだ姿勢から立ち上がることができない。声を上げようにも、舌とあごが震えて

 

言葉にならない。後すさることもできない。後は、迫る敵に捕食される自分を、ただ感じることしかできな

 

い。

 

 容赦なく、欲望のままに迫る影。

 

「――っ! あ、っ らえ 、 ふ  ――っ!」

 

 夜の闇の中、音の無い叫び声が人通りの無い街に響き渡った。

 

 

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