世の中、なるようになるものである
真田 上総






「発達した低気圧が、日本列島の上空を通過しています。このため今日、明日は全国的にぐずついた天気となるでしょう。次 

 

 に各地に出ている警報、注意報です……」

 

  灰色のスーツを着た真面目そうな女性アナウンサーが伝える天気は、とても穏やかと言えるものではなかった。

 

 激しい雨と強い風。暴風、大雨、洪水、波浪などの警報が各地に出され、まるで台風である。

 

 季節的に、嵐のような天気が珍しい訳ではない。しかし、何事も度が過ぎると困るものである。地域によっては土砂災害の

 

 危険もあると、髪の生え際が後退しつつある中年の天気予報士が告げた。

 

「うわ。警報がいっぱい出てる」

 

  リビングの真ん中に陣取っている、二人掛けの明るい水色のソファ。そこに座り、頬杖をついてニュースを見ていた少女が

 

 間の抜けた声を上げた。

 

 歳は十を少し過ぎた頃だろう。優しげで愛らしい顔立ちをしている。明るい色のさらさらとした長い髪を、ヘアゴムで二つ

 

結っている。ゴムについたプラスチックの花飾りが、愛らしい印象を更に強めていた。アイボリーの、至ってシンプルなワ

 

ンピースがよく似合っている。

 

「、うまくいくと明日休校かもしんねぇぞ」

 

  片膝を立てて、床に座っている少年が楽しげに答えた。

 

  迷彩柄の半袖シャツに、カーキ色のズボン。くせのある黒髪から覗く瞳は、どこか悪戯そうに見える。

 

「じゃあ明日は何する? お兄ちゃん」

 

  夏姫と呼ばれた少女は、嬉嬉として少年に尋ねた。

 

「まず、朝は九時ごろまで寝るだろ。それからゲームをするか、漫画を読むか……」

 

「ねえねえ、朝からおやつのエクレアを食べるってのはどう?」

 

「それも良いなあ。あと映画のビデオ三本を一気に見るとか」

 

  目を閉じ、腕組みをしながら予定を立てる少年の笑みは、更に深くなっていく。既に二人の頭の中では、明日の休校が決定

 

 しているようである。

 

  ちなみに映画とは、四年前から去年までに公開された、三部作のシリーズものの映画だ。未公開映像を含めると、全てを見

 

 るには八時間はかかるという大作である。

 

「陽介、馬鹿なこと言ってんじゃないの。夏姫もよ」

 

 冷ややかな言葉と共に、少年の頭頂部に拳が勢いよく落とされた。短い叫びを呑み込んで、少年の目の前に一瞬星が瞬く。

 

少年、陽介は抱え込むように両手で後頭部を押さえた。よほど痛いのか、足をばたつかせながら。

 

 夏姫には手刀、いわゆる空手チョップがきまった。ただし陽介とは対照的に、全く力が入っていない軽いもの。夏姫は頭を

 

さすっているが、大して痛くはないのだろう。目には涙一つ浮かんでいない。

 

「お母さん、お父さんは?」

 

  陽介に鉄槌を下したのは、長い黒髪を首の後ろで一つにまとめた、背の高い女性だった。細身の身体に纏っているの、たっ

 

 ぷりした白いTシャツとぴっちりしたジーンズ。理知的で涼やかな目元。真っ直ぐで艶やかな髪の黒が、白い肌に映える。

 

 夏姫と、その兄である陽介の母。ここ川坂家の事実上の支配者、である。

 

「外で窓の補強してる」

 

  葵は無表情な顔のまま、正面の窓を指差した。夏姫と、痛みから復活した陽介の視線がその先を追う。リビングの広い窓に

 

 は一面に板が打ち付けられており、しっかりと補強済みだ。

 

  しかし。

 

 高く、低く、うねりを上げる風の声が家の中にまで響いている。

 

 叩きつける雨と突風が、絶えず窓を小さく揺らす。

 

 まだ補強されていないキッチンの窓からは、不穏な色を湛えた空が見えた。

 

 たしかに、いつ止むか分からない嵐。念には念を入れ、不測の事態に備えておく。用心するに越したことはないだろう。

 

「で、あんたたちの仕事はこれ」

 

 夏姫に手渡されたのは、まだ箱に入ったままのレトルトカレーとパック詰めの冷凍ご飯。

 

「晩ご飯、よろしく」

 

 そう言いながら、ひらひらと手を振り、葵は二階へ上がっていった。

 

「お父さん、頑張ってるんだもんね。さてと晩ご飯、晩ご飯っと」

 

 右手で握りこぶしを作り、左手を腰に当てる。気合を入れるためのガッツポーズを決めてから、夏姫はキッチンへと向かっ

 

た。

 

「俺は……邪魔になるからテレビでも見てよ」

 

 やる気の感じられない表情に違わない、覇気の全くない声。相変わらず気象情報ばかりを流しているテレビの前に、陽介は寝

 

転がり、大きな欠伸を一つ漏らした。

 

 

 

 その頃、痛いほどの雨と強風の中で途方に暮れている男が一人。

 

「ど、どうしよう」

 

 大きな身体に似合わない、実に情けない声を出して玄関先で立ち尽くしていた。その表情はひどく逼迫している。藁にでも縋

 

りたいという感じで、追い詰められている者の目だ。

 

 身長が高く筋肉質で、屈強という言葉がぴったりな体格。日に焼けた肌、ランニングシャツに赤いジャージのズボン。絵に描

 

いたような体育教師の格好だ。

 

そのシャツもジャージもぐっしょりと雨に濡れ、くせのある明るい髪が不規則に方向を変える風に遊ばれている。太い眉は八

 

の字に寄せられ、涙こそ浮かんでいないが今にも泣き出しそうだ。

 

 一家の大黒柱……のはずであるの目の前には、しっかりと板で補強された玄関の扉。太蔵は、この台風まがいの嵐の中、自ら

 

を家から閉め出してしまったのである。板を外せば良いだけの話なのだが、生憎と持ってきた工具の中に釘抜きは無く、手にし

 

ている金槌も釘抜きが付いていないものだった。

 

 茫然自失の太蔵の耳に、窓が開く軽い音が聞こえた。音のしたほうを見上げると、二階のベランダで葵が植木鉢を中に入れて

 

いた。

 

 ベランダの植物は、葵が丹精込めて育てた花たちなのだ。大事な子供たちを避難させる作業を、黙々と続けている。

 

 天の救いと、太蔵は必死で手を振り、大声で葵に呼びかけた。

 

「お――い! 葵、助けてくれ!」

 

 その必死の叫びが届いたのか、ベランダに屈んでいた葵は立ち上がり、辺りを見回した。少し経って、自分の斜め下にいる太

 

蔵に気付いた。葵と目が合った瞬間、太蔵の顔に、安心の笑みがこぼれた。

 

 だが、太蔵に向かって花の綻ぶような笑顔で手を振った葵は、そのまま植木鉢を抱え、家の中へと姿を消した。凍りついた表

 

情で固まった太蔵の脳裏に、できれば嘘だと信じたい考えが駆け巡る。

 

 まさか葵のやつ、俺が「補強終わったぞ」って言ったとか思ってないよな。

 

 太蔵の予感は的中していた。

 

 激しい雨音と強風によって、太蔵の声は掻き消されてしまったのだ。しかも、葵は笑っている夫を見て「作業は順調だ」とい

 

う意味に受け取ってしまったのである。玄関に板を打ち付けてしまったために、家に入れなくなったとは微塵も思わないで。

 

 軽い足取りで一階に下りてきた葵に、夏姫が声をかけた。

 

「お母さん、晩ご飯の準備できてるよ。すぐカレー食べる?」

 

「うん、福神漬も忘れないでね」

 

「なんか嬉しそうだけど、どうかしたの? 母さん」

 

「別に。なんでもないよ」

 

 珍しく機嫌の良さそうな母の表情に、陽介が葵の顔を覗き込む。

 

「お父さん、まだ補強してるの?」

 

「そうみたい」

 

「案外、外から玄関補強して入れなくなってたりしてな」

 

「そんな、まさか」

 

 そのまさかであった。

 

 三人が夕飯に手を付けようとしたその時。一階奥の太蔵の部屋から小さな物音が聞こえた。

 

「きっと、お父さん疲れたのね。今日はゆっくり休ませてあげましょ」

 

 部屋を確認することもなく、葵はカレーを頬張った。とても満足そうに。

 

 川坂家では一人ひとりに寝室がある。しかも運悪く、太蔵の部屋はリビングの奥、勝手口の近く。作業で疲れた太蔵が、勝手

 

口から部屋に戻った音だと勘違いしてしまったのだ。

 

誰もいない暗い部屋で、窓際に置いてあったデジタル時計が落ちた。

 

 不幸だったのは、裏の勝手口が開いていることに、太蔵が気付かなかったこと。

 

「だ、大丈夫さ。きっと、そのうち助けに来てくれる」

 

 風はますます勢いを増し、雨粒が容赦なく叩きつけられる。その痛みに耐えながら、太蔵は自分の不在に気付いてくれること

 

を祈るような気持ちで待ち続けた。

 

家族の誰にも気付かれることなく、彼の長い夜は更けていった。

 

 

 

 翌朝、昨夜の天気が嘘のように、空は晴れ渡っていた。雲一つ無い、気持ちの良い快晴である。

 

 本体が上陸した低気圧は、予想よりも早い速度で通り過ぎた。海からの水蒸気で勢力を増したものの、陸地ではそれ以上発達

 

することもなく、偏西風に流されて今では太平洋の沖である。心配されていた土砂災害も無く、多少の河川の増水だけで済んだ

 

らしい。出されていた警報も早朝のうちに解除されたということだった。

 

 一番早く起きた夏姫はリビングのテレビをつけ、若い女性天気予報士が伝えるニュースに耳を傾けていた。大きな冷蔵庫の中

 

のからミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、中身をコップへと移す。なみなみと注がれた水を一気に飲み干した。よ

 

く冷えた水が渇いたのどに染み渡り、ぱっちりと目が覚める。

 

「はぁ、おいしい」

 

 コップをキッチンに置き、洗面台へと向かう。顔を洗い、ある程度身だしなみを整えた夏姫はそのまま勝手口に足を運んだ。

 

 川坂家では、その日一番早く起きた人が新聞を取りに行くのだ。

 

今日はまだ玄関が開けられないため、勝手口から外にでなければいけない。空と同じように晴れやかな気分の夏姫の目に信じ

 

られないものが飛び込んできた。

 

「お、お父さん!?」

 

 新聞を取りに外へ出た夏姫は、玄関先でボロ雑巾のようになっている父を発見した。

 

「お父さん、大丈夫!?」

 

「な、夏姫」

 

 揺さぶられた太蔵は、娘の声に意識を取り戻したように見えた。だが、次の瞬間には再び地面に突っ伏してしまった。夏姫が

 

何度も声をかけ揺すってみるが、効果は無い。

 

「どうしたんだよ……って父さん! なんでこんなとこにいるんだよ?」

 

 夏姫の大声を聞きつけて、陽介やまだ寝ぼけまなこの葵までやって来た。

 

「お母さん、おとうさんが」

 

「……あなた」

 

 葵は太蔵の姿を確認すると、玄関を塞いでいる補強材を取り外していく。しかも素手で。全ての板を外し終えると、その細身

 

からは想像できない力強さでぐったりしている夫を担ぎ上げた。

 

「か、母さん?」

 

「あんたたち、何してるの? 早く学校に行く準備しなさい」

 

 少し振り返った葵は、それだけ言うと太蔵を寝室に運び、看病を始めた。もちろん、今日は出勤できない太蔵の代わりに、職

 

場への連絡も忘れていない。

 

「やっぱり家で最強なのは」

 

「うん、お母さんだね」

 

 

 

 世の中、夫婦のかたちはいろいろだが、それでもなるようになっているものである。

 

                                                                       (終) 

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