彼と彼女の顛末と、その決定
MIDy


「つまりですよ、五十嵐(いがらし)先輩。あなたがフランスの大学に合格できたという奇跡は、ひとえに私のおかげなのです。あなたは私に感謝すべきです、崇めるべきです、あそこの飛行機を私に献上するぐらいの誠意を示すべきです」
「君のおかげだって? 勉強中にひたすら僕を罵倒して、集中を乱してきた君のおかげ!?」
 成田空港のロビーを進む2人がいた。会話の調子はあまり穏やかではないが、ぴったり並んでいる姿を見ると、きっと毎日のようにこうやって言い合いをするほどの仲なのだと納得できるだろう。少女の方は終始楽しそうに笑っていて、それを見た青年は、ばつが悪そうに頭を掻いた。
 青年の方、名前を五十嵐(いがらし)裕介(ゆうすけ)という。今年の春に高校を卒業し、フランスの大学に進学が決まっていた。フランスの年度は9月に始まる。8月20日、今日彼はとうとう、フランスへ旅立つ。
 一方少女、名前を篠原(しのはら)綾香(あやか)という。裕介の所属していたクラブ、フォークソング部の1つ下の後輩。高校2年生のわりに身長が小さく、どこか幼さが残る華奢な体躯は一種の保護欲をかき立たせる。彼女の趣味は歌と、裕介を罵倒し、からかい、その反応を楽しむことだった。その趣味は、裕介が受験勉強をしている最中であろうとも容赦なく実行された。裕介はしかし、綾香が本当に楽しそうに笑うものだから、怒ろうにも怒れなかった。
 フォークソング部は部員が2人しかいなかったので、裕介と綾香は放課後を共に過ごす2年間を送ってきた。裕介はとある理由で、いじめを受けていた。学校中が彼をいじめていたと言っても過言ではない。そんな裕介と親しくしていた、綾香も当然いじめの対象になった。時に2人は、激しい暴行や、悪質ないたずらにあった。何度も辛い思いをしたが、綾香を裕介が、裕介が綾香を互いに支えあってきた。
 綾香が勉強の邪魔をしてきたのは事実だが、綾香のおかげで今まで生きてこられたことも、やはり揺るぎない真実だった。少なくとも裕介はそう感じている。もちろん、口にはしないが。
 「私がいなくて寂しくなっても、電話してこないでくださいね? 先輩の泣き声なんて聞いた暁には、耳が腐ってしまいます」
「僕は妖怪か何かなのか!? ふ、ふん、篠原さんこそ、僕がいなくなって寂しいんじゃないか?」
 とっさに口走った言い返しは、実は裕介が本気で心配していることだった。裕介はとある先輩のおかげで、綾香がいなかった最初の1年をなんとか過ごしてきたが彼女には、裕介がいなくなった今、学校に味方はいない。1学期の間は放課後や休日に会うこともできたが、明日からはそうはいかない。彼女のメンタルがとても強いことは知っている。いじめの件について、彼女は一度も弱音を吐いたことはない。ただ単純に、裕介は心配なだけだった。
 だから。
 「ええ、寂しいです」
 にっこりと、さっきとは違う笑みで、何の迷いもなく即答した綾香に、裕介は思わず足を止めた。引いていた重たいスーツケースの慣性に押されて倒れてしまいそうになるぐらい、愕然とした。
 「……篠原さん」
「何ですか? 私が先輩との別れに悲しみもしない、薄情者だとでも思ってたんですか?」
「いや、そうじゃなくて……」
「寂しいですよ。とっても寂しい。私にとって先輩は、高校生活のすべてでしたから」
 彼女にとっての裕介の重要性を、裕介は自覚していなかった。感謝は、一方的なものだとばかり思っていた。
 「やめよう」
 裕介の口は半ば自動的に、突拍子もないことを語る。
 「フランスへ行くのはやめだ。もう1年、篠原さんが卒業するまで日本に残る」
「先輩……」
「日本に残って、バイトしてお金を貯めよう。いいか篠原さん、学校で何かあったら僕のところに来るんだ。どんな些細な事でも、すぐに僕に相談しろ。どんな手段を使ってでも、僕が篠原さんを――」
「先輩!!」
 綾香は強く、強く裕介を制した。我に返った裕介は、しまった怒られると思った。もしくは泣かれるか、その両方か。しかしその予想に反して、綾香は、なお微笑んだ。
 「私のためだと言うのなら、どうか行ってください。行って、待っててください。半年後、必ず追いかけますから」
 別れてから、また会いましょう。
 そうでないと、意味がない。
 「どうして……」
「……分からないでしょうね。先輩は、鈍いから」
 この罵倒には、つっこむ気は毛頭起きない。
 「私は素敵な先輩に出会えました。そして先輩は、フランスでもっと素敵になる。そんな先輩をまたイジれるように、私はあの学校で、少しでも先輩に近づく」
 今までと変わらない日々が、ずっと、これからも。
 「素敵な先輩と、どうか再会の約束を結ばせてください。私はそれが、一番幸せです」
 飛行機の出発を告げるアナウンス。別れの時が、迫る。
 綾香は最後まで、一貫して笑顔だった。ならば自分も笑うべきだと、裕介は思った。顔が見えなくなるまで、手を振った。
 ボーディングブリッジに入ろうとしたところで、係員にくぎを刺された。
 「携帯電話は、電源をオフにするか、機内モードにしてください」
 なんでも電波の影響で飛行機の機器が狂ってしまうとか。設定の中にそれらしき項目があったはずだと思い携帯を開くと、メールが1件受信されていた。綾香から、フランス語の文だった。
 『Je t'aime pour toujours.(永遠に愛してる)』
 Je t'aime(愛してる)? Je t'aime(愛してる)だって? あんな会話をして別れた後の、Je t'aime(愛してる)? ここではたして早合点してしまっていいのだろうか、と裕介は悩む。半年後追いかけてくるというのは、あれか、自分の家で晩ご飯の準備をして裕介の帰りを待ってくれるという意味なのか、と妄想を広げる。しかし、それが全く見当外れだとしたら、そう思い込むことは一生の恥になりかねない。
 2周ぐらい思考が堂々巡ったところで、答えは半年待てばおのずと分かることだと気づく。彼女も待っていてほしいと言ったのだ、結論を急ぐ必要はない。裕介は『Merci(ありがとう).』とだけ返信して、機内モードをオンにした。半年後を楽しみに、祐介は小さく、大きな一歩を踏み出す。
 指定席は窓際だった。荷物を棚に上げ、席にゆっくりと腰かけ、外の様子を眺めた。小さな窓からは、空港の建物の一角が見て取れ、その窓の一つから綾香を見つけた裕介はその目ざとさに、我ながら呆れた。向こうはさすがに見えていないだろうと思いつつ、試しに手を振ってみると、なんと笑顔で振り返してきたではないか。彼女の眼光にも呆れつつ、どこかで彼女とつながっている気がした。

 ――ぬっと。

 綾香の後ろに、誰かが現れる。
 男か女か、子供か大人か、どうしてだろう、はっきりしない。人間であることは間違いないはずだが、その他の情報は墨で塗りつぶされたように見て取れない。
 そいつは綾香の後ろから、彼女の耳元に口を寄せて、何かをささやいているようだった。当の綾香は気づいていないわけではないらしく、些細な反応を見せる。
 ささやく、彼女の肩が少し跳ねる。

 ささやく、手を振る動きが鈍る。

 ささやく、笑顔に陰りが映える。

 ささやく、そしてとうとう――

 綾香は顔を両手で覆い、崩れ落ちて、泣いた。

 エンジンがいななき、飛行機がゆっくりと動き出す。徐々に加速していき、振動が激しくなってきた。
 綾香と、あの正体不明の姿は、死角に入って見えなくなった。それでも、裕介の網膜にその情景はしっかりと焼き付いていた。あいつが、綾香に何かをしたのは間違いなかった。
 揺れがふいに消えて、離陸したことを悟る。初めての飛行機で飛んだ瞬間。しかし、裕介の頭の中はもっぱら、先の正体不明のことでいっぱいだった。何者なのか、性別は、歳は、何のためにここに来た。
 綾香に、何を言ったのか。










 身体が、右に傾いた。

 時間がとても、

 ゆっくりと、すすむ。

 機内の前方から、

 壁が迫ってくる。

 壁と衝突した

 座席、

 荷物、

 乗客は、

 瞬時に

 ばらばらになる。
 考える

 までもなく。

 その壁とは、

 滑走路のアスファルト。

 つまり、

 飛行機が、

 頭から、

 滑走路に落ちたのだ。

 裕介は、

 そこまで考えて――――――――――――――

◇◆◇◆◇

 【やあ、青年】
 裕介は、その奇妙なイントネーションの声に聞き覚えがあった。闇の中から突然聞こえてきた声だったが、徐々に声の主の姿が浮かび上がってくる。斜に構えた態度、目を引く右目下の涙ぼくろ。堂々としていて不敵な、特徴的な笑みを裕介は、一瞬たりとも忘れたことはない。
 「砥石(といし)会長……?」
 その女性は、裕介が世話になった1つ上の先輩。2年連続生徒会長の地位に着いた圧倒的カリスマ、砥石(といし)鮮座抜(あやか)その人だ。
 闇からは、さらに別の像も現れた。砥石はこたつに足を入れていたらしく、他に2人こたつの席についている。そのどちらも、裕介のよく知る人物だった。
 「待ちくたびれたぞ、本日の主役」
 眼鏡の位置を直す男は、砥石の同級生、たこ焼きをこよなく愛する変態、高屋(たかや)桐生(きりゅう)。
 「ゆーちゃん遅すぎて、先に始めちゃったぞ☆」
 この一言だけで快活なのがうかがえる、裕介の同級生、音の天才、宴会(えんかい)彼乃(かのの)。
 この3人と裕介を合わせた4人のことを高校では、みな『奇人四天王』と呼んでいた。誰が名付けたのかは全くの不明だが、そういうメンツが集っていることは理解できた。
 「……何やってるんです?」
【分からんのか、君? 暗闇の中複数の学生がこたつを囲んでいたらそれはもう、闇鍋しかないだろう?】
 こたつの上には簡易コンロ、さらにその上に土鍋。何かが煮込まれているようだったが、灯りと言えばそのコンロの火しかないので、中をうかがうことはできない。
 「いや、それは見てわかりますよ」
【なんと君、分かっていることをわざわざ訊いたのか】
「意味のなさそうなことをする。まさに人間だな」
「えっ、ゆーちゃん人間だったの!?」
 裕介は彼乃のこめかみを拳で挟んでぐりぐりぐり……。
 「痛い痛い痛いギブギブゆーちゃん許して~☆」
「お前の謝罪はいつも誠意が感じ取れない」
 顔では本気でも、間の抜けた語感が否めない。前に本気で怒った彼乃を目にしたが、その時は「☆」はしっかりとなくなっていた。彼乃にとって「☆」の内は、じゃれあいの範疇だった。
 【――人間、人間ねぇ】
 と、砥石が含みを持たせて、静かにくつくつと笑って。
 【人間であることだけは、確かだねぇ】
 裕介はハッとする。言うまでもなく、綾香の背後にいた影を思い出したからだ。
 「……会長、何か、知ってるんですか?」
【そう話を急ぐな。ほら、君も座りたまえ】
 ごまかされ、裕介はわだかまりを不快に思いながら、すすめられたこたつの一辺に腰を下ろして、中に足を入れた。
 「さあ五十嵐君、君も食べたまえ」
「ありがとうございます、高屋先輩」
 差し出された椀の中身は、やはり見えない。手探り、もとい箸探りで具をつかみ、恐る恐る口に入れる。
 たこ焼きだった。
 「……大体予想はついてました」
【ちなみに、私はイナゴを入れた】
「私は蜂の子☆」
「なぜ虫ばっか――って違う!!」
 裕介は机をガタンと鳴らして、身を乗り出した。
 【何だい君、落ち着きがないな】
「落ち着けるわけないじゃないですか! どこなんですかここ!
なんで死んだはずの会長や高屋先輩や彼乃――そして僕が一堂に会してるんですか!?」
 どれも不幸な事故だった。本当に不幸としか言いようがなく、ゆえに狙ったように裕介の知り合いが死んでいくのが、不思議でならなかった。本当に不思議としか言いようがなく、ゆえに次は綾香なのではと、しばらく眠れぬ夜を過ごした。
 突拍子もない、不自然な事件。思い返せばまるで、物語のつじつまを合わせるために無理やりねじ込まれたかのような、浮いたイベント。
 「死んだ。ああ、確かに」
「痛かったよー、あんなに痛いのは生まれて初めて☆ 死んじゃったけどねー、きゃはは☆」
 などと、2人はなぜかのんきだ。死者が集う、闇の世界。それじゃまるで――
 【死後の世界】
 砥石が、裕介の思考を先回りする。
 【……などと、バカげたことを考えているんじゃないか? 天国? 地獄? そんなもの、あるわけない】
「じゃあここは……」
「いわゆる」
 桐生がセリフを引き継いだ。
 「夢、のようなものか」
「走馬燈ともいうかな?」
【ようは君の頭の中の出来事だ】
 死ぬ直前に裕介の思考が加速し、現実とは切り離された時間を持つ精神世界。つまりここにいる3人は裕介自身が作り出した虚像なのだと、裕介は悟った。今までの会話、やりとりの全てが妄想だったと分かると、虚しくてしょうがない。しかし――
 「別にいいんじゃない? ゆーちゃんから見た私たちが再現されているんでしょ? ゆーちゃんにとって、それは紛れもなく本物の私たちだよ☆」
「気にするな、どうせ死ぬ身だ」
 裕介が考えていたことを彼乃が、桐生が、彼乃らしく、桐生らしく代弁した。その口調、仕草は紛れもなく裕介の知る宴会彼乃であり、高屋桐生だった――しかし。
 【――】
 裕介は、異質な沈黙に振り返る。砥石が粘っこい笑みで、裕介を見つめていた。それは生前、何度も向けられた笑みだったけれども。
 ――裕介が何か勘違いをしているときに向ける嘲りの笑みだったけれども。
 砥石らしい、らしすぎるその視線に、裕介は考えてしまう。この砥石、こいつだけは、違うのではないか。裕介が記憶から作り出した像ではなく、外からこの世界に紛れ込んだ、独立した別の誰かなのではないかと。
 果たして、砥石は悟ったのか、その視線を裕介から外し、ぱんと手を打った。
 【さあ、始めるとしよう。グラスを手に取りたまえ】
 呼びかけに、彼乃と桐生はグラスを持ち上げる。裕介の前にも、透明な液体の入ったグラスが置かれていた。手に取らないと、何も始まらないと思い、裕介もそれらに習った。
 砥石が、乾杯の音頭を取る。
 【青年の旅立ちに】
「「旅立ちに」」
 グラスがぶつかる。

◇◆◇◆◇

 綾香は地響きにも似た破壊音に、飛行機の墜落を悟った。いや、語弊がある。墜落すると、あらかじめ知っていた。
 この光景を見るのも何回目か、数えるつもりは毛頭なかった。裕介が死ぬのを数えるなんて、気が狂ってしまいそうだったからだ。
 また、助けられなかった。
 綾香は嗚咽を漏らしながら、半ば自動的に、ポケットから金色の懐中時計を取り出す。
 そしてさかのぼる。空港に来るずっと前に。
 綾香が入学してきて、裕介のいるフォークソング部を訪ねる2年前まで、記憶を手繰る。
 時計には、不思議にも時間を巻き戻す力があった。1回目、裕介と初めて出会い、そして初めて亡くした時に、卒業していた砥石から借りたものだった。唐突なファンタジー要素に綾香自身も驚かされたが、利用しない手はなかった。綾香は裕介と過ごした2年間を何度も繰り返し、裕介が死なないような手立てを考え、実行した。しかし、策はすべて無に帰した。どんなに用意周到にしても、強硬手段を選んでも、裕介は死ぬ。まるで運命に殺されるがごとく。
 今回は、砥石や桐生、彼乃がそろって亡くなるという、今までにない、大きなイベントがあった。もしかしたら今回は、裕介が生存するルートなのではと、不謹慎にも期待していたのだが……。
 やはりだめだった。ならば、もう一度。
 涙で満ちた瞳を固く閉じる。
 再び目を開くと、そこは空港ではない。見慣れた扉の前。フォークソング部の部室だ。綾香は決まって裕介と初めて会うところからやり直す。できるだけ、裕介と長くいるためだ。
 扉をノックする。この後の会話を綾香は、一言一句正確に記憶していた。まず裕介が出てきて、
 「えっと……、何か用? えーと、囲碁部はそっち、室内ゲーム部なら、一番奥だけど」
 と、綾香が別のクラブと間違えて訪ねてきたのだと勘違いする。
 そして綾香は、
 「…………ここは何部ですか?」
「えっと……。ここは、ここにはクラブはない。ここは何部でもないよ」
「嘘つかないでください」
「え、嘘って、えぇ!?」
「ここはフォークソング部ですよね?」
「どこでそれを……」
「入部志望の1年■組、篠原綾香です。これからよろしくお願いしますね、五十嵐裕介先輩」
「ど、どうして僕の名前を!?」
 と、ここまでテンプレである。この時の裕介の顔と言ったら、綾香は面白くて仕方がなかった。理解できないことが立て続けに起こると、裕介はとても愉快な表情になるのだ。ああ、活字では裕介のその顔を読者に、お届けできない……――。
 「………………あれ?」
 その顔が、まだ見れていないことに、綾香は違和感を覚える。そう、ノックしたはずなのに裕介が出てこないのだ。いつもなら5秒としないうちに扉が開き、あの特筆するところが1つもない、平凡な男が姿を現すはずなのだが。
 試しにもう一度ノックする。耳につく乾いた音はトンネル効果で廊下に響き渡り、しかし、やはり裕介は出てこない。
 「先輩…………?」
 ドアノブに手をかけた。
 鍵がかかっていた。

◇◆◇◆◇

 「会長!!」
 綾香は生徒会室に飛び込んだ。そこには風紀委員の委員長、兎(うさぎ)斑沙(むらさ)と話をする砥石の姿があった。突然の乱入者に目をぱちくりする砥石に駆け寄り、その肩に縋りつく。
 「先輩は、五十嵐先輩はどこですか!?」
 兎が何かを言って綾香を砥石から引き離そうとしたが、綾香は無我夢中で砥石に詰め寄った。
 「会長教えてください!! 先輩は――」
【――落ち着け】
 とん、と。砥石は軽く綾香を押し返す。ただそれだけで、しかし何か逆らえない余力にさらに押された綾香は、背後のソファに倒れ込んだ。煮えたぎるように興奮していた頭が、ほんの少しだけ冷めた。
 【君、要件を話す前に、まずは名乗りたまえ】
 おかしい、と思った。実は綾香と砥石の間には、過去に並々ならぬ因縁があり、砥石は綾香のことを知っていて当然のはずなのだ。
 「何言ってるんですか、会長? 綾香です、篠原綾香ですよ?」
【篠原? 聞き覚えがないな】
 冗談ではなさそうだった。砥石という人間は、目に見えて分かりやすい性格だった。特殊な人、特別な人が大好きで、そういった人、例えば奇人四天王の他の3人、風紀委員のメンバー(変わり者が多い)には実に楽しそうな顔で接する。一転して、ごくごく普通な一般生徒にはほとんど興味がなく、冷たい目で一瞥する。
 綾香は今、その視線を向けられていた。
 「砥石……会長……?」
【君は何なんだ、さっきから意味の分からないことばかり】

 【私は砥石などという名前ではない】

【水戸瀬(みとせ)雅(みやび)だ。入学式であいさつしただろう、居眠りでもしていたのか? 名前ぐらい覚えろ、新入生】
 意味が分からないのは、綾香の方だった。水戸瀬? それこそ一体誰だ。綾香の不安は徐々に浮き彫りになる。この目の前にいる砥石は、姿は一緒だが、全く別の誰かになっているようだった。裕介がいない今、頼れるのは砥石だけだというのに。
 「こ、これ!」
 綾香はとっさにポケットから懐中時計を取り出し、眼前へと突きつけた。この時計はもともと砥石のものだ。これのことすら忘れてしまっているならば、砥石という人物はいなくなってしまったと考えるほかない。
 その心配は、杞憂だった。時計をとらえた瞬間、砥石の顔は衝撃に染まり、そして自分の胸ポケットにそれがないことを確認して、キッと綾香を睨みつけた。
 【貴様……】
 この目は、まずい。怒っている、これまでないぐらいに怒っている。射貫くような鋭い眼力に、歯が自然と音を鳴らした。
 時計に手を伸ばしてくる砥石。取られまいと、綾香はそれを引っ込め、背中に回した。
 砥石は完全にブチ切れた。その手でそのまま綾香の胸ぐらをつかみ、強く引き寄せる。額と額がぶつかる至近距離から、怒鳴った。
 【いつ盗った!? それを私から盗る意味、分かっているんだろうなぁ!?】
「ひっ!!」
【それはお前のような、どうでもいい人間が使っていいものじゃない!! それを置いてさっさと私の視界から消えるか、私の正義に裁かれるか選べ!!】
 綾香は、冗談抜きで漏らすかと思った。本当に死んでしまうと、本能が悲鳴を上げた。
 しかし。
 今、砥石は、確かに、正義と言った。
 ならば、やはりこの人は変わっていないと、綾香は確信する。
 砥石は、正義を何よりも尊んだ。常に何が正しいのかを考え、そのためにはなんだってする、勇気のある人。名前が変わろうと、人が変わろうと、この人の正義がそう簡単に変わるはずがない。その事実は、綾香にとって大きな救いだった。
 「盗ったんじゃありません! 会長が……、未来の会長が、私に託したんです!!」
【なっ!?】
 それまでの勢いが刹那のうちに衰える。毒気を抜かれた砥石は口をパクパクし、しかし徐々に何かに気づいていったようで、少しずつ落ち着いていった。
 「……水戸瀬?」
 兎の呼びかけを、左手で制する。
 【斑沙、いったん席を外してくれ】
 兎はしばらく何か言いたげに立っていたが、数秒もするとくるりと踵を返し、生徒会室を後にした。砥石は綾香の襟首をつかむ力を緩め、解放した。再びソファに倒れ込む綾香。いやな汗が、どっと噴き出た。
 【篠原、と言ったな】
 砥石もなんだか疲れたように、向かいのソファに座り込む。
 「はい」
【説明してくれるか。たぶん、今回は特別だ】
 綾香は一部始終を語った。裕介との出会い、別れ。時計を借りて繰り返した2年間。毎回違ったイベントもあった。辛く、悲しい事件もあった。裕介と一緒に乗り越え、楽しい時を共にした。
 けれど裕介は、最後に必ず死ぬ。様々な手段を講じた。時には犯罪に相当することもした。でも結局、死ぬ。何度やっても『Merci(ありがとう).』のメールを最期に、いなくなる。
 「はっきり言って、もう、疲れました」
 そうして行きついた今ここに、裕介の姿がない。数少ない友人も、砥石も、誰一人として彼のことを覚えていない。
 「会長、五十嵐先輩は、どこですか……?」
 力のない綾香の問いに、砥石は首を横に振った。望が断たれ、綾香は言いしれない脱力感に襲われる。
 【話してくれてありがとう。私としたことが、不覚だった。五十嵐君の捜索、どうか手伝わせてほしい】
「ありがとうございます、砥い……水戸瀬会長」
【砥石でいい】
 綾香は、砥石がこのように優しく微笑むのを見たことがなかった。あとになって分かることだが、砥石は今までと違って、正義のためなら手段を選ばないという過激的な姿勢を持ち合わせていなかった。それどころか、あまり実行力のある人ではなくなっていた。頼りがいが薄れるのは否めなかったが、それでも裕介のことを覚えているのは自分だけだという孤独感は、少しは紛れそうだった。
 祐介の手掛かりを得る、総じて半年にわたる過程は、ここでは省かせてもらう。まっとうなものから大きな声では言えないものまで、手段は選ばなかったとだけ言っておこう。果たして、二人は祐介の手掛かりを手に入れた。
 砥石の育て親だという女性の運転で、砥石と共に裕介がいるところへ向かう。複雑な山道を進んでいき、1時間弱で目的地に到着した。
 綾香と砥石は、裕介の前にたたずむ。
 裕介の眠っている墓の前に、たたずむ。
 裕介はこの世に生を受けたと同時に、その生みの親と一緒に、亡くなっていた。
 時間を戻したって、どうすることもできない現実。そもそも綾香が生まれてくる前の出来事。
 泣き崩れる綾香の肩を、砥石が優しく抱いた。

◇◆◇◆◇

 「――つまり、僕の死因は生まれてきたことそのものだったと?」
 グラスの中身は、お酒だった。真っ赤になった桐生と彼乃が、なぜか野球拳をしている。じゃんけんに負けたら脱ぐのではなく、逆に着るという、はたから見ている裕介まで暑苦しくなるようなルールだった。未成年の飲酒は法律で禁止されていることを、大人の事情で徹底させてもらう。
 【生あってこその、死。どんな生物だって、生きているから死ぬのだ。君も例にもれずそうだった。それだけだ】
「そういうことではなく――」
【そういうことなのだよ、青年。繰り返される2年間、君は幾度となく死んだ。飛行機の墜落という大まかな原因は変わらないものの、細かい理由はてんでバラバラだ。窒息、脳挫傷、出血多量、臓器破裂、致命的外傷、etc(エトセトラ)、etc(エトセトラ)】
 ほかにも、例えば綾香が裕介を幽閉して飛行機に乗せなかったこともあるらしい。それでも、裕介は全く別の原因で死んだ。
 【もしどのルートでも共通する原因を求めるのなら、それは君が世界に誕生したこと、それ以外にない。本当は、全く同じ結果に帰結するというのは、カオス理論からしておかしいのだがね】
「か、カオス……? 何ですか、それ?」
「はいはい! 私、知ってまーす☆」
 顔が赤いのは酒のせいか、十二単(じゅうにひとえ)並みに重ね着された衣類のせいか、その両方か。彼乃が突然横槍を入れてきた。
 「カオス理論とは、複雑すぎることは絶対に予測できないんだにゃーという科学者たちの降伏声明です☆」
はあ?」
 裕介は眉をひそめる。技術は日進月歩で、例えば天気予報などもいつかぴったりと予測できる日が来ると、そう考えていたからだ。
 「それができないのだよ、五十嵐君」
 肩にもたれかかってきた桐生の吐く息は、酒臭い。
 「例えば世界真理の法則を表した公式が、今後発明されたとしよう。世界はその式に従って動いている。ではその式を使えば、未来の世界を予測できるのか? 答えはノーだ」
【どんな公式にも、初期値の入力が必ず必要なのだ。未来がどうなるか知るには、今がどうなってるかを正確に、知らなければならない。そして、それは不可能なのだよ】
「ゆーちゃんは完全に1メートルの針金、見たことある? そんなもの、存在しないよね。0・00001ミリとか、小さな誤差っていうのは絶対存在する。そうやって小数点の下の数字をどんどん測定していくと、無限に続くんだよ」
 無限に続いて、予測するはずだった未来が、現在になる。
 時間が、無限に必要になる。
 「だからと言って切り捨てるわけにもいかない。その小さな誤差によって、明日の東京の天気は大きく変化してしまうからだよ」
【それが、カオス理論】
「じゃ、じゃあ」
 そう、裕介が死ぬ未来だって、些細なきっかけで変えることができるはず――中には裕介が生き残るルートだって、存在するはず。
 【なのに、君は、必ず、死ぬ】
「一体どうなってるんだ……」
「まあそう考え込むな、ほら酒を飲め」
「……僕未成年なんですけど。ていうか会長も先輩も彼乃も未成年ですよ」
 大人の事情で繰り返す。未成年の飲酒は、法律で禁止されている。
 【固いこと言うな、どうせお前の脳内なんだし】
 裕介は、反論できない。日本政府だって個人個人の脳内麻薬まで規制できるはずがない。そう考えると吹っ切れて、裕介はコップの中身をあおった。歓声が上がる。
 「おお~、ゆーちゃん男前っ☆」
「もっと飲むといい。どうせ死ぬ身だ」
 コップに新たな酒が追加される。それもまた飲み干す。彼乃が騒ぐ。桐生がもっと注ぐ。もっと飲む。
 【さあ、もう一度乾杯だ。青年の旅立ちに】
「「「旅立ちに」」」
 今度は裕介も叫んだ。悲しみを――死んでしまう悲しみではない、この場に綾香がいないという悲しみを、β‐エルドリンやドーパミンで洗い流したかったのだ。

◇◆◇◆◇

 「超能力ってあると思うんですよ、俺は」
 大塚(おおつか)文人(ふみひと)はどこか得意げに、綾香にそう言った。
 「はあ」
「あ、呆れてますね篠原先輩? そんな非科学的なもの存在するはずがないって」
 文人は「図星でしょ? 当ててやった」みたいなどや顔。単に興味がなかっただけなのだが、そんな綾香の本心など知る由もなく、文人は鼻高々と続ける。
 「例えば先輩。先輩が見ている赤い色は、俺が見ている赤と本当に同じですか? 『赤』という言葉での共通理解はありますけど、それを認識するプロセスは――」
 はっきり言って、退屈である。その話からどうやって超能力の話に繋げるつもりなのか。それに、超能力の存在の是非の結論は、綾香の中ではもうついている。
 時間を巻き戻す懐中時計は、砥石に返却した。彼女が大学で時計を研究してみると言ったからだ。もしかしたら、裕介の手掛かりが見つかるかもしれない。
 綾香は結局、裕介のいない部室で1年と数か月を過ごした。彼がいないのだから、綾香がいじめられる理由はない。友達も今までより多くできた。中でも薄野(すすきの)那由他(なゆた)というクラスメイトが一番の仲良しだった。風紀委員の権限寺(けんげんじ)柚乃(ゆの)と詩乃(しの)はかわいい双子の姉妹だ。前の世界と変わらず、なかなか過激な性格をしていたが、遊んでいるうちは普通の女子高生だった。
 そんな友人たちと放課後、街まで行ってクレープを食べるなどする。いじめられていたことには考えられない、楽しい青春。夢にまで見た高校生活だった。
 だけど、楽しくない。
 圧倒的に、足りない。
 五十嵐裕介が、いない。
 「――だからクオリアの存在を認めるなら、それは超能力の存在を認めるのと同じで――ちょっと先輩、聞いてます?」
 聞いていない。この際はっきり言うが、綾香は文人のことが大嫌いだ。第一印象から最悪だった。綾香が2年生になった時、彼女だけのフォークソング部の戸を、文人が叩いた。
 「こんちあー! 室内ゲーム部ってここですか?」
 部室を間違えていたようなので教えてあげた、が。
 「うわ、先輩めっちゃ可愛いですね」
 などとセクハラギリギリの発言、からの。
 「え、今なら部室で先輩と2人っきり? じゃあ俺、フォークソング部に入ります!」
 という何とも不純な動機である。綾香の、裕介との思い出を回想する、悲しく、けれども心地よい時間は、この乱入者によって邪魔されることに相成った。誰からもいじめられていないのに、彼がそばにいるというだけで綾香は、今までにないほどのストレスを感じていた。
 「先輩? しーのーはーらーせーんーぱーいー?」
 ああもう、そんなに伸ばすな、読みづらいだろう。
 「ちょっとトイレ」
 綾香は我慢しきれず、返事を待たずに部室を出た。綾香にとって聖域ともいえる部室に、彼奴(きやつ)1人を残すのは気がかりだったが、とにかく文人のいない場所に行きたかった。
 トイレとは言ったが尿意があるわけでもなく、どこに行こうか途方に暮れていたところに、横から声をかけられた。
 【篠原】
「砥石――水戸瀬会長」
【砥石でいいと言ってるだろう。それに、もう会長じゃない】
 数か月ぶりに再会した砥石は、優しい笑みを浮かべる。国立の名門大学に入学した砥石は物理学を専攻し、先述の通り、時計の解析をしていた。時折こうして綾香の顔を見に来る。
 【今、時間いいか? ジュースぐらいおごろう】
「ありがとうございます」
 向かった休憩所の自販機でコーラを2本買った砥石は、1本を綾香に手渡した。重ねて礼を言って、タブを立てた。炭酸が小気味よい音を立てて抜ける。
 【その後、どうだい?】
「はい、友達も増えて、楽しいです」
【ふうん?】
 何か意味ありげな返事をする砥石。何もかも見抜かれていると悟った綾香は、我慢していたため息を思わず漏らしてしまった。
 【疲れているんだろう。何かあったのか?】
 綾香は事の顛末を、もっぱら文人の愚痴をのべつ幕無しに吐き出した。聞いてて決して心地いいものではなかっただろうに、砥石は終始真剣に聞いていた。
 「別に悪い後輩じゃないのは分かってるんですけど、あの部室にいると、どうしても五十嵐先輩を思い出して……」
【比べてしまう?】
 そう言うと、綾香自身がとても意地汚い人間のようだった。事実、そうだった。
 【懐中時計の原理が解明できれば、五十嵐君を助ける手立ても見つかるかもしれない。時間はかかるが――待っててくれるか?】
 綾香は頷いた。待つことは何よりも得意だった。
 【ところで篠原に訊きたいことがあるんだ】
 そういって砥石は、くだんの懐中時計を取り出した。そして蓋を開ける。文字盤が姿を現し、蓋の裏には女性の写真が入っていた。右目下に涙ぼくろのある、若い女性だった。
 【この人物に、覚えはあるかい?】
「……はい」
 覚えも何も、これは綾香の母だった。看護師をしていて、医者だった父と一緒に働いていた――両親が実の兄妹であることは、綾香は誰にも話していない。砥石は過去に綾香の両親と並々ならぬ関係があり、その秘密を知っているはずなのだが、今回の砥石にその過去はないらしい。砥石の右目下にあったはずの涙ぼくろが無くなっていることに、綾香はこの時初めて気が付いた。
 【もとは私の時計なのに、なぜ篠原の母の写真が……?】
 それは綾香の知るところではなかった。今回のルートは今までと違うことが多すぎて、全く別の異世界のようだった。
 自分が、血のつながった兄妹の子なのだということを綾香は、ついに砥石には話さなかった。綾香の中で一番穢れた経歴だったからだ。ここにも詳細は記すまい。話せば、長いのだ。
 要領を得ない綾香の返事に、砥石は首をかしげながらも暇を告げ、学校を去った。
 トイレにしては長すぎる。怪しまれないよう、綾香は足早に室に戻った。
 「あ、先輩。遅かったですね」
 文人が、伏せた顔を上げた。何かを読んでいる最中らしい。
 ――……いや、あれは?
 「ちょ、何勝手に読んでるの!?」
 裕介と綾香の、フォークソング部としての活動は、主に作曲だった。綾香が作った詩に、裕介がギターで曲を当てる。文人が読んでいたのは、過去に作った詩を書き起こしたものだった。隠してあったのに勝手に読むなんて、なんとデリカシーのない人間なのか。
 怒鳴ったというのに、文人は読むのをやめない。面白おかしく、朗読したりするのだ。
 「すっごいラブソングですね、これ一文化築けますよ! 才能ありますって、先輩!」
 綾香がノートを取り戻そうと手を伸ばす。文人はふざけて避ける。
 「返して! 読まないで!」
「なんでですか先輩、こんなにいい詩なのに。公開しないのはもったいないですよ!」
 公開なんて、もってのほかだった。綾香と、裕介だけの歌だった。文人が読んでいるというだけですさまじい嫌悪感を覚えた。
 「ところで先輩、一番初めのこれ、頭文字だけ読んだら『五十嵐さん大好き』ですよね? 五十嵐さんって誰ですか? 先輩の初恋の人とかですか――」

◇◆◇◆◇

 【君は本当に存在するのか?】
 桐生と彼乃が愉快な歌を歌っている。アップテンポなフォークソングで、歌詞がこれまた笑える。1人の男子高校生が後輩の女の子に惚れられる。恰好つけて海外行こうとしたら飛行機堕ちて死んじゃった。傑作だ、ざまあみろ、リア充死すべし、是非はない。
 【聞きたまえ青年。あの正体不明の話だぞ】
 裕介の目は一気に醒める。酔っぱらっている場合ではなかった。というか今の歌自分のことじゃねぇかと、今更気づく。
 「えっと、何ですって? 僕が存在するか?」
【ああ、君はどう思う?】
 どう思うもなにも、存在しているに決まっている。
 「なぜそう言い切れる、五十嵐君?」
 茹でたタコのようになった桐生がのしかかってきた。
 「そーだそーだ、証拠を持ってこい証拠をー☆」
 さらに上から彼乃がのっかかる。鬱陶しいことこの上なかったが、裕介の思考は困惑に陥っていた。
 自己存在の証明。難解な問。
 【深く考える必要はない。『我思う、ゆえに我あり(コギト エルゴ スム)』、これで十分なのだよ。では青年、篠原綾香は存在するか、否か】
「え」
 唐突に出てきた綾香の名に、裕介は不意を突かれた。彼女は、裕介が死んでいるこの瞬間、空港の窓で泣き崩れているままのはずだ。
 「なぜそう言い切れる、五十嵐君?」
「そーだそーだ、証拠を持ってこい証拠をー☆」
 上からの繰り返されるやじに、今度こそ裕介の思考は立ち往生した。泣き崩れた綾香を実際に見たから、などという単純な理由では説明できない。今現在、裕介は、綾香を見ていないのだ。
 【そう、彼女を観測していない今、彼女が存在するかどうかは、分からない】
 見ていないのにいるはず、というのは思い込みだ。裕介が綾香を見失ったとたんに、0・00001の原因でこの世から消え去った可能性だって捨てきれない。それがカオス理論。
 可能性。
 【世界のものすべてが、そうだろう? 君は今、世界を観測していない。だから世界の存在は、確率的に予測するしかない】
 世界が存在する確率。存在しない確率。
 【君が観測した瞬間に世界の状態は決定する。確率が収束する】
「僕が……」
 裕介が見ている世界は、無数の可能性の中のたった一つ。
 【青年よ、君はなぜ、いくつもの可能性の中から、篠原綾香が存在する世界を観測したんだろうな?】
 なぜ、いくつもの確率の中から、死のルートを観測したのか。
 裕介は一つのひらめきに行きつく。何度やり直しても必ず待っている死の運命。カオス理論からして、それはおかしい。しかしそれと同じように、毎回存在したものはいくつもあったではないか。
 それは、砥石の存在、桐生の存在、彼乃の存在、裕介自身の存在。
 綾香の存在。
 それらも同じく、無数の可能性の中から裕介が毎回観測した事実。
 何度繰り返そうとも、彼女と出会う。その確率は、とても低い。
 渾身の問いを、砥石が放つ。
 【君が観測する世界は、一体誰が決めているんだろうな?】

◇◆◇◆◇

  綾香は、廊下を走る。行き止まれば右手に階段、駆け降りる。また廊下を走る。部活棟を出て、開けた視界に恐怖し、すぐに建物の裏に飛び込む。誰にも姿を見られないように茂みにしゃがみ込み。
 「ぅ、うえぇぇ……」
 戻す。胃の中身をすべて吐き出す。そのまま心臓まで出てきそうな勢いで、げーげーと嘔吐する。そうしている間にも、綾香の右手はポケットの中の携帯電話をつかんだ。最近人数の増えた電話帳。その中から目当ての連絡先を探す。が、震える親指では操作がままならない。ようやく砥石の電話番号に行きつく。発信しようとした。しかし、指はなかなか決定ボタンをとらえない。
 「くそっ、くそっ、くそっ」
 押せない、押せない、見当違いな操作を繰り返す。次の連絡先、前の連絡先、メニューを開く、メーラー起動、待ち受けに戻る。
 「くそっ、くそっ、くそっ!」
 果たして、綾香は電話をかけることに成功する。急いで耳に押し当てる。のろい呼び出し音に、イライラが募る。
 「くそっ、くそっ、くそっ!!」
 プルルルル、プルルルル。
 「くそっ、くそっ、くそっ!!!」
 プルルルル、プルルルル。
 「早くかかってよおおおおおっ!! 電話が電話できないなんておかしいでしょおおおおおっ!!」
 おおよそ篠原綾香だとは思えない叫びに、携帯が応えたとは考えづらいがともかく、ほどなくして電話がつながった。
 【もしもし、篠原?】
「か、かか会長」
【どうした、様子が変だぞ?】
「い、今すぐ、時間を、戻してください」
【篠原、落ち着け】
「早く! さっき私と別れた時まで! そして私を部室に返さないで! そのまま私を、こ、ここ殺して! 私を殺してっ!!」
【落ち着けと言っている!!】
 砥石の言葉は耳朶を打ち、綾香の脳は一瞬マヒする。その一瞬の間に砥石は、優しい声で綾香の緊張をほぐした。
 【ゆっくりでいい。急ぐ必要はない。説明をするんだ】
「……はい」
 文人の口から裕介の名前が出たとたんに、綾香は激高した。言い訳できない醜い怒りと憎しみが膨れ上がり、綾香は文人を突き飛ばした。不意打ちだったからだろう、彼は簡単に飛ばされてしまい、頭から窓に突っ込んだ。割れたガラスが深々と、刺さってはいけないところに刺さっていた。
 つまり綾香は、文人を殺してしまったのだ。
 「私はそんなつもり、なくて……」
【もういい、十分理解した。いいか、誰にも見つからないところでじっとしているんだ。学校に着いたらまた連絡する。血迷うなよ、篠原。お前の取柄はその冷静さなんだから】
 しばらくして電話がかけなおされた。詳しい場所を伝えると、綾香が入ってきたところから砥石が姿を現す。茂みに縮こまってガタガタと震える綾香はとても弱々しく見え、砥石は悲痛そうに表情を歪めた。
 「会長……」
【篠原】
 綾香は、今までにないほど沢山の涙を砥石の腕の中で流した。このルートに来てからというもの、綾香は砥石に甘えてばかりだった。裕介と約束した、裕介に少しでも近づくという誓いは、綾香の心には微塵も残っていない。
 「会長、お願いです。時計を貸してください。今度はしっかり、返しますから……」
 とにかくやり直したかった。裕介がいないだけでも死にたいほど辛いのに、人を殺した罪を背負ったまま生きていくことなど、できるはずがなかった。裕介に合わせる顔が、なかった。
 砥石は。
 【…………】
 砥石は、何も喋らない。綾香の呼びかけにも答えようとしない。
 ただ強く、綾香を抱きしめるだけ――。

 綾香は気づく。
 強く、抱きしめられて。
 動けない。

 抜け出そうと少し身をよじった。すると綾香の背に回された腕は、さらにきつく綾香を縛る。
 「会長、まさか――」
 砥石はなお答えない。が代わりに、彼方から。

 サイレンの音が、聞こえてきて。

 「は、離して!」
【……篠原】
 初めて砥石が口を開く。綾香の耳元に口を寄せて。位置的に、綾香からその表情は見えない。
 【すまない、篠原】
「会長! 離して、お願い離して!!」
 砥石はここに来るまでの間に、警察に通報したのだ。この高校で殺人が起きた、篠原綾香がその犯人であることを。
 そして綾香が逃げないように、この場に留めるために、縛る。
 「会長!」
【私はいつだって、私の正義に従って生きている】
「いやっ、離して!」
【君の話を聞いてる時から、薄々思っていた。君は五十嵐君を助けるために、犯罪まがいのこともやってきて、しかも時計の力で逃げおおせている。その使い方を、私の正義は良しとしない】
「離してっ! 離してえっ!!」
【今回ばかりは見逃せない。人殺しは、何よりも悲しい、償えない罪だ】
「離してってばああああああああああああっ!!」
【私は、君の味方にはなり切れなかったようだ。本当に、すまない】

◇◆◇◆◇
 誰かに呼ばれた気がして、振り返ったが、そこに広がるのは闇。
 真っ暗で、何も見えない。
 「ゆーちゃん、どうしたの?」
 彼乃が裕介の眺めるほうを一緒になって眺める。なぜだか、酔いは醒めているようだった。
 「いや、誰かに呼ばれた気がして」
「ほほう。君を呼ぶのは誰だ?」
 同じく、いつの間に酔いから醒めた桐生も、裕介の横に並ぶ。
 「いや、誰かまでは分からないですけど」
【行きたまえ】
 砥石は相変わらず、こたつから離れなかった。コップの中身を飲み干す。彼女だけは、飲んでも飲んでも酔っぱらわない。
 【誰にせよ、君を呼んだんだ。そして君はそれを観測した。ならば、君はその声のもとへ向かうのが筋だ】
「いやでも……」

 【でも、なんだ?】
 「でも、なんだ?」
 「でも、なに?」

 3人が口をそろえる。

 【君は、聞いたのだ。「君を呼ぶ声を、すなわち「観測したんだよ、ゆーちゃん。【観測された時、確率の「波は収縮し、1つの「現実が決定される。【誰かが君を呼んでいる。「誰かが君を必要としている。「いくつもの可能性から、それが選ばれた。【否。「選んだんだ、誰かが。「だったらもう、行くしかないじゃん。【是非はない。君には是非とも、そうして欲しい】

 「僕を」
 裕介を必要とする誰かという、可能性。
 死ぬ間際の裕介をなお、観測したがっている誰か。
 その声を裕介に観測させた、誰か。

 裕介は席を立つ。
 長い長い暗闇に、一歩踏み出す。
 それを感じ取ったかのように、また裕介を呼ぶ声がする。
 また一歩を踏み出す。
 闇が深まるにつれ、自分自身も見えなくなる。
 輪郭があやふやになるようで、存在が無くなるようで。
 誰にも観測されなくなり、いくつもの可能性に拡散する。
 それがたまらなく、恐ろしい。

 振り返った。
 さっきまで裕介がいた場所は、まだあった。
 こたつや、鍋はなくなっていた。
 砥石も、桐生も、彼乃もいなくなっていた。

 小さな影が、そこに立っていた。
 その手には、金色の懐中時計が握られている。
 影は手元に目を落とし。
 時計をじっと見つめていた。

 男か、女か。
 子供か、大人か。
 どうしてだろう、はっきりしない。
 人間であることだけは、確かなのに。
 正体不明が、裕介を見た。
 裕介は慌てて目をそらした。
 正体不明の視線に背中を押されるように、また闇を進む。
 自分もまた、影になってゆく。

 死ぬ。













 こんにちは、五十嵐君。来てくれると信じてたよ。呼び続けた甲斐があった。まあこっちに来てくれ、渡したいものがある。そうそう、こっちこっち。
 さて、君にはこのダイヤの指輪を進呈しよう。
 意味が分からなそうな顔をしているな? オーケーオーケー、ちゃんと説明するから。
 これと似たようなものを篠原さんに渡しておいた。そう、あの金時計だよ。あれは時間を操ることができるが、この指輪は金時計とは対極する能力を持っている。空間を操るんだよ。瞬間移動したり、ブラックホールを作ったり、応用はいろいろ効くよ。
 まずこれらのアイテムがなぜ、金時計や指輪の形をしているのかだが、ぶっちゃけ意味はない。適当に決めた。別に何でもよかったんだ、指輪はランタンにしようって案もあったんだけどね。
 次に篠原さんに時計を渡した理由だけど、実は成り行きなんだ。はじめはそんなつもりはなかった――どころか時計を作るつもりすらなかったんだ。話を大きくしていくうちに、思いついたことをどんどん実行しているうちに、そうなったんだ。
 最後に、君にこの指輪を渡す理由だけど。
 これも深い意味はない。そうせざるを得なかった――それしか方法を思いつかなかったのさ。何のための方法かって? 終わらせるための、だよ。
 君を飛行機の事故で殺したのも、篠原さんに時計を渡してやり直させたのも、君が生まれたと同時に死ぬルートを作ったのも、篠原さんに文人を殺させたのも、君に今この指輪を渡すのも、すべては終わらせるためだよ。
 つじつまと、道理と、帳尻を合わせて、矛盾をなくし、面白くして、紡ぐ。
 大体僕の正体、分かったんじゃないかな? ああ、ちなみにあの正体不明、あいつの正体だけは絶対に分からないようにしてあるから、考えても無駄だよ。迷惑をかけるわけにはいかないからね。
 さあ、話はこれですべてだ。君が本当の答えにたどり着いたか、そうじゃないかは、この際あんまり関係ない。君は君がしたいように、そしてできるようすればいい。それで、何もかもがうまくいくようになっているはずだ。
 君と篠原さんには、幸せになってもらいたいからね。
 じゃあね、ばいばい。

◇◆◇◆◇

 仮釈放には、たっぷり3年を要した。3月だというのに、まだ少し肌寒い。
 綾香が刑務所を出ると、砥石が立っていた。
 【お帰り、篠原】
「 」
 綾香の口は動かない。すっかり凝り固まってしまった脳で、じっと砥石を認識していた。
 【寒いだろ、これを着ろ】
 わざわざ用意したのか、砥石は綾香に分厚いコートを着せた。温かさがじんわりと、身体の芯まで染みわたるのを感じた。
 【どこか行きたい場所はある?】
「 」
【……そうか。とりあえず、うちに来たまえ】
 肩を抱かれ、導かれるままに、砥石の車に乗せられた。砥石は慣れた手つきで車を運転する。時折心配そうに、バックミラーで綾香の様子をうかがった。
 牢の中で、綾香は様々なことを考えた。文人を殺してしまった後悔と自責、時計を使わせてくれなかったばかりか警察に通報した砥石への憎悪、牢の中での人間関係や懲役の辛さ。そして、裕介のこと。今となっては、綾香の思考は、今まで考えていたことを述懐する機能しか持っていなかった。
 【私の家に着いたら、とりあえずシャワーを浴びたまえ。いや、別に篠原が汚いという意味ではなく、な。熱いお湯を浴びて、一度すっきりするといい。その後、一緒にご飯を食べよう】
 沈黙が苦しかったのか、砥石はいろんなことを喋った。綾香が返事をしなくても、言葉を途切れさせることはない。もしくは元気づけようとしてくれているのか。
 砥石への憎しみも含めて、昔の様々な思いは綾香にとって、アルバムに挟まれた写真のようなものだった。当時のことを思い出し、懐かしむ。しかし執着があるわけではない。こういう砥石の気遣いに、素直に感謝できる。感謝できてよかったと、心から思う。
 車は小さな一軒家の前に停まった。真っ白でシンプルだが、窓の配置や玄関などのアクセントが、おしゃれな雰囲気を作っている。
 【私のセンスだよ。いいだろ?】
 綾香にできる精一杯の肯定は、頭を1センチ程度縦に振ることぐらいだった。砥石はその微妙な反応を目ざとくとらえ、とてもうれしそうに笑った。
 【さあ篠原、あがって。きっとびっくりするぞ】
 びっくりする、とは何だろう。見当は全くつかなかったが、綾香はなぜか、乾いた心に一滴の潤いを落とされたような気分になった。
 予感、のようなものが、あったのかもしれない。そういえば、と綾香は思い出す。昔は、あの人が学校のどこにいようとも、直感でどこにいるのかが分かっていた――
 【帰ったぞ】
 砥石の呼びかけに、奥の扉から1人の男が出てきた。

 世界に、色が戻る。

 目の前の情報を、一瞬たりとも漏らしてはいけない。

 網膜に焼き付けろ。そして判断しろ。

 久しぶりの仕事に、なまった脳は悲鳴をあげた。

 しかし、それはうれしい悲鳴だった。

 情報が足りない。処理したりない。

 もっとよく見ろ。もっとよく聞け。もっとよく嗅げ。今すぐその身体に触れろ。

 もっと記憶を探れ。もっと価値観を思い出せ。もっと感情を湧き上がらせろ。今すぐその呼び名を、口にしろ。







 「五十嵐、先輩……?」
「やあ篠原さん。僕がいなくて、寂しかっただろ?」

 忘れもしない、3月16日のことだった。

◇◆◇◆◇

 砥石が時計を解析していく中で、突然背後に裕介が現れた。それが先日のことだった。
 【仮釈放が近かったからな。ドッキリのつもりで、内緒にしていたんだ、篠原には】
「ドッキリなんてもんじゃないですよ」
 裕介のほうと言えば、誰にも観測されなくなり、存在するかもあいまいになって、そんな中でどうにか指輪を使って綾香のもとへ行けないかと試行錯誤を繰り返していたらしい。
 「ようは誰かしらに観測さえしてもらえれば、僕の存在の可能性は収束して、生き返れるはずだったんだ。いろんな可能性どうしを指輪の力で入れ替えて、いつか僕が生きている可能性が篠原さんのいる世界と重なるのを待っていたんだ」
「手当たり次第ですか……」
「おかげで3年近くかかっちゃったけどね」
 逆に言えば、3年ですんだのは奇跡のようなものだった。数百年、下手すれば千年以上かかったっておかしくない。
 「そういう奇跡が、たくさん起きましたね」
 砥石が持っていた時計。何度時間をやり直しても、変わらず存在し続けた裕介。砥石の傍で観測され、その日が仮釈放の間近だった、偶然、奇跡。
 【誰にも観測されていない事象は、多数の可能性の重ね合わせか……。だとすれば、観測しとき、1つに収束するとき、その事象を決定しているのは、一体誰なんだろうな】
「そんなの」
「明らかじゃないですか」
 砥石の独白に、裕介と綾香は声をそろえる。
 【何? 2人とも、分かっているのか?】
「ええ。私に時計を渡した会長ではない会長、本物の会長に時計を持っている違和感を感じさせなかった張本人」
「僕の精神世界に会長の姿で現れ、正体不明の影に僕たちの様子を観測させて、時計と指輪を作った張本人」
 首をかしげる砥石に、しかし2人は何も答えない。意味ありげに、同じ方向を見て笑うだけだ。

僕とあなたの方を見て、笑うだけだ。













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