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Mad Botanists 🌷狂える植物学者たち🌷
なかみゅ


1 博士と愉快な仲間たち

春の柔らかい陽射しが野原に降りそそぎ、草木は温かい光を命の萌える緑に染めている。
ここはとある国の公園。その美しい自然は大切に保護され、珍しい動植物も数多く生息している。
そこでは、白衣を着た数人の人々が草花を採取していた。人工物の少ないこの景観の中では場違いにも見える。
中でも老齢のしわの深い男が、採取した草に紫色の薬品を垂らしている。それを何かゴツイ機械の中にセットする。機械にはモニターが付いており、しばらくすると、様々な文字列や波形が表示される。
老齢の男はそれを見て興奮した様子だ。
「ふむ。この公園固有の、この種の草はやはり素晴らしい! 葉緑体の量もとびぬけて多く、二酸化炭素の酸素への変換効率も高い。そして何よりも、人間の細胞への適合率が最も高い!」
 男が嬉々として語るその姿を、同じく白衣を着た青年が、少し遠くから眺めていた。彼は今予備のサンプルを採取している最中だ。彼の名前は若草春太郎。植物を異常な熱意で研究し続ける植物学者・緑ヶ丘草造の助手である。
緑ヶ丘の近くに寄ると彼は尋ねる。
「どうですか? 博士」
「私の期待通りだよ若草君。この植物が持つ遺伝子を人間の毛髪遺伝子に組み込めば、ついに人間も光合成をすることが出来るようになるはずだ!」
 緑ヶ丘の調子に反して春太郎はあきれ顔で言う。
「人間の毛髪で光合成を可能にする研究、ですか。そんなもの、本当に作れるんですか? というか、そんな技術を作ったらどうなるか分かったものじゃありませんよ」
緑ヶ丘の研究は馬鹿げている、と春太郎は思っている。こんな突拍子もない研究、普通なら成功するはずがない。
 しかし、それと同じだけ彼の植物への熱意も常軌を逸している。そのことも彼は同じように知っている。
緑ヶ丘は不機嫌そうに言う、
「そんなもの知ったことか! 光合成は我々動物には無い植物だけの力だ。その力を手に入れることで我々は植物に近づけるんだぞ! 素晴らしいじゃないか! それに、この力があれば、二酸化炭素の問題も解決し、世界の貧困問題も和らぐだろう。私は人類に貢献する研究をしているんだ!」
 それから彼らは予備のサンプルの採取と機器の後片付けを終えた。
「さあ、若草君、ここでの目的は済んだ。帰国の準備をしよう!」

 こうして緑ヶ丘達の研究は続けられていった。
 そして数か月後、ようやくマウスを使って実験をする段階にやってきた。マウスの体毛に光合成遺伝子を組みこむ実験だ。
「さあ、エクちゃん、沢山飲んでね」
研究員の青葉桃香は実験用のケージにマウスの飲み水を取りつける。ただの飲み水ではない。味に違和感を覚えてしまうと飲まなくなってしまう可能性があるから、かなり薄めてあるが、遺伝子を改変する薬が溶かされた液体である。
 「エク」とは便宜上、マウスに付けられた個体名だ。
それから数日後。
「おはようございます。青葉さん」
研究室のドアを開いて春太郎が話しかけてきた。
青葉は今日もエクの記録を付けていた。この役割は青葉の担当だ。
「エクはどうです? 何か変わったところはありました?」
青葉は少し申し訳なさそうな表情で、
「いえ、まだ特に何も。やはり薬の量が少なすぎるのかもしれないですね」
「そうですか。ま、俺たちの専門じゃないですし、気長に効果が現れるのを待ちましょう」
それからしばらく経つと、段々とマウスの体毛が緑に変色していく様子が見られた。更に時を経て、エクは鮮やかな緑色の姿になった。
ここでエクは新たな実験を受けることになった。そう、実際に光合成能力を行う能力を得ているかどうかを試す実験だ。
そして、結果として無事に光合成作用が確認された。二酸化炭素の酸素への変換が確認されたのだ。
さらに、餌を与えずに光と水だけの環境で放置した場合の実験も行ってみた。こちらの実験も成功し、エクは餌を与えなくても光合成によって得たエネルギーだけで生きていけることが証明された。
かくしてエクは地球にやさしいクリーンなマウスになったのだ。
エクについては、副作用の可能性なども含めてこれからもデータの採取を続けることになった。

それから数か月後、エクに異常は見られず、光合成遺伝子も変わりなく機能し続けている。
その日の午後、緑ヶ丘は春太郎を自分の研究室に呼んだ。
ノックの音と共に、春太郎が入ってくる。
「うむ。よく来てくれた。若草君」
「何ですか博士? 変に改まって」
 春太郎は怪訝に尋ねる。
「マウスによる光合成実験の事だが、これまでの結果を鑑みるに、十分な成果を果たせたと思う。そこで、今度はいよいよ人間での実験に移りたいと思う」
「・・・・・・本当にやるんですか? それ」
「当たり前だろう。ここまで来て何を言っているんだ」
博士は大真面目な調子で言う。
「ていうかそれ、人体実験じゃないですか。一体誰に被験者をやらせるつもりなんですか? まさか博士が自分で・・・・・・なんていわないでしょうね?」
それを聞いて緑ヶ丘は何故か卒業生を見送るような温かい眼差しになった。春太郎がその表情の意味を図りかねていると、博士は優し気な口調で口を開く。
「そう、若草君、君を呼び出したのはまさにそのことの為なんだ。光合成。その素晴らしい能力を最初に得るのは誰か? この研究の第一人者として、私自身がその栄誉を掴んでも罰はあたらないだろう。いや、むしろ、そうしたいのは山々なところなのだ! しかし!! 若草君、私も、もう老いた。ここは出しゃばらずに次の世代に後を譲るべきだと思うのだよ」
「は、はぁ・・・・・・。それで、博士はどうなさるおつもりなんですか?」
春太郎の胸中では段々と嫌な予感が膨らみ始めていた。
「よくぞ聞いてくれた! 若草君! 君は私の助手として一番長く共に植物の神秘を探求してきた研究者であり一番弟子だ。若草君!! 私は、君が光合成という植物の偉大な力を手に入れる最初の人類となることを許そう!!」
「・・・・・・はい? 今なんて言いました、博士」
春太郎は冷や汗をだらだらと流しながら聞き間違えの可能性を確認する。
「若草君、君が、光合成の力を得る最初の人類となるのだ!!」
「・・・・・・」
ほぼ同じ内容を繰り返す緑ヶ丘。それに対して春太郎は俯き加減に黙り込む。
「そうか若草君! 君は、私のこの好意に感激して言葉もでないのだな!」
「・・・・・・」
(えええぇぇぇぇっ!? いやいやいやいやおかしいだろ! なんで一介の植物学者がこんな人体実験に付き合わなくちゃならないんだよ!? 一体博士は何を考えてこんな・・・・・・)
春太郎は博士の思惑を量ろうと俯き加減の目線をちらりと上げる。そこにあったのは何やらとても感動的なシーンのような雰囲気を醸し出している緑ヶ丘の姿だった。光の加減か瞳は輝いて見える。春太郎の実際の心中には全く思いも及ばないようだ。
(ああ・・・・・・駄目だ。こんなのどうやって断ればいいんだ。この人はもう頭がいかれてしまっている。いや、俺が気づかなかっただけで最初からヤバい人だったのかもしれない)
春太郎がそんな思考にふけっていると、博士が沈黙を破って話を進めようとする。
「さあ若草君。この実験の同意書にサインをしてくれたまえ」
「えっ!? ちょ、ちょっと待って下さいね。ぺ、ペンはどこだったかな~」
と春太郎が時間稼ぎをしようとするがその行為は無駄に終わる。
「ペンなら私のを使いたまえ」
「うっ・・・・・・。マジか(小声)。あ、ありがとうございます」
春太郎は流れに逆らえずペンを受け取ってしまい、同意書を前にする。
(どうする!? どうする俺!? こんな人体実験に身を任せて無事に済むかどうか分かったものじゃないぞ!? マウスの実験で成功したからって、人間で試してどんな副作用が出るか・・・・・・。断るか? だが断ったら断ったで間違いなく首になる気がする。それに・・・・・・)
 春太郎に迷いを生じさせるもう一つの要因は博士の好意だった。博士は確かにイカレているように思われたが、だからこそ春太郎のことを本当に一番弟子だと思っていることも、好意からこの実験の話を持ち掛けたことも納得できた。
博士がもし、部下のことを顧みないただの常識的な悪人だったなら、春太郎は迷わずこの研究所を出ていっただろう。
「どうしたのだ? インク切れかね?」
迷っている春太郎に、さすがに緑ヶ丘も怪訝な様子を見せ始める。
(どうすればいいんだ!? こんなに信頼を寄せてくれている博士の行為を無下にするというのか!? だが、実験が失敗したら? いや・・・・・・)
そして数十秒後───
「博士、ありがとうございます! こんな機会に恵まれるなんて・・・・・・! 僕は緑ヶ丘博士の弟子で幸せ者です!」
同意書にはしっかりと彼の文字で「若草春太郎」と書かれていた。
「そうか若草君。君もこの栄誉を喜んでくれて私は嬉しいぞ!」
 緑ヶ丘は満足そうに言う。
そして春太郎は感謝の笑顔の裏で嘆く。
(ああ・・・・・。やっちまった。・・・・・・これからどうなるんだろうか? 俺)

 ***

 数日後。まだ準備中のため春太郎の実験は始まっていなかった。
春太郎は研究所内の庭園で育てられている植物に水と肥料を与え、研究中のいくつかの植物のデータをとって休憩に入る。植物の研究所であるため建物の中心には大きな庭園が造られており、そこで植物の栽培や研究の一部を行っているのだ。
ふと思い立って春太郎は観察が続けられているエクの部屋へと足を向ける。
「あ、お疲れ様です、若草さん」
部屋に入ると担当の青葉が、エクの体調データをモニターしている画面から目をこちらに向けて挨拶をする。
「お疲れ様です。今は休憩時間なんですが、なんとなくエクの様子を見に来たんですよ」
「そうですか。エクは今日も元気ですよ」
見ると実験用マウスだったエクはケージの中で元気に走りまわっている。しかし光合成によってエネルギーを生産できるため食物は与えられていない。水を入れたボトルだけがケージに取り付けられている。これには光合成のみでどれだけの期間生き続けられるかという記録をとる目的もある。だからもちろんケージは陽当たりのいいところに置かれている。
「それはなによりですね。特に痩せている様子もないし、これなら寿命が来るまで食べ物をあげなくても大丈夫そうですね」
「そうなんですよ。エクちゃんはすごいです」
青葉は嬉しそうに言う。彼女はエクの事をとてもかわいがっているようだった。
そして春太郎は実験用のマウスを可愛がるそんな青葉の事を可愛いなぁと思っていた。
「そうだ若草さん! 聞きましたよ。人間の体での光合成実験の被験者、若草さんが選ばれたんですね!」
青葉が興奮気味に言う。
「ああ、その話ですか。全く、博士はあんなだから研究内容が飛んでるのは分かりますけど、俺たちまでこんな実験に巻き込むのはやめてほしいですよ」
春太郎はうんざりしたように言う。
「でも、すごくないですか!? この実験が成功したら、若草さんが生きてるだけでちょっぴり地球温暖化が改善されるんですよ」
その楽しそうな様子に春太郎は少し気おされながらも言う。
「でも、人間で実験してみて失敗しないとも限らないじゃないですか。遺伝子組み換えなんて、なにか予想もしてない事態が起きたりして・・・・・・」
「そうですね。その時には若草さんには研究のための貴重な犠牲になってもらいましょう」
青葉が大真面目な顔で言う。
「青葉さん! あなたまで何てことを言うんですか!?」
「若草さん、あなたも研究者ならこの素晴らしい研究の為に殉職するのも本望だと思いませんか? 後はきっと私が引き継ぎます!」
青葉が勢い込んで話すのに対し、春太郎はうなだれた調子で答える。
「ああ、なんてことだ。青葉さんはまともな人間だと思っていたのに・・・・・・」
青葉はそんな春太郎の様子を見て楽しそうに笑う。
「フフッ。冗談ですよ」
「洒落にならないからやめてくださいよ! 本当になにかあったらどうするんですか!」
「すみません。でも、緑ヶ丘博士の研究なら大丈夫ですよ、きっと」
 その目は研究の成功を確信していた。
「でも、これからはエクちゃんの様子ももっと気を付けて観察しないとですね。だって、エクちゃんに何かあったら若草さんも危ないかもしれないわけですからね」
 春太郎はゴクリと唾を呑む。そう、彼がこの部屋に来ようと思ったのはまさにその為なのだ。青葉の顔が見たかったというのも多少あるが・・・・・・それはさておき、いまや彼は、エクとある意味では一心同体になろうとしていた。
「そうなんですよ。俺の命の半分だと思って大切に面倒をみてやってください」
「はい! 任せてください!!」
春太郎は元気よく返事を返す青葉に見とれながらも考える。
(しかし、実験はまだ始まってはいない。もしも今の段階でエクに異常が出れば、人体実験は危険だということで中止になるんじゃないか? エク、お前には悪いが、俺はお前がこの研究の犠牲となってくれることを祈っているぞ。そうすれば俺の身の安全は保障されるんだ。そして何かごめんなさい! 青葉さん)
 一度はエクの飲料水への薬物の混入も考えたが、さすがにそれはバレたらやばいし、青葉に申し訳なさすぎるので辞めた。
「あ、そろそろ仕事に戻らないとなので。青葉さんもお疲れ様です」
「そうですか。若草さんが来てくれたおかげで少し息抜きになりました。若草さんもお仕事頑張ってください」

***

 三日後。緑ヶ丘からやっと実験の準備が整ったという知らせが来た。
 そしてこの日までにエクに何か異常があったという報告はついに出なかった。春太郎の不実な祈りは無駄になったのである。
(ああ、マジか。とうとうこの日が来てしまった。クソ、エクのやつめ! まあ、本当に異常が起きるとは俺自身あんまり思ってなかったし、青葉さんも悲しまないで済むから、仕方ないか)
 そう観念しつつ、春太郎は緑ヶ丘に指示された場所へと向かう。
そこは、研究所内の一角にある室内庭園だった。中央にある庭園は開けているが、それとは別に、研究所敷地内の建物外側に当たる所に室内庭園がある。こちらでは栽培する植物に与える水量や光量を調整できるようになっている。
春太郎は、光合成遺伝子を人間に植え付ける人体実験を、なんでそんなところで行うのだろうと疑問に思いながらも室内庭園に入った。
「な、何ですか!? この部屋は?」
そこには、ロイヤルな雰囲気を出しているテーブルとイスが用意され、緑ヶ丘は二脚あるイスの内の片方に座っていた。テーブルの上にはこれまたロイヤルな雰囲気のカップがあり、白の基調に金色のラインが入っている。お菓子(?)が乗った皿も置かれており、こちらも同様のデザインだ。植物栽培スペースには今までなかったと思われる薔薇の花が見え、更にはどこからか優雅な音楽すら聞こえるという始末だ。
 そう、この室内庭園はまるでお茶会の場と化していた。
「まあ、かけたまえ、若草君」
あっけに取られて辺りを見回しながら、春太郎はイスに腰掛ける。
目の前のカップを見ると、中には緑色のハーブティー(?)のようなものが入っていた。皿に乗っているお菓子も緑色のものと茶色のものに分かれていた。
「博士、これはいったいどういうつもりですか?」
「うむ。今から説明しよう」
そう言って緑ヶ丘はカップの中のハーブティー(?)をすする。
春太郎も何とはなしに同じようにする。
「・・・・・・!」
春太郎は謎のしかめ面の後にゴクンとその液体を飲み込んだ。
「うえっ・・・・・・。博士、何ですかこれ」
「それはエクに与えていた遺伝子組み換え薬品に手を加えたものだ」
春太郎は顔を青くして口の中にほとんど残っていないその液体を吹き出す。
「ぶっ! げほっげほっ! そういうのは先に言ってくださいよ」
「だから今から説明すると言っただろう? それはエクに与えていた薬品の濃度を数十倍にして、濃度を高めても被験者に負担がかからないようにしたものだ。マウスの敏感な鼻では異臭のするものは警戒してしまうし、味に違和感のある水は飲まないかもしれないから、かなり薄める必要があったが、人間相手なら必要ないだろうと思ってな。そこで必要な分の薬品は全て一度に与えてしまおうということにしたのだ」
春太郎は憤慨して言う。
「いやいや、良くないですよ! なんでマウスよりもぞんざいに扱われなきゃいけないんですか!?」
「落ち着きたまえ、若草君。私はその為にこの空間を用意したのだよ」
春太郎はぽかんとする。
「この空間? それはこの謎のお茶会空間のことですか? これが実験と何の関係があるっていうんです?」
「うむ。私もひどい味の薬品を大量に飲んでもらうことに何も感じないわけではない。そこで私は考えたのだ。このお茶会のような優雅な雰囲気の中ならそれもあまり気にならなくなるだろうとな。薬品をハーブティー風にしてあるのもその雰囲気づくりのためだ。因みにその皿の上にある緑色のものも、同じ目的でお菓子のように加工した薬品だから残さず食べてくれたまえ」
「何なんですかその発想は・・・・・・。まあ、人体実験というおどろおどろしい雰囲気は大分薄れてる気はしますが」
あきれ顔の春太郎に緑ヶ丘は得意そうに言う。
「そうだろう? 実は、薬品の準備自体はかなり前に終わっていたのだが、この部屋をセッティングするのに存外の時間がかかってしまったのだよ」
「って、時間かけたのそこですか!?」
春太郎は仕方なくちびちびと、かなりちびちびと飲み始めていた光合成実験用薬品を再び吹き出しそうになる。
 何というか、緑ヶ丘の才能と思考回路のイカレ具合には本当に驚嘆の念が募るばかりだと春太郎は思う。
 そこで、ふと緑ヶ丘の前にあるカップが気になった。
「あれ? 博士がさっき飲んでたのって・・・・・・」
「ああ、これは普通のハーブティーだ」
 そういって、春太郎にカップの中身を見せる。そこには茶色い液体が仄かなハーブの香りと共に湯気を立てていた。
「博士だけずるいじゃないですか!? 俺はこのクソまずい謎ハーブティーを飲まなきゃならないっていうのに! なんの罰ゲームですかこれは!?」
 と春太郎の我慢が限界へと近づく。
 しかし緑ヶ丘はまだ次の手があるというように動じない。
「案ずることはない。そこの皿には緑のお菓子型薬品の奥に同じ形の茶色いものが載っているだろう? そちらは本物のお菓子だ。薬品の口直しに食べてくれたまえ」
 と言って皿の上のお菓子を口に運ぶ。
皿の上に載っているお菓子は確認すると薄いクッキーをクルクルと巻いたようなシガレットクッキーだった。
春太郎も茶色い方を手に取ると食べてみる。
「あ、美味しいですね! これ。チョコレートの味がします」
「そうだろう。青葉君がこの実験のセッティングの為に作ってくれたのだよ」
「何ですって!? 青葉さんが!?」
 それから春太郎は「クソまずい謎ハーブティー」を一気に飲み干し、緑色の薬品クッキーも三十分ほどで摂取し終えた。
 そして薬品でない方のクッキーに手を伸ばしていると、今まで気づかなかった、というか、視界の端には映っていたがほとんど認識していなかったティーポットの存在が急に気になりだした。
 それは最初に薬品入りのカップが置かれていた位置のすぐ隣に置いてあった。
 春太郎はまさかと思いつつも、ティーポットを指さしながら恐る恐る聞いてみる。
「博士、もしかして、これって・・・・・・」
「ああ、若草君。君にこの実験で摂取してもらう薬品は、今食べてもらった固形の分と、そのティーカップに入っていた分。それに、そこのティーポットに入っている分全部だ!」
 春太郎は震える手でティーポットを持ち上げてみる。ずっしりと重かった。そしてそれを、元の位置へと戻す。
 少しの沈黙の後、彼は叫んだ。
「・・・・・・だからなんの罰ゲームですかコレっ!?」
 こうして、このとんだお茶会(というか人体実験薬品会)は深夜まで続くことになった。緑ヶ丘も暇ではないので途中で席を外し、茶会の供はこの部屋で栽培されている植物たちと、一人だけの部屋で寂しく流れる優雅な音楽だけとなった。

***

次の日。春太郎は、深夜まで味覚を蝕む薬品と格闘した疲労で少しふらふらした足取りで研究所内を歩いていた。
今は人体実験中なので、何かあった時のことを考えて、春太郎の寝泊りは研究室内だ。
春太郎はこの日もいつも通りの仕事に励んだ。
春太郎の主な仕事は植物の研究や生育、また、肥料などの植物に関わる物資の開発や研究だ。といってもこの研究所の活動の全体がそんなところであり、彼はどちらかと言えばそれをまとめる立場にある。
この研究所の最高責任者は緑ヶ丘だが、春太郎は一応その次に当たる役職に就いていることになっている。これでも彼は研究所のNo.2なのである。
希望を出せば実験中だということで仕事は休めるのかもしれないが、実験室で結果が出るのをただ待ち続けるというのは不安になってくる。だから彼はいつも通りに過ごした方がいいと思った。
朝、鏡を見た限りでは今のところ春太郎の髪は緑に染まったりしてはいなかった。まだ効果が出るまで時間がかかるのだろう。だがあれだけ飲んだのだから近いうちに効果は出るだろう。
春太郎は休憩時間になると再びエクの部屋へ行った。
前回は不幸を願っていたが、今度はエクの健康を切に願いながら、部屋のドアを開く。
「あ、おはようございます! 若草さん」
「ふあ~あ、おはようございます・・・・・・。青葉さん」 
春太郎は気だるげな返事を返す。
「なんだか眠そうですね、若草さん」
「ええ、昨日の実験が・・・・・・長引きまして」
彼は苦い表情で話す。
「ああ、あの実験ですね! どうでした?」
「なんていうか、死ぬかと思いましたよ。・・・・・・舌が」
「そうですか。それは大変でしたね。でもほら、こう言うじゃないですか、『良薬は口に苦し』って」
青葉が元気づけるように言うのに対して、春太郎も思い出したように明るい表情になる。
「そうだ青葉さん、青葉さんが作ってくださったお菓子美味しかったです! いやあ、実験が無事に済んだのも青葉さんのお菓子のお陰ですよ。あれがなかったらあんな劇物、到底口にできませんね!」
「そうですか? そう言ってもらえると嬉しいですね。また同じような実験があったら是非お作りしますよ!」
「そ、そうですね。できればあんな実験はもう二度と受けたくはありませんが(小声)」
 春太郎はエクのケージに顔を近づけると、元気そうに走り回るその姿を観察する。
(エク、あの時はお前の不幸を願ったりして悪かったな。だがもう俺たちは一心同体だ。お前に何かあったら俺も危ないかもしれないんだ。これからもずっと元気でいてくれよ!)
 と手の平を返したように心の中で語りかける。
 それから春太郎が毎日エクの様子をチェックするようになったのは言うまでもない。

 それから数日後の午後。春太郎は研究所中央の庭園で草むしりをしていた。白衣は脱いでシャツの袖をまくっている。
この庭園は室内ではないので風に乗って雑草の種が運ばれてくることもあるため、定期的に人の手で抜かなければならない。
「手伝いましょうか。副所長」
 後ろからの低い声に振り返ると、そこには壮年の男が立っていた。
「ああ、ありがとうございます。木枯さん」
 彼の名前は木枯大地。研究員の一人だ。そして彼は今回の光合成人体実験の被験者に絶対に選ばれない男である。何故なら彼の頭頂部はその「木枯」という名前の通り既に枯れているからだ。 
同時に彼は「大地」のように懐の広い人格者でもある。春太郎は木枯よりかなり若いが地位としては木枯の上司に当たる。それなりに人生経験を重ねてきた男としては若僧に指図されるのは気に障るところだろう。だが木枯はそんな事を全く気にかけず春太郎と接している。
「いやあ、助かります。最近雑草が増えてきていたので、一人で処理するのは大変だと思っていた所なんですよ」
「そうですね。交代で当番を決めたらどうです?」
そう言いつつ木枯も白衣を脱いで雑草を抜き始める。
「それが良いかもしれませんね」
「いっそのこと、雑草の種が入って来ないようにできたらいいんですけどね」
「いえ、雑草もここで生育している植物を自然状態に近づける要素の一つなので。まぁ、ずっとほっといたら研究対象の植物が枯れて元も子もなくなっちゃうからこうしてたまに抜いてるわけですが」
 春太郎は少し根の深い雑草をぐいぐいと引っ張りながら返す。
「そうなんですよねぇ。まあ、そこは我々が地道に頑張るしかないですか。そうだ、例の実験、どうなりました?」
 ああ、と春太郎はうんざりした調子で答える。
「まだ何とも言えませんね。特に変化も見られないですし。俺はこんな実験狂ってるって思いますけど、あんなまずいモノを飲んで無駄骨だなんてことになったらそれはそれで憤慨しますね」
「ハハ。副所長も大変ですね」
 木枯は上司の機嫌をとるように言う。
 因みに春太郎の役職は「副所長」ということになっている。「所長」はもちろん緑ヶ丘だ。しかしこれらの役職名で彼らが呼ばれることはほとんどない。緑ヶ丘はイメージ的に「博士」と呼ばれることの方が多いし、春太郎はまだ若く性格的にもあんななので「副所長」などというお堅い役職名は似合わず、名字で呼ばれることが多い。
 木枯は緑ヶ丘のことも「所長」と呼んでいるが、彼のようにこの二人を役職名で呼ぶ人間はまれである。
「木枯さんはどう思います? この実験」
不意に春太郎が尋ねる。
「そうですね。まぁ、確かにぶっ飛んだ研究だとは思いますが、私は面白いと思いますよ。博士の研究。なんていうか、あの人はもう若くもないのに、それでもあの人の研究への情熱には若々しさが感じられるんです。いつでも好奇心の先にあるものを追い続けていて、年甲斐もないかもしれませんが、なんか青春してるなって思うんですよね」
 春太郎は虚を突かれたような顔になって一瞬手を止めた。今までそんな風には考えたこともなかったというようだ。
「いや、やっぱり木枯さんはいい人ですね。木枯さんの言葉だけ聞いていると、博士がきちんとした人間に思えてくる」
「いえ、本心で言ってるんですよ。私なんかはもう博士の後を追うばかりの人間なので、あの人のような生き方にはちょっと憧れてるんです。でも、私にはそんな活力も才能もないですから」
 春太郎はとんでもないというような表情になって返す。
「そうですか? 俺なんかには、木枯さんの方がよっぽどまともな人間に見えますがね」
「それはどうも。そう言えば、あまり質問の答えになってなかったですかね。この実験をどう思うか、ですか。色々と心配な面はあるのかもしれませんが、成功したら凄いと思いますね。副所長にして見れば、自分の身の事ですからそう安易なことは言えないんでしょうけど、私から一つだけアドバイスをしておきましょう」
「? なんですか?」
春太郎の問いに、木枯は自信満々に親指を立てて答える。
「若者は夢を見ろって事です!」
「それなんかニュアンス違くないですか!?」
 春太郎はすかさず突っ込んだのだった。

 数時間後。二人はようやく大体の雑草を取り終えた。季節はもう夏も盛りだ。この日は天気も晴れていたので二人とも汗をかいていた。
「いやぁ、それにしても暑いですね」
木枯が手についた土を落としながら言う。
「本当ですね」
春太郎は汗だくになった髪をかき上げながら言う。
ふと、木枯はあることに気づいて、春太郎の顔をじっと見る。
「副所長、それ・・・・・・」
「? 俺の顔に土でもついてます?」
春太郎が不思議そうに尋ねる。
「いや、あの・・・・・・副所長の、髪の、生え際の辺りが、緑色になってます」
「・・・・・・はい?」

 それから彼らは、トイレに行って鏡を見た。
「ほら、見てください、緑色になってるでしょう、その辺り」
木枯は前髪を持ち上げて鏡の向こうを注視している春太郎に言う。
「あ・・・・・・ホントだ」
春太郎が見ると確かに、髪の生え際の辺りのほんの数ミリだけが緑色になっていた。前髪以外の部分も確認してみたが、他の所も同様のようだった。
これはどういうことなのだろう? 実験は失敗したのだろうか? それとも薬の効果は、これから段階を追って現れるということなのだろうか? 春太郎が考えあぐねていると、あることに思い至った。
これは、人間の毛髪の遺伝子を組み替えることにより、人間が光合成を行うことを可能にする実験である。そして、あの薬によって遺伝子が本当に組み代わっているのなら、その作用を受けるのは遺伝子変更後に生えてくる髪の部分であるはずだ。なぜなら人間の毛髪の大部分には、遺伝子は含まれていない。そのため、遺伝子を変更しても既に生産されている髪に変化が起きることはほとんどないのだ。人間の髪は、髪の根元にある細胞で生産される。遺伝子を組み替えたことによる影響は、おそらくそこでの毛髪の生産過程に現れるのだろう。
それなら生え際から数ミリだけが緑色になっていたのも納得できる。数日で伸びる髪の長さなどその程度だろう。
そしてこのことは、実験の成果を確認するには春太郎の髪が生え変わるのを待たなければならないということを意味していた。                                                                                                                                                                                                                                                                
おそらく数か月は待つ必要があるだろう。
そのことに気付いた時、春太郎は心の中で叫んだ。
(どうせそんなに待つならあんなまずい薬品一気に飲む必要なかっただろ!?)
 緑ヶ丘はお茶会ごっこで遊びたかっただけなのではないかと疑う春太郎であった。

 ***

 ───数か月後。春太郎の髪はようやく全て生え変わり、かれの毛髪は完全な緑色へと変化した。それは新緑をイメージさせる鮮やかで美しい緑色だった。
 そして、この光合成人体実験もいよいよ実際の効果を検証する段階に来た。
 その日、彼は緑色に染まった頭髪が本当に二酸化炭素と水と光から酸素を合成するかを検証する実験を行った。
「あ、おはようございます。若草さん」
実験室に入ってきた春太郎に声をかけるのは研究員の花園実だ。
「おはよう、花園君」
花園は春太郎と同世代だということもあって、春太郎は彼に対しては気軽な口調で話している。春太郎は彼にも気軽な口調で話していいと言っているのだが、花園は木枯とはまた違った方向性で真面目なためか、それをよしとしない。
「じゃあ、早速実験を始めましょう。実験方法は簡単です。一定時間の間そこの二つの箱に入っていてもらうだけですから」
研究室に置かれている二つの箱はそれぞれ密閉され、一定量の空気と飲料水、それに、被験者が座るための椅子と空気中の成分の計測器が設置されている。この二つの箱の違いは照明が設置されているか否かということだけだ。片方の箱には照明が設置されており、可能な限り自然の日光に近い光が照射できるようになっている。
要は小学校で行うような光合成の比較対照実験とほとんど変わらない。光を照射した方の箱内部の空気成分における酸素の割合が、光を照射しなかった方の箱内部にある空気中の酸素より多くなれば、光合成によって酸素が生み出されたことが証明されるわけだ。
とりあえず、春太郎はまず照明付きの方の箱に入って椅子に座る。箱の大きさは二メートル四方ほどだ。光量を管理するため外と中での光の出入りはできないようになっている。つまり外から中は見えないし、中からも外は見えないということだ。
入ってから春太郎はふと疑問に思う。
「花園君」
「何ですか」
 とりあえず春太郎は箱の中からでも声は通ることにホッとする。
「これって、どのくらいの間箱に入ってればいいの?」
「十分に光合成が行われるだけの時間です」
「それってどのくらい?」
「三時間くらいです」
「・・・・・・」
 三時間か、結構長いなと春太郎は思う。担当研究員が花園で良かった。同世代の彼とならそれなりに話せることもあるだろう。三時間も何もない箱の中でただ無言で座っているとなったらそれはもう拷問でしかないだろう。
「あの、若草さん」
「何?」
「その、緑色の髪、大丈夫なんですか? 副作用とか」
その声音は少し心配そうだ。
「うーん、今の所特に何もないかな。エクも元気だし。・・・・・・もしかして心配してくれてる?」
「・・・・・・正直言って僕は、こんな研究をして本当に大丈夫なのか不安です。この一連の光合成実験の中で、何かあったらというのもそうですし、こんな技術が完成して世にでたら、社会には光だけでなく大きな闇も持ち込むことになるのではないでしょうか?」
 その不安を帯びた声に、春太郎は少し目を潤ませる。
「花園君! この研究所には君みたいに普通の善良な市民もいたんだね! 俺は君みたいな人もいることを知って安心したよ!」
 春太郎はわりと疑いなくこの研究に目を輝かせていた青葉と木枯を思い浮かべながら言う。
「なんですかそれ。とにかく、少しでも何か異変があったらすぐに報告してください」
「心配してくれたのも君だけだよ!! 花園君! 君がこの研究所にいてくれて本当に良かったよ!」
春太郎は少しハイになって喋る。
それから、わずかに間を置いて続ける。
「でも、この研究は、最後までやり通そうとは思ってるよ。もう遺伝子の組み換え実験はやっちゃったしね」
「ええ。それは分かってます。僕も自分に割り当てられたこの実験は誠意を尽くして取り組むつもりです。今行っている実験自体は危険なものではありませんしね」
そこまで言って花園はハッとする。ここまで花園は春太郎と何気なく話していたが、「話す」という行為は酸素の消費量を増やす立派な生命活動なのではないか。
だとしたら、このまま普通に話していると実験用の二つの箱の中にある空気の条件が変化してしまうのではないか。この実験は比較対照実験であるため、光合成による作用以外に二つの箱内部の空気成分の間に変化を与える要因があってはならないのだ。
 しかし箱の中の春太郎はそんなことはいざ知らずだ。
「そうだ花園君。今度、雑草の処理を当番制にしようかと思ってるんだけど」
「・・・・・・」
返事は無い。
「花園君? ・・・・・・あれ、聞こえてない? ・・・・・・花園くーん?」
「若草さん、ちょっと黙ってください。睡眠薬投入しますよ?」
実験に支障を来す可能性が浮上してしまったことに憔悴した花園はそんな言葉を投げかける。
「え!? どうしたの花園君!? 俺、何かまずい事言った!?」
 春太郎も春太郎で訳もわからずに焦り始める。
 その時、春太郎の耳にカチャカチャと何かの器具を準備しているような不穏な物音が聞こえた。
 いよいよそのことに危機感を募らせた彼は必死に叫ぶ。
「分かった! 黙る! 黙るからちょっと落ち着こう!!」
「・・・・・・」
 それから少しの沈黙のあと、物音は鳴りやんだ。
 さらに少しの後に花園が弁解を始める。
「すみません。あまり喋ると酸素の消費量が増えて、もう一つの箱との空気中の成分が変化してしまうかもしれないので、ここから先は無言でお願いします。申し訳ありません。もっと早く気付くべきでした。・・・・・・僕のミスです」
 彼はそう言って何か勝手に一人で落ち込んでしまった。
 春太郎は気まずい雰囲気を感じながらも、酸素をあまり消費しないよう小さな声で口を開く。
「でも、こんな何もない箱の中で、無言のまま三時間なんてきつくない?」
「あ、もしかして若草さん、狭いところ苦手ですか?」
少し申し訳なさそうな声音に、春太郎は軽い調子で答える。
「いや、そんなことはないけど」
「じゃあ大丈夫ですね。退屈かもしれませんが頑張ってください」
「・・・・・・」
(そういう問題じゃないだろ!?)
 ───三時間後。
「時間になりました。もう出てきていいですよ」
花園の言葉に、春太郎はやっとかと思いながら出てくる。箱の外に出ると彼は伸びをして体をほぐす。箱の広さそのものは体を伸ばせなくはないくらいにはあるのだが、会話と同様、酸素の消費量を一定に保ちたいという理由で、極力椅子に座って動かないようにという指示が花園から出ていた。
「それじゃあ、五分間の休憩の後に今度は照明無しの方の箱に入ってもらいます。それまで休んでいてください」
「ええっ!? 休憩時間それだけ?」
 解放されたと思っていた春太郎はうなだれる。
 それから五分が経ち、渋々春太郎は暗い箱の中へと入っていった。今度はさっきの状況にさらに暗闇という要素が追加される。
「花園君。喋っちゃいけないのは分かってるんだけどさぁ」
箱の中から聞こえる小さな声に花園は返す。
「何ですか? 短文でお願いします」
「真っ暗闇の中で無言でノーモーションで椅子に座って三時間て、かなりきつくない?」
「あ、もしかして若草さん、暗いところ苦手ですか?」
「・・・・・・いや、そういう訳ではないけど」
「じゃあ大丈夫ですね。つまらないかもしれませんが頑張ってください」
「・・・・・・」
(だからそういう問題じゃないだろってば!!)
 花園君は真面目な人間なのだ。
―――三時間後。
「時間になりました。これで実験は終了です」
 修行のような三時間を乗り切った春太郎は、何かを悟ったような顔つきで箱の中から出てくる。
「お疲れ様です、若草さん」
「ああ、実験を無事に終えられて良かったよ。ありがとう、花園君」
 春太郎は別人のように謎の爽やかな口調で礼を言うと、研究室を出ていった。
 春太郎はあの暗闇の中で何かを悟ったような気がしていた。が、それも数時間後には綺麗サッパリ消し飛んでいた。やはり悟りへの道は遠いようだ(※元々目指していない)。

 この実験も無事良好な結果を出した。それから何度かの似たような実験と、念のための健康診断を繰り返し、春太郎を被検体とした光合成の実験計画はほぼ完遂しつつあった。
 そんなある日、春太郎は再び緑ヶ丘の研究室に呼び出された。
「若草君、よく来てくれたな。かけたまえ」
緑ヶ丘はやってきた春太郎に声をかける。
「失礼します」
そう言いつつ彼は緑ヶ丘の勧める椅子に座る。しかし、あの同意書にサインをした時と同じ、彼の改まった口調。春太郎はそこに何か嫌な予感を感じて少し警戒していた。
「若草君。ここまでの実験の中でようやく、人間に光合成の力を与える技術が完成に近づいている。ここまで本当にご苦労だった」
「ええ、博士ならこれぐらいやるだろうとは思ってましたよ。でも、流石です。こんな技術を本当に実用段階まで持ってくるなんて」
春太郎はさして興奮した風でもなくそう口にする。緑ヶ丘にこれだけの事が出来るのが当然だとでも思っているかのようだ。
「まだ褒めるのは早いぞ。確かにほぼこの技術は完成したといっていい。だが!!」
 緑ヶ丘は威厳を込めた口調で口火を切る。
「まだ、最後の一番大がかりな実験が残っている!! それは光合成によるエネルギーの生産によって、実際に食糧なしで人間が生きていけるかを検証する実験だ! 若草君、それを確かめるために君にはこれから一か月間の間、こちらで用意した研究室で水と空気と光だけで過ごしてもらう」
「な、何を言っているんですか!? そんなの死んじゃいますよ! 光合成がうまく働かなかったり、十分なエネルギーを生産できなかったらどうするんですか?」
焦って返す春太郎に緑ヶ丘は宥めるように言う。
「心配するな。エネルギーが足りなかったら光量の強化を試みるし、うまく光合成遺伝子が働かない時には遺伝子の活性を高める薬品を用意するから問題ない。その他の不測の事態が起きても同様に対処するから、安心して実験を受けてくれ」
「・・・・・・って、どうあっても実験を中断するつもりはないのかよ!? とにかく、俺はそんな実験、同意しませんからね!!」
春太郎は冗談じゃないとばかりに言うが、博士は目の前にある机の中から一枚の紙を取り出して見せる。
「若草君。君の方こそ何を言っているんだ? あの時この用紙に同意のサインをしたじゃないか」
「な!? それはただ遺伝子の組み換え実験の被験体となることを了承するだけの同意書だったはず・・・・・・!?」
博士は紙を裏返して裏面を見せながら言う。
「ここをよく見たまえ」
 春太郎はそこに書かれたその文面を読んで目を見開く。そこにはこう書かれていた。
『私はこの研究に関わる今後の如何なる実験の被験体となることも了承します』
あの時春太郎は、光合成遺伝子を組み入れる実験に同意するかどうかということに気を取られすぎていて、他にも同意事項があったなんて全く思いもよらなかった。
「何ィ!? そんなの詐欺だろ!? 俺は認めないぞこんなの!!」
「ふむ。こんなこともあろうかと、準備は既に済んでいるのだ。君には今日から早速この実験を受けてもらおう」
博士は余裕の表情を崩さない。
春太郎はとりあえず博士から同意書を奪取しようとする。
「出てきたまえ! 田中君、中田君」
博士が名前を呼ぶと、もの影から二人の男が出てきて春太郎を取り押さえる。二人とも春太郎の知るこの研究所の研究員だ。何故か今は黒のスーツにサングラスという格好をしている。
緑ヶ丘は黒服の男たち(田中&中田)に命令する。
「連れていけ」
 春太郎は別の部屋に連れていかれ、緑色の手術衣のようなものを着せられると共に、体調を計測するいくつかの器具が取り付けられる。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        その後は別の五メートル四方ほどの、壁、床、天井の全面が白い部屋に連れていかれた。部屋の一面だけは鉄格子の檻になっている。部屋に入れられるとすぐカギを掛けられ、出ることはできない。
鉄格子の向こう側には二人の黒服(中田&田中)が立っている。さらに遅れて緑ヶ丘がやって来る。その後ろには大勢の研究員達がぞろぞろとついて来ていた。
緑ヶ丘は鉄格子の前まで来ると言い放つ。
「さあ、最後の実験を始めようか」
その言葉と共に鉄格子のある面の上から他の三方と同じ白い壁が降り始める。おそらくその壁が完全に降りきることでこの部屋は全方位真っ白の完全な正方形になるのだろう。
そこで春太郎は、緑ヶ丘の後ろの研究員たちの中に青葉や木枯や花園もいることに気付く。
 春太郎は彼らの存在に希望を託して助けを求める。
「花園君! 助けてくれ!!」
「若草さん、絶対に生きて帰って来てくださいね・・・・・・!!」
花園は目を潤ませてしばしの別れの言葉を告げる。
「ええ!? 俺をここから助け出すって選択肢はないの!?」
時間もないので次は木枯に助けを求める。
「木枯さん!!」
「副所長、『若者は夢を見ろ』です!!」
木枯は自信満々の笑みに親指を立てて返した。
「いやだからそれもう使い所全然違うから!!」
二人に見捨てられ、もう頼みの綱は彼女しかいないとばかりに春太郎は青葉の名を呼ぶ。
「青葉さん!! 助けてください!!」
青葉は春太郎の必死さには全く気付いていない様子で声援を送る。
「若草さん、応援してます!! 頑張ってください♡」
「いや、嬉しいけども・・・・・・!! そんなぁ、青葉さんまで・・・・・・」
 なんかもう涙声になっている春太郎。そしてそうこうしているうちに白い壁は彼らを隔てていく。
 ゴオン!! という音と共に白い壁は降りきった。
 春太郎は項垂れていた。やがて拳を上げると降った壁を思い切り叩く。ガン!! と音がなる。彼はひりひりする手に気を留めない。
「・・・・・・せよ。出せよ!! 俺の家の冷蔵庫の中では『果汁30%ウルトラフレッシュオレンジソーダゼリー』が待っているんだよ!! 明後日で賞味期限が来ちまうんだよおオオオォォ!!」
 春太郎のその叫びの少し後、降りてきた白い壁に設置されていたモニターに、緑ヶ丘の顔が映し出された。
彼は突き放すように告げる。
「そうか。では、その『果汁30%ウルトラフレッシュオレンジソーダゼリー』は、私が美味しく頂いておこう」
それだけを言うと、モニターは春太郎を置き去りにするようにブツッと途切れた。
春太郎はもう一度壁を強く叩きつけて叫ぶ。
「チクショオオオオオオオォォォ!!」
 春太郎の叫びは壁を打ちつける音と共に虚しく研究室に響いた。


ついに始まってしまった最終実験! 閉じ込められてしまった春太郎! 果たして彼はこの研究室から脱出する(or光合成の力によって一か月間生き延びる)ことができるのか!?











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