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CHANGE――そして英雄は少女になる――
アンビシャス


序章 灰を集めし者

 穏やかな陽の光がルーアンに降り注ぐ。大空はあちらこちらに流れる気紛れな白い雲たちを、その青で包み込んでいた。
元はフランスの西部に位置する街ルーアン。しかし、フランスとイギリスの戦争で、現在はイギリスの領土となっている。
 だが、民衆にとってはそんな違いなどどうでもよいのだ。
自分達が平和に暮らせれば、それで良い。
愛しい家族、恋人、友人と共に笑い合って生きていければ、街がどこの国のものになろうと構わない。

フランスのために、自分達の祖国のため、懸命に戦った少女が焼き殺されようとも、それは変わらない。


 東には材木市場と肉市場、西には教会に挟まれたルーアンの中央広場――マルシェ広場。普段は様々な人が各々の目的で行き交っているが、今日は様子が違った。
 市場の壁側に立てられた柱が燃え盛る。その先端には、栗色の髪の少女が鎖に縛られていた。業火は容赦なく少女の柔肌を炙り、純白の命を轟々と笑い交じりに奪おうとしていた。
神の声を騙った魔女の処刑を一目見ようと集まった人々が柱の周りを囲んでいた。時折、炎熱が最前列の人々の顔に熱波をかけるが、人々は意に介さない。
 人々は面白くて仕方がない。
 少女の髪が、藁のように燃え盛る様を見て。
 人々はその面貌に喜色の笑みを浮かべる。
 少女の、白く滑らかな肌が醜くただれていく様を見て。
 人々はその胸に湧き起こる気持ちを抑えきれずに、大声で笑う。
 少女が、魔女が、ジャンヌ・ダルクが恐怖に泣き叫び、苦痛に暴れる様を見て。
「もっと苦しめ! 骨まで焼かれちまえ!」
「ひゃははっははははは‼ もっと燃えろ、もっと見せろ!」
「乳房はあるのか? いや、あるわけねぇよなぁ! だって戦場で男の身なりしてやがったんだからよぉ!」
「女の身で鎧をまとって、髪も切って……あんなのを同じ女と思いたくないわね」
「やったぁあ! 魔女の顔に当たったぞ! お前らも早く投げろよ!」
「見て見て、魔女の歯だよ。さっき口から飛び出てきたの!」
 男は口汚く罵り、女が陰湿にけなす。子供たちは石当てに興じ、激痛に嚙み締めてはじけ飛んだ歯を拾っては、珍しいお土産をもらったかのようにはしゃぐ。
 この場にいる者全員が、ジャンヌを一人の人間として見ていなかった。ジャンヌの尊厳を、心を踏みにじり、その存在を否定する。
 男も、女も、子供も、ルーアンの全ての民衆が目の前の女の無残な死を願っていた。
 罵声と歓声の渦が、火柱を中心に巻き起こる。
「見よっ! 神の声を聞いたと偽り、民を惑わした魔女が焼け落ちる様を!」 
 火柱の対岸に組まれた足場の上で、豪勢な司祭服を纏った中年の男が、喉が張り裂けんばかりの大声を放つ。誰も司祭の方を見ていない。しかし、広場に響き渡ったその声が広場に巻き起こっている渦を巨大にし、人々の理性を飲み込んでいく。
「われらこそ正義なり‼ 聡明にして謙虚な、信心深いルーアンの民よ! その眼に刻みつけろ‼ 魔女の最期を‼」
            
            *

「っっっああああああああああああああっ‼ ひ、ぎぐ、うわぁあああああああああああ‼」
 口の中でボギン、という音がした。少しでも痛みを和らげようと、本能的にこらえ、噛み締めた拍子に歯が砕けたのだ。砕けた下歯は絶叫と共に外界へ吐き出され、上歯は歯茎に食いこむ。歯の破片が口内を傷つけるが、その程度の痛みにいちいち反応していられなかった。
 今も、魔女を滅ぼす正義の炎とやらはジャンヌの表皮を焦がし、溶かす。ドロドロと透明な液体となって溶けた所をさらに焼かれた。
 炎はジャンヌの胸まで纏わりつき、その魔手を彼女の端正な顔の前でちらつかせる。客観的に捉えれば、炎がジャンヌの前で揺らめいているだけの自然現象。なのにそれは、身動きの取れない子供にナイフをまざまざと見せつけ、怯えた表情を目で楽しむような、そんな悪辣さを感じさせた。
(どうして……なんで私がこんな目に遭うの?)
 激痛に支配され、ものを考えることも出来ない筈のジャンヌの頭に言葉が、想いが浮かび上がってくる。
(私は神の声に従っただけなのに、フランスを救いたかっただけなのに!)
人々の罵声が聞こえる。
大人達に「死ね、苦しめ」と言われて、子供達に石礫をぶつけられる。
(こんな風に死ぬなんて思わなかった。またドンレミに――故郷に帰れると思ってた!)
ドンレミで母の裁縫を手伝っていた頃、漠然と未来の自分に思いを馳せていた頃を思い出すジャンヌ。心を寄せた人と結ばれ、家庭を築き、幸せな日々を送る。人間なら、女の子なら誰だって一度は考える、そんな未来。
あったかもしれない、けれど訪れることはもう永遠にない未来。
(今さら……そんなこと考えたって仕方ないのに……………)
「や……ぱ、り……あ、こが……れ、ちゃう、な」
 今際の際に、ジャンヌは自らの人生を悟った。
自分の人生は自らの幸せを捨てて、フランスのために、民の幸せのために費やした人生だったんだと。
(私に、人並みの幸せを望む権利なんて……なかったんだ)
胸元で狙いを定めていた灼熱が、ぼうっと聖女の顔に飛びかかる。
 がくん、と首がうなだれ、体中の力が抜けていく。肉体の感覚が消え、意識が光に呑まれた。
(あぁ……やっと楽にな、れ………………………………)



 西暦一四三一年五月三〇日、ジャンヌ・ダルク死す。享年一九歳。
 その遺体は灰になるまで焼かれ、灰はセーヌ川へ流された。

               *

 声がする。
 誰かがすすり泣く声がする。

 途切れたはずの意識がよみがえり、ジャンヌは瞼を開く。ジャンヌの体は蛍のように儚い光を発しており、視線を落とすと手が透けて見えた。
(ここは……どこ?)
 意識はまだ混濁しているが、前へ前へと流される感覚を味わう。そうして初めてジャンヌはここが深い水の中だということに気付く。
 地上の光すら届かぬ、暗く冷たい世界。いかなる生物も存在しない筈の、死の世界でジャンヌはその声の出処を探す。なぜだかそうしなければならない気がした。その声に応えなければならない気がしたから。すると、目の前を何かが横切った。とても小さなものだった。目に映らない程、小さいそれは淡い光を宿す、一粒の灰だった。
 灰は水流に流され、遠くへ舞っていってしまう。その後を追う者がいた。泣き声が近づいてくる。
「ジャンヌ……ジャンヌ………ジャンヌ」
背に一対の黒い翼を生やした、黒髪の男だった。一枚の布を体に巻き付けた、その男は必死にその一粒の灰に手を伸ばす。掴もうとするも灰は指の間をすり抜ける。長い時間をかけ、やっと灰を手にした男はそれを大切な物の様に、そっと懐にしまった。
「待っていろ、俺が……俺が必ずお前を…………」
 懐には、さっきの灰が山のように入っていた。ちょうどひと一人分の重さほど。
(何だろう、この人の声……どこかで…………)
 聞き覚えのある、その声の主の姿を思い出そうとして、急に意識が真っ白になるジャンヌ。ジャンヌはそれが死であることを知っていた。
「――――――生き返らせてみせる」
 薄れゆく意識の中、男がそう言った気がした。










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