風を感じて
アンビシャス


星ひとつ見えない夜空に蒼白く浮かぶ月。その月に、私は何度目かの悲鳴を投げかけた。  
「嫌だ、嫌だっ、いやだ!」  
体の中が空っぽになるような浮遊感。着実に近づいてくる死への恐怖に耐え切れず、私は思わず涙がこぼれる。流れる端から涙は雫となって、空へと舞い上がった。 
 下界が町の夜景を纏っていた。光の帯が幾重にも張り巡っていて、帯の中には四角い乗り物が走っている。赤、青、黄と様々な色の光が宝石をぶちまけたかの如く、点在していた。そんな町の夜景が、自分の死を告げる存在が目に焼き付く。無駄だと思いながらも背中に力を入れるが……失ったものを動かすことなんて出来るはずがない。
それでも私は、もうこれに縋るしかないんだ!
「出てこい、翼ぁっ!」

 けれど、翼は私の想いに応えなかった。

 そうしている間にも、みるみる地表が迫ってくる。
もうだめ、と全てを諦めかけた私は………勢いよく木に突っ込んでいった。
葉っぱが視界を覆い、あちこちから枝の折れる音がする。てっきり、コンクリートとか何かに叩きつけられるのを想像してた私は、予想外の出来事に頭が混乱していた。体中に痺れるような痛みが走る。枝が体を引っ掻いてるんだ。
多少は落下の勢いが落ちたが、上空一万メートルからの落下だ。勢いは無くならない。死ぬ時間が数秒先延ばしになっただけだ。
それでも、私はこの数秒を無駄にする気は毛頭、なかった。
枝で目が傷つかないように、ぎゅっと目をつむった。そして、やみくもに手を伸ばして、掴まれるところを手探りで探す。
すると手のひらに手応えを感じ、それを必死で掴んだ。
その途端に自身の体重が右腕に、のしかかる。肩が抜けるかと思わんばかりの激痛が襲い、危うく掴んだ手を離しかけそうになった。私は急いでもう片方の手を伸ばし、それに掴まる。
目はさっきの激痛が襲った時には開いていた。だから、私が掴んだそれが太めの木の枝ということに気付いた。
助かった……。ひとまず、私は心の底からホッとした。
さて、と私はため息を一つ落とし、腕に力を込める。いつまでも宙ぶらりんのままじゃあ、落っこちるからね。下を見て分かったが、私のいる位置は結構、上の方で落ちたらきっと死ぬだろう。そう考えると、この木はかなりの大きさだ。巨木と言ってもいいかもしれない。
さっさと枝に乗ろうと、私は懸垂の要領で、枝に胸を引き寄せた。
 が、全く引き寄せられない。ちょっと肘が曲がった位で、私と枝の距離はほとんど縮まらなかった。何度も試したが結果は同じだった。じわり、と手が汗に滲む。
「はぁ、はぁ、そんな……」
私は翼が無かったらこんな事もできないの?
自分のあまりの無力さが許せず、唇を噛んだ。そこから一筋の血が流れる。
今まで速く飛べるというだけで何でもできると思っていた自分が……たまらなく恥ずかしい。
「何で私がこんな目に合わなくちゃいけないのよ」
その拍子に汗で手が滑って危うく落ちそうになる。救いを求めるかのように左手を伸ばした。
「誰か……助けて」
それに答えたのは翼ではなく――大きな手だった。
見上げると白い建物の窓から少年が両手を伸ばして私の左手を掴んでいた。少年の手は無骨で、とても力強かった。その手の温もりに、私は今までにない安堵を感じた。……のも束の間。
「おっらぁああああっっ!」
少年の腕が隆起したと同時に私の体が浮かび上がる。私は釣り上げられた魚のように宙を舞った。「へえっ?」と耳を覆いたくなる程の間抜けな声が出てしまう。
少年は更に、私の手をしっかり握って、両腕を思いっ切り引く。私は少年に引き寄せられ、部屋の中へ投げ込まれた。それで少年の胸の中に飛び込めたら、ロマンチックなのだが生憎、少年はそんなことを考える頭が無かった。ヒラリと上体を反らし、飛んでくる私を避けた。
その際に床に鼻を強くぶつけたことを私は一生、忘れない。
「いったぁ~」と涙声で赤い鼻をさすっていると………
「何なんだ……空から………人が降ってきた」
唖然とした少年の声が後ろから聞こえた。私はきっと目をつり上げながら後ろを向いた。
「ちょっとあんたねぇ引上げるのにもやり方ってもんが……」
振り返って文句の一つでも続けて言ってやろうと思った。だけど、少年の姿を見た瞬間、そんな気持ちも全部吹き飛んだ。
少年は未だに目の前の現実についていけずに、ポカンと口を開けている。
 でもそれはこっちだって同じだ。
 少年は、黒い無地のズボンに灰色のパジャマという組み合わせで、パジャマの腕の所だけはズボンと同じ黒だった。
しかし問題はそこじゃない―――右足だ。
普通なら右足が通っているであろうその空間に、銀色に光る棒が伸びていた。私はそれが義足だと気付くのに少し時間がかかった。
少年は紛い物の足で器用に体重を支えている。その顔には戸惑いの表情が張り付けていた。
「あー……お前、誰だ?」
     *
「はぁ、天使? お前が?」
明ら様に訝しむ少年に軽い苛立ちが募のる。
「そうよ。二度も同じこと言わせんじゃないわよ。」
私のつっけんどんな物言いに怒りもせずに、少年は天井を仰ぎ……盛大に吹き出した。
「あんた私のことバカにしてんでしょう!」
私はベットに座っている晴彦の胸ぐらを掴んだ。もちろん右の拳は固く握り絞めている。
「待て待て、暴力反対!」
少年は慌てて、降参と言わんばかりに両手を上げる。そのくせ、顔には笑みを浮かべていた。
「いやー、でもせめてどこの病室から逃げてきたかは教えてくれない?」
「私は病人じゃないわよっ!」
「あーじゃあ……そうだ! 名前教えてくれよ! 俺は雲井晴彦っていうんだ。」
誰が名乗ってやるもんか。そう思って真正面から晴彦を睨む。それがいけなかった。
晴彦の澄んだ目を見てしまった。無邪気な光を湛えたそれはまるで宝石の様に輝いていた。 
苛立ちが急に萎えていき、掴んでいた手をパっと離す。
「……シエル。」 
名乗るなり私はそっぽを向いた。考えてみれば男と話したの、これが初めてじゃん。
そう思うと急に照れくさくなって、頬が少しだけ赤く染まった。
「シエルか……良い名前だなっ。意味はあるのか?」
「へっ? いっ、意味?」
「そう。親がこんな子に育ってくれ、みたいなの」
「……えーと、確かフランス語で『大空』よ」
「『大空』……か。良いなぁ、なんかお前にぴったりだなっ。いいなぁ」
 いや全然。と心の中で私は首を横に振った。もし、本当にその名前の通りになっていたら、私はこんな所にはいないわよ。
「それで? あんたの名前にも意味あるんでしょ? 私にばっかりに喋らせるんじゃないわよ」
 すると、晴彦はあからさまに落ち込んだ様子を見せた。晴彦の急な変化にギョッとする。
晴彦は言いずらそうに、目を伏せながら答えた。
「母さんが付けたんだけどさ……意味は特に無くて………強いて言えば、呼びやすいからって」
「…………………」
 深夜の病室内に微妙な沈黙が生れた。どうしよう、なんも言えない! 先に答えちゃったから、上手くフォローできないし! それでも何とか慰めようと無理矢理、言葉を吐きだす。
「あの、き、気にすることはな……」
「まぁ名前に関しては何も言えないけどよぉ、今までやって来た事なら腐るほど語れるからさ、
聞いて行けよっ」
それから晴彦は頼んでもないのに自分の過去を語った。一年前、トラックに轢かれそうになった少女を助けた事。目が覚めると右足が切断されていた事。右足がある頃は陸上をやっていてそこそこ速かった事。
「……て言う訳だ。で、お前は?」
「え?」
まさかここでいきなり話を振られると思わなかった。大体、質問の意味が分からない。
「お前は? って……どういう意味よ?」
「えっ、いや飛び降りをやろうとした位だから、よっぽどの事があったのかなって」
「よくそんな事を気軽に聞けるわね。それに私、飛び降りじゃないし」
「じゃあなんでこんなとこにいるんだ?」
「なんであんた如きにそんな事話す必要があんのよ」
「如きってひでぇなぁー。良いじゃんかよ、吐き出した方が楽になれるぜ」
そうやって言い切る晴彦の顔は笑っていた。その笑顔を見た途端、胸の辺りがギュッと苦しくなる。
―なんでそんなに笑っていられるの? ……もう自分の好きな事ができないのに。
言おうかどうか迷ったけど結局、私は話すことにした。どうせ信じないだろうし。
「天使にも役割ってのがあってさ、私は天界のあちこちで起こるいざこざや情報を主に伝える役割なんだけど……うちの主はちょっと変わっててね。一年に一度、飛ぶ速さを競わせるの。
それの結果によって天使の階級が決まるの。私はずっと一番だった。けど……」
瞬間、頭の中であの光景が蘇った。唇を噛んで、湧き上がる屈辱に耐える。
私の自慢の翼っ……! 
呑み込んだその言葉が頭に重くのしかかり、胸を苦しくさせた。
「……悪い。無責任なこと言っちまったな」
晴彦は先程の様に馬鹿にせずに謝った。
しばらくの間、晴彦は何も喋らなかった。それが逆に私にとってはありがたかった。もしかしたら、私は誰かにこの事を吐きだしたかったのかもしれない。
長い沈黙の後、晴彦は、
「そういや、お前これからどうするんだ?」
至極真っ当な問いに拍子抜けしながらも私はこう答えた。
「行くあてもないし、ここにいるわ」
「飯とかどうするんだ?後、他の人には何て言えばいい?」
「天使には食事も睡眠も必要ないから」
「あぁ……そういう設定なのね。お前の頭の中では」
「本気でぶつわよ、あんた。……まぁ他の人には彼女とか適当に誤魔化してよ」
「ぶはははははっ!」
「何がおかしい」と凄むと、晴彦はピタリと黙りこくった。
         *
病室の窓に陽の光が差し込む。私は窓際で頬杖をついていた。後ろではへそを出して寝ている晴彦のいびきがよく響く。
私は何も考えずに、ただ空を眺めていた。時が経つのも気にしなかった。
私はもう、飛べないんだ。
この事実をひたすら頭の中で反芻していた。
ゆっくりと、一晩かけて。
また飛べるかもしれない、なんてそんな叶いもしない希望を持って何になるのよ? 
―ただ惨めなだけだ。
その時、そよ風が私の頬を撫でた。
「……違う。」
私が欲しいのは、私が感じたい風は―――― 
「これじゃ……ないっ!」
いつの間にかワンピースの裾を握りしめていた。
それに気が付くと私は「ハッ」と自分の甘さを吐き捨てた。
「何よ……全然諦めきれてないじゃない」
本当に、自分の情けなさには反吐が出る。頬を伝う雫が陽の光を一杯に吸い込んでいた。ベッドが軋む音がすぐ後ろで聞こえる。心臓がひとつ、強く鳴った。
やばっ、見られた?
すぐさま目を拭い、勢い良く振り向く。すると、そこにはのん気にあくびをする晴彦がこれまたのっそりと体を起こしていた。がくっと体の力が抜ける。
「……おはよう」
呆れたという風に肩を竦めて話しかける。そしたら晴彦は目を丸くして固まってしまった。
「な、何よ?」
「あぁー……あれ夢じゃなかったのか」
「悪かったわね。夢じゃなくて」
嫌味たっぷりに言ってやると、晴彦は困ったように「アハハハ」と笑った。
コンコン、と小気味の良いノックがした。
「はぁ―――いっ!」
晴彦が声を張り上げると、扉の向こうから返事が返ってくる。
「雲井君。朝の回診です」
あっ、これ隠れた方が良いな。そう判断した私は目の前で手をかざした。そうすると、私の姿が顔から足にかけて徐々に見えなくなっていく。扉が開くころには私の姿はすっかり消えていた。
「やぁ、おはよう雲井君。調子どう?」
「おはようございます。はい、ばっちりです」
そう言う晴彦の言葉はどこか上の空だった。しきりに辺りを見回して、私を探している。
昨日は散々、馬鹿にされたからね。これでちょっとは私のこと信じるでしょ。
「明日は大会だからね。気分が悪くなったらすぐに言いなさい」
「はい。今度こそ優勝して見せますよ」
晴彦の目に闘志が宿っていた。それを見て私は首を傾げた。
大会? 優勝? どういうこと? だってあいつはもう走れないんじゃ……
「はははっ、楽しみにしてるよ」
医師の言葉はただ患者の話に合わせるそれではなく、本気で晴彦を応援していた。
医師が病室を後にすると、私はもう一度手をかざして姿を現した。
「ねぇっ、大会って何のこと? あんた走れなくなったんじゃないの?」
後ろからいきなり声をかけたせいか晴彦は大げさな程、驚いた。
「うわっ! びっくりした! あれ、お前いつ戻ってきたんだ?」
ばれない様にどこかに行ったと勘違いしてたらしいが、そんなことはどうでもいい。
「聞いてることに答えなさいよ! 何の大会に出るのよ!」
「車イスレースだよ。知らねぇ?手で車輪回して進むやつっ」
車イス……レース? 車イスって。私はベッドの左横に折り畳まれている。
「あれで走るの?」
きょとんとしながらも、左横の車イスに指を向ける。私にはどうしてもあれがレースができる程のスピードが出るとは思えなかった。その考えは正しかったらしく、証拠に晴彦が呆れた様にため息をついた。あれっ、こいつに呆れられるとかなりむかつく。
「んなわけねぇだろ~。ちゃんとレース専用のやつで走るんだよ」
晴彦は車イスとは反対側にある棚から黒い何かを取り出した。
「ほれ。こいつ付けて回すんだよ。」
それは、黒いグローブだった。厚い革で出来ており、指を通す所は三つで親指を除いて二本ずつ中で隣り合う様になっていた。手の甲から平まで更に分厚そうな灰色の革が巻かれている。
不思議なグローブだけど、私が特に気になったのは灰色の革だった。
「この灰色の革はどうして付いているのよ?」
「ばっか、それ無かったら手の皮剥けるだろーがよ!」
当たり前のことを聞くなといった晴彦の表情を見て、キッと目が吊り上がった。
「そんなの知らないわよバカッ!」
私は晴彦の手からグローブをひったくった。驚く晴彦をよそに私はグローブを舐める様にして見た。確かに、よく見るとグローブはほつれや継ぎはぎが多かった。私は、晴彦に引き上げてもらった時の、あの手の感触を思い出した。
「だからあんたの手、あんなにゴツゴツしてたのね」
入院生活の中、どうしてああも手が傷だらけなのか。これで納得がいった。
照れくさそうに頭を掻く晴彦に冷や水を浴びせる。
「別に褒めてないんだけど」
「えっ、そうなの?」
一瞬、顔を強張らせる晴彦だったが、すぐに「まぁ、良いか」と立ち直った。
……ちょっとは凹めよ。軽く舌打ちしたい気分だ。どうやら、さっきの晴彦の態度が自分の中ではかなり腹が立っていたようだ。
「まぁ良いかって何よ?」
「いやぁ、お前に褒めるつもりが無くてもそれはレーサーにとって最高の褒め言葉だからさ。まぁ良いかな―って!」
「褒め言葉なのそれ?」
手がゴツゴツしてる、って言葉が? 私にはどうもピンとこなかった。
「あぁ、相当な練習を積まなきゃそんな事言われないからさ……ありがとよっ!」
誇らしさと気恥ずかしさが混じった、子供の様な笑顔を浮かべる晴彦。
その笑みを見た途端、心の中にあった僅かなモヤモヤが急速に膨らんでいった。
あぁ、そうか。
――羨ましいのか私は、こいつが羨ましいのか。
私と同じで、かけがえのないものを失ったのにこんな風に笑えるこいつが……
だからこんなに……気分が晴れないんだ。
当の晴彦はというと私の気も知らず、意気揚々とレースの事を語っていた。
「手で回すとこをハンドリムって言うんだけどさ、こいつって握って回すんじゃなくてこう……親指の間に押し付けて回すんだよっ!」
「押し付けて回す? どういうこと?」
車イスを動かすには車輪を掴んで回すイメージがあるがどうにも晴彦が言うには違うらしい。
頭のなかで出来てるイメージを上手く言葉に表せなくて悔しがる晴彦。
「いやだからよぉ、ギュッ、グッ、ドンッ! ……って感じなんだよ!」
身振り手振りで懸命に説明してくれるがさっぱり分からない。けど、その一生懸命な姿が面白くて……羨ましくて……心が温かくなる。
「ぷっ……フフフ、ハハハハハッ」
変なの、気分は晴れないのに奥底の方では晴彦に対して安らぎを覚えてるんだから。
下界に落とされてから初めて私は……笑えた気がする。
「あ―――っ! お前、俺の事、馬鹿にしてるだろっ!」
「ちがっ、違うって! 馬鹿にしてないからさ、もっと詳しく聞かせてよ」
「おうよっ! こうなったらとことん語らせてもらうぜ」
それから私と晴彦は語り通した。と言ってもほとんど晴彦の独壇場だったけど。時間は正午を過ぎ、病室の外が少し騒がしくなる。面会時間になって病院全体に和やかな雰囲気が流れた。
コンコン、と本日二度目のノックがされた。不思議と私はしかめ面で扉を睨み付けた。
「雲井さん? 私です、鈴野です。」
良く言えば可愛い、悪く言えば甘ったるい声だった。だが晴彦は何ら抵抗なく
「おぉ―――結か! 早く入れよっ」
私は声を潜めて「誰よ?」と聞いた。彼の答えは実にあっけなかった。
「昨日話した子だよ」
事故で助けたっていう子か。姿を消そうかと思ったが、止めた。
ここで退いたら駄目な様な気がした。
スライド式の扉から笑顔で出てきた結はポニーテールにピンクの生地に黄緑色の文字の刺繍が施されたTシャツと紺色の短パンといった格好だった。肩には青のスポーツバッグをかけている。
私の方を見て一瞬、顔を強張らせるがすぐにまた笑顔に戻った。
明るくて人懐っこそうな笑みを浮かべる、男子にモテそうな女の子だった。
天界の方にもこんな感じの奴いたわね――……なんだろ、何か気に食わない。
「お久しぶりです~雲井さん!」と駆け寄る結。
「おっす。久し振りだなぁ~。受験勉強どうよ? ちゃんと勉強してるか?」
「バッチシですっ。春になったら後輩ですからよろしくお願いしますね?」
結は可愛らしく、首を少し傾けた。可愛い子ぶるな、と内心で毒づく。
「う~ん、でもその時は今度は俺が受験だからなぁ。校内案内もできねぇや」
「えぇ~タイミング悪いな―あははっ……こちらの方は?」
はっ!何が「こちらの方は」よっ! さっき私を見て驚いてたくせにっ!!
それよりも私は晴彦が上手く私の正体を誤魔化せるのかが不安だった。晴彦のおかげで下界の人間に馬鹿正直なことを言うと面倒なことになるのが分かったからだ。
私は「しっかり誤魔化せよ」という意味を込めて晴彦を睨む。私の眼光に気付いたのか晴彦はビクリと肩を震わせた。
「あぁ……えーとだな、こいつは………」
晴彦は頭の中が真っ白といった感じで目が泳いでいる。
あっ、これ駄目だわ。
私が晴彦に誤魔化せることを諦めている間、結はじぃっと晴彦を見つめる。一点の曇りの無い、きれいな瞳はまるでこちらの心を見透かしているようだった。
「お……俺の、親父の、弟の……娘?」
私は深い、そりゃもう深い溜息をつきましたよ。やっと沈黙を破ったらこの始末。
相手に聞いてどうするのよっ! 馬鹿なのっ?
「つまりぃ……従妹さんですか?」
「そう。それでした。」
教えてもらってんじゃないわよっ!従妹の意味をっ!
掴みかかりたい衝動を必死に抑えていると、結が私の方にはにかんだ。
「雲井さんの従妹さんですか! 失礼しました。私、鈴野結って言います!」
と言ってペコリとお辞儀をする結。ここで私は少なからず驚いた。
てっきり礼儀を知らない性悪なぶりっ子かと思ってたけど、違ったようだ。そもそも、礼儀を知らないのならお見舞いになんて来ないだろうし。
それに……さっきのお辞儀の仕方、かわいい! 
 さっきよりは結に好感的になった私は手を差し伸べた。
「あっ、私は……」
「そうそう雲井さん!」
差し出した手をさらりとかわして、結は晴彦の方に振り向いた。
頭が真っ白になる。……今、明らかに無視したわよね。あれ? 
固まる私を気にもせず、二人は楽しそうに会話をしていた。
「この間、すごく嬉しいことがあったんですよっ!」
「へぇー何々?」
胸の内から沸々とした怒りが湧き上がってくる。その様子はマグマが流れ出るそれと似ていた。馬鹿だった……!ちょっとでもあの子が可愛く思えた私が馬鹿だったっ!
「二百メートルの地区予選で優勝したんです!雲井さんのアドバイスのおかげです!」
その時だ。
反射的に口を衝いて言ってしまった。

「自分のせいで、足を失くした人に、よくそんな、無神経なこと言えるわね」

「………っ!」
声は小さくも大きくもなかったのに、やけによく聞こえた。
結の目が大きく見開かれる。
結が勢い良く手を振り上げる。
私はぎゅっと目を瞑って咄嗟に身構えた。
「……………?」
いつまで経っても平手が来なくて、おそるおそる目を開けた。
――晴彦が右手で結を制してた。
結の手は振り上げた所で止まっている。
「結……手ぇ降ろせ」
晴彦はまるで子供に言い聞かせるように優しく語りかける。
結が気まずそうに手を降ろす。晴彦は口一杯に開けて笑った。
「悪いな、こいつちょっときつい奴でさ。気にしないでやってくれ」
「そんで……」と晴彦が私を正面から見つめた。
「結にこういう話をして良いって言ったのは俺なんだ。責任取るとか何とかでこいつから陸上を奪いたくねぇんだ。俺が走れないからこそ、結には思いっきり走ってもらいてぇしさ。
俺は大丈夫だよ!何たって前よりも遙かにすげぇ風を感じられっからさ」
晴彦はニタッとやんちゃな微笑みを見せた。
前よりも……凄い………風?
「そうだっ、お前さ明日の車イスレース見に来いよ!」
「……………えっ?」
呆然とする私に構わず晴彦は話を続ける。
「せっかくこっちにきたんだからさっ!なぁ、見に来いよ!」
「……………」
晴彦が夢中で語ってた、そして風を感じるという言葉が私は頷かせた。
「そっか! 絶対見に来いよ! ……あぁ、そうだ」
閃いたと言わんばかりにポンと手をつく。何事かと私は首を傾げた。
するとこいつはよりによってとんでもない提案をした。
「結、こいつに道案内してくれね―か?」
一瞬、結の顔が笑顔のまま、凍った様に固まる。そういう私も顔が固まるのを感じた。
「…………え?」
唖然として晴彦と私を交互に見る結。
「だってこいつじゃあ一人でレース来れないだろ? 頼む!」
と言って結に手を合わせて懇願した。
うそでしょ、こいつ! 何でよりによって私達をくっつけるのよっ? 気まずいわっ!
それに……。私は結の方に目をやった。結の顔には先程の笑みは消え失せており、頬が引き
つっている。結だって私と一緒に行くのは嫌に違いがなかった。
多分この子は断るだろう。そりゃそうよ。さっきあんなこと言っちゃったんだから。
言いたいことははっきり言いそうな子だし。
そう思ったのも束の間……
「はっ、はい……了解しました」
私の予想は裏切られた。
何で何で何で何で何でっ? そんな所で変な気を遣わないでよぉっ! 恩人だから? 恩人の頼みだから引き受けちゃったの?
しかし事態は更に悪い方へ進んでいく。
「私が、この人に五十メートル走で負けたらですけどねっ」
な・に・いっ・て・る・の・こ・い・つ?
「え、何で急に賭け勝負吹っかけてるんだ? それにこいつ多分、素人だぞ?」
「そっ……そうよ! 何でいきなり勝負することになるのよ、意味分かんない!」
「陸上なんて走るのが速いか遅いかの競技です。素人とかそんなの関係ないですよ」
「ちょっとあんた! さっきから言ってることめちゃくちゃ……」
 と結に文句をつけようとしたら、晴彦が横槍を入れてきた。
「確かにそうだな。素人もクソもないか」
 ―――なんっであんたが加勢するのよぉぉぉっ!
 そんな叫びも虚しく、結がパチンと手を鳴らした。
「はいっ、じゃあ決まり! 早くいきましょう!」
「競技場かぁ~。懐かしいな~」
 と二人は外に出る準備をしながら、競技場という場所に思いを馳せる。が、私からしたら冗談じゃなかった。
 何でこんなことになったんだっけ。私は記憶をさかのぼった。そして、あることに気付く。……いや、まてよ? 結が負けたら私の案内役になる。ということは、私がわざと負けたら、二人きりにならなくて済むじゃない! 結に負けるのは癪だけど仕方ない。思わぬ打開策を見出し、心なしか頬がにやける。

「わざと負けられる程、器用な奴には見えないけどな」
 はっとして振り返ると、車イスに乗った晴彦がまっすぐに私の目を見つめていた。
「なっ………!」
 晴彦の思いがけない言葉に、私は息を飲む。
 なんで分かったの?
 そう続けようとしたら、結が笑顔で晴彦の後ろに立った。
「せーんぱいっ、私が押します」
「えっ、良いよ。別に」
「駄目です! もうすぐレースなんですから、余計なことに体力使っちゃいけません」
「……じゃあ、おねがいしますわ」
 少し考えてから、晴彦はニッと結に笑いかける。
「あっ…………」
 私は晴彦に手を伸ばすが、結が車イスをターンさせてしまった。ターンする際、結は意味ありげの視線を私に送った。――口元に勝ち誇ったような笑みを浮かべて。
「……なんなの、あいつら?」
 病室に一人残された私は困惑気味に首を傾げた。そして、慌てて二人の後を追った。
                *
 病院の前にあるバスに揺られて十五分ほどの所にその競技場はあった。
 オレンジ色のゴムでできたコースがぐるりと楕円を描いている。円の中は芝生だが、砲丸投げや走り幅跳びをするスペースにはむき出しの地面が顔を覗かせている。
「ここが競技場なの?」
 私が聞くと晴彦は「そうだ」と答える。その横顔はとても穏やかな表情に包まれていた。
「やっぱり懐かしいですか?」
 結が首を傾げながら晴彦の様子は伺う。だから、可愛い子ぶるなっての。
「ああ…………。それよりも、お前らスパイクつけて走るのか?」
「スパイク?」
 聞き覚えの無い言葉を私が繰り返すと、結が実物をスポーツバッグから取り出した。
「これがスパイクです。私、二足持ってますから一つ貸します」
 私の、スパイクに対する第一印象は『軽そう』だった。
 結が取り出したスパイクはピンクと水色の二足だ。水色の方は、靴紐も含め全て水色一色で側面には白い線が横と縦に二本ずつ走っている。ピンクのスパイクはかかとの部分は黒く、履き口からつま先にかけてピンクの生地に彩られている。
「ちょっと待ってください。今、ピン替えます。ここのコース、ゴムだから………」
 結が二つのスパイクを裏返す。私は思わず「わっ!」と声を上げた。金属の棘がギラリと光っていた。これがピンという物なのだろう。
「へぇー、これがピンか………」
 初めて見たスパイクとピンに興味深々な私は不用意にも手を伸ばしてしまう。
「あっ、触っちゃだめっ!」
「えっ………っ!」
 鋭い痛みが指に走る。ピンが指に刺さってしまったんだ。指先が熱い。見ると、血が一筋、流れていた。
「いったぁーー……」
「ちょっ……大丈夫ですかっ?」
 結が心配そうに声をかける。私は無理に笑って誤魔化そうとした。
「あぁ……ごめん。私は大丈夫だから。舐めときゃ直るっしょ」
「舐めたら細菌だかなんか入って腹こわすぞ」
 晴彦が呆れた様子で私の前に来る。
「ほれ、傷見せてみ?」
「えっ……いや、ほんとに大した傷じゃあ………」
「いいから!」
 そう強く言われて、私はおずおずと右の人さし指を晴彦に見せる。晴彦がポケットから絆創膏を取り出すと、ガシッと私の手を強く握った。気遣いとかそんなのは一切感じられず、たまらずに「いっ!」と小さな悲鳴を上げる。
 こっ、こいつ~~! ちょっとは優しく握るとかできないの? 思い出してみれば、枝から引っ張り上げた時もそうだ。こいつは基本、大雑把で粗っぽくて本っ当にふざけた奴で………あれ、と私はふとある事に気付く。
心中で悪態をつけばつく程、晴彦の手が温かく感じる。
そして、きゅっと音を立てて胸が強く締め付けられるんだ。
「へへへ、ガキの頃から擦り傷とかしょっちゅう作っててよ。親にいっつもこれ持って行かされてたんだ」
 私の指に絆創膏を貼ると、晴彦はやんちゃそうな笑みを浮かべる。―胸を締め付ける力が強まる。
「あっ、ありがと……ブッ!」
 ボフンと結に何かを顔面に投げつけられる。驚いて投げつけられた物を見ると、それはユニフォームだった。
「すみませーん! つい手元が狂っちゃいました~」
 わざとらしい声を出しながら、結が私の方に近づいてくる。
「いきなり何すんのよっ、あんた!」
 怒りに任せて結を怒鳴りつける。が、結は全く気にしてないといった体で微笑みを絶やさない。
「おぉ、ユニフォーム着て走るの? 気合入ってんな~。あれ? じゃあ結はその服で走るのか?」と結のピンク色のシャツに指を向けた。
「ええ、これでも充分走りやすいですし」
「あー、お前の服、確かに露出してるとこ多いもんなー」
 ―殴った。私が。
「いってなぁっ! なんでお前が殴るんだよ!」
「うるさいっ!」
 それだけ言うと私はユニフォームだけ持ってさっさとその場を離れた。
 なによっ! ちゃっかりそんな所見て、デレデレしちゃってさっ!
「どこに行くんですかあぁー! 着替えるんだったら、そこの角を右に曲がったところにトイレありますからその中できがえてくださーーいっ!」
 背中越しに結の大声が聞こえたが、私は振り向かずに角を右に曲がった。
                *
 流れてくる水を両手で掬い、思いっきり顔をにぶつける。水の温度が目に沁み込み、冷たい感覚が目から背筋へと広がっていった。ブルッと身震いした後に、ユニフォームで顔に着いた水をふき取る。
「どうしちゃったんだろう、私……………」
 小さく溜息をつくと、先程の、自分の言葉が頭をよぎる。
『うるさいっ!』
 なんで私、あんなにむかついたんだろう? それに……と右手の人差し指を撫でる。
 あの胸の締め付けは何だったんだろう? まさか下界の病気か何か? でも今はなんともないし………
 様々な考えが浮かんだがどれも私を納得させるものではなかった。そうこうしてる内にトイレのドアが渇いた音を鳴らした。ドアの方を見ると入って来たのは結だった。
「……なにしに来たのよ?」
 自然と眉が吊り上がり、瞳孔が細くなる。結は微笑みながら
「そんな顔しないで下さいよ。雲井先輩に言われて来ただけですし」
「晴彦が?」
 その瞬間、結の目がスッと細くなり、微笑みが若干崩れた。
 まただ。
 結のこの眼光には覚えがある。晴彦に絆創膏を貼って貰った時に感じたものと同じだ。
「……似合ってますね、ユニフォーム姿。それが似合う人って中々いませんよ」
「そう?」
 私は自分の体に視線を落とす。白いノースリーブに、足の付け根まで見えそうなほど短く青い短パン。確かに、着たときは私も「走りやすそうだな」って思った。
 でもファッションとしてはどうなんだろう? 喜んでいいのかな?
「足は細いし、肌も真っ白ですね。羨ましい」
「えっ、そ……そうかな?」
 ちょっとちょっと、いきなり褒めてきたわね。突然、結の態度が変わってなんだかむずがゆい気分になってくる私。
「き……急にそんな褒められても困るっていうか………」
「いや、でもほんっとによく似合ってますよ。やっぱり……胸が無いからそんなににあうんですかね? いや、心配もしてたんですよ。それ、私が小六の時に着てたやつだからバスト合うのかなぁ、って! 良かった良かった。じゃあ競技場で待ってまーす!」
 それだけ言うと、結はぴゅうっとトイレから出て行った。
 静寂がトイレを支配する。
「ふっ……ふふふふふ」
 笑いが込み上げてくる。くっくっと肩が揺れ、頭に血管が浮き上がる。
 ―決めた。
 もう明日、あいつと二人きりでもいいや。
 ただ、たとえどんな手を使ってでも……………
「あいつを絶対にぶち抜いてやるっ!」
                 *
「俺が位置についてよーいどん、って言い終わったら走るんだ。それより早く走り出したらフライングっていう反則になるから。分かったか?」
「分かった」
 私は水色のスパイクの靴紐をしっかり結びつける。二足の内、私は水色のスパイクを選んだ。
理由とはなんとなくだけど、もしかしたら水色が空の色に似てるからかもしれない。
「準備できました?」
 結は既にスタート地点にいて、私を待っている。
「出来たわ」
 そう言えば、私、走るの初めてだ。スタート地点に向かう途中、ふと思った。
 空では歩くか飛ぶかだし、下界に落ちても歩くばかりで走ったことは無い。そもそもここに来てからまだ二日しか経ってないんだ。
スタート地点に着くと私は屈伸をしたり、体をほぐした。結は何もせずに、じっとゴールだけを見つめていた。
「よ~し、位置についてぇえーー」
 私は上半身だけ前のめりにし、右足を前に出して体を支える。
「ようい………」 
 視界の端で何かが動いた。ちらっと見ると―――結が見た事のない体勢を取っていた。
 両手の指を地面につけ、足の位置は四十センチ程、指から離れていた。左足の膝を立て、右足の膝を地面につけている。
「ちょっ、何そのたいせ………」
「どんっ!」
 ――結が消えた。
 姿勢を低く維持したまま、加速していた。やがて姿勢を起こし、足の回転数を上げていく。
 やばいっ、完全に出遅れたっ! 
 このままじゃ……負ける!
 一歩目が―――コースに振り下ろされた。
 ピンがコースに突き刺さる。
前へと進む力が足の指の付け根に集まる。
 足のバネが上へと跳ね上がり、そこにピンによる推進力が加わった。
「あああああああっ!」
 結の背中がみるみる近づいてくる。
 いや、違う。
 私が、結に近づいてるんだ。
「ゴォォォール!」
 晴彦の声が真っ白な世界の中でよく響いた。
             *
「はあっ、はあっ、はあっ………」
 空が見える。青色だ。それ以外は全て真っ白だ。
 息が苦しい。心臓は破裂しそうだ。足は生まれたての小鹿みたいにガクガク震えている。
 結が私の顔を覗き込んだ。
「……反則ですよ。速すぎです。五十メートル四秒ってもうプロレベルじゃないですか……」
「えと……つまり、どういうこと?」
 頭がまともに働かず、結の言わんとしてる事は伝わらなかった。
「『私に勝った』って事ですよ」
 その後に「嫌味ですか、全く」と続ける結。不満そうに頬を膨らましている。
「起き上がれるか?」
 と晴彦が私に手を伸ばした。私はその手に掴まって何とか立ち上がると、小さな声で勝利を確かめる。
「勝った……私が………勝ったっ!」
 グッと拳を握りしめ、勝利の快感で胸がいっぱいになっていく。
 結は膨らました頬から空気を抜いて、大きなため息をついた。
「仕方ないですねー。言いだしっぺは私だし。あ、でも迷子になんてならないでくださいね? わたしが面倒になんで」
そう言って結は無理矢理、私の手を取って握手する。途端、手に込める力が強くなる結。
「はっ……ははは。よろしくお願いしますぅ~」
私も負けじと力を込めて握り返す。この後、晴彦に「お前らいつまで握手してるんだ?」と言われるまでずっと私達は手を離さなかった。
              *
六月下旬の、肌に纏わりつく様な湿気が私を不快にさせる。それに加え今日は雲一つない快晴。
太陽の日差しが休むことなく降り注ぎ、熱気を生み出す。
横で喋っている結にいたってはじんわりと額に汗を浮かべてさえいる。
「暑っ~~い! すっごいジメジメしてますよね~今日」
「……そうねぇ」
「………さっきから思ってたんですけど……全く汗かいてませんね」
「あぁ……代謝が人より悪いの」
確かに暑いし、湿気は気持ち悪いけどただそう感じるだけで汗はかかない。天使は姿は人間に似てるが睡眠も食事も要らないなど人間とは明らかに違う。
主が言うには「争いを起こす原因を最小限に減らされた作りをしているのが天使であり、また神である」らしい。
だから咄嗟に嘘をついて誤魔化した。私を見習いなさいよ、晴彦のやつ!
「へぇ~そうなんですか。じゃあ人より太りやすいって事ですねぇ~」
ぐっ、と出かけた拳を引っ込める。思わず殴ってしまうところだった。
「あっ……はははははは。そういう事になるかな?」
あくまで笑顔のまま皮肉を言い放つ結に負けじと私は微笑んだ。頬がひくついていたかと聞かれるとあまり自信が無かったが。
この子は故意に言ってるのかしら?それとも天然? 私は僅かの間に考えたが……おそらく後者でしょ。………いや後者と思いたい。
「あの~実はもう一つ聞きたいことあるんですけど……」
「うん、なに?」
とにもかくにも、もうこの子はこういうやつなんだと達観するしかない。それにしても、次から次へとよくこんなに話題をふれるわね。さっきからずっとしゃべってるけど、本当にこの道でいいのかなぁ?
私はその事は言わずに結の質問に耳を傾ける。
「あなたのお名前って………?」
あの時、無視しておいて何いってんのよ、こいつ! ……………まぁ、別に名乗って損も何も無いか。私は答えようと口を開きかけた。
「私は…………」
サァッ―――――――

清風が六月の湿気をかき消す。
風はしばらく私の白のワンピースや、ショートの髪をたなびかせた。
私は空を仰いで、しばらくそのままの格好で時を過ごす。
晴彦と初めて会ってお互いに名乗った時の事が脳裏に蘇る。
「あ……あの?」
静寂に耐え切れず、結がと戸惑いながらも話しかけようとした。
ニタッと結にやんちゃな笑みを見せつけた。
「教えない」
「えっ……えぇ――――!ちょっと何でですかぁ~~教えてくださいよ~。」
「おっしえなーーーーーい!」
「ちぇ~~……てっきり雲井さんみたいに嘘つくの下手な人かと思ってたのに」
「女の嘘はね、堂々とつくからばれないのよっ! あいつと一緒にしないでよ」
と自信満々な笑みを浮かべた私の言葉を聞き、結は口を開けて笑った。
「確かに。あの人って嘘つくとおどおどするから」
結の顔がパッと笑顔に変わると今度は、
「答えてくれないんだったらじゃあ………あなたって晴彦さんの従妹じゃないですよね?」
私は胸の内で深く唸ってしまう。
「……やっぱりばれた?」
「えぇ、バレバレです」
と満面の笑みで言い切る結。私はもう諦めて笑うしかなかった。
「まぁーそうよねぇ………あれでばれない訳ないか」
「はい。となるとあなたは雲井さんとどこで知り合ったんですか?」
……実は私は翼を取られた天使で天界から落っことされたんだけどたまたま落ちた所が病院の木の上。しかも晴彦の病室に近いところに生えてる枝に引っかかってねぇ~。それであいつに助けられたの~~~。

―うん。無理! 言えない!
あからさまに笑われる方がまだマシだ。結の場合、何も言わずに、冷たい目をして黙って去っていくだろう。
さて、どうやってこの場を切り抜けよう? しばし物思いにふけり……良い筋書きを思いついた。
「晴彦とは本当は幼馴染でね、小さい頃はよく一緒に遊んでたんだぁ」
うわぁ、よくもまぁこんなでまかせが一瞬で出ること。ばれてないわよね?
不安になって、結の反応を見たくなるのを堪える。
「でもある日、親の仕事の都合で京都に引っ越すことになったの。そのこと言ったらあいつ、何て言ったと思う?」
何て言ったんだろうねぇ?
「『えっ!じゃあ俺のお菓子は今度から誰が買ってくれるんだ?』よ。信じらんないでしょ?
もう、すっごいむかついてさぁ、『私を何だと思ってんよ! もうあんたなんか友達じゃないっ!』って言って……それがお別れの言葉になっちゃった」
あれーちょっと作り過ぎたかな? どう収拾つけよう。
「母親同士は仲良くて連絡取り合ってたんだけど、私達は一切連絡してなくて……。事故のこと聞いたのは本当につい最近なの」
あれ、ちょっとまって。不自然じゃない? 母親が仲良かったら、事故のことすぐに聞けるでしょ? ……まっ、いっか! 
「事故のこと聞いた途端、飛んでいったわよ。もう助かってることは知ってたんだけど……
あれが最後の言葉になるんじゃないかって、不安で………怖かった」
ここで私は声をだんだん落としていく。顔は俯き、歩調も遅くしていく。
これで落ち込んだ風に見えるかな?
「病室に行ったら驚いたわよ。右足が無かったんだから。『何で教えてくれなかったのっ?』って詰め寄ったらあいつ『お前に心配かけさせたくないから』って言ったのよ。馬鹿でしょう?
こっちの気もしらないで……………っ」
とここでそっぽ向く。そして私は肩を震わす。さすがに演技で泣ける程、役者じゃないから顔は隠す。
「……っ………それであいつその後に車イスレースのこと詳しく教えてくれてさ。その途中で、
あなたに会った。」
私は後ろ、いつの間にか追い越していた結の方に振り向いた。やっと、この子がどんな反応してるのか見れる! 解放感にも似た感情が体の中から湧き上がった。
「………あっ、私……ですか?」
結はハッと私の問いかけに遅れて気付いた。私は心中でガッツポーズをとった。
よしっ! 聞き入ってたみたいね。良かった。でも心なし顔が暗かったのは何でだろう?
「あなたは……晴彦の彼女なの?」
「えっ………い、いいやっ、違いますよ! それよりもっ、あなたこそ……」
「違うわよ、あいつと私はそんな関係じゃ……」
呆れた様子で首を横に振る。
が、結の言葉に何か……覚悟というか必死さを感じて私は怪訝に思った。
というか声が少し、へ……ん………!
顔を上げるとそこには

―――ぽろぽろと大粒の涙を流している結がいた。

「……? ………っ!」
えっ? ウソ? なんでっ? 
えっ、泣いてるの? ――――なんで!
この反応には予想外だった。そんな……ちょっとしたいたずら心だったのに。
「あっ……あれ? おかしいな。何で……す、すみません。急に泣いて……変ですよねっ。
ほんとっ……に………っ~~~~!」
「ちょっ! ちょっと大丈夫? えっ、何で泣くの? 泣くほどの話してないよね?」
私の声に決はいやいやと首を振るだけだった。
そりゃあ話作っちゃたけどこんなに泣く?
結の目からこぼれる涙を見て慌てる。「どこか座れる所……」と辺りを見渡すと歩いて数秒の所にベンチがあった。ベンチに移動させて結の隣に座る。
とりあえず、私は黙って待つことにした。いや、そうするしかできなかった。泣いている子の慰め方なんて全く分からなかった。速く飛べるからって私は一体、何様のつもりだったんだろう。――出来ないことがこんなにたくさんあるじゃない。
泣き声は徐々に収まり、しゃっくりだけとなった。
「………すみません。」
ペコリと頭を下げる結。
「いやいやいやっ!ごめんねこっちこそ昔話しちゃって……」
黙って赤くなった鼻をすすると、涙声で結は語ってくれた。
「私は………雲井さんが好きなんですっ! ずっと……前から」
―――はい? 私はポカンと口を開いた。 ぶっちゃけたわね~~この子。
「でも、あんなことになっちゃって……あの人の人生をめちゃくちゃにしちゃったんですっ!
あなただって昨日言ってたじゃないですか!」
ハッと体が強張った。昨日のあの言葉、私がつい言ってしまった言葉を………結はやっぱり気にしてたんだ。
「だから、もし、あの人を好きな人が、あの人が好きになった人が現れたら潔く諦めようとしてたんです。でも………そういう人が現れなかったら、私が、その…………」
顔を落とす結は私を気遣う様に見る。
「いいよ、言っても」
「………自分の気持ちを……いつか伝えたいなって思ってました。図々しいけどっ! だって、収まらないんだもんっ! 好きでっ、好きで好きで好きで……苦しくなる位………」
うん、うんとゆっくり結の肩を叩いてやる。
「だから、さっきの話を聞いて潔く諦めようとしたんですっ! それなのに泣いちゃって……」
私は結を自分の懐へ引き寄せる。顔を胸に押し付けさせた。
「そうか、……そうか」
しばらくの間、ずっとそうしていた。結が泣き止むまで。
「結………」と呼びかけると結は顔を上げた。
その顔を…………両手で挟む。
「あんたは馬鹿かっ!」
きょとんと目を丸くする結。構わず続ける。
「そんなに好きなら、諦める必要なんてないよ。私みたいな奴が現れたらね、あんたがやる事は、そいつに晴彦を渡さない事よっ! 自分から諦めるなんてもっての他……勝負はやってみなくちゃわかんないんだから。だいたい決めるのは晴彦なんだから。あんたが決めてどうすんのよ。……私もね、晴彦が好きなの」
私は今、嘘をついた。これが正しい事になるかなんてわからない。
けれど、私がこの子にしてあげれる事はこれ位だから。
「だから、勝負しよっ、どっちが晴彦を振り向かせるか!さっ、泣いてる暇なんてないわよ。」
私はベンチから立ち上がった。そして、結に手を伸ばす。差し出された手を見つめて結は、
「……………私」
「うん?」
 
 「――負けません」

私を見つめる結の目には、強い光が見えた。
「望むところよっ!」
そんな彼女の頭をくしゃっと撫でて、私は言った。
「はいっ!」
結は清々しい顔をして私の手を取った。結をベンチから引きあげて立たせる。
ふと周りを見渡すと、多くの人が流れを作ってレース会場に向かっていた。
………というか…あそこって……
目を凝らすと前方に人だかりができていた。
「どうやら着いてたみたいですね」
「なんだ、もうこんな近くまで……」
その時だった。
パンと渇いた音が空に響き渡った。瞬間、前方の群衆が歓声をあげた。
「今の音って……もしかして………」
「始まっちゃいましたねぇ」
のん気にそう呟く結の手を取って私はレース会場まで駆けていった。人ごみをかき分けて進んでいくと結が例の間延びした声で言った。
「今更急いだって遅いと思うんですけど」
「うっさい! あんたがぐずぐずしてたからでしょうがっ!」
「シロさんだって長話してたじゃないですかっ! おあいこです!」
頬を膨らませて反抗する結に言い返そうとした時、ある違和感を覚えた。
違和感といってもはっきりしていた。
「『シロさん』って?」
「名前を教えてくれないんだからそう呼ぶしかないでしょう。言ってみたら中々良い名前ですねっ」
「勝手に変な名前つけるなっ!」
「えぇ~気にいりませんか?」
私は言葉に詰まった。確かに……ちょっといいかもしれない。
振り向くと結が「どうよ?」と言わんばかりの眼差しを向けていた。
「………いや、気に入ったわ。……はいっ、この話はこれでおしまい!」
「あれれーもしかして照れてます?」
「照れてないっ!」
「っと、やっと着きましたよ」
思ってたより会場は遠かった。結は着いたと言ってるが私にはただ人の壁がたちはだかってる様にしか見えない。壁は右を向いても左を向いても、どこまでも続いて途切れている所は無い。
むう………
どうしたものか、と首を傾げる。
人の少ない所から割り込んだら他の人達に迷惑かけるからなぁ……………
すると結を掴んでいた手が前にグイと引っ張られる。つんのめりながらも前を向くと結が
「何ぼーっとしてるんですか! 行きますよっ」
「えっ、ちょっと! ここから入ったら迷惑でしょ…………っ!」
問答無用と結は私の手を引いて群衆をかき分けてゆく。
「はーい、すみませーん。通りまーす、すみませーん」と声高らかに突き進んでいく結。
かく言う私は色んな人にぶつかったり悪態をつかれたり、と散々な目に遭った。
やっとのことで人だかりを抜けると白いロープが腰の辺りに張られていた。向かい側にも同じようなロープが張られていて、ロープに沿う様に人だかりが出来ている。左上を見上げると、赤いゴム製のゲートがあり一番上には白い文字でGAOLと書かれている。
「ここが………レース会場…」
「どうですか?」
―なんか……雰囲気が似てる。天界の競技場と。
レーサー達が各々に抱く闘争心と、緊張感。
その残り香が私に安らぎと高揚感を与えてくれた。
「うん。なんか懐かしい感じがする」
「へぇ、何かスポーツでもやってたんですか?」
「えぇ……少し前までは」
ふっと自嘲の笑みを浮かべてしまう。もう私には関係ないけど……ね。さて、と気持ちを切り替えよう。これ以上、感傷に浸っててもしょうがない!
私が顔をあげるとあの向かい側の白いロープが見え、目で辿った。
「それにしても……このロープどこまで張られてるの?」
「途中からロープはなくなりますよ。後、このレースは一周五キロのコースを二周する
のを二日間、やるんです」
結の言葉に私は耳を疑った。疑問と驚きの視線を結に向ける。
「レースって二日もやるの?」
「はい。」とはにかむ結。
へぇ~と興味深そうに相槌を打つ。実際、天界のレースとルールが違う所があるから興味深い。
「言っときますけど……雲井さんは速いですよ」
結の横顔には晴彦に対する確信と信頼がにじみ出ていた。………なんだろう?
胸の中が……曇っていく。前にもこんな事があった。
そう、あれは―――晴彦の笑顔を見た時だった
私は自分に対し、心底呆れた。
嫉妬するにも程がある。晴彦が誰かに信頼されてるのを見ただけで………これか。
「………何であんたがそんな嬉しそうに言うのよ」
会話を途切れないように、咄嗟に答えるが変な間が空いてしまった。
「そう言えばそうでした」とおどけて頭をかく結。
けらけらけらと笑う結を見て自然と頬が綻んだ。
『――――――――――――ッ』
………何、この音?
私が音のする方を向くと、周囲がどよめきの声をあげる。
「先頭集団来たぞ――っ!」
群衆の中の誰かがそう叫んだ。
陽炎が揺らめくその向こうで、確かにレーサーと思しき者達がこちらに近づいてくる。アスファルトと車輪が擦れ合う、レース独特の音が次第に大きくなっていく。
………でも所詮、車イスでしょ、そんなの…
異質な摩擦音が私の思考を途中でもぎ取った。
「晴………彦……?」
集団の中に晴彦がいた気がする。が、私は今それどころではなかった。
轟音が―――暴風が―――私の顔に次々と叩きつける。
何も考えられない。
観衆の歓声がどこか遠くから聞こえる。
視界がより鮮明になる。
選手の一人一人が発する熱気が連なり、一陣の風を生み出す。
すごい圧力を真横で感じ、衝撃を受ける。
でも――私はこの風をを知っている。
私が、欲しくて、欲しくて、たまらない―――――
この胸の渇きを癒す………落とされてからずっと、恋焦がれてきた…………

――――――――風っ!

ばっと振り向いたが、集団はすでに向こうへ行ってしまった。後に残されたのはジメジメした蒸し暑い空気だけだ。結がふふんと鼻を鳴らし、自慢げに解説をし始める。
「びっくりしました? 車イスレースのおけるレーサーの平均時速は三十キロ、でも雲井さんの時速は四十キロです。プロ並みの速さなんですよっ! …でも、一人だけどうしても抜かせないレーサーがいるんですけど………って聞いてます?」
適当に返事を返す。結には悪いけど私は今、それどころではなかった。
湧き上がる衝動が熱を帯びて全身を震わす。「すごい……」と感嘆の声をあげた。
一旦、気分を落ち着かせるために深呼吸を一つした。心臓がまだ激しく脈打っている。晴彦があんなに夢中になるわけも、今なら分かる。
無邪気に眼を光らせる私に、結は呆れたような溜息をついた。
「絶対に話聞いてませんね。……まぁ、それだけ感動してくれたのなら別に良いですけど」
「えっ、ごめん。何か言ってた?」
「はい。けど、いいんです。車イスレースのこと少しは見直してくれたようですし。」
結の物言いが私のことを決めつけてるように感じて、顔をしかめる。
「それってどういうことよ」
イラついて、つい突っかかってしまったが結は特に気にすることなく、言葉を続ける
「だってシロさん、『所詮は車イスでしょ』って思ってましたよね?」
何で分かるのっ!
「あんた………エスパー?」
思わずそう言うと、結は小さく吹き出した。
「そんなわけないじゃないですか。案外、分かりやすいですね~、シ・ロ・さ・んっ」
「うるさいっ! 気持ち悪い呼び方するなっ」
恥ずかしさで赤くなった顔を見せたくなくて、そっぽを向く。
すると結はくすくすと私を見て笑った。
「シロさんって最初はキツイ人かなと思いましたけど………ほんとはいい人ですよね」
私が………いい人ぉ? 疑いの視線で結を睨み付ける。
「嘘言わないで、それもあんたの皮肉かなんか?」
うっ……ひねくれてるなぁ~私。軽い自己嫌悪に陥りそうだがすんでのとこで堪える。
結はきょとんとした表情で私を見つめて、
「皮肉って……そんなのいつ言いました?」
わぁーーーーーっ! 
天然だった、やっぱり天然だったこの子っ!
そうであってほしいと願った事が叶ったのは良いけど、このタイミングは駄目でしょっ!
やばい………だんだんこっぱずかしくなってきた。たまらず口ごもる。
「い……いや………なんでもない…」
「いい人ですよ……考えてることがすぐ表情に出る程、単純ですけど……恋敵を励ますくらい優しくて…」
そうなの? 私ってそんな風に見えるの? 疑わしいと思いつつも内心まんざらでもなかった。
「い……いや、私はそんなたいした女じゃ………」と頭を掻く。
「嘘ですよ」とあっけらかんと言いながら、私の反応を見て結はけらけらと周りを気にせずに笑った。
カッーと頭に血が昇ってくる。何か言い返そうと息を吸ったその時、観衆から歓声があがった。
「先頭、戻ってきたぞ――――っ!」
興奮を隠そうともしないせいで、ワッと気温が上昇する。熱狂の中、私は見た。
我先にとゴールを争う二人のレーサーを―――
「来たぁ―――っ!」
「えっ、どこですか?」
観衆の一人の声に反応して身を乗り出す結。
「やっぱ雲井と新堂の一騎打ちかっ」
「見ろよっ、二人ともすげぇ回してんぞっ!」
私は自分の顔が間抜けに歪むことも構わず、眉間に皺を寄せて目を凝らす。
先頭をリードしているのは黄色いユニフォームのレーサー。後に続くのは青いユニフォームのレーサーだった。あぁっ、もうっ! 私は思わず悪態をついてしまう。
どっちが晴彦なのよっ?
先程見た時は集団の中にいたし、横を通り過ぎたのでちゃんとは見れていなかったからだ。
だから、私はここで初めてレース専用の車イスの全貌を見た。
八の字に開いてる二つの後輪と、車体から突き出た前輪。二人は手を後輪の下に伸ばす。
恐らくハンドリムと呼ばれる黒い輪を掴むためだろう。
いや、違うか………
昨日、晴彦が教えてくれたことを思い出した。
ハンドリムは掴んで回すのではない。親指と人指し指の間を押し付けて――回す。
レーサーの腕や背中の筋肉が隆起した途端、腕が上がり、車輪が唸りをあげる。そしてまた腕を下に伸ばし、指の間にハンドリムを押し付ける。
私はこのサイクルを見ていて、ある違和感を覚えた。けれど違和感の正体はすぐに分かった。
……なんか見覚えがあるのよねぇ。
私は青いレーサーが付けているグローブ。どこかで私はあのグローブを見た気がする。
あれやこれやと頭の中を探っていくと、パっと閃いた。
昨日、晴彦が見せてくれたグローブだっ! じゃああの青いレーサーが晴彦か………。はあ、と感慨深い気分になる。周りを見渡すと観衆は二人の戦いに興奮しきっていた。
あの時見たグローブが、今、この熱狂を巻き起こしているっ…………!
そう思うと、私は波打つような熱い想いが湧き上がってきた。
耳を澄ませば、二人の荒い息遣いが遠くからでも伝わってくる。
晴彦は高速で車輪を回し続ける。だが、差は歴然だった。
どうしてもあの黄色いレーサー……新堂とかいう奴にに追いつけない。後ろに張り付いてるのが精いっぱいだ。
晴彦が苦しそうに顔を歪め、歯を喰いしばった。更に回す速度をあげ、加速する晴彦。
少しずつ差が縮まっていく。そしてやっと抜けるかというところまで縮めた。
が、そう簡単にリードを許さなかった。
「あぁっ!」
私は思わず声を上げてしまう。新堂が引き離しにかかった。
ぐんぐんと力強く突き進んでいく。
「ぬっ………がぁあああああっ!」

晴彦が――咆えた。
咆哮が、晴彦を前に押し出す。
風を、空気を、晴彦が切り裂いていく。
晴彦の追い上げに反応した新堂は僅か後ろを見る。―――見てしまう。
晴彦の眼に鋭い眼光が宿った。
「おぉおおおおっ! 雲井が………抜いたぁあああっ!」
だが、新堂はまだ喰らいついている。
抜いたはいいがそこから引き離せない。
ぴったりと後ろに張り付いている。
二人の一進一退に観客が沸き上がる。 
皆、思い思いの言葉をぶん投げる。
それは応援? それとも野次?
何にせよ今、この場にいる皆が――――――二人が巻き起こす嵐に呑み込まれていった。
二人が叫びながら、私に近づいてくる。
その先のゴールを―――――勝利を―――――掴みとるために。
「…………来る」
轟々たる暴風と爆音が私を襲った。
アスファルトとタイヤの摩擦音が鼓膜を支配する。
ハンドリムから生み出される風が私の髪を真横に揺らした。
そんな中で、私は見た
 
――新堂が晴彦を抜き返すのを。
 
観衆がざわざわと二人の勝敗について語り合った。それほどの僅差だったんだ。頭の中ではまだ二人の走りが残っていた。
「くぅわぁぁぁあっ! すごいすごいっ! 新堂とあんな接戦になったの初めてだよ――っ!」
結が興奮で顔を赤らめて、ぴょんぴょん飛び跳ねる。
うるっさいなぁ。嬉しいのは分かるけども。
私が露骨に顔をしかめるのも気にせず、 結が無邪気にレースの勝敗を聞いてきた。
「ねぇねぇっ! 今のどっちが勝ったと思う?」
『敬語はどこに言ったのよ』という言葉が喉まで出かかったがなんとか呑み込む。
結には気の毒だけど、これが結果だ。
「……残念だけど………晴彦の負け、ね」
「えっ、なんで分かる…んですか? まさかシロさんこそエスパー?」
「違うわよ」とだけ言うと私はロープから顔を出した。
まさか天使だから見えるのよ。とは答えられないし……
ゴールの向こうで二人は疲弊しきっていた。車イスから腕をだらんと投げ出し、胸が忙しなく上下していた。車輪だけが二人の意思に背き空回りする。汗が一滴、また一滴と滴り落ちる。     落ちた汗が太陽に焼かれたアスファルトに染み込んだ。晴彦の息遣いがこちらにまで伝わる。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁぁ……っ―――――
晴彦がゆっくりとハンドリムに手を伸ばす。
「……何する気?」
晴彦は腕に力込め、車輪を回す。あっという間に新堂に追いついた。
パンッ
 
晴彦が新堂の背中を叩いた。
その横顔は――――笑っていた。
「っ…………!」
私は目を見開く。
新堂は素っ気なく晴彦の手を払うがそれが照れ隠しなのは私にでもわかった。
――私は、あの風を、充実感を失っても笑っていられる晴彦が羨ましかった。
じゃあなんであいつを羨ましく思うのか?
その答えは―――ゴールの先にあった。
「…………いいな」
全力で掴みとった勝利も霞んでしまうような眩い光を、二人は放っていた。
              *
見上げると雲ひとつない青空が広がっていた。
でもそんな事は私達―天使にしてみれば当たり前のことだった。
だって私達は―――雲の上をいつも飛んでいるのだから。
年に一回の階級レース。
普段は忙しくて他の天使に会うことがほとんどできないがこの日は違う。
一面に広がる雲の上で多くの天使たちがレース会場の整備の為にあくせく働いていた。
働くのは昨年のレースの成績が良くなかった天使たち。つまり階級の低い天使だ。もちろん、彼女達もレースに参加する。しかし、会場の整備で疲れた体で、だ。
どうしても階級を上げたければその疲労を抱えながら、レースで好成績を取るしかない。
けれど、疲れをひきずったまま勝てる程、レースは甘くはない。
私は整備で忙しそうな天使たちを一瞥して行くあてもなくぶらついた。
コンディションも調整し終えて暇になったのだ。
このレースが始まる前のこの時間が私は嫌いだった。やる事がないのは何だか虚しい。
こう………時間を無駄にしてる感じがあって。でもこれ以上翼を動かしたら本番前にへばっ
ちゃうし…………
前に目をやるとはるか彼方で空と雲が一つに溶け合っていた。その景色は下界の草原を真っ白に染めた様だった。
「今年は良い雲が流れてきたわねぇー」
これだけ大きな雲なら会場の整備もだいぶやりやすいだろう。昨年の雲は小さな雲が所々にばらまかれてる感じで整備のやりにくさったらもうひどかった。一応、私も下の階級から成り上がったから会場整備の大変さは身をもって知っていた。歩く度にもふっもふっと雲が跳ねる。
歩き進めていくと丘の様に盛り上がった雲がちらほら見え始めた。
回れ右、をすると会場からは忙しそうな音に紛れて天使たちの楽しそうな声が響いてくる。
なんだか懐かしい気分になって、つい微笑んでしまう。和やかな雰囲気になった私だったが、すぐにその雰囲気は壊れた。
「あれーー? そこにいるのって………」
後ろから声をかけられて自然と目がしかめっ面になっていく。
あぁ……そうだった。私がレース前の時間が嫌いな理由がもう一つあった。振り向くと、そこには見慣れない天使がいた。
「やっぱり~シエルじゃんっ!」
「……あなた誰?」
自分で分かるくらい、冷たい声だった。けれど、構わずに私は目の前の天使を睨み付ける。
「あぁ~、毎年優勝してるあんたには私みたいな中級の天使なんて知らないかぁ~」
その言葉には敬意も遠慮もなかった。ただ自分を卑下しただけだ。それなのに、こいつが私を見る目は嘲り。
はぁ、と思わずため息をついてしまう。こういう奴は今までにもいた。自分が競い合う気が無いくせに他の奴と競わせて勝とうとする奴。
「それで?何の用?」
「え~っとねぇ……あっ!そういえば聞いたー? 新しく入ってきたフリーゼって子、すっごい速いんだって」
「ふーん……………それを何でわざわざ私に言うの?」
吹っかけてきた天使の後ろには雲の丘があり、その陰に複数の天使が隠れていた。
全員こっちを見てクスクスと笑いをこらえている。私は心の中で小さく舌打ちした。
いつもは無視してるが今回は乗っかってやることにした。
「いやぁ、いくら負けなしのあんたでもぉ今回ばかりはやばいかなぁって思って心配してあげてるの」
可愛い子ぶってるのか、妙に甘ったるい間延びした声だった。
もっとはっきり言いなさいよ、うざったいっ! とだんだん苛立ちを募らせる。
「余計な心配よ。そいつ諸共ぶち抜いてやるわ」
「あははっ、こわ~~~い」
その笑い声が私の苛立ちを逆なでした。いつの間にか積を切ったように次々と私の口から言葉を吐きださせた。
「そんなに私を抜きたいならあんたたちが抜きなさいよ。自分たちが遅いからって他の奴の肩を持つのは構わないけど、何の努力もしないで私にごちゃごちゃ言うの止めてくれない?」
後ろのクスクス笑いが止んだ。呆然としている天使に背を向けて会場に向かった。
大股で私は歩いていく。胸の内にあるのは不安でも緊張でもない、一つの確信。
それを私は自信をもって口にした。
「私は……速い………っ!」
              *
はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はぁ、はぁ、はぁっ――――――――
…………何で……抜けない!
切り裂いた風が耳元で激しく唸る。翼に力を入れ、加速するがフリーゼも私に合わせて加速してくる。
くそっ、くそっ! なんであんたが前にいるっ! そこにいるっ!
はっと気づくともうゴールが見える所まで来ていた。
「うわっ……あああああああああああっっ!」
私は一人で戦ってきたんだっ!
一人で勝ってきたんだっ!
ゴールには白い光があるっ。勝者の証、栄光っ!
私はっ…今まで誰よりもその光を掴みとってきたんだっ!
目の前から景色が消えていく。
待ってよ、フリーゼ! その光は…………………私……の
朦朧とする意識の中、私は縋るように手をを前に出した。すると、手が何かを掴んだ。
私はもうわけも分からずにそれを引っ張った。

「………え」 
フリーゼの呟きが私の意識を目覚めさせた。
そして目を疑う。
私が引っ張ったのは…………………

――――――フリーゼの翼だった。

私が咄嗟に手を離すとフリーゼは体勢を崩し、螺旋を描きながら後ろへ吹き飛ばされる。
私は脇目も振らずにゴール目がけて加速する。
ゴールがみるみる近づいてくる。
もう少し………もう少し…………!
もう少しで、ゴールに手が届く……っ。
その時だった。
 ――キイイイイン
 金槌で金属を思いっきり叩いた様な音が私の頭の中に響き渡る。
何度も聞いた事のある音だった。
ばっと左に首を向けると、轟音と共に突風が吹き荒れた。巨大な空気の塊が全身に直撃する。
飛行体勢が崩れ、錐揉み状になって落ちていく。
 よりによって、こんな時に突風だなんて! やばい、すぐに体勢を立て直さないと………
 すぐに遅れを取り戻そうと、翼に力を入れた。
 いや―――入れようとした。
「えっ…………?」
 その時、私は見たんだ。
 翼が散っていく瞬間を―――羽が青空の彼方に消えていくのを―――

 それは、まるで翼が私を見捨てたみたいだった。
「いやぁぁぁぁぁぁあああああああああっ!」
そのまま私は真っ逆さまに堕ちて行った。
 何もせず、何も出来ず、ただ為されるがまま、木の葉の様に風に弄ばれた。
          *
今、私は病院にいる。もう夜の七時だと言うのに空はまだ微かに青い。白く浮き上がる月を
ぼうっと眺める。昼の時には散々、苦しめられた湿気は無くなりひんやりとした空気が流れていた。窓際のカーテンが風に揺れた。夏の訪れを感じさせる風だった。
………あれ見てからずっとこんな調子だな……私。
ゴールの先で私が見たもの――――晴彦と新堂が笑い合っている景色に……晴彦の笑顔。
もしあの時、フリーゼの翼を引っ張ってなかったらきっと私は負けていただろう。
その時に私は――自分を負かした相手に笑いかけれるだろうか?
私は首を小さく横に振った。無理よ、出来るはずがない。だって、それじゃあ自分で負けを認めるようなもんじゃない。
要はそこなんだろう。――――私と晴彦の違いは。
「なんで……」
私は額に手をあてる。自然と肩が震えた。
「ふい――つかれたぁ―――」
突然の声に振り向くと、晴彦が車イスを転がして帰ってきた。
「おっ、やっぱいたのか。つれねーじゃんかよ、先に帰るなんてよ」
おちゃらけた様子で口をとがらせてすねる素振りを見せる。電気をつけようとスイッチのある所まで転がす晴彦。
「んでどうよ! すごかっただろう、レース! 結から聞いたよ。夢中で見てたってさ。まぁ………二位だったんだけどな――…」
ぎりりと歯ぎしりをした。
「なんで」
自分でも分かる位、小さな声だったけどそこには怒りがこもっていた。それが伝わったのか晴彦がスイッチに伸ばした手を止める。どうして怒ってるのかと不思議そうに私を見る。
「………え? 何でっていうのはどういうこと?」
「なんでそんなにへらへらしてられるのよっ!」
鋭い怒声を上げて私は勢い良く立ち上がった。イスが音をたてて倒れる。
「会った時からずっとそうっ! 自分が足を失くした話をした時も、私や結をなだめた時も、レースで負けた時もっ! 充実感も栄光も風も失くしたのに………なんで笑ってられるの? 何で自分を負かした奴とあんなに笑いあえるのよっ!」
まぶたがじわりと熱くなった。晴彦の姿がにじんでよく見えない。それでも言葉だけはするする出てきた。
「なんでそんなに前を向いて生きていけるのよっ! なんでそんな簡単に事実を受け止められるのよっ! ……なんでそんなに強いのよぅ。ねぇ、教えてよ……。――――私は、どうすれば強くなれるの?」
大粒の涙が後から後へ頬を伝う。堪えようと唇を強く噛んだ。
何がなんだかよく分からない。なんでなんでとだだこねて…泣いて……子供みたい。
―――情けない………っ!
こんな姿……見られたくない。私はうつむいた。
「知らねぇよ。そんなこと、自分で考えろ」
静かな怒りを含めたその声に私はびくっと肩を震わして見上げる。
そこには冷めきった顔で私を見つめる晴彦がいた。今までの、明るくて気さくな雰囲気が欠片も残っていなかった。
「お前さぁ、本気で俺が最初っから前向きで、物分かりが良くてメンタル強い完璧超人だとでも思ってんのか? それで自分と比べてヒステリック起こした訳? ………ふざけんなよ」
口調が険しい。目つきがきつい。あまりの変わりように私は初めて、晴彦を怖いと思った。
「俺だってなぁやっぱどんだけ口ではそう言ってても結やお前がふっつーに歩いてるとこ見て羨ましいって思うよ。」
レースのことを語った時にはあんなに穏やかだった声が、今では突き刺す様な痛みを伴っている。
「もう一回、自分の足で立って走りたいよ、普通の奴らみたいに山でも海でも行ってはしゃぎたいし、負けたら悔しいにきまってんだろ………悔しいにきまってんだろがっ!」
だんだん語気が荒くなっていく。その眼は、言葉は真っ直ぐに私に向けられてた。
晴彦の眼に映る私はひどく弱々しくて、どんよりとした灰色の瞳をしていた。
しばらく私達は互いを見つめ合っていた。
漂う沈黙が私の頭を冷静にしてくれた。
自分がどれだけ晴彦を傷つけたのかを分からせる為に。
昨日、結に言った言葉が今度は私に返ってきた。
あぁ……私は、なんて無神経なことを言ってしまったんだろう。
晴彦が本当はどう思ってるか全く考えないで、自分のことだけを考えて僻んで………晴彦に当たって。それって……
――すごくひどいことじゃない。
私は再び顔をうつむかせた。
すると晴彦が呆れた様にため息をつく。
「まぁ……分かるよ。俺も足、失くしたばっかの頃は親とか隣の患者にあたったよ。……その隣の患者って奴の名前、何だと思う?」
恥ずかしそうに微笑んで私に問いかけた。
「………新堂勝介っていうんだ」
そして私は、晴彦の昔話に耳を傾けた。
         *
「雲井さんっ、いい加減、食べないとばてちゃいますよ! 雲井さんっ!」
看護師さんが毎日そんなこと言ってたけど、ほとんど聞いちゃいなかったよ。
思い返してみると多分、あの時の俺ってひどい面してたんだろうな。いっつも足が入ってない方のズボン触ってた。看護師さんは大抵、呆れるか他の病室を見るために出て行った。
でも――その日は少し違った。
「………足失くしたばっかで飯なんて食えないよな」
看護師さんが行った後にそいつは話しかけてきた。
「…………うるせぇよ。分かんないくせに知ったかぶんじゃねぇっ!」
俺は声を荒げてそいつに言ってやった。けどそいつはうるさそうに顔をしかめながら
「分かるさ。」とだけ言うと布団をどかした。驚いたよ。
だってそいつは俺と同じで―――――右足が無かったんだから。
一つ違うのはそいつには義足がついてたところだった。
「小五の時だったか……それ以来ずっとこれさ」と言って陽の光をきらりと写す義足を叩いた。
そいつはまた布団をかぶるとベッドに寝転んだ。
「まぁ……ショックだろうがほどほどには食えよ。世の中には食いたくても食えない奴がいるらしい。俺の時は毎日そう言われた」とだけ言うとそいつは布団の中に潜り込んだ。
何も言えなかったさ。ビックリもした。足が無い事にじゃない。
俺と同じ目に遭った奴がいた事に、だよ。
だが考えりゃそうだ。俺がこの世の不幸を全部背負ってるわけじゃないんだから。
それでいてあいつは何でもない様に淡々と話すもんだからよ。
「お前、名前は?」
すると、そいつはもぞもぞとベッドから手だけ出すと壁に付いてる名札を指差した。指した方向に体を捻ると名札には「新堂勝介」と書かれていた。
              *
その日の夜、俺はふと目を覚ました。入院してからは昼も夜も寝て起きての繰り返しだったからその日が特別ってわけじゃなかった。
天井を見つめながら俺は足が無い方のズボンを撫でた。
それでこの後こうつぶやくんだ。
「足……本当に無いんだなぁ」
陸上やってた頃の、足失くす前の記憶が次から次へと浮かんでくるんだよ。
もう二度と走れねぇんだなぁって漠然と考えてさ。歯喰いしばってボロボロ泣いたよ。
夜はずっとこんな調子だった。でも、やっぱりその日はいつもとちょっと違った。
「うぅっ………」って隣のベッドから新堂の声が聞こえてきた。
俺はぎくっと体を強張らせた。やっば! 見られたかっ? 俺は慌てて涙を拭った。
「うぅ…………ううううううぎっ!」
新堂の様子が明らかにおかしかった。異変を感じた俺はすぐに隣のベッドに呼びかけた。
「おいっ、新堂! 大丈夫かよ………おいっ!」
新堂は右足の付け根を押さえて、うめき続けた。歯ぎしりの音がここからでも聞こえた。
どれだけの痛みだよ………笑えねぇぞ…!
変な汗が新堂の全身から噴き出している。
暑いから流す汗でも、運動した後にかく汗でもない。見てるこっちを不安にさせる汗。
周りを見渡すがここの病室には俺と新堂の二人しかいない。
そりゃそうだろうがっ! いたらとっくに騒ぎになってる。くそっ!
どうすればいい、どうすればいい、どうすればいいっ!
頭の中で何度も何度もその言葉を繰り返す。
もう一度、縋る想いで周りを見ると自分のベッドについてるナースコールが目に入った瞬間、俺は手を伸ばしてそれを押す。
何も起こらない。
不安の矛先をナースコールに向け、押しまくる。
新堂は苦しそうに呻いてる。
まだかよっ、と苛立っていると医者と複数の看護師が来た。そこからの医者達の行動は迅速だった。
新堂を運びだし、俺にいくつか質問をするとさっさと行ってしまった。不思議な静寂だけが病室に残された。不安から解放されるとドッと疲れが肩にのしかかった。
はぁ、と自然とため息をつき、ベッドに寝転ぶ。
「疲れた………」とつぶやくやいなや、すぐに瞼が重くなった。
          *
瞼を開けるとカーテンから朝日が差し込んでいた。小さい穴がポツポツ空いた、味気のない白のタイルが目に入る。重い体に鞭を打って起き上がり、欠伸を一つ。
ふと、隣に人の気配を感じ、振り向くとそこには―――のん気に何かの雑誌を読んでいる新堂がいた。
「おはよう」
一瞬、何を言ってるか分かんなかった。だって昨日あんなことがあったってのに普通に挨拶してきてんだからよ。まぁ、そのおかげで寝ぼけてた頭が一気に冴えたけどな。
「お………おはよう」
雑誌をめくる音がしばらく病室を支配する。………よく分からんが、気まずい。昨日の事を聞いてもいいのか? でも、なんか『余計なこと聞くな』って雰囲気出してるし……どう切り出せばいいんだよ?
と考えていると意外にも新堂から先に話を切り出してきた。
「昨日はありがとな。……どうしてもあの痛みは慣れない」
「………昨日のあれ、何なんだよ」
聞き辛かったけど何とか言葉を絞り出す。そんな俺とは正反対に新堂は例の如く、平然と
答えたよ。それもすごく簡単に、な。
「骨が肉を破ったんだ」
「………………は?」
冗談だろ、と言おうとした口がそのまま固まった。新堂の目は全く笑っていなかった。それを見れば嫌でも新堂の言った事が本当だと分かった。
……おいおいまじかよ…。
動揺する俺を置いて新堂は淡々と説明してくれた。
「成長期で伸びる骨がふさがりかけた足の断面を突き破ろうとするんだ。特に中学の頃はきつかったな。………お前も直に体験するさ」
ゾッと背筋に寒気が走った。脳裏に昨日の声が、新堂のうめき声が響く。
俺がびびってるとあいつはこっちを向きも、ましてやニコリともせず、
「冗談だ。高校生ならもう成長期は終わりだろう」
「悪趣味にも程あるぞコノ野郎っ!」
掴みかかろうと身を乗り出したがベッドを軋ませただけで終わってしまう。
「まぁ、もう少ししたら退院できるだろう。予感はしてたがまさか入院した日になるとは思わなかったがな」
「予感?」と訝しげに眉間に皺を寄せる。「そうだ」とこれまたこちらを少しも見ずに答えた。
「成長期と言えばいいのか………かっこよく言えば『傷が疼くぜ』みたいな」
「いやかっこよく言わなくていいわ」
「そうか?冷たい奴だな、お前」
「お前にだけは言われたくねぇっ!」と大きな怒声を上げた。しかし、新堂はこれ見よがしに長いため息をついただけだった。もったいぶった新堂の様子にいらついたが次に新堂が言った言葉によってそのいらつきも全て吹き飛んだ。
「せっかく夜な夜な泣くお前を励ましてやろうかと慣れないジョークを言ったのになぁ」
―イマ、ナンテイッタコイツ?
脳が今しがた耳から手に入れた情報を受け入れられずにいる。空白だ、真っ白だ。
だが、新堂の言葉が真っ白な雪に染み込む泥の様に聞こえてきた。
浮かぶのは昨日、あのごたごたが起こる前の………
「うっわあああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
陸上で鍛えられた腹筋から出るその悲鳴は病院中に響き渡っていたらしい。そんな超弩級の声に対しての新堂のコメントは
「うるさい」
だけだった。
「知ったことかぁっ!」
ボスっボスッと布団に次々と拳を繰り出すが虚しい音を出し続けるだけだった。
「いっ………いつからだっ! いつからそのこと知って…………っ!」
「痛み始める前にちらっと聞こえたぞ」
「ぐううわあああっ! やっぱ聞かれてたよ、チクショーがあああぁっ!」
「そんなに自分を責めるな。本当なら毎日泣いてても仕方ないんだからよ。」
「やめろよそのフォローの仕方あああ! 余計惨めになるだろがっ!」
「『足……本当に無いんだなぁ』………とか?」
「ぎいゃああああーーーーやめろおおっ! つかニヤニヤしてんじゃねぇ!」
「あっ、今のが俗に言うブラックジョークというやつなのか? そうだとしたら、俺も中々、
ジョークうまくなったなぁ!」
「うん……うん、もう良いから。ブラックでもなんでもいいからとりあえず黙ってくださいませぇぇっ!」
ああ、もう駄目だ。恥ずかし過ぎて語尾がすげぇ変になった…………
「語尾がおかしいぞお前」
「とどめにツッコミ入れるんじゃねぇぇぇよぉぉぉっ!」
「静かにしてくださいっ! 他の患者さんの迷惑です!!」
バァンと病室のドアから看護師さんがものすごい剣幕で入ってきた。
いっ、とたまらず悲鳴を呑み込む。新堂もびくりと肩を震わした。
「「す………すみません」」
二人そろって情けない声を上げると看護師さんは呆れた様子でため息をついた。
「晴彦さんならともかく、何で新堂さんまで………」
「あれ? ともかくって何ですか? どういう意味ですかそれは?」
看護師の物言いにも、新堂との扱いの差に対しても不満を持った俺は露骨にそれを表情に表してやった。すると、横から至極真っ当な意見が一つ。
「信頼の差だろ」
「うっせっ! 黙れこの野郎!」
「雲井さんっ!」と一喝を入れられ、新堂に言ってやる予定の口汚い悪口をぐっと飲み込む。
もう一度深い溜息をつくと看護師さんは新堂のベッドに近づいた。
「手術成功おめでとう。これから義足合わせやリハビリ大変かもしれないけど、一緒に
頑張ろうね」
俺は心の中だけで小さく舌打ちした。あいつに対して態度良すぎだろあの看護師! 俺とはえらい違いだなっ!
当の本人は「はい、頑張ります」と素っ気なく言い、雑誌の続きを読み始めた。
無愛想な新堂の態度に、看護師は何も言わず微笑んでから病室を去っていった。
看護師が完全に去ったのを確認すると新堂は
「うーん……まだ退院は出来ないそうだな。と言っても二、三日だろうけど」
「そうかよ」とついつい尖った口調になってしまう。
「何だ? 何をそんなにふくれっ面になってるんだ?」
新堂は頬をにやつかせて、俺の反応を伺っていた。
「うっ……るせえなっ! ニヤニヤしてんじゃねぇ!」
「はいはい、分かったから静かにしろ。明日は忙しくなるだろうからな」
「明日、何やるんだよ?」
「手術後のリハビリだ。まぁ、様子見みたいなものだし、そこまで疲れはしないけどな」
「ふーん………あっそ」
リハビリか………そーいや実際のリハビリってどんなのやるんだ?
俺はふと疑問に思った。
               *
「雲井さん……雲井さんっ」
…………なんだ? 
「いい加減、起きて下さい」
なんか聞いた事あるな、この声。霞んだ視界の中で、黒いシルエットが揺らめく。
奇妙なシルエットだ。頭が四角に盛り上がっている。
「もう朝食の時間ですよ、今度こそ食べて下さい……雲井さんっ」
あぁ……看護師さんか。どうりで無視していい気がしたのか。
「ああっ、もう一度寝なおさないで下さい! ちょっとぉぉっ!」
乱暴に肩を揺さぶられ、いやでも起きなきゃいけなかった。
目をこするとシルエットが鮮明になっていく。ちょうど宝くじのスクラッチの様に。
盛り上がった頭の正体はピンクのナース帽で看護師さんは文句がありそうに眉をしかめている。
「…………朝一番にそんな怖い顔見せないでくださいよ」
「起こしてあげた人に対しての第一声がそれですかっ!」
「あげたって………それが仕事でしょ?そんなに上から目線で言われても困るんですけど」
「くっ……ほんとに生意気ですね、あなたは。」
体を起こすと台の上に朝食が一通り用意されていた。どれもうまそうな匂いと湯気を漂わせて俺の食欲をそそろうとする。が、腹の虫は〈ぐう〉のぐの字も鳴らさない。
「もう二日は何も食べてませんよ?信じられません。私だったら耐えられない」
知るかぼけ。
俺だって好きで食わないんじゃねぇよ。と胸の内だけに悪態をつく。
「五年付き合い続けた彼氏に結婚の寸前で他の女に子供作られたら……看護師さんも少しは俺みたいに断食できるんじゃないですか」
すると看護師は毅然とした様子で言い放つ。
「大丈夫です、彼は私の運命の人ですから」
「あっ、看護師さん彼氏いたんすか」
これは少し意外で、目を丸くした。その反面、運命の人という言葉を使った看護師さんの語彙センスには異議を申し立てたい。
「なんですかその意外そうな声っ! 大体、君はねぇ………」
小言と言うか説教じみたことを言い出した看護師さんの声には耳を傾けなかった。
これは特に悪気は無かった。それ以上の出来事を受けてしばらく他の事を考えられなかったからだ。隣のベッドに新堂がいなかった。
「ちょっと? 雲井さん、聞いてますか」
「看護師さん」
自分の話を切られて不服そうにむっとする看護師さん。構わず、俺は続けた。
「新堂はどこに行ったんすか」
「…………? 新堂君くんならリハビリ室ですよ」と答えるのとほぼ同時に俺は言葉を被せた。
「そこに連れてってください」
「え、どうしてですか? 雲井さんのリハビリの予定はまだ先ですよ。その前にどんな義足にするか決めて頂かないと…………」
うわ、面倒くせっと小声をたてる。そんなことしてたら夜になっちまう。
「じゃあ見学っ、見学っていう事でお願いします!」
俺が必死に頼みこむが看護師さんは手を顎に添え、考えにふけっている。
「………駄目…すか」とおそるおそる声をかけた瞬間、俺は心底、後悔した。
ニタァと邪悪に笑う看護師さんを見てしまったからだ。
「そおおーねぇ………じゃあ…」
ゴクリ、と唾を呑み込む俺。
「朝食全部、完食したらいいですよ」
                 *
初めて車イスに乗った。
この時、俺は目線が変わるだけで人の目に映る世界は簡単に変わってしまうことを知った。
足を失くしてから二日間。
俺は足が無い事に対してかなりショックだった。けど、心のどっかでこうも考えてたんだ。
『これは夢なんじゃないか』って。
でも、頭の横に人の腰がすれ違う度に足を失くした実感を感じた。
地面に足がついてない事がこんなにも不安になることだとは。
残った方の足の裏がむずがゆくなる。
後ろから看護師さんがゆっくり押してくれるがもし、何かのミスでこけたりしたら俺はどうにもできない。誰かに縋るしかないんだ。
同じく車イスに乗ってる人が向こうから来た。その人はにっこりと綺麗なえくぼを作って軽く会釈してくれる。俺も笑って会釈するが他の人に比べて笑顔がぎこちないのが自分でも分かった。
「はい着きましたよ。ここがリハビリ室です」
顔だけ覗かせると部屋は想像してた程、広くはなく普通の家の子供の一人部屋が縦に三つ程並べた感じだった。
そのスペースの中には五メートル程度の長さの手すりが壁際に二つ、橙色で低く横幅が長い台が三つ縦に置かれてる。
数人の患者がトレーナーと一緒に懸命にリハビリをこなしている。その中に見覚えのある顔が一つ。新堂は壁際の手すりに掴まって一歩一歩、足を進めていた。
歯を喰いしばって、額から汗を流すその姿は病室で見た、無愛想で鉄面皮の新堂からは考えられなかった。
順調に歩を進めていた新堂だが急に表情が変わった。
がくんと右腕から崩れ落ちた。
トレーナーが慌てて駆け寄って行った。
悔しそうに顔を歪める新堂を見て俺は――――馬鹿じゃないかと思った。
出来ないもんはできねーんだよ、どんなに頑張ったって……失くした物は二度と戻らない。
感動なんてしない。
無様だとさえ思う。
周りからそんな風に思われるくらいなら、俺は………最初から何もしねぇ。
トレーナーが新堂を立ち上がらせて一旦、手すりから離れさせようとした。
しかしトレーナーが動きが止まり、新堂の方を見る。
新堂が首をゆっくり、横に数回振る。まだ右手が強く手すりを握っていた。
そして―――足を前に出した。
俺は驚愕した。目を限界まで見開く。
「なんで…………っ!」
その問いに答えたのは看護師さんだった。
「彼が前を向いてるからですよ。」
ハッとして見上げると、看護師さんがニコっと微笑んだ。
「彼にとって周りなんてどうでもいいんです。周りの声を聞いてる暇があるなら少しでも前に進むんですよ。確かに今みたいに力尽きたり転んだりするかもしれないけど、前を向いてたら自然と見えない足が、歩き続けてくれるんです」
「……………………………………………………」
ぼた、ぼたぼたっと大粒の汗が床に落ちる。足が一歩前に出る。
前に、前に、進む。その歩みは決して止まらない。
―――――――――――速い。
今まで追い抜いてきたどの短距離選手夜よりも、新堂は速くて――輝いていた。
「…………すげぇなぁ」と一人つぶやいた。
             *
「お前、今日のリハビリ見てただろ」
部屋に戻るなり新堂はこう切り出してきた。俺は晩飯の箸を止めて新堂の方を見やる。
「気付いてたのか」
たいして驚きはしない。あれだけ見てれば気付くだろ、って自分でも思ったからな。
ああ、と素っ気ない返事をすると新堂は松葉杖をつきながらベッドまで歩いて行った。
ベッドに寝転ぶと新堂が何か言いたそうにじっと俺を見てきた。
新堂の視線が横顔に突き刺さる。
「…………何だよ、じろじろ見やがって。気持ちわりぃ」
「いや………お前、飯食えるようになったのか」
手元にある晩飯に目を落とした。
「いや、食えないのはあくまで俺のメンタルの問題で食おうと思えば食えるからな?」
その証拠にといっては何だがカチカチと箸で空を挟んで見せる。
「そんな事は分かり切ってるよ、お前なんかよりな。………受け入れたのか」
重みのある声で新堂は俺に聞いてきた。
俺は黙って里芋を口に放り込む。噛んで、飲みこむと俺は自分の正直な所を打ち明けた。
「………確かなのはさ、俺はまだこの現実を完全に受け入れたわけじゃない。けど、お前がリハビリしてる所を見てよ………このままじゃいけねぇって思ったんだ」
「そうか………」
新堂の声から重みが消えた。いつも通りの素っ気ない声に戻った。
「お前の事は少し気がかりだったが………大丈夫そうだな」と言うと新堂は昨日読んでた雑誌を取り出した。
「『大丈夫そう』って………なんでてめーに心配されなきゃいけねーんだよ」
「いや………明日、退院って医者に言われてな。また一人になって看護師さんたちを困らせないか不安だったんだ」
「へぇ……そうなのか」
そうか…………こいつもう退院するのか。そう考えるとちょっと名残惜しかった。
せっかく――同じ立場の奴と会えたのに。
「なぁ新堂」と呼びかけると新堂は雑誌から目を離した。
「なんだ?」
「俺って――これからどうすればいいんだろうな?」
「おそらく、どの義足にするかご家族と医師が話し合ってる間に代用の義足を使ってリハビリをすることになるだろう。だが、最終的にはお前の意思を聞いて義足をつけるか否かが……」
「そういうことじゃなくてっ!」
「なんだ、違うのか?」
俺はグッと返事に詰まる。確かにそれも聞きたかったけどさ。
「そうじゃなくて、こう……心の在り方とか?そんな感じのことだよっ!」
「要するに僕ちゃんはセンチメンタルな気分なんです~ってことか」
「ちげぇよっ、ばかっ! そういうのじゃねぇっ!」
 新堂はふうっと一息つくと、また雑誌に興味を移す。
「……別にさっきお前が言った通りにしてればいいんじゃないか? 中々、かっこよかったし」
「さっきって?」
俺、そんな大層なこと言ったっけ?
「このままじゃダメって気付いたから、まずは飯を食べることからはじめたんだろ?その調子で自分が出来ることを少しずつ増やしていけば良いだろ」
「………本当にそれでいいのか?」
新堂は雑誌をめくる手を止めた。
「なんかそれって妥協してるだけなんじゃねぇかって。どうせ俺はもう健常者じゃねぇんだから精々、頑張るって言ってもこの程度だよね………みたいな」
病室が静まりかえった。俺は新堂の様子が気になってちらりと一瞥した。
すると―――新堂はこれ見よがしに重いため息をついていた。
「お前って意外にネガティブだな。自分が言ったこと否定して、楽しいのか?」
ギリリと歯ぎしりが頭の中で響く。
「ポジティブに前を向いて生きれば……それでいいだろう?」
その時、俺の中で何かが腹から駆け上ってきた。
さっきの新堂の言葉が繰り返し頭に響く。
駆けあがってきたそれは――新堂の言葉に対する不満、怒り。
それらが口元にまで駆けあがってきた時、俺は耐え切れずに声を発した。
「うるっせぇっ! お前よくそんな無責任なこと言えるよな? それが分かんねーから苦しんでるんだろがっ! 前を向くってどういうことだよ? 一体何すりゃ前向きになれるんだよ!」
ふぅーふぅーと息が荒れる。興奮が収まらない。肩が勝手に震える。血がでるんじゃないかって位、きつく手を握った。
新堂はそんな俺を、冷静に見つめていた。
「………今、この瞬間…」
「あ?」
「自分が正しいって思う事を全力でやってたら…………それが前を向いてるってことじゃないのか?」
「……………」
新堂は淡々と、静かに言った。
なんとも言えない不思議な感覚が胸に広がっていく。
まるであいつの言葉が体全体にゆっくり染み込んでいくような。
ああ……
これが――――胸を打たれるって言うんだろうな。

新堂は再び雑誌をめくり始める。
「自分を信じられない奴が前向きになれるはずがないんだからな」
ストン………と新堂の言葉が腹に収まる。その時、俺は妙に納得してしまった。反抗する気も起きずに――――笑った。久々に、笑えた。
「すまん。急にキレちまって」と一しきり笑い終えると俺は頭を下げた。
「いや、そう言えば俺もそんな感じのこと言われてキレた時があった」
それから新堂は恥ずかしそうに笑った。顔を上げて窓の向こうの突きを眺めた。
「時間って怖いな。あんなに苦しくて、むかついてた事も忘れて………お前に同じ想いを味あわせてしまった。………ごめんな」
新堂にしては珍しく感情が籠った声だった。―――本当に悪かったって思ってたんだな……
その時、俺はふと新堂の雑誌が目に入った。
「……なぁ、許してやっからさ、一つ聞いていいか?」
「なんだ?」
「それって何の雑誌?」
           *
「―――――そんでその雑誌から車イスレースのこと知って……今の俺になれたっつー話だ」
私は何も言えなかった。晴彦は苦しんで、悩んで辛いこと全部乗り越えてやっと強くなれたんだ。そのためにどれだけ努力したのか………
私は何もしないで失ったものだけ見て、元々持っていた才能にうぬぼれて何の努力もしなかった。しなくても今までやってこれてたから。
『何も努力しないで私に文句言うのは止めてくんない?』
自分で言った言葉に胸を刺される。私だってもし立場が違えばあいつらと同じことするんじゃない。いや、とフリーゼの翼を引っ張った時のことを思い出す。
私はっ、あいつら以下の………
考えれば考える程、自分を傷つけていくだけなのに止まらない。
――――――頭に柔らかな温もりが染み込む。
ごつごつした感触だがその手からは人を安心させる温まりを出していた。
見上げるとニカっと笑った晴彦が、私の頭を撫でていた。………見上げる?
晴彦は車イスから立ち上がっていた。
あっ、そうか……立ったらこいつの方が大きいんだ………………って!
「ちょっと! 立ってもだいじょう……」
「うおわっ!」と焦りの声と共に晴彦は派手に転んだ。車イスが倒れる音が私の口をぎゅっと閉めさせた。
「はははは、これじゃ締まらねぇな」
「何してるのよもうっ!」
手を差し伸べると、晴彦は笑いながら私の手を取る。ゆっくりと引っ張り上げる。あれ、と私は気付く。最初に出会ったときもこんな風に上げてもらったな。まぁ、立場が逆だけど。
「……ほらな」
『へっ?』と素っ頓狂な声を出してしまう。
「今、俺を助けてくれた。だろ?」
「えっ、まぁ助けたなんて大層なことじゃないけど…………」
急に何を言い出してるのよ、こいつ? 私に構わず晴彦は続けた。
「だから、お前は駄目なやつじゃねぇんだよ。さっき俺と比べて落ち込んでただろ」
なんで結もこいつも私の考えてること分かるの?
握ってる手が妙に熱く感じる。
「別に下向いてて良いんだよ。んで、自分を変えたくなったら前を向けばいい。大事なのは、そこで自分を嫌いにならないことだ」
「自分を………嫌いに…」
「そうだ。どんな自分でも自分なんだから好きでいてやんないと。だってそれじゃあ………
自分がかわいそうじゃねぇか」
――まっ、これも新堂の受け売りだがな。って晴彦は肩を竦めた。

肩を貸そうとしたけど晴彦は「自分で行く。」と言って片足でベッドにたどり着く。
「……なぁ、明日もう一回レース見に来いよ。また今日とは違う俺を見せてやるからよ」
「それは無理。私から見たあんたの印象ってへらへらしてるバカから変わんないし」
「ひっでぇなぁ――。まぁ明日見に来いよっ! おやすみ」
そう言い残してベッドに潜り込むとすぐにあのいびきが聞こえてきた。
「ったく………なんなのよ、こいつ」
……でもこいつにしては良いこと言ってたな。
「………下を向くのも前を向くのも自由……自分を嫌いにならない…………………か」
晴彦の手の温もりがまだ右手に残っていた。
                *
正直、行こうかどうか迷っていた。
行ったらまた、私は晴彦と比べて自己嫌悪してしまうかもしれないから。それに晴彦のアドバイスに素直にうなずけない自分がいたから。
確かに晴彦の言葉が正しい。けれど何かがひっかかる。あともう少しで納得できるのに。
気付いたら私はレース会場に足を運んでいた。
「はぁ……なんでここに着いちゃうのよ」
気分転換に夜の街を散歩……って思ってたんだけど。会場から病院まで結構な距離あるのにどうやら夜通しで歩いて来てしまったらしい。
会場は相変わらずの賑わいだった。
私は人だかりが少ないところへ歩くとコース中にある雑木林に着いた。
人は何人かいるがスタート地点よりは圧倒的に少なく木陰があって、とても快適だった。
草とアスファルトが混じった匂い。ねっとりとした、蒸し暑い空気。時折、吹き抜けるそよ風が肌に心地よい。自然と頬に笑みが浮かぶ。
「あぁ~もうっ……ゴチャゴチャ考えるの終わり!」
けじめをつけようとパンパン頬を叩く。来てしまったものは仕方ない。
「見届けよう………最後まで」
パン、と渇いた銃声が空に響き渡る。
シャアアアと車輪とアスファルトが擦れる音が耳に届く。
「来たぞっ! トップは新堂だ!」
コースから顔を覗かせると新堂が猛然とした勢いで迫ってきていた。
やっぱりあいつ、速い!
新堂の姿が不思議とフリーゼと重なる。
くそっと地団太を踏みかけた時だった。
「おぉっ、雲井もすげぇ追い上げてきたっ!」
ハッと顔をあげると後ろから負けじと雲井が新堂を追いかけていた。けれど雲井が加速すると新堂も加速し、一向に差は縮まない。
もう無理なんじゃ………………
そんな考えが私の心を蝕んでいく。新堂は恐らくまだ加速できる余裕がある。それに引き替え晴彦は今のペースで二周持つのかどうかという感じだ。
新堂が私の前を通り過ぎる。
「…………もう無理だよ」
つぶやきが轟音にかき消される。晴彦が私の前を通り過ぎた。
『絶対にぶち抜くっ!』
体全体から放つ気迫がそう物語っていた。晴彦の鬼気迫る迫力が私の胸を突き刺す。
引っかかっていた何かがはじけ飛ぶ。
―そうか………そうだった! 私は勢い良く前に踏み出し―――走った。
人が、木が、景色が、もの凄い勢いで後ろに流れる。
追いつけ、追いつけ、追いつけっ!
一歩でも速く前へ! 少しでも強く地面を蹴りつけろ! 
顔を上げると晴彦の背中があった。
なにか言いたい、応援したいっ!
あんたのおかげで…………気付けたんだ、大切なことを!
だから――――――――――――
『だんっ!』
全ての力を込めて………飛び上がる!
…………………………あれ?
懐かしい感覚だ。
ふっ、と体が軽くなってあらゆる負荷が、抵抗が、重力が消えるこの感覚。
まさか…………!
背中に目を向けるとそこには―――真っ白な翼が………
『どんっ!』
足の裏に着地の衝撃が駆け抜ける。重力が再び私を縛りつける。ふと気が付くと晴彦が真横にいた。
追いついたっ! 晴彦が目を丸くして私を見ていた。
―――――……あれ? 応援ってなんて言えばいいの?
えっと、頑張れ? ファイト? 負けるな?
考えている内にどんどんペースが落ちる。晴彦の背中が遠ざかる。
ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハァッ…………………すう――――――
 
「勝てぇえええええ! 晴彦ぉおおおおおっ!」
晴彦は遠くなっていき、やがて消えた。
かくん、と膝の力が抜けその場に転がり込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
足が鉛の様に重たくなる。息も荒い。体中が熱い。目を開けると、夏の訪れを感じさせる、
悠々と巨大な入道雲が浮かんでいた。
清々しい、いい気分になった。
しばらく私は呆然と空を見つめた。そして、先程の出来事を思い出す。
「……………翼が……………………出た」
                *
レースも終盤。観客の興奮が最高潮に達する。歓声が鳴りやまない中、私は見たんだ。
晴彦が両手を上げて空を仰いだところを。
「おおおぉぉおおおっしゃあああぁぁ!」
勝利の雄叫びを上げる晴彦の後ろには苦い笑みを浮かべた新堂がいた。
                *
「勝った! 勝ったぞ、おい! 新堂に勝った―――っ!」
晴彦の嬉しそうな声が病室に響く。
「ははっ。はしゃぎ過ぎよ」
なだめる私のか言葉など聞こえず、晴彦はベッドの上ではしゃぎ続けた。
「これが落ち着かずにいられっかよ! 初めてだ、十三戦十二敗一勝だぞっ!」
「きっちり数えてるのね、あんた」
呆れてため息をつく。でもこんなに喜んでいるのを見たら私も嬉しくなってきた。
………ん?
晴彦が意外そうな表情で私は見ていた。
「な………なによ?」
「いや、お前がちゃんと笑ってるとこ初めて見たからよ。笑うと可愛いなお前!」
突然の直球に私は面くらう。思わず顔が赤くなった。
「は……はぁっ? な、何言ってんのよ急にっ!」
もろに動揺が出て頬が熱くなる。
「……………ありがとな」
「へっ、何が?」
完全に声が裏返ってた。やばい余計恥ずかしいっ!
「いや、応援。力もらえた」
照れくさそうに晴彦が笑いかけた。私は目を見開いて晴彦を見る。
「応援聞こえてたの?」
「そりゃあ……あんな大声で言われたらなぁ。腕もげても回すしかねぇだろ」
「そっか……そっか………っ!」
良かった、聞こえてたんだ。私は手を差し出した。
「……優勝おめでとう」
「おうっ!」
私達は熱い握手を交わした。
晴彦の手は出会った時から変わらず、無骨で力強くて…温かった。

ねぇ………晴彦。
私は変われたのかな。自分じゃ良くわかんないんだけど。
あなたは――――私の手から何を感じ取れた?

「いや―――にしても今日の朝起きたらビックリしたぞ。だってお前いなかったからさ。昨日、もう少し何か気の利いたこと言っときゃあな―とか色々考えちまってよ」
「違うわよ、ちょっと散歩しにいったら偶然レース会場に着いちゃったのっ。それに……もう充分よ。充分、力もらえたから。私の方こそ…ありがとね」
ここで私はある事に気付いた。晴彦が怪訝そうにこちらを見てくるのだ。
「な、なによ?」
「…………お前が素直だとなんか気持ち悪い」
散々、言い渋った結果がこれだった。
晴彦の襟元をねじり上げ、反対の手の拳を握りしめる。狙いはもちろん顔面だ。
「へぇ~さっきは可愛いとか言ってたくせにそういう事言うんだぁ~。へぇぇええええっ!」
「ちょっ、ちょっと待てっ………苦しっ……ごめんごめんごめんごめん!」
私が手を放すと晴彦は苦しそうに咳き込む。
「い、いや、だってよ本当に今日は素直というか優しいからよ。何かいい事でもあったのかと」
「何? 私が素直だとなんかおかしいの? 優しいとなんかおかしいの?」
「いえ、決してそのようなことはございません」
完全に委縮した晴彦を見下ろし、私は深い溜息をついた。…こいつにはちゃんと言わなきゃ駄目だよね。また馬鹿にされるけど仕方ない。私は諦め半分で話始めた。
「今日、あんたを追いかけた時、翼が出たのよ。すぐに消えたんだけどね」
さぁ、笑うんなら笑いなさいよ。とひねくれる私の予想とは反対に晴彦は真面目な表情で――
「つまりある程度のスピードまで加速すると翼は出るのか?」
と聞き返してきた。少なからず私は驚いた。
「……笑わないの?」
「なんだ?笑ってほしかったのか?」
「い、いやそういう訳じゃ………」
「そりゃ最初は信じてなかったけどよ……ただの人間が時速三十五キロで走る車イスと並走なんて出来る訳ないだろ」
「そうなの?」
「当たり前だっ! それに……」
晴彦は僅かに頬を赤くさせた。
「昨日の………お前の涙は…足を失くしてばかりだった俺と同じだった。よく分かんないけどその翼ってのは俺たちで言う手や足みたいな………いや、それよりも大切なものなんだろ?」
晴彦が私の返事を求めた。私はただ私の気持ちを分かろうとしてくれる晴彦が嬉しくてこくり、と首を縦に振った。
「それがもしかしたら元に戻るかもしれないんだ。手伝いたいって思うよ。俺も出来るならまた自分の足で走りたいしな」
眼が潤んでしまう。慌てて顔を下に向ける。
「…………ありがと」
その声は少し涙で濡れていた。私は目をこすって拭うと晴彦にこの辺りで一番、斜度が高い坂を知ってるか、と尋ねた。
「ならバイパス通りの裏山にある坂かな。レース会場の途中にあった、あの坂」
「―――分かった。早速行ってみる。ありがとね」
そそくさと私が病室から出ようとした時、「おい」と晴彦が呼び止めた。
「やるんなら成功させると思ってやれよ」
ガツンと思いっきり頭を殴られたような衝撃を受けた。そうか……もし、翼が出るのに成功したら――――もう晴彦と会えないんだ。
今更のことにようやく気付く。
振り返ると晴彦は私を見ていなかった。
「じゃあな」
「…………………さようなら」
この一言を絞り出すのに、私はどれだけの覚悟をしたのだろうか。
それは―――私だけの秘密だ。
              *
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………………ふぅ――――――
 
「もう一回っ!」
私はバイパス通りの激坂の頂点から一気に駆け出す。早朝のひんやりした空気が肺にしみる。
耳元で自分が生み出した風の音が流れていく。足は不思議な力と相まって前へ飛び出す。
コンクリートに足を力一杯に叩きつけ………飛び上がる!
『どんっ!』
小さく舌打ちをする。また失敗した!
「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ!」
悪態をついていると、いつの間にか坂を下り終えていた。
乱れる呼吸を整え、坂を登っていく。
「なんで………っ!」
いくら飛び上がっても翼は出ない。一瞬の滞空も許されず、次の足が地面につく。
東の空から太陽が昇り出す。もう夜明け寸前だった。
真夜中からやってるのに、まだ一秒も浮かべない。
――――――もう無理なのかな……………
そんな考えが表れ始めたのは何時間前だっただろう。
もう自分を叱りつけるのにも疲れてしまった。
再び頂上に立つ。
坂の上から見る町の景色は声を上げたくなる程、綺麗だった。息を吸えば清らかに澄んだ朝の空気が体に行きわたる。山々の間からこぼれる朝日が入道雲を照らしつける。
「きれい………」
思わずつぶやく。
 
―絶対に諦めない―――――
 
晴彦が私に気付かせてくれた大切なこと。
それは口で言う程、簡単じゃない。
結果が、現実が私の決心をくじこうとする。
「……………ちくしょぉ」
目から一粒の雫がこぼれる。朝日を町の景色を写し出した雫はゆっくりと地に向かって落ちていき…………――空中で吹き飛んだ。
青い暴風が、私の横を通り過ぎた。
「何してんだ! おいてくぞっ!」
晴彦が………なんで? だって………あれ?
あんた、私と病院で別れたじゃない。なんで――ここにいるのよ。
私がどれだけの……どんな思いでここにいるのかわかってるの?
私の内から次々と出てくる想いを置き去りにして――――――
私は叫んだ。
「待って! 私も一緒に………連れてって!」
走る。走る。走る。走る。
美しい景色も、澄んだ空気も置いて――
私は駆け降りる。そして、全ての想いを込めて………飛び上がる!
『だんっ』
夜明けの光が粒になって私の背に集まり、一粒一粒が純白の羽に変わる。
ふっと体が軽くなる。体の中が温かい。負荷が、抵抗が、重力が消えていく。
そうやって、全てのしがらみを一つ一つ消していき――天使の翼が広がった。
スゥゥゥゥゥと空を滑る。風が私の体を撫でていく。
晴彦が回している。その上を私は飛んで追い越した。
              *
「ははっ………あいつ楽しそうに飛んでるな」
ぽつりと、俺はか細い声でつぶやいた。
陽の光を一杯に浴びて青空へと飛んでいく天使を見ながら。
「もう………会えないよなぁ」
最初から最後まで本当にめちゃくちゃだったなぁ………あいつ。
でも――――――
「……楽しかったぜ」
こうして天使は空の彼方へと消えて行った。
「…………行っちまったなぁ」
気が付けば、俺はうつむいていた。
…………あいつに前向けって言っといて……俺がうつむいてたら世話ないよな。
俺がもう一度、空を見上げると――――目の前に天使がいた。
スッとシエルが俺の顔に近づく。額に柔らかい感触が広がる。

「………ありがとう」
シエルは笑顔でそう言い残すと空高く飛び立った。
「…………あぁ、じゃあな………シエル」
空から白い羽が一枚、ひらひらと揺られ―――少年の手に乗る。
シエルの翼は、風を感じて空高く舞い上がった。












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