リ:スタート
アンビシャス


「春」という単語から、あなたは何を思い浮かべますか?
 さくら? 入学式? 春の新ドラマ? 
 どれにしたって、終わりと始まりの季節のイメージが強いです。小難しい彼曰く、
『草木が芽ぐみ、花がつぼみをつけ、眠っていた虫や動物が起き始める。こういった事実から今日のようなイメージを形成したんだ。日本じゃあ三月が年度替わりとされ、様々な区切りとなって――――』
 はい、まぁ、私の耳で拾えた所はここまでなんだけど(他はすーっと通り過ぎていきました)
 とにかく、私が何を言いたいかっていうとね、普通の人達は春がスタートラインだということなのです。
 春から○○しよう。入学したら○○する。頑張るぞ。おーっ。エトセトラえとせとら。
 まぁ、こんな風に決起と決意の季節でもあるわけで。でもね、たいていの人はね、一か月もしない内になーんかなぁなぁになってしまうんですよね。
春の陽気にあてられて。新生活に振り回されて。
こんなとこかな? 思ったより例を挙げれなかったけど、まぁ、しょうがないよね。だって、ほんとに、自然と、ほろほろ~って崩れてくんですよ、決意。そこに理由なんてないもの。
あっ、ちょっと待って。私のこと毒舌だと思ってる? もしそうだったら、訂正させてください。
だいじょうぶ! 私もだから! ドンッ!
 とまぁ、私もあなた達とおんなじ、普通なの。
 受験乗り切って、高校入ってはや半年。もう秋、もう二学期。春にダイエットはじめて、成果はゲフンゲフン。
今は深夜二時にアイス食ってるでござい。
 だって美味しいんだもん。
 とまぁ、そうじゃない人もいるだろうし、そういう人には素直にごめんなさいだけど。
自分でやろうと決めたことをやり切った人って、きっとずっと少なくて。
私はそんな意思が弱くて、やり切れない自分が嫌いで。
なのに「まぁいいや」って流せる自分をダメな人間とけなして。
 
 自己嫌悪を友達と遊んだり、忙しさで誤魔化して。
 平和で楽しい日常に流されるまま。
 自分で掴みとったものは何一つない。
 そんな未来が待ってる、結果が分かり切ったレースが始まった時。
 スタート合図のピストル音でスタートラインを蹴ってすぐの時。
 みんなが誘導の人(ふつう)に従って、同じ方向へ行く流れの中。
 
 私は、見たんだ。
 流れる日常に抗って。
みんなが従う「普通」に逆らって。
 もう一度、スタートラインに向かう彼を。

 自分が望むスタートを切るために、逆走した彼を。
 意志が強くて、ぶっきらぼうだけど、優しい――――大好きだった彼を。
              *
 わたくしっ町田弥生、一六歳。今日から花の女子高生となりました。制服が可愛いという理由だけで入った高校の制服を着て、ルンルンでこれから三年間通う桜並木の通学路を歩いて……
「いだいいだいいだいっ! ムリ、スキップムリ!」
 靴擦れになりました。
「う~、なんで~? こうならないようにちゃんと幅広いローファー買ったのにぃーー」
 新しい靴履いたら、大抵こうなっちゃうから今回はそうならないようにしたのに! 幅が広めの、ゆったりしたピカピカローファーを、私は恨めしそうに睨んだ。
「踵擦れないし、見た目も可愛いから買ったのに……」
 履いてると分からないが、中が淡いピンクのローファー。感じの良い店員さんが勧めてくれた一品だったのに。
「もう二度と行かないあの店」
 理不尽な苛立ちで顧客を一人失った靴屋。だが、これからの高校生活のすべてが左右されかねない入学初日に、この仕打ちは重い。下手したらそれだけでクラスに馴染めず、グレーな青春を送ってしまうかもしれない。だから、その程度で済ませる私、優しいなぁ~。
「まぁ早く家に出といて良かった。普通に出てたら絶対遅れてたもん」
 私を漫画でおなじみの「ちこくちこくー」女と一緒だと思ったら大間違いよっ! 読者と作者に都合の良い女でいる気はないの!
 まだ誰も通ってない通学路の脇に座って、私はローファーを脱いだ。踵のヒリヒリが収まらないけど、脱ぐとだいぶ楽だ。
 ふぅっと一息ついて、空を仰ぐと桜が空を覆っていた。桜の枝の向こうに水色がちらちら覗いてる。綺麗だな。
 私は脚を伸ばして、桜の木に背を預けた。ちょっとした花見気分だ。
「……いま人来たらこっぱずかしいなぁ~」
 あっ、でもそれが良い出会いになったりして。脳内で青春漫画を描いて、妄想と桜景色に酔いしれる私。
 舗装された通学路を叩く足跡は未だ聞こえない。そりゃそうか。だってまだ七時だもん。
「それに誰もいないからこうして喋ってるんだしね。さすがに他の人いる中で独り言つぶやく勇気ないない」
 誰に対してでもなく右手首を振る私。そう、だから、この誰もいない道をもう少しゆっくりしていこう。それに今いいとこだし!
 主人公(自分)がイケメン男子高生二人に別々で告られたシーンだからいま! 
 脳内漫画がクライマックスを迎えて、私のテンションもマックス!だから、キャッキャッウフフしてる私は気付かなかった。
 コツコツと、通学路を叩く足音を。
「――女子が道に足ほっぽりだしてんじゃねぇよ」
 低くて、ぶっきらぼうな声に、高校デビューで染めてウェーブかけた茶髪が跳ねた。――まさか本当に素敵なであ
「……おい、人のツラ見て露骨にがっかりすんじゃねぇよ」
「えー、何言ってるのー、ぜんぜんガッカリしてないよー」
「棒読みだからって伸ばし棒を多用すんな。つかお前の目どうなってんだ、瞳が横線みたいになってんぞ」
「なーんのことかなー?」
 目つき悪い。オールバックださい。背高いけど足短い。線の細い体。右手には私も最近まで使ってた単語帳。モサい。想い描いたヒーローとは大違いの、普通の人だった。
 ちなみに我が母校の男子の制服は壊滅的にダサい。女子とは天地の差で、見学に行った時は何の差別だと目を疑った。あれじゃあ、たいていの男子の外観年齢は実年齢プラス三十歳と化す。
 この圧倒的ペナルティは相当のイケメンでないと打ち消せない。
「でも目つき悪い以外はまぁマシ……だよね。ひと工夫すれば、化けるかもしれな」
「口から思考だだ漏れだぞ。悪かったな、イケメンじゃなくて」
「はっ! あっごめんなさい。勘違いしないでね、マシなのは顔のパーツであって、スタイルはどうしようもないから」
「はっはっは、なんだコイツ、初対面の人間に向かって失礼が留まる所を知らない」
 男子の目は笑ってませんでした。でもまぁ、確かに私が悪いや。目つきの悪い男子の言い分通り、初対面の相手にこれは失礼だ。
「ごめんなさい。初日だから、ちょっとハジけすぎちゃった。私、町田弥生。まぁ、あなたと同じ一年生。よろしくね」
 すると、笑わない系男子がにやりと頬を歪めた。その悪戯好きな子供のような、漫画の悪役のような笑みに、不覚にも心臓が高鳴った。
「二年の須藤匠だ。こちらこそよろしく、後輩」
 ヒュッ、と高鳴った心臓が凍りました。途端、額から滲む焦燥感。
「すすすすみません、ごめんなさい! せ、先輩だったなんて知らなくて! 後生ですから変な噂流さないで! 私の青春を灰色にしないでぇぇぇーーーー!」
「お前、俺をどういう人間だと思ってるんだよ⁉」
 桜の木の下で待ってたのは、こんなロマンチックでもなんでもない出会いでした。
              *
「それで? なんでこんな所に座ってるんだよ。しかもこんな早くに」
「そ、それがですね。初日に遅れてクラスで孤立して、灰色の青春にならないよう早めに出たんですけど……靴が合わなくって」
「お前の青春灰色になりやす過ぎだろ。って……あぁ」
 私が暗に踵をさすると、匠先輩は大体の事情を察してくれた。
「そういうこと……だから道に足放り投げてたのか。んで、そこに脱ぎ散らかしてるのがお前のローファーか」
 匠先輩はしゃがんで私のローファーを一足、手に取った。私はジト目で
「嗅がないでくださいよ……?」
「お前そろそろしばくぞコラ。頭に気をつけろ」
 ローファーを掴んだ左手を振りかぶってみせる先輩。でも、考えてみてほしい、そもそもなんで私の靴を手に取る必要がある? 
「靴を持つ意味が私にはわかりません」
「そうかよ、じゃあ言うけどな。お前、靴擦れしやすいだろ? だから幅の広いこいつ買ったんだろうけど、それ意味ないぞ」
 私は驚いた。だって先輩と私は初対面で、なのに家族と友達しか知らないことを当てたのだから。
「まさかストk」
 しばかれた。ひどい。暴力反対、男尊女卑。
「お前の足、土踏まずがないだろ。そういうのこんにゃく足つって、靴の形に合わせて足が変形するんだよ。ふにゃふにゃの弱い足だから」
「なんで私の足の形知ってるんですか⁉ 俄然、信憑性が増しましたよ! そして私の足がスライムだった件について!」
「通学路に足放り投げてたら嫌でも目に入るだろうが! あとスライムほど形が変わる訳ではない! とにかく、お前の足は幅狭くて、甲が低いから幅広の靴は絶対に履いちゃダメなんだよ。結局、歩いてる内にパカパカ浮いて、摩擦が起きるからな」
 そういわれて心当たりがある。ここまで歩く時に確かにパカパカと音が鳴ってた。なんだか馬になったみたいでわざと音を立てるように歩いてたけど、そういうことだったんだ。
「まぁ、原因分かったところで『ふーん』って感じなんですけどね」
「確かにそうだけど、なんか腹立つなぁ」
 だってホントのことだもん。うんちくを披露されても、この痛みが消える訳じゃない。
それにこの先輩、ところどころ言い回しが小難しくて、少し苦手。すると、ズイッと先輩が何かを私の目の前に突き付けた。
「なっ、なん……?」
「絆創膏だよ。貼れよ。ちょっとは痛みマシになるだろ」
 先輩は来た時と同じような、愛想のない口調で私の手に絆創膏を手渡しした。男の手のゴツゴツした感触にどきりとしながら、私はお礼を言った。
「あ、ありがとうございます」
「別に。それじゃあな。遅刻すんなよ」
 そうして、そそくさと先輩は立ち去って行った。右手に握っていた単語帳を見ながら。
 ずっと握ってたけど……もしかして優等生なのかな。そう考えると、なんだか色々納得がいく。
「……良い先輩だな」
 私は靴下を脱いで、もらった絆創膏を踵に張った。まぁとにかく、これにて弥生復活! 再びローファーを履いて、髪型を整えて、ばっちりキメてから私は高校への道のりを……
「痛い痛い痛い! やっぱり痛い! 先輩助けてぇぇーーっ!」
              *
「ほんっとに何なんだよお前はっ!『この前の、最後の』世話の焼ける奴だなぁ!」
「すみません……。でもこうして勉強手伝ってるじゃないですか。それで勘弁してくださいよ。『数がたくさんの』は?」
「manyだ!」
「じゃあ『量がたくさんの』は?」
「much!」
 わたくし、町田弥生は生まれて初めて男の子におんぶしてもらっています。っていうかヤバいヤバいヤバい! すっごくドキドキする! 大丈夫だよね? 声とか態度に出てないよね⁉
 初めて異性とこんなに密着して動揺を隠せない私。思ったよりも大きい背中に、かぁっと頬が熱くなってるのが分かる。
 そもそもどうしてこうなったんだっけ。私はおんぶされる経緯を思い返した。たしか、先輩から絆創膏をもらったのは良いんだけど、靴が絆創膏ごと傷と擦れて、痛くて歩けなかった。
 それを先輩はわざわざ走って戻ってきてくれて、今に至るのです。
先輩の単語帳から私が問題を出すのが条件で。そして問題を出してる内に、あることに気付いた。
「先輩、さっきから思ってたんですけど、この単語帳に載ってる単語って……高校受験に出てくる英単語ですよね?」
 なんだか見覚えがあると思ったら、入試終わった瞬間に私の頭から去っていった英単語さん達だった。
「そうだよ。それがどうかしたか?」
「いえ、ちょっと気になって。二年生なのにどうして中学の勉強してるのかなって」
「――別に。お前には関係ないよ」
 相も変わらず、愛想のない返事に私は眉をひそめた。いや、年上の異性に愛想を求めるのはおかしいのだけど、でも、そんな突き放す言い方しなくてもいいじゃない。普通の男友達よりは密なことしてるんだから。
「……お前、さっきからなんで上下に身体揺すってんだ?」
「私は、私の、私に、私のモノ、は?」
「I・my・me・mineだ。いや、この体勢になる時に覚悟はしてたけどよ」
「you・your・you・yoursは?」
「……肩から頭出すな。髪くすぐったい」
「you・your・you・yoursは⁉」
「……あなたは、あなたの、あなたに、あなたのもの」
 先輩を黙らせて、私はグリグリグリと先輩に押し付けていた。まぁ、確かにね? 二次元にいる彼女たちと比べたら、私なんてぜんぜん美少女でもなければボンキュッボンでもないけどね? 
 ――私だって思春期の男子をそそのかす位のモノは持ってるんだからね⁉
「私はあなたに押しつけている」
「I am pressing on you……なぁ目的語のOが一個抜けてるぞ、その問題。文章的に第四文型だろ、SVOOの。それだと何を押しつけてんのかわからな」
「っ‼ I can easy fascinate to you!」
「私はあなたを簡単に魅了することができる。……ん? あれ、『魅了する』なんて単語そこに入って……」
 私の出した問題に怪訝な反応を示す先輩。っていうか、どの単語が入ってるかレベルまで覚えてるなら問題出さなくて良いじゃん‼⁉この時、不運にも私の指先はスマホの音量ボタンに触れてた。
 ピコーンッ、という電子音が先輩の耳元で鳴って、
『I can easy fascinate to you』
「へあっ! 裏切ったわねゴーグル先生!」
「てめぇなにググってんだよこらっぁ‼⁉」
 それから私とゴーグル先生は翻訳機能をフルに用いた情け容赦なしの問題を出したんだけど、その全てをことごとく解き破ってみせた先輩なのでした。
            *
「ほら、こっからはもういいだろ。朝早くて助かったな。あんなところ見られたら色々めんどくさいことになってたぞ」
「……そうですね」
 校門から玄関までの道のりを警戒していたが、他の生徒とは無事に出くわさなかった。確かに高校初日に、先輩におんぶされて登校してきた新入生がいたらさぞや面白い噂が立っていただろう。
「上履きがスリッパで良かったな。変わった高校だと思ったけど今回は救われた。先に保健室行っとけよ。靴擦れとはいえ消毒しないと化膿するからな」
「そうですね」
「……急になんだよ、腹立つなぁ」
 淡々とした返答に、先輩は露骨に顔を歪めた。私は肩から下げてた学生バッグから赤いスリッパ(この高校の上履き)を地面に落とした。脱いだローファーを左手に持ち、一年生を示す赤色のスリッパに足を通した。
「……そんな迷惑そうにしなくたって」
 途中まで楽しかった私がバカみたいじゃない。口の中で呟いた言葉は彼の耳には届かなかった。
「? なんか言った? あっ、単語帳返して。問題ありがとう」
 テキパキと別れの準備が整っていく。
きっともうあんな風に話すことはないだろう。見かけたり、偶然会うことはあっても、今日みたいに話せる機会はおそらくない。
だって学年が違うから。二年生の階に通う度胸なんて私には無い。だいたい、違う教室に一人で行くだけで難易度が高いのに。
 自然と頭が重くなって、うつむいてしまう。いっそのこと、この単語帳を返さないでおこうか。
 そうしたら、向こうからやってきてくれるだろう。そうしたら……。ここで私は自分の感情の正体に気付いた。あぁ、私さみしいのか。匠先輩と別れることを惜しんでるのか。右手に持った単語帳を握る。
「あの先輩……また会えますかね?」
「はぁ?」
 先輩の素っ頓狂な声に、カッと体中の熱が胸から頭へ昇った。熱い、ゆで卵になりそう。
「あっ、か、勘違いしないでくださいね。さっきも言いましたけど先輩は私の好みじゃないですから!」
「あぁ、そうだな。もう知ってる。問題にして俺の口からわざわざ翻訳させてたしな」
「でしょ⁉ だから、別に好きじゃないんですけど……馬が合うというか話してると楽しいというかそう同い年の子と話してるみたいで落ち着くんですよ! だから、その……ライン交換しませんか」
 いったぁぁあーーーー‼ 
初対面の人に連絡先交換申し込んじゃったぁぁぁぁ! 自分の大胆さにびっくり! なんなの、まさかJKになって、性格も変わったの私⁉
 先ほど言った事はホント。別に先輩は好きじゃない。けれど、ここで別れてしまうのももったいないと思う位には楽しかったのだ。
 だから――――――
「話はそれで終わり?」
 ぶっきらぼうな返答に、私は固まった。するりと握っていた単語帳を取られる。え、なにその反応? 私の脳裏に先ほどの先輩の言葉がよみがえった。
『ほら、こっからはもういいだろ。朝早くて助かったな。あんなところ見られたら色々めんどくさいことになってたぞ』
やっぱり迷惑だったってこと? あぁーそうだよね。でも確かにそうだよね。通学中に人を運ぶなんてめんどくさいもんね。
「そ、そうです。そうですよね。迷惑だったですよね。ごめんなさい。ここまでありがとうございます」
 まぁ別に良いじゃない。だって好きじゃないって自分で言ったじゃない。そんな気にする必要ないわよ。いちいち大げさな………………
慰めて、肯定して、誤魔化してると、サイドの髪がパサっと垂れた。
 自分のつま先をジッと見つめることしか出来ない。
「別に今、交換する必要ないと思うけど」
 顔を上げる勇気が出ない。この場にいたくない。俯いたまま走り去ろうと足を踏み出した。
「あの、それじゃ」
 バンッッ! と音を立てて振ってきた赤いスリッパが下を向いた視界の隅に入ってきた。
 …………あか?
 玄関には先輩と私しかいない。だから、現れたもう一つのスリッパは先輩のモノであって、でも二年のスリッパは緑色で――――っ‼⁉
 バッと弾かれたように顔を上げると、そこには微笑する匠の横顔があって。
「クラスのラインに俺のアカウント入ってるから、今日の夜にでも登録しなよ。今、スマホ出すのめんどくさくて。そうかそうか、町田は俺と話してて楽しかったのか。男冥利に尽きるよ。お前の縋りつく姿も見物だったし、中々楽しい登校だったよ」
 そして、あの、無邪気で邪悪な笑みを浮かべて、クラスメイトの匠君は単語帳のチェーンを指でクルクル回した。
 その笑みから醸し出される危険な香りと色香に、私の心臓がドキッと胸を打った。
まるで本物の刀を目にして心躍る少年のような感慨が沸く私に、匠は悪戯に嗤い掛けた。
「それじゃあ、ホームルームでまたあおっか? 初日すっぽかした町田弥生さん」
「…………………………………………………………………………………………………ヴェッ⁉⁉‼‼」
 入学式は昨日でした。
             *
 初っ端盛大にやらかした私でしたが、クラスメイトの皆さんは優しく受け入れてくれました。というか高校生活初日をすっぽかした女子生徒として話題になってました。まぁ、つまり、転校してるわけでもないのに転校生のような扱いを受けて頂いて、無事にクラスに溶け込めたという訳で。
 先生には怒られたけど。どうも昨日の昼に家に電話があったらしいのだが、出たのが父に呆けを危惧されてるお母さんで、内容をすっかり忘れていたらしい。だから私に伝わらなかったらしい。
 まぁ、ともかく、私は平和な高校生活を順調にスタートできまして。
ちなみに匠のクラスでの扱いはというと、歯に衣着せずにぶっちゃけて言うと浮いていた。
 早速、一緒にいるグループと、自ずと雰囲気で決まるスクールカーストが定まる中、匠君の立ち位置は不思議だった。
 まず、クラスのみんなと喋らない。休み時間は自分の机で何やら勉強していて、お昼は次の授業の教材と問題集を抱えて教室へ出て行ってしまう。
 ここだけ切り取ったら、頭の良い陰キャラだけど、匠君の全貌はこれからだ。
 まず、絶対に物怖じしない。強面な数学の武田先生のミスも遠慮なく指摘したり、運動部やクラスの人気者にも必要なことがあったら、はきはきと言う。『先公来るからちょっとボリューム下げといた方がいいぞ』とか『その冗談は性質悪いから○○さんに謝っとけ。でないと後でめんどくさくなるのはお前だぞ』とか。
 カースト上位と対等に口をきくので、一概に暗い人ではない。
 二つ目、ストイックに結果を出す。
 というのも、どうやら女子たちの預かり知らぬ所で腕相撲大会が開かれていて、匠君はそこでけっこういいとこまで勝ったらしいのだ。さすがに野球部にはかなわなかったけど善戦したらしく、一部の男子は見直している。
 三つ目、すごいマイペース。
 委員会決めの時、毎日朝早く来て勉強してる匠君にクラス委員長を任せようという流れが生まれた。だって真面目そう、というあいまいな理由で決まりそうになった時、匠君ひとこと。『イヤです』。ひそひそ雰囲気悪くなっても、黙々と勉強していた。
だから、本当に文字通り浮いてるのだ。グループにもカーストにもとらわれず、雲のようにフワフワと我が道を征く。
彼から話しかけてこない限りは喋らないが、唯一、第三者から話しかけて会話になるのが私だった。以来、私は匠君とクラスの懸け橋となっている。
えっ、私? 私は普通だよ。話の合う子達とお昼食べて、カーストも真ん中くらい。
「いや、お前ひそかに男子に人気だぞ。話しやすくて、笑顔が可愛いって」
 吹いた。いや耐えた。ごくりとカフェオレを飲み込んで、口元にあてた手を離した。
「いやいやいや、急になに言ってるの匠君! だいたい、みんなそんなこと教室でいってなかっ」
「更衣室で喋ってたの、聞いてた。っつーか図書室で飲むなよ。飲食禁止だぞ」
「バレなきゃ何やってもいいのよ。そんなことより私の男子への評価の方が気になるよ! 他には? 他にはなんて?」
 興味津々で若干前のめりになりながら、私は向かいにいる匠君に詰め寄った。
「あーっと……なんか言動? 仕草が可愛らしいだの、どんな話題もそれなりに話せて新鮮だと。……お前けっこう多趣味なんだな」
 匠君は私の手元――ファッション誌、少年誌、少女雑誌を始めとした雑誌の束を一瞥した。
「無理してんの? 明るい青春生活ってやつのために」
「いや全然? 私、ハマりやすい性格だから。勧められたらそのままどっぷり浸かっちゃう感じ。男子と話題合うのはまぁ兄貴の影響かな。漫画とかアニメとかドラマとか小さい頃から家族で一緒にみてたし」
 深夜枠のあれこれもね。物語が好きな家族で、シーズン毎にどのドラマやアニメを視聴し続けるか熱く議論するのは我が家の習慣だ。
「いやー、そっかー、私、男子に人気なんだー。ふふふっ」
 そう思うとこそばゆい気持ちでいっぱいになる。ちらっと様子を窺うと、匠君は「すごいな……」って素直に感心してた。こそばゆさ全開、足バタバタ不可避ナウ。
「良かったな。その分だったら灰色になるようなことないだろ」
「そうだねー、まぁ、とりあえず高校一年目は成功!」
「そうかそうか成功か。じゃあ今度の期末も大丈夫だな? 俺はお役御免ということで」
 ガタリと椅子を引いた匠君の腰に飛びついた。雑誌の束が崩れるが知ったこっちゃない。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! もう休憩終わりにするから見捨てないでください! まだ見ぬ後輩と友達になれる気がしない!」
「中学と高校の最大の違いだよなぁ、留年って。まぁ、良いんじゃないか? 四年間もいれば友達の数も増えるぞ。将来のために人脈は築ける時に築くべきだ」
「築くタイミングと理由がしょうもなさすぎる件について‼」
 そう、私は高校を舐めていた。主に勉強方面において。余裕かました中間テストは真っ赤っかの血の海で、担任にも脅迫まがいの発破をかけられ、私は匠君に泣きついたのだ。
 六月。湿気が怨敵となりつつある月、私と匠君は放課後を図書館で過ごしていた。グループの子はみんな部活に行ってて、帰宅部の私にはもう彼しかいなかった。そういう諸々の事情を把握していながらこの男は……っ!
「ちょっと休憩入れた途端にドサドサ娯楽雑誌借りてきやがって。勉強時間と休憩時間の配分がおかしいんだよ三対七くらいになってんだよ勘弁しろよ覚える気あんのかお前」
 なんて顔で笑うんだ……! それにときめく私も私だけども‼
 そう私は匠君の、あの笑顔が頭に残ってしょうがなかった。だって、あんなの中々見られないもん。普段からもついつい目で追っちゃうんだけど、お昼や休み時間はグループの子と一緒で話せないし、そっちを断ったら付き合い悪くなっちゃう。だから、今がチャンスなのだ。
「い、いいじゃん、匠君いっぱい勉強してるんだし! 休憩中も難しそうな本読んで……たまにはガス抜きしないと破裂しちゃうよ⁉」
「風船か俺は。いいんだよ、論文とか学術書とか読むのが好きなんだか、ら……ドン引きすんなよ」
 さーっと血の気が引いていく私。え、だって学術書とか何が面白いの? っていうかページ一面文字びっしりとか死んじゃう。ラノベですらちょっときついのに。
 心外だとでも言いたげにフンと鼻を鳴らすと匠君は
「知りたがりな性格なんだよ、俺は。そうだな……昨日のキング雑学みた?」
「あっ、みたみた。ドラマまでの暇つぶしに」
「熊って車と並走できるんだって。どう思う?」
「どうって………………へぇー、って」
「それ」
力強くビシッと私を指さす匠君。「へ?」と間抜けた声を漏らす私を置いて匠君は続けた。
「そういうのが好きなんだよ。へぇ~すげぇなぁ~って感じ。……お前には分かんないだろうけ」
「あぁ、まぁ、分かるよ。ちょっとだけね」
 何気なく放った私の一言に匠君が今まで見たことないくらい劇的な反応を示した。そんなに驚くことでもないんじゃない? 
「だって知らないこと知ったら程度の差はあるけど、嬉しいでしょ? 自分だけが知ってるって気分になって気持ちいいし、友達もそれを知ってたら知識を共有できて楽しいじゃない。私は分かるよ、その感じ」
 スポ根で云うならその競技のルールやテクニックを知る感じかな。他にもバトル漫画なら水を圧縮すればダイヤも斬れたり、真空で人の肌が切り裂ける話などは素直に『へぇ~すごいな~』って思う。
 要はそういうことでしょ?
「……お前変わってんな」
「匠君に言われたくないよ!」
 ちなみに匠君の女子の評判は『なんか変わってるけどノートとか見せてくれそう』だよ! 安心して授業寝てられる道具扱いだよ!
「普通の奴はどうでもよさそうなツラするんだけどな」
「まぁ、それはあれだよ、匠君の説明が小難しんだよ。もっとドカーンとかビャッとか擬音語使えば大丈夫だよ」
「逆に分かりづらいだろそれ」
 クスッと、匠君が初めて、普通の笑みをみせた。口の端が上がる。顔がほころぶ。――気持ちが溢れる。
「好きです。匠君」
 しんと静まり返った図書室に、しとしとと雨が降る音だけが響く。
「……タイプじゃないんじゃなかった?」
「いま好みが変わったんです」
「なんだそりゃ」
「だ、だから、その、あの――私とつきあ」
 不意に匠君の体が伸びて、私の唇を匠君の人差し指がふさいだ。
「Please, go steady with me. Miss yayoi.
(俺と付き合ってください、弥生さん)」
 突然の英語に、戸惑う。
だって、何言ってるか分かんないのに、何を言ってるか分かるから。
 指が離れる。真っ赤な匠君を正面から収める。そして、
「オフコース!(もちろん!)」
 習ったばかりの英語を紡いだ私の唇と彼の唇が重なった。
            *
付き合ったことは特に言ってないのに、クラスのほとんどは私と匠の関係を察していた。だから少女漫画みたいな、誰かの嫉妬を買ったのが原因の騒動なんて起きず、平和に私たちは過ごした。
 一緒に帰って、からかって、からかわれて、いじられて、甘えて。たまに友達から進み具合を探られたけど、気にしなかった。だって、いつしようが私達のペースでやればいい。なにも不安じゃないわけじゃなかったけど、お互い気負わずに、本音を話す仲になっていった。   
まぁ、でも夏休みに入っても手をつないでこないことは文句言ったけど。初デートはドキドキした~。だって初めて私服姿見たもん。やっぱり、あのダサい制服じゃなければ匠はそこそこイケメンだった。まぁ、それ言ったら匠も『お前もそこそこでかいのな。知ってたけど』って言い返してきた。しばいた。
「ほんと、男って勝手! 女は顔ばっかっていうくせに自分達も顔と胸で判断してんじゃない!」
「バカヤロー、それは普通の奴の場合だろ。俺はちゃんと顔、胸、太腿、顔って順番で見て……ドン引くなドン引くな。今のは俺が悪い」
 その日の夜、お母さんにそれを言った。鼻で笑ってた。なんか所詮、そんなもんよって感じで。
「まぁ、下手にかっこつけて言わなかった分マシだったかも」
「あんたも変なとこがツボなのね」
 そんな会話をしてる時も、彼はきっと勉強していたのだろう。付き合い始めてからなるべく遠慮してるみたいだけどデート中もちょっと時間が空いたら例の単語帳を熱心に見ていた。スマホのやり取りも夜遅くまでラインしたら怒られた。
 受験戦争という言葉がある。私も少し前までその戦場にいたんだけど、匠だけはまだあの戦場に残ってるような。そんな感じがした。
『……ねぇ最終日の海だけどさ、やっぱいいや』
『どした?』
『どうもないよw。その気なくなっちゃって。図書館にしよ?』
 OKのスタンプに既読をつけて、スマホを枕元に置いた。大の字で寝転がり、部屋の照明を見つめる。夏休みもあと二週間かー。早いような遅いような。それくらいたくさんのことをやったんだなー。二学期が始まれば、人生初の文化祭だ。
私のクラスの出し物はお好み焼き屋。焼き係総大将は私。前にお好み焼き屋でひっくり返すのが上手かったから、という匠の推薦でまさかの大役を。
「あいついなかったら絶対、給仕係とかやってたのに……」
 給仕係のエプロンも名残惜しいけど、彼氏の勧めだ。応えようではないか。グッパッと手の調子を確認して、私はやる気に燃えた。
「まぁ、まだ早いけどね」
 明日のために私は早めの就寝についた。
          *
「じゃあ、私、本探してるから。席取っといて」
「おう、分かった」
 市内の図書館に入ってすぐに私と匠は分かれた。書架コーナーに足を運んで、お好み焼きの本について探してみる。なんかないかな、経費節約テクニック本とかイスとテーブルの配置の仕方書いた本とか。  夏休み、ろくに準備していないクラスだから、できるだけスムーズに効率よく進めなきゃ。
「え、と……これとかどうだろな」
 頭の上にある本に目をつけて、手を伸ばした。つま先震えてるけどあともうちょいで取れる、その時だった。ヌッと別の手が出てきて、私の獲物を横からかっさらった。目尻が少し吊り上がって、振り向く。
「あっ、町田さんじゃん」
「池上君?」
 意外かつ見知った人物に尖ってた私の目が丸くなった。クラスの人気者、カースト上位の池上君がそこでヘラッと笑ってた。
「すげー偶然だね。まさかいるとは思わなかったよ」
「私もだよ。だって全然そんな図書館にいるようなイメージなかったから」
「おいおい偏見ひでぇなぁ。俺だって図書館ぐらい来るっつの」
 ほい、と何気なく本を手渡された。読むんじゃないの? と小首を傾げると、
「いや、町田さんが取ろうとしてんの見えたから取っただけ」
「そうなの? ありがと」
「今日ひとり?」
「ううん。匠と来てるの」
「あっそうなんだ。……そういや、さっき見たな。なんか勉強してたけど」
「うん、そうだよ。夏休みの間、ずっと私のわがまま聞いて色んな所行っちゃったか」
「えっ、彼女ほったらかして勉強してんのあいつ? ちょっと信じらんねー」
 …………ん? 心の中で首を傾げる私。
「いや、私が良かれと思ってやったことだから」
「俺なら自分の彼女にそんな気遣いさせないけどなー。何をそんな必死こいて勉強してんだろ? よく分かんねぇなー?」
 ……あれ? また首を傾げる私。
「あははは、まぁ、確かに理由は分かんないけど、きっと大事なことなんだよ。私は応援したいし、私のわがままで振り回したくな」
「いやいやいや、わがままくらいしなよ。だって付き合ってんだから。振り回してなんぼでしょ? 男ならそんくらいの甲斐性なきゃ」
 ……あれれぇ? またまた首を傾げる。
 なんだか、会話してる感じがしない。こっちは普通に野球のボール投げてるのに、返ってくるのはラグビーボールみたいな。見当違いの方に弾んでいくというか。学校で喋った時はこんなことなかったのに。
 え、っていうかなに? やんわり匠のことディスってる? 
 パラパラと苛立ちが胸に積もっていくが、池田君は気付いてない。
「あいつよく分かんないよね。文化祭の出し物もむりやりお好み焼き屋にしてさ。男子の中じゃあ、お化け屋敷やりたい奴多かったのに。町田さんも調理係の責任者なんて面倒くさい仕事押しつけられちゃったじゃん。ホント自己中。今だって君をほっといて勉強して……俺だったら、ちゃんと相手の意思を一番に考えるけどね」
 ………………まぁ、これは、あれだね。――――胸くそ悪い。
「そっかー、すごいね池上君は。じゃあ私、匠のとこに行くから」
 適当に相槌を打って、私は池上君の脇を通り過ぎようとした。肩を掴まれるまでは。本棚に押しつけれ、池上君の両手が本棚の側板を突いた。池上君は微笑んでた。
「ねぇ、ちょっと抜け出さない? ここ駅の近くだし、良い穴場知ってんだ。二人で行こうよ」
 池田君はやっぱり美形だ。イケメンだ。そんなイケメンに壁ドンされてる。他の女性ならきっと喜ぶだろうな。だけど、私は喜びとは全く違う感情に囚われていた。
 怖い。
 綺麗なお面を被ったような笑みだ。紛い物の感情の表出だ。匠と全然違う。怖い。
「――――――」
 漠然と気配がして、ふと視線を通路側に回した。だけど錆びついたようにゆっくりとしか首が回らない。でも続けていればいつか終わる。
 振り向いた先には、見たことない顔をした匠がいた。時が止まったかと思った。
「あっ……ち、ちが」
 喉が震えて、上手く言葉を紡げない。外に出せない荒れ狂った想いがまぶたをカッと熱くした。まって、ちがうの、これは、いや、いや、やめて、はなれないで、いや、いやっ、いやっ!
 匠は顔を伏せて、
「よぉー、池上じゃねぇか久しぶり。お前、図書館来る奴なんだな」
 普通に手を上げて話しかけた。
「偶然だな、俺らも図書館来てたんだよ。あっ、で弥生、来たばっかで悪いけどやっぱ帰ろうぜ。ガキ共の読み聞かせ始まって向こうスゲー居づらいから」
 匠はいつもみたいに、いや若干テンション高めでこちらに歩んだ。途中、本棚の空いたスペースを一瞥して、私が抱えてる本に目を落とすと
「池上、こいつの本取ってくれたんだ。迷惑かけたな、そいつチビだから。にしてもサラッとかっけぇことやりやがって。さすがイケ神だ」
 暖簾をくぐる感覚で池上君の手をどかした。そしたら単語帳でおでこ突かれた。「ぐおっ」とのけぞる私の耳元で匠は囁いた。
「んな不安そうなツラしてんじゃねぇよ」
 その時の感動は、今まで読んできたどんな名場面よりも感動した。
匠は私の手を引いて、肩越しに振り返った。滲む視界の中で匠の横顔はあの凶悪な笑みを浮かべていた。
「じゃあな池上。またどっかで会おうや」
 包まれた手の温もりに、強張った気持ちが解けた。涙が出なくなるまで、匠はずっと振り返らずに私の手を引いてくれた。


 駅からけっこう歩いた先にある公園のベンチで私たちは並んで腰を落ち着けてた。スンスンと鼻を鳴らしてると、匠はすごく困った顔をしていた。
「……ご、ごめっんね。せっ、かく図しょ、館でべ、勉強してたのに」
 嗚咽としゃっくりでひどい声になっていた。元からなかった女子らしさがこれでマイナスに振り切ってしまった。でも、匠は憮然と
「やっぱそうか、おかしいと思ったんだよな。お前が図書館行くなんてよ。……別に良いんだよ、勉強なんざ」
 ぽろぽろぽろぽろぽろ、と雫が肌の上で転がる。匠、それ殺し文句だから。余計、泣きやめないから。夕陽が沈んでいき、収まった頃にはとっぷりと夜になっていた。
「…………あいつになに言われたの?」
 ビクッと肩が跳ねた。どうしよう、言うべきかな? でも、あの内容は……。
「………………怒らない?」
「怒んねーよ、どうなろうがお前に非がねぇの確定してんだから」
 私は図書室での池田君のやり取りを話した。一言一句ぜんぶ。少しの間、黙ってから私は口を開いた。
「ねぇ、なんでそんな一生懸命に勉強するの? まるであんただけ受験が終わってない気がしてて」
「…………………………」
 返事は返ってこない。けど腰を上げた。そしてベンチを回り込んで、
「ごめん、正面切って話す勇気なくなった。さっきので使い切った」
「……意外と気小さいね」
 うるせぇとつぶやいた息が私の耳をくすぐった。匠は後ろから私を抱きしめてた。マフラーみたいに回した腕に私は手を添えた。
「言ってみて。怒んないから」
「――――――――――おれ、転校するんだ」
 匠は一つ一つ語ってくれた。どうしても叶えたい夢があること。そのためにはある大学に行かないといけないこと。その大学に行くための高校は難関で一度は落ちてしまったこと。でも諦めきれずに欠員募集の枠で転校しようとしたこと。最初から転校するなら仲良くしない方が良いと思って、クラスメイトとは喋らなかったこと。
「今度、試験あるんだ。大体、学期が終わる頃に募集すっから。だから二学期に俺はいない。……文化祭、参加できない」
「じゃあ、なんで、私を係に推薦したの?」
「わっかんねぇ……迷ってんだ、いま。だって別に今の高校で良い成績とって推薦狙う道もあるし、無理に転校することないんじゃねぇかって。するとしても、二学期終わってから……お前と文化祭いっしょに楽しんでからで良いんじゃねぇかって」
「……なんで私と付き合ったの?」
「気持ちを抑えらんなかった。俺もお前と話してて楽しかった。なんにでも興味持って、楽しむことができるお前を尊敬してた。いっつも小難しいことのたまう俺を突き放さずに受け入れてくれた。お前の笑ってるとこもっと見たいと思った。――お前が好きになった」
 その声はいつもの彼の声ではなくて。悪いことをしたのを隠してた子供がついに白状したような、そんな響きがこもってた。
 匠の告白を一つ一つ胸に落としこむと、パキパキパキって私の中で固い決意が生まれた。それは結晶が出来る工程とよく似ていた。その工程も、匠が教えてくれたことだった。
「試験っていつなの?」
「八月の二十八。あと十日」
「そっか……そっか……」
 ぽんぽんと、匠の腕を叩く。なんかお母さんになった気分。
 ベンチから立つと匠はいつもの匠に戻ってた。赤くなった目には触れずに、私は家に帰った。家の前で匠は気まずそうに言った。
「じゃあ、またな」
「うん……また」
 互いに相手の帰りを見送った。私は家の階段を駆け上がって、ベッドにダイブ。そしてスマホのキーを解除して、クラスラインのメンバー欄を開いた。数秒、スクロールして、見つけた。その人のアカウントを登録して私は通話をかけた。つながった。
『こんな時間にどうしたの町田さん』
「池上君、お願いがあるの。私の言うこと聞いてくれるよね?」
            *
 八月二十六日。試験まで残り二日のタイミングで私は匠を、あの公園に呼び出した。ホントは昼の内に終わらせた方が良かったんだろうけど、罪悪感で身がすくんで収まるのに時間がかかった。
 でも、良い。もう、決めた。
「変な時間に呼び出してどうし……弥生?」
 怪訝な顔になる匠。そりゃそうよね。こんなあっつい時に首元まで隠れるコート着てる女なんて私だけだ。
「正気かお前? 早く脱げよ、冗談抜きに脱水症状になるぞ」
「……………………」
 私は黙って、コートのボタンを外しにかかった。一つ、一つ外す。終わりが近づいてくる。
 真ん中まで外し終えて、私はグイッとコートをずらした。首元が見えるように。
「おい……それ、なんだ?」
「キスマーク。池上君の」
 冷静になっちゃいけない。一気にまくしたてる。
「あんたいなくなるんでしょ? そしたら彼氏ナシになっちゃうじゃない。そんなのイヤ。だって、私の過ごしたい青春に不可欠だもの」
 見たくない。目を逸らしたくてたまらない。でも見る。逸らさない。真っ向から、叩きつける。
「はぁーあ……転校なんて馬鹿じゃないの? わざわざ自分から苦しんで、理由が夢を叶えたい? くだらなすぎて笑っちゃう!」
 まだだ。まだまだ言える。
「たいていの人の一年なんて決まってるの。三月から新生活始めるようになってるの、それがなんだかんだ一番良い。みんな、そのスタート地点を意識して準備するの。なのにあんたはなに?」
 もっと、もっと酷いこと、言えるはずだ。
「自分の満足いくスタート切れなかったからって逆走して。未練たらしいったらありゃしない! 落ちたくせに悪あがきしてんじゃないわよ! そんなことに私との時間削られてたなんて思わなかった!」
 ドラマで、アニメで、漫画で、小説で、名立たる悪役の悪意に触れてきたんだから。
「私は池上君と付き合う。あんたとは大違いよ。好みだし優しいし私のこと一番に動いてくれる! 勉強優先したあんたとは違って‼」
 吐き出せ、悪意を。捻り出せ、醜悪を。
「気持ちが抑えられない? 気持ち悪っ! 楽しんでる私を尊敬?気持ち悪っ! あんたを受け入れた? 勘違いしないで! 私が、私の笑顔が好き? 気持ち悪いっ‼」
 ダンッと力いっぱいに地面を蹴りつける。
「きらいきらいきらいきらいきらい、だいきらい‼ だから別れて‼あんたなんかいらない‼」
 はぁはぁはぁ、って肩が上下する。熱い、熱くてたまらない。
「………………分かった。別れる」
匠が背を向ける。決定的に、離れていく。
もう二度と会えない。会わない。それでいい。
「――今までありがとう」
「っっ‼‼‼ どこにでも行っちゃえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ‼‼」
 匠の背は、見えなくなった。

九月一日。二学期最初のホームルームで、匠の転校がクラスに伝えられた。私は池上君をスタンガンで脅してムリヤリ言うことをきかせたとして、二か月の停学になった。退学にならなかったのは奇跡だった。文化祭は、参加できなかった。……しなかった。
            *
「……彼氏ほしいーーーーーーーー」
 高校二年生、初日。私は二度目になる桜並木を仰いで、叫んだ。停学騒ぎとその理由で一時はすごい怖がられたけど、半年間、私を見てくれていたクラスのみんなが否定してくれて、徐々にそんなイメージは薄れていった。
「これも私の普段の人徳のおかげ……なんてね」
 本当に、私は、人に恵まれてる。家族も友達もクラスメイトも。
「まぁ、お父さんには半殺し。お母さんには一週間ご飯とお小遣い抜き。ついでになぜか兄貴に視聴してたドラマとアニメの最終回だけ見るの禁止されたけど」
 あれ程もどかしい想いをしたことはない。ネットで視ようとしたら、家の全部のパソコンのロック変えられてたし。兄貴はその気になったら徹底的だ。その点を、私も受け継いでるのかも。
「はぁー……最近、靴擦れしないな」
 ぽつりと呟いた。足元を一瞥する。――匠に弱っちいと云われたこんにゃく足は一週間のサバイバルで頑健になり、以来、どの靴を履いても靴擦れしなくなった。
――あ、だめ、泣きそう。
盛り上がった雫がこぼれる前に、乱暴に腕で拭った。
「いつまで引きずってんの、わたしぃぃっ! 前の相手を引きずるのが男、さっさと次の相手探すのが女ってそうお母さんが言ってた! そして私は女! 未来に進む女子高生‼」
 喝を入れる意味合いで、思い切り頬を叩く。キーンと耳鳴りがして、頬にしびれが走る。
「いたた……強く叩きす、ぎ…………」
 私はこの時下を向いてた。視界に映るのは鼠色のコンクリとひらひら舞う桜、そして黒のローファー。その隅に――――足が伸びていた。
 つま先からなぞるように顔を上げていき、そして桜の木に背を預ける男子生徒がいた。生徒は難関高校の制服を纏っていて、ダサいオールバックをしていて、それで
「なんで、いるの?」
「……………………………」
 男子生徒は黙ったまま立ち上がった。
「……お前、最後に言ったろ。『どこにでも行け』って。
――だから、ここに来た」
 透明な涙に、彼が映る。
「お前のお母さん的を得てるな。転校してもぜんぜん忘れらんなかったわ。お前はどうだ? 次の奴見つけたか?」
熱い奇跡を描いていた雫がふるふると首を振った拍子で宙に舞い、道路に沁み込む。
「そうか、なら……もう一回、付き合ってもらってもいいですか?」
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃな今の私はきっと見るに堪えないだろう。でも、それでも良い。私は彼の胸の中に飛びついて――――
「もちろん!」











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