探偵=推理だと思ったら大間違いだぞ‼
アンビシャス


イヤな夢だった。
昔通ってた小学校の図工室に、俺はいたんだ。目の前には、何の変哲もない、一枚の真っ白な紙があってさ。手元には四十八色のクレヨンと色鉛筆もある。なのに、俺の手は少しも動かない。周りの奴らは楽しそうに自由に描いているのに。俺だけ何も描いていない。俺だけ、真っ白なままだ。
 あぁ、だからキライなんだ、俺は。
何も描けない、何も作れない、何も生み出せない自分を思い出させる――白がダイキライだ。
                *

 味気ないアスファルトを鮮やかな黄色に色づかせていた銀杏はいつの間にかどこかへ消え失せてしまっていた。冬の息吹がビルの間を潜り抜け、ネオン街の大通りに吹き荒ぶ。
 陽の光に打って変わって、人工の光が長い夜を照らし始めた中、そのビルはあった。
 特にこれといって特徴のない、四階建ての雑居ビル。怪しい金融機関や派手な風俗店、薄汚い雀荘の看板が一般人に近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。その最上階には、何もない。いかがわしい店も看板もなく、ただのドアがあるだけだ。
 ドアの先は、暗い部屋が広がっている。豆電球の紐が、ドアの近くでプラプラと揺れていた。部屋の中には、必要最低限な家具しかなく、後はあらゆるジャンルの漫画と扇情的なデザインのフィギィア、そして異臭を放つコンビニ弁当のゴミが散乱している。
 そんな汚部屋の主は、部屋の真ん中にあるソファに腰かけ、テーブルのノートパソコンを前に気味の悪い笑い声を上げていた。
「はひゃひゃひゃひゃっ! ダイゴローさんまた馬鹿な発明してら。ほんっと、この人の発想には目を見張るもんがあるわ」
 小汚いスウェットを着た細身の男が友人のブログをチェックし、腹を抱えていた。その片手間、高速でキーボードを叩き、何かを打ち込んでいる。パソコンの画面には、友人のブログと、あるサイトを映したタブが二つ表示されていた。もちろん、友人というのは、ネット上で知り合った、顔も本名も知らないおともだちのことである。
 現実世界で友人をつくるなんてマジ不毛主義の彼にとって、この時代に産まれ落ちたのは、幸運といえる。
 二〇XX年、科学の大幅な進歩、それに伴う人間の脳の進化により、発明品を作るのが当たり前となった時代。空飛ぶ車、人間と変わらないロボット。二〇世紀初頭ではフィクションの中だけにしか登場していない空想はあって当然の現実となっている。
 科学一色に染まり切った世界の中、部屋の主――有輝朝摘――は一凡人として、天才たちの作り出した発明の、甘い汁を吸う人生を満喫していた。
 そう、していた、だ。
 ビルの階段を誰かが昇ってくる音を耳にする。瞬間、朝摘は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
(あんな軽い足音、あいつしかいねぇだろ)
 朝摘がゲンナリしていると、部屋のドアが勢いよく開かれた。かさかさかさと、部屋のゴミをたかっていたGが去る。パチンっと紐が引っ張られ、豆電球に光が灯った。
 億劫な様子で後ろを振り返ると、開け放たれたドアの前に、どっしりと足を開いて、腰に手を当てた少女が立っていた。反対の手には豆電球の紐が掴まれている。
「お……おかえり~、リカちゃん」
「エ・リ・カです。変なあだ名つけないでください。朝摘おじさん」
 叔父がつけたあだ名にとげとげしい口調で訂正を入れた彼女こそ、朝摘の幸せなニートライフを壊した、愛しい愛しい姪っ子の有輝エリカ、その人であった。
           *

 朝摘にはエリートの姉がいる。海外の仕事に行くから娘をしばらく預かっていてほしいと頼まれたのは一年前のことだった。
 もちろん断ろうとした。姪といっても、赤ん坊の時に一度見ただけだし、何よりこの幸福なニートライフを子守りなんかで崩されたくはない。 
 だが、姉には幼少期に幾つも弱みを握られていたため、早い話、脅された。
(ざっけんじゃねぇぞ女狐コラてめぇ、娘の名前何でカタカナやねん、漢字にせなイジメられるやろうがドあほう、今のご時世、小学生ですら指紋消せるんやで、証拠つかむのも一苦労なんやぞコラ。以下略)
 こんな感じで不満たらたらのまま、姪を預かることになってしまった。
「まったく毎日毎日飽きもせず、人形観賞に漫画ばっかり……こんなアナログな物のどこがいいんですか?」
 エリカは開口一番、憮然とした溜息をついた。幼い顔立ちからは、すでに姉そっくりの高慢さが見てとれた。
「うっせぇぞペチャパイJK。二次元なめんじゃねぇぞコラ」
「誰が幼児体型ですって⁉」
「そんなこと一言も言ってないっすよ⁉」
 そう、姪は残念ながら、いやほんとにもう残念ながら傍から見れば小学生に間違われるくらい、見た目が幼かった。だが精神年齢は花の一六歳である。
 本人はかなり気にしているらしく、大人の女である母の真似で、ベージュのロングコートに身を纏っている。
 まぁ正直、服に着られてる感はあるけどな。袖は余ってるし、口元は襟で隠れている。
朝摘は肩をがっくりと落とした。(いやね、二十代前半のニートの俺にだってね、夢があったんですよ?)
 巨乳女子高生になった姪に「おじさん♡」って呼んでもらう夢が。
 姉はドエロイ体の人だったのに、なんの突然変異か、こんなチンチクリンになってしまった。エリカがコートを脱ぎ、本物のJKの制服姿を晒すが、まったくありがたみがなかった。
「ほんまざけんなよDNA.ちゃんと仕事しろや」
「よりにもよって、それをおじさんが言うんですか?」
 聞こえないようにつぶやいたはずが、エリカに届いただけでなく、つぶやきがブーメランとなって返ってきた。
「ぐっっっはぁっ! なんつー鋭い返し! さすが俺の姪っ子!」
「話術について、おじさんに褒められてもあんまり嬉しくないです」
 ソファの脇を通り抜け様に、朝摘に素っ気ない言葉を放つエリカ。そのまま部屋の奥――唯一清潔が保たれている――にあるデスクにコートを置き、回転イスに座る。
 本当ならそこ俺の席なんだけど。とは思わない。ずぼらな朝摘にはデスクの上よりソファの上で仕事をする方がはかどるからだ。
「それで依頼は来たんですか?」
 くるくるイスを回すエリカの後を、黒髪が追いかける。朝摘はパソコンをいじりながら、
「いいや? 来てねぇよー。だからオレ、シアワセ、オワカリ?」
「全然、理解できません。まったく、収入もないのにどうやって生活できて……まさか! お母さんにお金を借りてるんじゃっ!」
 デスクに両手をバンッと叩きつけて、目を剝くエリカ。すると朝摘は「はぁっ⁉」と慌てて否定する。
「そんな怖ぇことするわけねぇだろ! あの女狐に借りなんて作ってみろ! 借りを返すって名目で奴隷にされるに決まってんだろが‼」
「ですよね、仮にもお母さまの弟なんだもの。そんなみっともないことするはずないですよね」
 毒と釘を同時にさしてから、エリカはホッと胸を撫でおろす。朝摘は理解できないといった様子で問いかける。
「お前、ほんっとに姉貴のこと好きなのな。お前ぐらいの年頃って、やたら親に反抗するもんなんだがな」
「それは普通の親子の話でしょう? お母さまは違います! お母さまは綺麗で上品で、でも可愛くて優しくて……仕事も出来て! 非の打ちどころのない自慢の母です! 反抗なんて絶対しません!」
 母の魅力について熱弁するエリカだが、若い頃の彼女を知ってる朝摘には全く想像できなかった。(はぁぁぁぁぁ⁉ 巻き舌で喧嘩売って、男に散々貢がせてたようなあいつが上品⁉ 優しい⁉ はぁ⁉)
 毒婦、女狐、蛇女、泥棒猫とかの方がしっくりくる朝摘。しかし、それをエリカに言っても伝わらないだろう。携帯にお母さまコレクションってファイルを作って、母の写真を撮りまくってるエリカには。
「あっそういやさぁ、この間の学力アンド体力テストどだった?」
 先ほどブログ閲覧の片手間に得た情報で、朝摘は話題を変えようと試みる。(たぶん、この流れで『あなたも仕事しなさい』とかいってくるだろうしなぁ)そんな思惑があったのだが、どうやら振った話題が良かったらしい。エリカは胸をはって、ふふんと鼻を鳴らした。
「学力テスト一位でした」
「おぉ~すげぇじゃん。さすが姉貴の娘」
 試みは上手くいった。朝摘はそのまま姪を褒めるスタンスで行く。実際、すごいことなのだ。エリカの通う高校は名門の北蓮寺高校。エリートの中のエリートのための学校で、そこで結果を残すのは並大抵のことではない。エリカもまた姉と同じ未来のエリートなのだ。
「へへへっ、それほどでもないです。お母さまだって一位だったし」
「で、体力テストの方は?」
 姉そっくりのドヤ顔にヒビがはいった。
「……………………………………まぁまぁ、でしたよ?」
 冷や汗が流れ、露骨に視線を逸らすエリカ。朝摘は「ふーん」と話しを流そうとした。エリカが安堵しかけた――瞬間に朝摘は先ほど手に入れた情報をぶつけた。
「握力5キロがまぁまぁか~。最近の子供は身体能力が落ちてるってニュースは本当だったんだなぁ~」
 沈黙が流れると共に、エリカの頬がみるみる赤くなった。そして、
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁあぁああああああああああああああ‼‼‼」
「かかとっ⁉‼」
 デスクに足をかけ、跳躍。振り上げた踵が叔父の脳天に振り下ろされた。がくがくと痙攣する叔父を省みることなく、姪は糾弾した。
「ま、まままた学校のサイトにハッキングしましたね‼⁉」
――有輝朝摘はスーパーハッカーである。
 ホワイトなのかブラックなのかは依頼しだい。
 それが有輝探偵事務所の所長兼探偵の朝摘の正体だ。
            *
 
眼下に広がる都会の夜景に嫌悪の眼差しを向けている男が一人、屋上に立っていた。
 東京の渋谷駅前の交差点を渡る人混みを上から見下ろす。信号が青になった途端、ドッと大量のゴミが流れだすように大勢の人々が歩き出した。
(はっ、いったいあの中に本物の肉をもった人間が何人いるんだか)
男は心中で忌々しそうに吐き捨てる。耳を澄ませると、鉄と何か硬いものが擦れ合うような、そんな音が聞こえる。見た目ではまず分からない人間と変わらないロボットが歩く音だ。
 かつては日本で最大規模かつ有名なスクランブル交差点と呼ばれ、一回の青信号で三千人の人間が行きかっていた渋谷の交差点は、もうなくなった。持ち主の五感とリンクするロボットの登場で、人間は外出をする機会が減っていったからだ。
 夜空を仰ぐと、磁石の反発力を利用した車がフロントガラスに表示された空の道路を走っていた。昔の夜空は空気が汚れて星が見えなくなっていたとはいえ、煌煌と輝く、あの月を遮るものは何もなかったという。
 屋上の男はその時代に猛烈な憧れを抱く。
 彼にとって、この時代に生まれ落ちたのは不幸だった。
彼は、自分達の発明の甘い汁を吸うばかりで何もしない凡人が溢れる、この世界に絶望していた。
「だから壊す。全てを無に戻す。――この星に人間はもういらない」

 屋上の男は小型のタブレット端末を懐から取り出すと、指先を画面にあてがった。数秒ほど操作して、男は端末を懐に戻した。
 夜景に背を向けて、男は屋上の階段を降りる。カツンッカツンッと一段降りる度に、靴底から音が鳴る。そして階段の踊り場についた時――――爆音が男の鼓膜を揺らした。
 その爆音を皮切りに幾つもの爆音と地響きが、階段の手すりを揺らす。建物の中にいても届くほどの悲鳴が聞こえる。
 カツンッカツンッ。
 男の歩みは止まらない。
 カツンッカツンッ。
 男の体が震える。
 カツンッカツンッ。
 相貌が崩れる。頬の端が持ち上がる。
 カツンカツン、カツンカツン、カツンカツンカツン。
 狂気が、理性(たまご)の殻を叩く音がした。
             *

(あーあ、せっかく定時に帰れたのになぁ)
 吉ノ瀬あいかは肩に下げたバッグとは別の荷物――さきほど寄った雑貨屋の袋を一瞥した。こじゃれた柄の袋の中には、今年の春に高校生になったばかりの妹へのプレゼントが入っている。
(入学祝い、私だけ渡しそびれたしなぁぁあ)
 あいかは気疲れをはらんだ溜息をつく。あいかは今年の春に無事に就職できた。しかし、学生気分がまだ残っていたあいかに、社会は容赦がなかった。次々と現れる仕事の山と格闘していたら、もう今年も残すところ、あとひと月。新品だったスーツもすっかり糊が取れ、ハイヒールの痛みにも慣れてしまった。
 そして今日は珍しく定時までに仕事を終えられたので、かなり遅い入学祝いを買いに、わざわざ渋谷に寄ったのだ。
「今日はゆっくりできるかと思ったんだけどなぁ」
 プレゼント選びに思いのほか時間がかかってしまい、結局いつもの時間に帰路につく羽目になってしまった。
(まぁ、でもこれであいりの不機嫌が治ったら安いものよね)
妹のあいりのジト目に晒されるのはもう嫌だ。ジトーとした目でこちらを見るあいりの膨れっ面が思い浮かび、「ふふっ」と小さく笑ってしまう。
(いや、案外あれはあれで良いかも)あの顔も見納めかと思うと、少し名残惜しくなる。
(あいり、帰ってるかな。お母さんが言うには毎日遊んでるらしいけど、そんな時間を過ごせるのも今の内なんだからね)
 あいかは花の女子高生となった妹に想いを馳せる。渋谷駅が見えてきたところで、駅前の交差点の信号が赤になった。立ち止まっている間、あいかは帰ったら久々に妹と話してみようと思った。
 それで人生の先輩として教訓じみたことを言ってやるのだ。
 胸が軽くはずみ、愉快な気持ちが微笑みとなって現れる。
 信号が青になる。途端、人の波があいかを駅へと流してゆく。
「いたっ!」
 人とぶつかり、あいかはつんのめってしまう。咄嗟に踏みとどまり、転ぶのは防げたが、ヒールが悲鳴を上げた。
(うわ、いまイヤな感じした! 大丈夫かなこの靴)
 そのままコッコッと歩きながら、内心ではヒールの寿命を心配するあいか。
 ――――その瞬間だった。
 背後からすさまじい音が轟いた。
「ひゃっ!」
 あいかは思わず飛び上がってしまう。それほどの轟音だったのだ。人の波が止まり、群衆は一様にざわめき始める。振り返ると、はるか遠方の空が明るくなっていた。濛々と煙が夜空に昇っている。
「なに? ばくはつ?」
 口にしてみても現実味が沸かなかった。あいかの親世代の時はたまに工場などの爆発事故があったそうだが、あいかの世代ともなると爆発事故なんて皆無だった。
「……あれ?」
 ふと何か足りない気がして手元を見やると、あのこじゃれた袋が無くなっていた。
(うそでしょ⁉ あれまぁまぁ高かったのに!) 
 一瞬、焦るあいかだったが、すぐに袋が目の前の地べたに落ちていることに気付く。胸をなでおろし、袋を拾おうとかがんだ。
 すると――ふっと袋の色が黒くなった。
(え?)
 袋を手に取ってから、上を見上げると――――
 磁力を失った車が空の彼方から落ちてきた。
          *

「うわ、えげつね」
 朝摘はネットのトップに挙げられた、そのニュースに目を通して、一人つぶやく。
 昨夜、大手車メーカーが有する磁力制御装置が謎の爆発で大破。その影響により、渋谷駅周辺を飛行していた同社の製品が磁力を失い、次々と駅に落下する事故が発生。幸い、死者は出ていないが重軽傷者の数は多い。
 記事の内容をざっとまとめるとこのような感じになる。
「爆発事故とか……そんなの、この数十年間、一回も起こらなかったのになぁ」
(所詮、人が造ったものに完璧なんてないのかもな)そう思案して、朝摘はソファに寝転がる。今、様々なメディアがこの会社を痛烈に叩いている。おそらく今回の事件で、この会社は遠からず破産するだろう。それほど犠牲者が多い上に『数十年ぶりの爆発事故』というワードが世間を騒がせたからだ。
「かっわいそうに」
 死ぬ気で受験戦争に勝って、一流大学出て、一流企業に勤めた結果がこれだ。世の中は分からないものだ。
「まっ、俺にはこれっぽちも関係ねぇからなーー。いやーまじご愁傷さま! まじ諸行無常だわ!」
 社会不適合者の朝摘からしてみれば、正に対岸の火事の出来事だ。惨事を見て喜ぶ野次馬と同じ笑みを浮かべて、没落エリート達を憐れむ。
(にしても今日は遅いな、リカちゃん)いつもなら、夕方になれば老い先短いドアにとどめをさすような、乱暴な開け方で入ってくるのだが。年頃の姪の安否を気にかけていると、古びたドアがきぃぃーとヒステリックに軋んだ。とここで朝摘は怪訝な表情を浮かべる。
(時間的にリカちゃんが来る頃だけど……なんかおとなしいな?)
 朝摘は他の知人――三階の風俗嬢に、二階の闇金業者、一階の麻雀中毒の爺さん――かと思ったが、いずれの人物もこんなおとなしい開け方はしない。
 朝摘はおそるおそる顔だけソファから出して、入室者を窺う。
「……どったのリカちゃん?」
 ドアの前にはうつむいた姪が立ち尽くしていた。返事はない。まるで座敷童のように黙ったままだ。姪の今までにない様子に朝摘は困惑した。何かあったのは明らかだが、果たしてこちらから聞き出すべきなのか、向こうが言い出すのを待つべきなのか。
「――――渋谷の事件を知ってますか?」
「は?」
 唐突にエリカが口を開いたのだが、予想外のワードに朝摘は間抜けな声を上げた。エリカが言葉を紡いでゆく。
「私の友達の、あいりちゃんのお姉さんがあの事件の被害者で、車が空から降ってきたんですけど、ヒールが折れたおかげで骨折しただけで済んだんです」
 エリカは言葉を区切るのと同時に一歩ずつソファに近づいていく。
「えっと、話が見えないんだけど? リカちゃん? なんか知んないけど、そのお姉さん助かったんっしょ?」
 ならば良かったではないか。きっとヒールが折れていなかったら、彼女はこの事件唯一の死者になっていたかもしれないのだから。命があるだけ、というより骨折で済んだのが奇跡だ。
「えぇ、そうです。足の骨が折れただけでよかった。命があるだけましだった、なんて――――そんなわけないじゃないですか‼」
 この時、初めてエリカは顔を上げる。その双眸には義憤の炎がちらついていた。まさか、とイヤな予感が朝摘の背中を駆け巡る。
「あいりちゃんがどれだけ不安で心配していたことか! 震える声で私に電話をかけてきたんですよ⁉ 私の大切な友達にあんな声にさせた犯人は許せません!」
「いや、あのねリカちゃん? 自分が知ってることを他人が知ってるとは思わないで? わけ分かんなくなるから」
「リカちゃんって呼ばないでください!」
「今の流れでそこ突っ込むの⁉」
(駄目だ、熱くなりすぎてる)叔父のたしなめも耳に入らない位に。そこで朝摘が「うん?」と何かに引っかかった。
「ちょっと待ってリカちゃん。犯人って何よ? だってあれただの事故でしょ?」
「制御装置が爆発する前、装置のセンサーに僅かな反応があったんです。誤差の範囲内で済まされるような小さなノイズ。そのノイズが走った後、すぐに爆発が起こったんです」
「またまたちょい待ち。なんでリカちゃんそんなこと知ってんの?」
「母のIDで会社の極秘サイトにアクセスしました。あの会社のサイトを作ったの、母なので」
(うわぁ、今、平然とすごいこと言ったぞ、この姪っ子)目的のためなら手段を問わない所などあの姉そっくりだ。
「……仮に爆発の原因がそのノイズだったとして、それがどう犯人に結び付くんだよ?」
「それも調べてきました」
 エリカはカバンから書類の束を朝摘に差し出す。束はかなりの厚みだった。朝摘が束を受け取ると、ズシリとその厚みに比例した重量が腕にのしかかる。昨日の今日で作り出された、この束の重量が、彼女が朝摘に何を求めているのかを暗に伝えていた。
「でも私だけじゃ限界があるんです……お願いします、おじさん。力を貸してくださっ」
 エリカが頭を下げようとしたところで、動きが止まる。ソファから手を伸ばし、朝摘はエリカの額を鷲掴みにしたのだ。
「やめろやめろ。お前が頭下げてるのバレたら、姉貴に殺される。ったく、わかったよ、やりぁいいんだろ、やりゃあ!」
 花が咲いたような表情を浮かべる姪に対し、重く長い溜息をつく叔父。人の不幸ならぬエリートの不幸を笑った罰なのか。どちらにせよ朝摘は忘れていた。今の彼には、わざわざ火事のある対岸に橋をかける、面倒な姪がいることを。
             *

 磁力制御装置に走ったノイズが発生したのと同時刻、渋谷駅近くのある科学研究所のパソコンから一つのデータが流れた。

「そのデータが流出した時、制御装置に現れたノイズと同じ周波が放たれたんです」
「つまりそのパソコンの持ち主がわざとデータ……いや、ノイズを制御装置へ流したってことか?」
「その可能性はあります。そしてその持ち主こそが今回の事件の犯人です!」
 正義感に目を輝かせて、自信満々に言ってのけるエリカ。彼女の脳内では既に犯人をとっちめているに違いない。
 朝摘は既にもうくたびれた様子で胸元のネクタイを緩める。(やっぱり、人間慣れないことはしないもんだ。)
 二人は今、事件現場であり、例の研究所がある渋谷駅に向かっていた。緑色のシートに腰を沈める朝摘の服装は、あのだらしないスウェット姿ではなく黒のスーツに変わっていた。髪もさっぱりしており、コンビニのゴミの異臭はシャンプーの香りに変化している。三階の風俗嬢に風呂を借り、二階の闇金にスーツを借りて、朝摘はニートからスーツ姿のナイスガイに変身していた。というか、車内の女性から熱烈な視線を投げかけられていた。
 しかしエリカだけはイケメンになった朝摘への態度を変えなかった。目を細くし、不満の色が露わになる。
「昨日、書類渡したじゃないですか! それ読んでくださいよ」
「はっはっはっはっは、俺があんな分厚い書類を読んで理解できるとでも?」
「なんでそんなダメな方に自信があるんですか⁉」
 人目もはばからず、二人は大声で事件について話している。だが、電車内では二人を非難するような視線も空気もない。なぜなら、車内にいる多くの人間は人間にそっくりのロボットだからだ。
「年寄りに席を譲るのが美徳とか言われてた頃が懐かしいわ。今じゃあ、どいつもこいつも鋼の足腰だし」
 朝摘の親の世代では、痴漢やら通り魔やらの被害者が後を絶たなかったが、このロボットのおかげで被害者の数は減少した。先の爆発事故で死者が出なかったのも、ロボットの存在が大きい。
「どうしても生身で外出したい時はロボットであらかじめ下見に行けば良いし、事故や事件に遭ってもロボの損傷で済みます。幾つもの問題を同時解決した画期的な発明ですよ」
 エリカがロボットの存在を肯定すると、朝摘は口内でつぶやいた。
「……反面、人間は前よりもずっと弱くなっていってるけどな」
「え?」とエリカがその真意を訊ねる前に電車の扉から空気が抜けるような音がした。
「ほら、ついたぞ」
 叔父はだるそうに腰を上げると、さっさとホームへと足を進めた。
              *

 事故現場である交差点を渡り、徒歩で十分といった所に、例の研究所――電脳科学研究所はあった。
「いやー研究所って思ったより硬くないのなー! だって連絡もなにも入れてない奴に見学許してくれるんだから!」
「え、っと……おじさん、さっきここの所長さんに何か耳打ちしてましたよね?」
 そう、いざ入ろうとしたら、たまたま玄関にいた所長に止められたのだ。しかし、朝摘が一言、二言囁くと、所長は血相を変えて二人を中に入れた。
「何を言ったんですか?」
「んん? べっつに~ぃぃぃ? なんも囁いていないけどぉ~?」
 (ほんとほんと、『赤ちゃんプレイ』とか『更衣室のカメラ』とかそんなの全然言ってない)
 エリカには刺激の強い単語であるため、朝摘は後ろをついてくるエリカの追及を適当にはぐらかす。(なんか聞き覚えのある名前の研究所かと思ったらそうか、あのジジィの研究所だったか)
 朝摘はエリカがやってくるまで自堕落なニート生活を送っていた。そのための生活費として彼はある程度の地位を持つ人物のパソコンに侵入し、弱みを握って、彼らに生活費を捻出させていたのだ。早い話、ゆすっていたのだ。
 自分の過去を振り返るたびに、朝摘は「まるで寄生虫みたいだな」と思う。栄養の代わりに金を吸い取り、自らは何もせずに宿主に全てを任せる。ここの所長もまんまと朝摘に寄生された哀れな宿主の一人なのだ。(……哀れ? 誰がだ? 一番哀れなのは――俺だろう)
『何も思いつかないの? そんなに頭が良いのに、何も創れないの?ふーん……かわいそう』
 鈴の音のような、あの美しい声が頭の中で鳴る。
「朝摘おじさん?」
 ハッと現実に戻ると、いつの間にか追い抜いていたエリカが朝摘の顔を覗き込んでいた。
「どうしたんですか? なんだか茫然としてましたけど」
「ん、あぁ……なんでもない。早く例のパソコンのところに行くか」
「は、はい……」
 なんでもないかのように話を進めた朝摘に、エリカははっきりとしない返事を返すしかなかった。

 一口に研究所といっても、様々なジャンルがある。それによって研究室の様子もガラリと変わる。
 研究室に入って、二人の目に飛び込んできたのは顕微鏡でもなければ、試験管でもない。数台のデスクとパソコン、そしてホワイトボード、と一般企業の仕事場のような光景が広がっていた。
「しっかし、研究所のパソコンって言ってもたくさんあるだろうに、よくどのパソコンから流れたとか特定できたね?」
 数台のパソコンの中から、迷いなく目的のパソコンに向かったエリカに感心する朝摘。すると、パソコンを起動させていたエリカがクスッと喉を鳴らした。
「これでもおじさんの姪ですから。でも、私じゃあ特定はできても、ハッキングは出来ませんでした。ハック出来たらわざわざここに来なくてもよかったのに」
「出来なくて良いんだよ、ハッキングなんざ」
 (お前は俺みたいな寄生虫の真似なんざしなくていいんだから)エリカは姉にそっくりだ。有能で想像力に溢れ、未来は輝いている。
 起動したパソコンにパスワードを打つ画面が浮かんだ。
「当たり前ですけどロックかかってますね……」
「俺の出番だな、ちょいと待ってて。今からハックするから」
 朝摘は懐からスマホを取り出して、ハッキングに取り掛かる。
「まだ持ってたんですか? そんな旧い携帯機器。それでハッキングできるのはすごいですけど……」
「お前、ジョブス舐めんなよ。ハッキリ言ってあの人が死んだ後に出た携帯はぜんぶ改悪だぜ」
 朝摘はかつての天才を褒めたたえると、視線をスマホに移す。すると、緊急ニュースの通知が来た。横にスライドして消そうとした指が止まる。無視できない一文が流れたからだ。
「日本各地の研究所、工場が一斉に爆発。日本初の大規模テロ……か。証拠もなしにテロだなんだと報道するマスコミは馬鹿だな」
 低く、冷たい声が朝摘の耳元に流れ込んだ。思考が飛び、心臓が跳ねた。振り返ると、白衣の男が軽蔑の視線を二人に向けていた。
「だが、俺の存在に気付かずにそのまま雑談するお前らの方が何倍も馬鹿で、愚かだ。……私のパソコンに何か用か?」
(なんだこいつ⁉ 初対面の人間のこと、どんだけボロカスに言ってんの⁉ 友達・恋人いないだろ、絶対‼)そう言う自分にも友達・恋人がいない事に気づいていない朝摘。
「あ、あなたが一連の爆発を起こした犯人ですね!」
「ちょっ、リカちゃん⁉ 第一声がそれなの⁉」
「ふっ……ははっ! そこのニートの言うとおりだぞ、少女。君の発言はあまりにも突拍子もない」
「それでも、犯人だという疑いをかけることは可能です」
 男の嘲りにエリカは真っ向から言い返す。そして、朝摘にも見せたあの書類を突き付けた。
押し黙ったまま、男は書類を手にし、ぱらぱらぱらと目を通す。
 高速で読み終わった男は「ほぉう」と興味深そうな声を上げた。
「見直したぞ、少女。よく調べられている。確かにこれなら私が疑われてもおかしくない」
 男の雰囲気がエリカに対してだけ柔らかくなった。しかしエリカは
「犯罪者に褒められても嬉しくありません」と毅然に突っぱねる。
「しかし、だ。私のパソコンからデータが流れた時、私はここの屋上で休憩をしていた。なんなら監視カメラで確認してみるといい。ここまでの調査力を持つ君なら造作もないだろう」
(つまりアリバイがあるってことか)エリカはグッと悔しそうに顔をしかめる。
「もう一つ付け加えるなら……私のパソコンからノイズを流して装置を一時的に不能にすることは可能だ。だが、爆破はできない。所詮はコンピューターの中での出来事なのだからな」
 反論できない。今度はエリカが押し黙る番だった。
「君は有能だな、最近のガキは体力も知力も衰えているのだが……。私は我妻ひじりだ。君の将来が楽しみだ」
「おいおいおいおい! てめぇなに人の姪っ子に色目使ってんねん、いてまうぞコラァっ!」
 漫画では大抵、かませであるチンピラ風の口調で朝摘は我妻に吠える。すると、我妻の目があの、人を見下した目に戻る。
「なんだ、ニート。恰好で誤魔化しても、お前の本質は隠せないぞ。時を無為に食いつぶすだけの、何も生み出さない下等な虫の本質は」
「あぁ?」いつもの、自他ともにニートと認めている朝摘なら、気にしていないであろう言葉が、今は最も心に刺さる言葉だった。
「てめぇこそ何の根拠があっ
「指先にこびりついたインクの匂いは漫画か? 前時代的な、吐き捨てるべき娯楽の一つだ。主食はコンビニ弁当か。眼球や肌に栄養不足の傾向が見られる。……もういいかな? 早く出ていきたまえ」
           *
「あのやろう、ぜってぇ殺してやる。社会的に! 手始めにあいつの性癖とか学生時代の黒歴史暴いて拡散してやらぁっ!」
「目的が変わってますよ、おじさん⁉ アリバイを覆す方を優先でお願いします!」
 我妻に研究所を追い出され、二人は駅前のネットカフェの個室で研究所の監視カメラをハッキングしていた。立派な犯罪行為なのだが、叔父は屈辱に、姪は義憤に燃えているため、彼らを止められる者はいなかった。結果は我妻の言う通り、不発だった。
「あいつ四六時中、あの研究室にいやがるぞ。後は何度か……屋上で気晴らししてるようにしか見えねぇな」
「しかもちょうど事件が起こった時刻に休憩してます。これじゃあパソコンからデータを流せない」
 八方塞がりだった。(ちくしょう、証拠が見つからねぇ。絶対、あいつだってのに)朝摘は考える、我妻のアリバイを破る方法を。朝摘もエリカも、別にベテランの刑事などではないし、人を殺した人間を感じ取る直感があるわけでもない。しかし、実際に相対した二人だからこそ分かる。あの目は異質だ、と。
「全然、論理的じゃありませんけど……感覚で分かります。あの人は人を殺せる人です。罪悪感とか良心の呵責とか、そんなの一切感じずに――それこそ毎日のゴミを捨てるように」
 沈痛な面持ちでエリカは我妻の狂気を恐れた。「さっきのニュースだけどさぁ」と朝摘が重い口を開く。
「……脳の移植、クローン、高性能な手術ロボットとか“延命”をテーマにしていた日本全国の研究所や病院、工場が一斉に爆発したんだ。数百か所、まったく同時にだ。それだけのことをしたってのに、あいつは」 
『日本各地の研究所、工場が一斉に爆発。日本初の大規模テロ……か。証拠もなしにテロだなんだと報道するマスコミは馬鹿だな』
 暇つぶしにつけた年末のお笑い番組が思ったよりもつまらなかったような――そんな表情をしていたのだ。
 ぶわっと嫌な汗が額を流れる。(ヤバい、あいつはヤバい!)これからも我妻は破壊していくだろう。その爆炎で大勢の人々を。
 どうにかしなければならない。だって、全ての事態を把握しているのは自分達だけなのだから。(考えろ、考えろ考えろ考えろ考え…)
『朝摘のくせに、生意気に一人で考えてんじゃないわよ。分かんないことは幾ら考えたって分かんないんだから。さっさと諦めて、私か誰かに教えてもらえばいいのよ』
 憮然とした、姉の言葉が雷光のように朝摘の脳天に降りてきた。(あぁ……そっか) 自分がやろうとしていたことの馬鹿々々しさに笑いがこみ上げ、くっくっと喉が鳴った。
「朝摘おじさん?」
 ついに気がふれたか、と言わんばかりの目で叔父を案ずるエリカ。朝摘はつぶやく。
「そうだった。そうだったよ、あいつの言う通りだ。俺はただの寄生虫だ、社会に馴染めないくそニートだ。使命感って怖いねぇ。自分がどんな奴なのかを見失っちまう」
 吹っ切れた顔で、朝摘は次々と別のサイトにアクセスし始める。高速でキーを叩き、朝摘は自分の武器を手に入れていく。
「だがなぁ、我妻……ゴミみたいな虫でも集まりゃ、熊でもライオンでも殺せるんだぜ?」
               *

 我妻は屋上を目指して、階段を上っていた。屋上に行くのは、これで三度目だ。そして、今度の爆発こそ我妻の本命だった。
(今までのは実験を兼ねた前座だ)らしくもなく、胸が高ぶっているのが分かる。我妻はタブレットで検索をかけ、ネットのニュース一覧を表示した。今日の夜、国会議事堂で臨時閣議が開かれる。そこには最近、国務大臣に任命された我妻の父もやってくる。父の秘書のパソコンからハッキングした情報なので間違いない。(ちまちまと殺していたらキリがない。トカゲのしっぽをいくら切ろうとも無駄なのと一緒だ。トカゲを殺すには――頭を潰すのが一番だ)
 階段を一段昇るごとに増幅される殺意が頭をもたげる。下等な虫けらの、不快な羽音が脳裏によみがえる。
『君の論文ね、現実味がないんだよ。あまりにも今の科学技術から飛躍し過ぎている。もっと実現可能なテーマをだね……』
(だまれ、この老害が! ちゃんと読んだのか? これでも僕の発明の中では、今の技術でも実現可能な発明の方なんだよ!)
『細菌型ドローン? そんなの無理に決まってんだろ! あいつは科学者より小説家にでもなったほうがいいんじゃないか? 妄想ばかり思いつくからな』
(うるせぇ! 人の足を引っ張って、人を叩くかしか能のない、ゴミクズめ! 女の尻ばっかり追っかけてるんじゃねぇよ!)
『まだ科学者ごっこをやっているのか。お前を研究機関に送ったのはお前の経歴に箔をつけるためだけだ。私の言うとおりに政治家の道に進めば、必ず成功できる』
(死にやがれ、能無しが! お前と同じ血が流れていると思うだけで吐き気がする。何が成功だ、政治家なんて所詮、人工知能に政策を任せるばかりで、やることと言えば、保身のための工作だろうが!)
(誰も、私を理解しない。理解できない。
 あの豚どもよりも、遥か高みに、私がいるからだ
 悔恨も焦燥もない、闘争心など湧くはずがない。
 あるのは、ただただ軽蔑と苛立ちだけだ。
 地べたでもがく虫けらが腕に昇ってきたら、目障りだろう? 不快だろう? 潰すだろう? 殺すだろう⁉ それと同じだ)
我妻には絶対的な自信がある。周囲の虫共よりも遥か高みに、自分はいるという自信が。それこそが彼の根底、狂気の源なのだ。
 だから、彼は一瞬、理解できなかった。
誰もいない筈の屋上に、なぜ不敵な笑みを貼り付けた男がいるのかを。その男は月を背にして、我妻を出迎えた。
「よ~~う、ずいぶん嬉しそうだなぁ、エリート爆発魔。メインディッシュを食べるのがそんなに嬉しいのか?」
その男は、今日の昼に出会った虫の一匹だった。我妻は生まれて初めての感情に――動揺に襲われる。
「な、なぜお前がここに……いや、なぜ知っている⁉」
(今日の爆破こそが本命だと、なぜこの虫は知っている⁉)
 自分よりも下等な筈の虫は頬をにやつかせたまま、我妻との距離を詰める。
「いやね、ピンクベリーさんが造ったアプリによるとさ、お前、飯食う時、ぜったい好きな物を最後までとっとくタチなんだって?」
 カツン
「あとさぁ、ラストが議事堂爆破って何それ? 思考回路テンプレ過ぎだっつの。ダイゴローさんの発明の『お手軽プロファイリング』に入力したら一発で出て来たし」
 カツン
「チムニーさんのソフトで防犯カメラの視点を変えて分かったけど、そのタブレットで自分のパソコンを遠隔操作してたんだろ?」
 カツン
「もんちノ助さんが前にSNSで馬鹿にしてたんだけどさ、パソコンのデータを実体化する論文を書いてたんだって? 他にも虫型ドローンとか僅かな量で大爆発する火薬の論文を所長に見せて突っぱねられたんだっけか? まぁ、それら諸々、実現しちまう辺りがIQ350のすげぇところだな」
 我妻の胸に屈辱が燃え盛る。こんな男に驚愕させられる羽目になった自分が胸の炎を強くする。
「私の完璧な計画が……よりによって、お前のような虫けらに推理されるとは…………っっ‼‼」
「誰が推理するなんて言った? 考えても分かんねぇんなら、さっさと答えを見ちまえば良いんだ。ざまぁーーーみろ、くそエリート」
 舌を出し、ここぞとばかりに我妻をおちょくる男。頬に血の気が集まっていくのが分かる。激情に任せて、今すぐあのにやけ面をぶち壊してやりたい衝動に駆られる。
 我妻は少し多く息を吸い込み、吐き出す。(落ち着け。例え計画がバレようとも奴には私の犯行を止めることは出来ない)
 タブレットをタッチするだけで我妻のパソコンは起動。電脳世界に放たれた虫型ドローンのデータは数秒で議事堂のパソコンに届く。実体化したドローンは画面から這い出てきて、爆発する。
(タブレットは私の手元だ。あいつがタブレットを奪うより、私がタッチするほうが早い!)
 我妻は頬の端を上げて、タブレットの画面に指を置いた。
 途端、ビーーっという警告音がタブレットから鳴った。
『その命令は実行できません。既に別の命令を実行中です』
「なっ⁉」
 我妻が目を見開く。男は憐れみの溜息を長々とついてみせた。
「直でタブレット奪って阻止なんて、そんな原始的な止め方するわけないだろ? ハリウッドかっ、ての」
「馬鹿な! 別の命令だと⁉ プログラムに介入できるのは私だけのはずだぞ‼」
「ハッキングしたんだよ、俺ってば結構すごいんだぜ? ハックに関しちゃ」
「それこそありえない‼ 三重のファイヤーウォールをお前のようなニートごとk
「はぁ? ファイヤーウォール? 何それ? 『火属性は水属性に弱い』なんてファンタジー知識、今時、一歳児だって知ってるっつの」
 大げさな振る舞いと、見下した目で男は我妻を嘲った。(なんだこいつは……なんなんだ、この男はっっ‼)
 我妻は自分以外の人間は虫だ、ゴミだと思っていた。だが、眼前の男はまるで――――
「良いこと教えといてやるよ、天才様よ。最先端の技術を使った家にでもゴキブリは当然のように入ってくるだろ? それはハッカーも同じだ。どんだけ対策をしようが『これだけやればもう大丈夫だろう』って思った時点で、俺達の勝ちなんだよ!」
(こいつはまるで、無数の虫が寄り集まって出来た一匹の怪虫だ!)
 敗北感が我妻の頭を打ち、足から力を奪う。その場で膝をつく我妻に、男の言葉が降ってきた。
「お前って、頭良いけどバカだな」
「……バカ、なの、か? わたしは」
 掠れた声で我妻が訊き返すと、男は答えた。
「あぁ! ほんっとバカだよ、てめぇは! ばーかばーか、てめぇの母ちゃんでーべーそぉぉぉぉぉおお‼」
 小学生、いや幼児のような罵倒を男は恥ずかしげもなく吐いた。
「……細菌型ドローンによるガン治療」
 我妻が弾かれたように顔を上げた。男は言葉を続ける。
「斥力を発する潜水服なんて発明したら、誰でも海底探検できるな。二酸化炭素をエネルギーにする電池とか海水を真水に変える薬とか……他にも色んな発明のアイデアが書かれた論文があったな」
 男の声は先ほどのふざけた調子とうって変わって、優しくなった。悲し気な顔に、羨望の目で、男は言った。
「俺と違って……こんなに色々思いつくのに……創り出せるのに……犯罪なんてしやがって。何度だって言ってやる。てめぇはバカだ。簡単に絶望して、ヤケ起こしやがって。とんでもねぇバカ野郎だ」
 我妻には分からない。何をもって、男がそんな顔をするのか。だが
「バカ、か…………そんな風に言われたのは初めてだ」
 サイレンの音が渋谷の夜空に響き渡った。
               *

時はさかのぼり、駅前のネットカフェでエリカは叔父の指示を実行していた。叔父に勝るとも劣らないブラインドタッチで、我妻の実体化プログラムを書き換えていた。
 ハッキングし、我妻のプログラムに侵入できたのは良いが、難解かつ複雑なプログラムをいじることは叔父の頭では出来なかった。
 だから、叔父はプログラムの命令を爆破解除に書き換える作業を、エリカにやらせた。エリカが日本一の名門校、北蓮寺高校で学年一位に君臨する才女だからこそ可能な芸当だった。
「ねぇ、お母さま」
『んー、なぁにエリカ?』
 エリカはプログラムを書き換えながら、チャットで母――有機みかんと会話していた。
「私ね、前に叔父さんの学歴を調べたことがあるの。ハッキングとか見様見真似でやってみて」
『あんた何してんのよ、そんなこと学ばなくていいっつの。……でどうだった?』
「うん、やっぱり叔父さんはすごい人だった。さすがお母さまの弟」
 北蓮寺高校を歴代二位の成績で卒業。それが朝摘の経歴だった。北蓮寺高校を卒業した者はエリートの中でも別格。どの業界に行こうとも大成するのは確実と言われる程に。
 だからこそ、不可解なのだ。叔父はなぜニートのままでいるのか。なぜ、それほどの成績を残した人物がエリカでもできる我妻のプログラムの書き換えを出来ないのか。
 モニターの向こうにいるみかんは口を閉ざして、悩み始めた。しかし、長い時間をかけて重い口が徐々に開かれた。
『あいつが勉強できるのはね、記憶力が尋常じゃないからよ』
 みかんが言うには、叔父は記憶力に優れていたらしい。歴史や化学英語などの単語を丸暗記し、数学、国語は問題のパターンを一つ残らず覚えられたらしい。
『だけどね、あいつの脳には重大な障害があった。――創造力と思考力が皆無だったの。発明で一番大切なものは何だと思う?』
「えっ、と……アイデア、かな?」
『そう正解。それでね、アイデアっていうのは外界の刺激を材料に思いつくものなの』
 長い時をかけてその分野について学んだことを材料とすると、材料を組み上げるのは思考力、組み上げて完成した作品がアイデアだ。これらを行なう力を創造力と呼ぶのだ。
『だけど朝摘は――どれだけ材料があっても何も思いつかなかった。何も創り出せなかった』
 それが分かったのは小学二年の頃、図工の授業の時だったという。その授業の内容は、教師の指示に従わず、自由に絵を描いてみよう、というものだった。
『授業の間、ずっと朝摘は真っ白い紙を穴が開くほど見つめていた。鉛筆もクレヨンも絵具も手にしないで、ずっと。空っぽの頭で』
「……そう、だったんだ」
 一見、大したことのないように思える出来事だが、発明品を作るのが当たり前である、今の時代において、それは耐えがたい苦痛だ。
 誰にでも出来ることが、自分には出来ないという劣等感は大きい。
『あいつが紙の漫画とかフィギュアを買い始めたのはね、本物に触れ続けていれば、自分も何か思いつくんじゃないかって思ったからなんだよ』
 エリカは何と言えば良いのか分からなかった。人は生きてる限り様々な物を作る、創造する。その中で、何も描けない、何も作れない、何も生み出せない朝摘は自分のことをどう思っているのだろう。
 それは分からない。でも、一つだけ言えることがあるとすれば――
「……でもね、お母さん。叔父さんはね、何も創れないってわけじゃないと思うんだ」
                 *

 事件から数日後。世のリア充共がクリスマスに浮かれていた。三階の風俗嬢がくれた――サンタコス無料! 私がプレゼント♡――と書かれたチラシで朝摘は鼻をかんだ。
「行く訳ねぇだろうが、ばーーか。俺はネットのおともだちと一緒に世のリア充共に爆破の呪いをかけるのに忙しいんだから‼」
 血走った目でキーボードを叩いていると、バンっとドアが勢いよく開かれた。
「あれ、リカちゃん今日は早いね? まだお昼なの、に……」
 振り返った朝摘は言葉を失った。ドアの前に仁王立ちのエリカがいるのはいつもの光景なのだが――エリカの後ろから可愛らしい女子高生がおそるおそる顔を覗かせていたのだ。
「今日から冬休みなんです。それよりも……」
「あっ、あの! あなたが朝摘さんですか!」
 女子高生はエリカの背に隠れるのを止め(元から隠れきれてなかったけど)飛び出した。庇護欲をかきたてる、可愛い声が朝摘にかけられた。目を白黒させて、朝摘は「はぁ……そうだけど」と締まりのない返事をした。
「紹介しますね。私の友達、吉ノ瀬あいかちゃんです。渋谷の事件に巻き込まれたあいりさんの妹です」
 そこまで説明されて、やっと朝摘は「あぁ」と納得した。すると、あいかが朝摘のところまで駆けていき――
「あっ、ああの、お姉ちゃんを怪我させた犯人を捕まえてくれて……本当にありがとうございました!」
 朝摘の手を取った。小さな手は冷えていて、なめらかだった。ほのかに花の香りが朝摘の鼻を撫でる。
「はっ‼⁉ いや、あのっ、俺は何にも……」
 鼓動が大いに乱れ、頬が熱かった。横ではエリカが微笑んでいた。
「おじさんは何も創れない訳じゃないですよ。こうやって、あいかちゃんの笑顔を創ったんですから」
 姪の言葉に気付き、振り向くと、あいかは朝摘に感謝の笑みを浮かべていた。
 あっ、と目を見開く。胸の内に溜まっていたどす黒いものがフッと軽くなったような、それでいてこそばゆいような、そんな想いが穏やかな温もりとなって体中に広がった。なぜエリカが自分の障害について知っているんだとか疑問は尽きないが、この時、確かに、ほんの少しだけど――――朝摘は救われた。
 その礼はしなければならない。朝摘は柔らかな微笑を浮かべ……
「ど、どどどどういたしゃっまちて」
 盛大に噛んだ。












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